この作品は2011/03/11東日本大震災チャリティ電子書籍プロジェクト『One for All , All for One ……and We are the One〜オンライン作家たちによるアンソロジー〜』(VOL.1)に掲載されていた作品の再掲載となります。



 私たちは拓海の計画通り、新入社員と呼ばれなくなった頃に結婚した。私は職場で女性の働き方を考える会を作り、結婚し、出産し、そして子育てをしながら無理なく仕事を続けられる環境作りのために奔走し始めた。この運動は思ったよりも難しく、驚いたことに女性側からの反発もあった。でも産休明けに復帰した先輩が私を強く後押ししてくれたことと、意外にも子育て経験のある男性社員からの理解を得て、会社側も制度の見直しや仕事の配分などを考慮してくれるようになっていった。
 拓海も倒れた日から半年後には通常の勤務に戻り、相変わらず私にはよくわからない仕事を熱心にやっているようだった。けれども、新入社員の頃のように休日を返上して研修を受けることは月に一回程度に減らしてくれた。おかげでまた二人で食べ歩きをしたり、温泉に行ったりする楽しみが復活した。
 桜の花が咲く頃、私たちは近所の大きな公園へ散歩に行き、池に浮かべてある手漕ぎボートに乗った。結婚して二年目の春だ。最初は拓海が漕いでくれたが「疲れた」と言ってオールを私に差し出す。
「えー、私下手くそなんだけど」
「ていうか、希美、手の動かし方が逆だよ。俺が漕いでるところを見てなかったの?」
「ぶっ、恥ずかしい……」
 そんなやり取りの末、なんとかボートは水面を滑り始めた。しばらくして拓海が「あのさ」と口を開く。
「希美が会社で一生懸命頑張ってるから、ずっとどうしようかと迷っていたんだけど」
 私は腹筋に力を入れながら首を傾げる。はらはらと舞い落ちてきた桜の花びらが、拓海の頭上にのっかった。ボートの上にも、私のGジャンの肩の上にも花びらが降り積もっている。
「俺、故郷に戻って会社を起こそうと思うんだ」
 うん、とすぐに頷いた。なんとなく拓海がそう思っていることはわかっていたし、私もいつかは故郷に戻りたいと思っていたからだ。
「いつ? 今すぐ?」
「一年後、かな」
 その返答を拓海らしいなと思いながら聞いた。彼はいつでもきちんと準備をしてから動くタイプだ。私とは違うけど、だからこそ拓海のやることにはいつも安心感がある。
 来年はここの桜を見ることができないかもしれない。満開の桜の木の下を進みながら、光溢れる眩しい春に私は目を細めた。


 高速バスで飛行場に向かい、飛行機で故郷の地へ飛ぶ。時間には余裕を持っていたので、思ったよりスムーズだった。そして電車で三十分。ついに私たちは故郷の駅に到着した。
「うわぁ! いきなり近代的になってる!」
 小さな声だけど、私は驚嘆せずにはいられなかった。あの古くて薄暗い駅が、橋上駅として建て替えられ、広々とした空間を贅沢に使ったモダンな駅へと変化していたのだ。
「前が古すぎたんだよ」
 拓海はあっさりと言う。その言い方に私はガッカリして憤った。
「そりゃそうかもしれないけど。でもここは私と拓海が初めて会った思い出の場所なんだよ!」
「そうだね。確かあのとき俺は、車で待っていた気がする」
「違うっ! 入り口のところで待っていてくれたよ!」
「そんな昔のこと、もう忘れたよ」
 そう言って拓海はスタスタと先に階段を下りていった。一人残された私は「もう」とひとりごとを口にして、とぼとぼと出口へと向かう。拓海にとって私との出会いなど特別でもなんでもなく、記憶にすら残っていないということが悔しかった。でも男性はそういうものかもしれない。私が覚えていればいいことだから、まぁいいか、と思い直す。
 階段を下りると、壁の一部がレンガ張りだ。へぇ、と思いながら外に出てみると新しい駅の外壁は上部が黒色で下部はレンガ張りになっている。新築だが落ち着いた雰囲気だった。
 拓海はどこに行ったのだろう、と辺りを見回す。駅前広場も駅と同様に整備されていたが、最初のデートの際に拓海が車を停めていたところはそのままだ。そしてそのすぐ横にレンガが敷設された小道があるのが見えた。
 視線の先に拓海の姿を見つけ、その小道へと足を運んだ。近づいてみると、レンガの一つ一つに名前が刻まれている。案内板にはこの地が昔、高品質レンガの生産地であったことが記されていた。そしてここはそれを記念して造られたレンガの広場らしい。
「あった!」
 突然、拓海が大声を上げた。びっくりして駆け寄ると、同時に「ふぎゃあ」という赤ちゃんの声がした。
「ちょっと、せっかく寝てたのに起きちゃったじゃない!」
 拓海の腕の中で懸命に抗議している赤ちゃんのほっぺを突っついた。
「ずっと寝ていたから、そろそろお腹空いたんじゃないの?」
 確かに拓海の言うとおりだ。初めてのバスも飛行機も電車も、ほとんどぐずらずに眠っていてくれたのだ。まだ生まれて三ヶ月だというのに、誰に似たのか、本当に聞き分けのいいお利口さんだ。
 私はニットの上着に包まった我が子を腕に抱き、拓海に聞く。
「それで、なにがあったの?」
 拓海は私を見てにっこりと笑った。彼の笑顔が眩しくて、私は一瞬目を細める。
「これ!」
 そう言いながら拓海が指差したのはレンガの一つだ。そこには「たくみ・のぞみ」と刻まれている。
「……えっ!?」
「このレンガのプロジェクトの話を母さんから聞いて、希美に内緒で頼んであったんだ」
 私は足元のレンガをじっと見つめる。それから拓海の顔を見上げた。
 この不思議な感覚を誰かに伝えようとするとき、どんな言葉をつかえばいいのだろう。
 穏やかに微笑む拓海の顔がぼやける。急に腕の中の我が子の重さとぬくもりが愛しくて仕方なくなった。だけど無情にも赤ちゃんは拓海に抱き上げられ、私の腕は空っぽになってしまった。
「ほらほら、抱っこしていたら、また腕が痛くなるよ」
「でもずっと拓海に抱っこしてもらっていたし……」
「俺は大丈夫。さぁ、行こう。俺たちの新しい家へ」
 拓海は我が子を軽々と片手で抱いて、もう片方の手で私の手を握った。見覚えのある通りを家族三人でたどりながら、私はずっと笑顔だった。時折、赤ちゃんの顔を覗き込むと、彼女も夢見るような笑顔で答えてくれた。
 ぽかぽかとした春の日差しを浴びながら、私はこの胸の中にも同じくらいぽかぽかする温かいものが確かにある、と感じていた。そしてそれはどんなに時が経ち、目に見えるものが形を変えていったとしても、いつでもここにある。だからもう私は何があってもきっと大丈夫――そう信じている。

◇ END ◇