この作品は2011/03/11東日本大震災チャリティ電子書籍プロジェクト『One for All , All for One ……and We are the One〜オンライン作家たちによるアンソロジー〜』(VOL.1)に掲載されていた作品の再掲載となります。



 拓海に会うのはほぼ三ヶ月ぶりだった。待ち合わせの駅に現れた拓海は、私の記憶よりも痩せていて顔色が悪かった。だけど口を開くと陽気にふるまう。最初は緊張していた私もすぐに安心した。
 拓海はまず、ずっと連絡が取れなかったことを詫びた。
「俺のやってる仕事って機密情報を扱うから厳しくてさ、仕事中ケータイとか一切使えないんだ。しかも新人だからこき使われて、ごめん、全然余裕なかった」
 私は小さく頷いた。メールくらいくれてもいいのに、と思うが、拓海の顔を見たらなにも言えなくなった。彼はもう学生の頃とは顔つきが全く違う。社会人としての自覚が足りないと指摘されたばかりの私に、拓海を責める資格はない。
「なにかあったの?」
 下を向くと、拓海は優しい声でたずねてきた。すぐには顔を上げることができない。目の前に料理が運ばれてきたが、とても喉を通りそうになかった。
「今日、仕事で失敗しちゃって……」
 言いながら、大学時代もこんなことがあったな、と思った。でも、あの頃はバイトの身分で、どんな失敗をしても「バイトだから」で済んだし、最悪バイトの職を失ったとしてもここまで落ち込むようなことはなかったと思う。
 ぼそぼそとした声で過失の全容を話し終えると、拓海は何度か小さく頷いた。それからしばらく私の顔をじっと見て、ひとこと言った。
「希美は社員なんだから、部長が怒るのは当然だよ」
 また涙が溢れ出た。優しい言葉を期待していたのに、完全に逃げ場を失ってしまい、ひどく動揺する。そのとき向かい側から力強い声がした。
「でも大丈夫」
 拓海は慈悲深い目で私を見つめている。
「大学のとき、一緒にスノボに行ったの覚えてる?」
「うん」
「スノボってさ、転んでナンボのスポーツだけど、初めてだった希美はなにもないところでも転んで、見てる俺もさすがにかわいそうになった」
 私は涙を拭いながら、少し笑った。拓海も笑っている。
「でも転んでも転んでも希美は、珍しく文句も言わないで立ち上がって、また滑るんだ。本当は怖いのに、少しずつ勇気を出して前を向こうと頑張って、最後にはターンができるようになってた」
 雪まみれになったスノボ初体験の日のことを思い出す。スキー場は風が冷たく、転んだついでに疲れて斜面に寝そべったら、身体の芯まで冷えた。だけど心はいつも温かかった。それは私が一人じゃなかったからだ。
「希美は何度でも立ち上がれるよ。そういう根性のあるヤツだって俺は認めてる。誰だって間違いや過ちを犯すことはあるさ。でも希美はそんなことで潰れるようなヤツじゃない」
 拓海の力強い言葉の途中で、私はハッとした。
 間違いや過ちを犯す――。
 急に胸が苦しくなった。正面の拓海の顔をまともに見ることができない。顔は自然に下を向き、視線がせわしなく左右をさまよった。
 向かい側で私の急激な変化を訝しく思う気配がする。
「わ、私……、拓海にあやまらなければならないことがあるの」
 声が震え、自分のものではないような気がした。心臓がドクドクと音を立てる。意を決して目を上げた。
 目の前には静かに私を見つめる拓海がいる。大きく息を吸い込んだ。
「会社の男の人とデートした」
 一気に言った。胸も喉も絞り上げられるような痛みが私を苛む。そして拓海の顔を見た私は、絶望の淵に叩き落された。
 急に世界から光が失われたようだ。
 拓海の頬は暗い翳に覆われ、その目は深い悲しみを湛えている。私を咎めるわけでもなく、ただ痛ましいほどの哀愁と深遠なる孤独に必死で耐えているように見えた。彼にこんな表情をさせたのは私だという事実が、胸を突き抜け、内臓を抉り、全身の細胞を締め上げた。黙って座っていることが辛い。それでも拓海から目を逸らすことは許されないと思った。
「その人のことを好きなの?」
「……わからない」
 拓海はさらに沈痛な表情をして目を閉じた。
 どうして私はこんなときに気の利いたほんの少しの嘘もつけないのだろう。
 大久保さんのことを嫌いではないのは確かだ。でも「好きか」と聞かれると「うん」とは言えない。それなら「別に好きじゃないけど、しつこく誘われたから仕方なく一回だけデートした」とか、他にいくらでも言いようがあるのに、よりによって不鮮明な言葉で本心を言ってしまった。
 しかし、この場面でなにかを取り繕うようなセリフを言えるはずがない。
 私はなんのためにこんな告白をしたのだろう。懺悔だろうか。それとも拓海に別れを告げるため……?
 ガタッと椅子が動く音がして、向かい側の拓海が立ち上がった。
「ちょっとトイレ……」
 そう言った影が急に傾いた。テーブルの上の皿が耳に付く嫌な音を立ててぶつかり合う。私は反射的に立ち上がって拓海の身体を腕で支えた。身体が熱い。ゲホ、ゲホッと立て続けに咳をして、呼吸が苦しそうだった。
「どうしたの? 大丈夫?」
「俺、もう……ダメかも」
 私の腕に拓海の体重がのしかかってくる。顔面が蒼白になったかと思うと、額に汗が浮き、意識が遠のいているようだ。
 異変に気がついた店員がやって来たので、彼らに手伝ってもらい、拓海を休憩室へと運んだ。救急車を呼ぶべきかと問われたが、そうではなくタクシーを手配してもらった。
 長椅子に横たわる拓海を見守るが、顔色はさっきよりもさらに悪い。白から土色に変わり、少し休んだところで回復するとは到底思えなかった。でも救急車を呼ぶのは大げさな気がしたので、咄嗟の判断でタクシーを呼んでもらったのだ。
 タクシーが来るまでに夜間救急診療をしている病院を探し、事前に電話をかけておいた。拓海の意識はぎりぎりのところで踏みとどまっていてくれたので助かった。病院に到着すると車椅子で診察室まで運ばれていった。
 診察の結果、おそらく胸膜炎だろうと診断され、翌日以降に詳しい検査をすることになった。胸膜炎は昔、肋膜(ろくまく)とも呼ばれていたらしい。医師の説明によれば、肺の表面を覆う膜が胸膜で、その部分がウイルス等の感染で炎症を起こし水がたまった状態を胸膜炎と呼ぶのだそうだ。感染による炎症は風邪のようなウイルスの他、結核菌が原因の可能性もあるという。
「結核!?」
 さすがに私は驚いた。でも医師は慌てた様子もなく、静かに言う。
「このくらいの年齢の方の場合、不摂生を続けた結果、胸膜炎を患うことがあります。おそらく過労でしょうね。二、三週間入院が必要です」
 そして退院してもしばらくは安静と規則正しい生活、それから十分な栄養が必要だという説明を受けた。
 私はしばらくショックで茫然としていたが、入院の手続きの話になり、急に我に返った。すぐに拓海に聞いて彼の実家と職場の上司に電話を入れ、急遽個室のベッドに寝かされることになった拓海のそばに腰を落ち着ける。
「今日、無理して来てくれたんでしょ?」
 言いながら、泣き出しそうになるのを必死でこらえた。拓海は熱もあり、呼吸が辛そうだが、かろうじて目を開け、微笑を浮かべている。
「全然」
 少し前から相当無理をしていたはずだ、と医師は言っていた。今日初めて拓海の顔を見た瞬間、私だっておかしいと気がついていたのに、どうしてあのときもっと危機感を抱かなかったのか、と悔やまれる。結局、私はいつだって自分のことしか考えていなかったのだ。拓海に出会う前も、出会ってからも、そして今の今まで――。
「もう遅い時間だから、帰りなよ」
 拓海は口を閉じると肩で息をした。目を開けているのもやっとのようだった。
「拓海が眠るまでここにいる」
 そう言うと拓海は子どもみたいな笑顔を見せた。そして私のほうへ手を伸ばす。その手を握ると小さな声で言った。
「ありがとう」
 拓海の手を握り締めたまま、私は声を殺して泣いた。ありがとうと言わなければならないのは私のほうだ。どうして身体を壊すまでの無理をしていたのか、と聞きたいことはたくさんあるが、まず拓海に元気になってもらわなければならない。深い眠りについたことを確かめて、私は病院を後にした。
 翌日から出勤時間を早めた。そして出勤するとまず、ずっと気になっていた机の上を拭き掃除した。ついでに同じ課のデスク全部を軽く拭いておく。あくまでもついでに、だ。それから早速自分の仕事を開始する。考えてみれば、朝にだらだらとコーヒーを飲んだりしているから仕事に身が入らなかったのだ。まず掃除から入ると身が引き締まって仕事にも集中できる。
 定時には自分の仕事がきっちりと終わった。「お先に失礼します」と言うと、周りから気持ちのよい「お疲れさま」が返ってきた。すぐに帰宅準備をして、拓海の病院へと急ぐ。
 病院には拓海の母親が来ていた。入院の手続きを終え、必要な物を持ってきてくれていた。私の顔を見るなり、彼の母親は頭を下げる。
「希美さん、ありがとうございました。希美さんがいてくれて本当によかった」
 私は首を横に振りながら、拓海を見て苦笑いした。彼は昨日よりも少し血色のよい顔でにっこりとする。それを見た途端、私の心の中がパッと明るくなった。失いかけていた光が今は自分の中にしっかりと見える。そして今なら拓海のためにどんなことだってできる気がした。
 でも本来私のほうが元気を分けてあげる立場だというのに、実際はその私が拓海からたくさんの元気をもらっている。それを拓海の母親に話すと「いいえ」と即座に否定された。
「希美さんが思っている以上に、拓海はあなたに励まされていると思うわ。あなたがいるから、拓海も頑張ることができるのよ」
 私はまたみっともなく泣いた。そしてどんどん心が温かくなっていった。
 週末、拓海の会社の人たちが見舞いに訪れた。拓海は嬉しそうだった。それもそうだろう。一日中ベッドの上で安静にするというのは、かなり暇だ。帰り際、拓海の上司が廊下で私を呼び止めた。
「拓海は仕事以外にも『自分は勉強不足だから』と、時間の都合がつく限り自主的に研修を受けたり、とにかく少し頑張りすぎていたよ。それも目標があるから、と言っていた」
「目標?」
「入社したときに『一年後に結婚を考えているので、この一年は猛烈に頑張ります』と宣言していたんだ。実際、拓海は今ものすごく成長している。しっかり治して戻って来いと伝えてください」
 拓海の上司の言葉に私は深々と頭を下げた。
 私はなにをしていたのだろう。そして私は拓海のなにを見ていたのだろう。
 自分の不甲斐なさを心の中でとことん罵った。だけど所詮私は私だ。いきなり別の人間になることはできない。
 でも、そこから始めようと思った。私は自分のことしか考えていない自己中心的な人間だ。そんな私ができることは、と考える。職場でもまず自分の業務を精査する。一つ一つの仕事の流れを吟味すると、どこを改善すれば業務が円滑になるのか、少しずつ見えてきた。
 拓海が退院するまで毎日病院へ通った。これも拓海のためなんかじゃない。私が拓海の顔を見たいから行くのだ。日に日に元気になる彼の姿は私の希望でもあった。
 早朝に出勤するのを続けているうちに、大久保さんに顔を合わせる機会がほとんどなくなった。しかも、大久保さんを見ても今は胸がときめかない。自分でも自分の変化に驚いた。
 拓海の退院後、それぞれの勤務地に通いやすい場所に、二人で暮らせる部屋を探して引っ越した。迷うことは何もなかった。拓海はたまにからかうつもりなのか「後悔してるんじゃない?」と言うが、大学時代よりもふっくらした拓海の顔を見ると、本当によかったと思う。そして植物がそうであるように、人も光がないと生きていけないのだと感じた。人は光合成するわけではないけど、私は隣に拓海がいれば心が温かくなる。そういう光はやっぱり誰にでも必要じゃないだろうか?