この作品は2011/03/11東日本大震災チャリティ電子書籍プロジェクト『One for All , All for One ……and We are the One〜オンライン作家たちによるアンソロジー〜』(VOL.1)に掲載されていた作品の再掲載となります。



 あの不思議な感覚を誰かに伝えようとするとき、どんな言葉をつかえばいいのだろう。


 今から思えば、大学時代というのはなんと時間を無駄に、いや贅沢に使い、遊び呆けていたことか。社会に出たこともないのに、大学卒業と同時に楽園から追放されてしまうようなイメージだけは、どこからともなく事前に刷り込まれていたようだ。
 もちろん勉強もした。でも私の大学生活の中での勉強は完全におまけだった。
 比較的真面目に頑張っていたのはバイトだろうか。でも、これも考えてみれば遊びやショッピングに使うお金が欲しくて頑張っていたと言っても過言ではない。
 楽園生活を謳歌するために、大学入学と同時にテニスサークルに入った。その名前自体に爽やかな印象があって人聞きが悪くないという点が気に入り、リニューアル直後のテニスコート設備がピカピカと輝いていたので入会を決めた。実際、最初は純粋にテニスが楽しくて、先輩が優しくて、同級生は早耳で、入って本当によかったと思った。
 しかし、三ヶ月もすればその評価は見事にひっくり返る。早い話、人間関係が面倒になったのだ。優しいと思った男の先輩は結局下心があり、よく話しかけてくる同級生の女子は単なるうわさ好きだった。ただそれだけなら面倒ではないのだけれども、悪条件は重なるもので、私に目を掛けてくれた先輩はサークル内で王子的な存在だったから、同級生たちがこぞって私を除け者にした。かばってくれる友達もいたけど、王子の下心に応える気はなかったので私は半年でテニスサークルを抜けた。
 ちょっとやそっとじゃめげない私も、さすがに気分が滅入った。そしてさらに悲しいのは、こんなときに慰めてくれる素敵な彼氏が隣にいないことだと思った。
 最後に付き合っていた男とぐだぐだな関係になり、嫌気が差して「もう二度と会わない」と決めたのは半年前のことだった。大学に入れば彼氏の一人や二人はすぐにできるだろうと簡単に考えていたが、高校時代とは違って大学では生徒同士も緩い関係だ。しかも目に入る男は軒並み圏外で、このままではいつまで経っても彼氏などできそうにない。
 待っているだけではダメだと悟った私は、早速活動を開始した。これだけ情報の溢れる時代に、無理に大学の中で彼氏を選ぶ必要もない。そう思うと急に世界が開けたような気がして、あまり深く考えもせずにメル友を募集し、気に入った数人の人とやり取りを続け、実際に会ってみては首を傾げるという変な方向に前向きな日々を過ごしていた。


 数回の失敗を重ね、ほんの少し痛い経験をした後、私は今までとは違うノリのメル友に出会った。大学生になって二度目の春が巡ってくる頃のことだ。実はそろそろこの活動も不毛だと気付き始め、なんとなくこれで最後にしようと思っているタイミングだった。
 彼はいきなりオネエ言葉でメールをよこした。短い文章に垣間見えるユーモアのセンスにクスッと笑いながら、私は面白がって返信を打ち込んだ。毎日一度だけのやり取りだけど、楽しくて、彼への返信だけはどんなに忙しくても眠くても欠かさなかった。
 でも、ある日バイトでありえない失敗をしてしまい、凹みに凹んだ私はメールを打ち込む元気も出なかった。こういうメル友の段階では、こちらが返信をしなければ、相手からも次のメールは来ない。結局メル友は、友というものの、ずいぶん遠い存在だ。その夜、私はしんと静まり返った自室の、なかなか温まらないふとんの中で、自分には二度と春がやって来ないんじゃないかと、楽園の住人らしからぬことを思った。


 翌日、少し元気になった私はオネエ言葉の彼にメールを送った。大学の講義が終わってバイトに向かう途中、彼から返信が来た。メールを開いた私の目に飛び込んできたのは、期待を裏切らないオネエ言葉だった。
「ちょっともう! メール来ないからすっごく心配したわよ! でもよかったぁ。早く元気出してね」
 私はその短い文面を何度も何度も読み返した。こんな私のことを心配してくれる人がいたことに驚き、見知らぬ私のことを励ましてくれることに感謝した。
 それからほどなく彼と直接電話で話し、初めて二人で会うことにした。電話で話してわかったのだけど、彼の実家が私のバイト先の近所だったのだ。待ち合わせ場所は自然とその最寄りの駅になり、私はバイト以外の用件で初めてその駅に降り立った。
 改札に向かいながら「特技はマシンガントーク」と自称するオネエ言葉の大学生とはどんな男だろう、とドキドキしていた。電話で話したときにはオネエ言葉ではなかったので少しホッとしたのだけど、電話では残念ながら容姿までは判断がつかない。あまり過度に期待すると十中八苦ガッカリな結果に終わるということはすでに学習済みだ。とはいえ実際は事前に期待してもしなくても、許容範囲内か圏外かについて厳格な審査が初見で行われるのだから、結果はアリかナシかの二択となる。改札口にたどり着いた私は、すぐに彼の姿を探した。
 高校生、幼児連れの母親、いい感じに歳を重ねた老夫妻……視線を少しずつ動かしながら改札を通り抜け、出口のほうへ移動する。そこで私の視線はピタリと止まった。
 出口のすぐ脇に、身体にフィットするデザインのTシャツに緩めのジーンズ姿で、首にはレザーのチョーカーをさげた大学生らしき男性が突っ立っている。たぶん彼に間違いない。私は彼の真正面まで歩いていった。
「希美(のぞみ)さん?」
 電話と同じ声だ。彼を見上げると、急に周囲は陽光が満ちて明るくなった。Tシャツから伸びる彼の腕は形の良い筋肉質で、それを意外に思いながらもう一度顔を確かめる。目が合った瞬間、彼は笑った。細い目は笑うとなくなってしまう。だけど、気持ちの良い笑顔だった。
「そうです。はじめまして」
 太陽の下ですくすくと育った印象の青年は「それじゃあ行こう」と言って駅を出た。彼の後に従いながら私は、いつも使っているこの古びた駅が、あんなに明るい場所だっただろうかと訝しく思った。埃っぽくて暗い感じの駅舎なのに、今はちっとも嫌な気がしない。
 駅の前には黒いSUV(スポーツユーティリティビークル)が停まっていて、彼は助手席を差して「どうぞ」と言った。事前に彼が市外の大学へ自動車通学していることは聞いていたが、もっと小さな車を想像していたので驚いた。いや、私にとっては彼に関することすべてが驚きだった。
 初めてのデートはドライブがてら彼の大学の近くにある大きな湖へと向かった。彼の名前は拓海(たくみ)。サーファーっぽい外見だなと思っていたら、小学生のときには海洋少年団に所属していて、ボートを漕ぐのも得意だと言う。実際、湖のボートでその腕前を披露してくれたが、それでこの締まった体型なのか、と力強いオール捌きを見て私は納得した。
 私が今まで付き合った男はどの人も綺麗な顔をした痩せ型で、スラリとしていると言えば聞こえはいいが、どこかか細く頼りなかった。
 でも拓海は彼らとは全然違う。きちんと土に根を張って育ってきた逞しさが感じられる。
 ドライブの最中、私は大学に入ってからのあれこれを、それこそマシンガン並みの勢いで並べたが、拓海はニコニコしながら辛抱強く最後まで聞いて、頷きながら私の手に自分の手を重ねた。
「大変だったね。でも大丈夫」
 なにが大丈夫なのかわからないけれど、このとき私も心の中では「そっか、大丈夫なんだ」と理屈抜きに納得していた。
 デートを終えて帰宅した私に拓海は「希美といると楽しいね。またすぐに会いたい」とストレートな内容のメールをよこした。オネエ言葉はどこに行ったんだ、と思いながらも私は生身の拓海に強く惹かれていたと思う。以前こだわっていた彼氏の条件からすると拓海は規格外なのだけど、そんな条件自体がバカバカしくなってしまった。私は昔からのこだわりを、頭の中でくしゃくしゃに丸めてポイとそこらへんに投げ捨てた。


 それから始まった拓海と二人で過ごす日々は、まるで楽園を駆け巡るような心弾む毎日だった。拓海は大学生としては私と同じ学年だったが、高校時代に海外留学していたため実年齢は二歳年上だ。でも彼を年上だと意識したことはあまりない。考え方は当然私よりもしっかりしているが、先輩風を吹かせることもなく、おっちょこちょいの私をニコニコ眺めているという態度だ。大学で課されるレポートの多さを嘆いても、バイトで失敗して怒られたことを愚痴っても、いつも拓海はうんうんと頷きながら耳を傾けてくれて、最後に「でも大丈夫」と言う。それから「おいで」と言われて彼の大きな胸に飛び込んだら、本当になにもかもが大丈夫な気がするから不思議だなと思う。彼の腕の中はいつも温かくておひさまの匂いがした。
 冬には拓海が教えてくれるというので、私は生まれて初めてスノーボードに挑戦した。スキーなら得意と言ってもいいレベルなのだが、スノボはバインディングの装着の仕方すらわからずにまごつき、リフトの乗降だけでも筋肉痛になるほどで、両足が固定されている状態で雪の斜面を滑るのは予想以上に怖かった。しかし拓海は根気よく私に付き合ってくれて、私もなんとか彼のようにカッコよく滑りたくて意地になって頑張った。
「希美がこんなに頑張り屋さんだとは思わなかったよ」
 何度も無様に尻餅をついて斜面にクレーターを作りながら下まで降りてくると、拓海はすっかり感激した面持ちでそう言った。
「そうかな。全然まともに滑ることなんかできてないけど」
 あまりにも大げさに褒めるので照れくさかった。それでも拓海は何度も何度も褒めてくれた。
「連れて来るまでは、もしかしたらちょっと滑っただけで『もう二度とやらない』って言うんじゃないかってヒヤヒヤしてたんだ」
 私は苦笑しながら、確かに自分なら言いそうなセリフだと思った。でもそんな私が苦労しながらも頑張れたのは、拓海が優しいからだ。そのことを言葉にしようと思ったが、彼の穏やかな笑顔を見たら、胸がいっぱいになってなにも言えなかった。
 拓海は落ち着いた人だけど、彼の存在はいつも活力に満ちていて、彼が笑うと周りまで温かくなる。そんな拓海のそばにいると、私も温かくなって心地いい。こうしてずっと二人で歳を重ねていけたらいいのに、と思う。そうすればきっとなにもかも大丈夫なのだ。