この作品は2011/03/11東日本大震災チャリティ電子書籍プロジェクト『One for All , All for One ……and We are the One〜オンライン作家たちによるアンソロジー〜』(VOL.1)に掲載されていた作品の再掲載となります。



 しかし、無情にも楽園を去らねばならない日がやって来た。
 ちゃっかり者の拓海はそれほど苦労せずに内定をもらい、要領の悪い私はギリギリまで周りに気を揉ませながらもなんとか滑り込みセーフを決めた。二人の勤務地は同じ都市だが場所が離れてしまい、当然のことながら、大学時代のようには会うことが出来なくなった。
 大学で経済を専攻していた私は、それなりに名のある企業の経理課に配属され、理系だった拓海は電子機器メーカーの研究部門で、私にはさっぱりわけのわからない設計を仕事としていた。お互いに忙しく、メールや電話で話すだけの毎日が続く。社会人になりたての私は、会社では緊張しつつも、大人の階段を一段上がったことで相当浮かれていた。朝のラッシュには雑誌で研究し尽くしたOLスタイルで参戦し、夜の歓迎会ではちやほやされて四方八方に愛嬌を振りまいた。疲れてもいたが、それ以上の高揚感に包まれて、新たなOL生活を楽しんでいた。
 そのうち拓海からのメールは夜中に来るようになっていた。内容も「疲れた」とか「眠い」とか、彼にしては元気がない。会う時間も作れないほど忙しいのか、とメールを見るたびに胸が痛んだ。だから返信には自分なりに気持ちを込めて「無理しすぎない程度に頑張って」とか「休めるときに休んでね」と慰労の言葉を添えた。
 だが、会わないでいると次第に私の中の拓海の存在感が薄くなっていった。たまに二人で写っている写真を見るが、これは今の私たちではない。そう思うと部屋に一人きりでいることが寂しくて切なかった。
 拓海はどんな格好で出勤しているのだろう。研究職だからスーツじゃなくてもいいとは聞いていたが、ジーンズ姿なのだろうか。ご飯はどうしているのだろう。職場には女の子もたくさんいるのだろうか。とにかく私にはわからないことが多すぎた。会って話せばすぐに解決するような疑問が次から次へと湧いてくる。
 こんな状態で拓海と私は付き合っていると言えるのか。
 そう考えていた矢先に、同じ経理課の先輩が産休に入ることになった。小柄な先輩はお腹の膨らみも目立たず、妊婦だと気がつかない人もいるくらいだったが、この頃はさすがにお腹が重いとこぼしている。先輩の産休中は課内で彼女の仕事をシェアすることになったので、私もいくつかの業務を請け負った。私自身の仕事のメインは社員の出張旅費関係なのだが、先輩は他社への支払い業務をメインにしていたので、私も初めて対外的な仕事をさせてもらえることになった。とはいえ、借り上げ社宅の振込伝票を起こすというもので、毎月相手先も金額も件数も決まっていて難しいところは何もない。それでも仕事を任されることが嬉しくて、月末は張り切って伝票を起こした。
 月末の慌しさを乗り切り、ホッとした私はたぶん気持ちのどこかが緩んでいたのだろう。コーヒーを飲もうと思い、給湯室へ向かった先に、その人がいた。
「希美ちゃん。俺とデートしない?」
 話しかけられてから相手の顔をまじまじと見つめた。一階上の部署で生産管理を担当している男性だった。細面の整った顔立ちに柔らかそうな髪質で、背はあまり高くない。正直に言えば、まさに私の好みの男性だ。
「私、彼氏、いますよ」
 さらりとかわすつもりで言ったのだが、彼は私の進路に立ち塞がって、もう一度言った。
「俺とデートしないと、きっと後悔するよ?」
 なんという自信だろう。私は思わずクスクスと笑ってしまった。それでも目の前の男性は気を悪くした様子はない。名札を見ると「大久保」と書いてある。大久保さんはおとなしそうな外見に反して、女性に対しては積極的に動く男性のようだ。
 一瞬、拓海の顔が私の脳裏に浮かぶ。大学生のままの拓海の顔が――。
「一回だけなら」
 そう答えると大久保さんは満足そうに笑顔を見せた。束の間、拓海に対する罪悪感が私の胸をつねったが、それもすぐに新しい扉を開く期待にすり替わる。目の前にいる魅力的な男性からの誘惑を断ったら、本当に後悔しそうな気がしたのだ。
 拓海、ごめんね。一回だけだから。
 私は「一回だけ」という薄っぺらな言い訳を自分自身への免罪符にして、大久保さんとデートの約束を交わした。


 実際、大久保さんはカッコいい。人気アイドルグループの一人に似ていると女性社員たちはうわさしている。そんな男性から誘いを受けて嬉しくないわけがない。拓海と付き合ってからは他の男性と仲良くなる機会もなかった。私は密かな優越感を胸に抱き、上機嫌で仕事をこなした。
 その頃、拓海からはメールさえも途絶えていた。私の中には「だから仕方がない」と、大久保さんとのデートを正当化する自分すら現れて、ケータイを見るたびにため息が漏れた。拓海が最後にくれたメールは一ヶ月前の日付だった。
 以前、友達から聞いた言葉を思い出す。
「こっちが浮気しているときは、相手も浮気しているものらしいよ」
 まさか、と、やはりそうかも、が私の中で激しくケンカする。焦りが喉元までこみ上げてきて、慌てて拓海に電話を掛けてみるが、無情にも「電源が入っていないか、電波の届かないところにいる」という機械的な女性の声が返ってきた。
 電話も繋がらない、メールの返信も来ないこの状況はどう考えたらいいのだろう。あの優しくて誠実な拓海が私をないがしろにするなんて信じられない。なにか理由があってのことだろう、と私は自分の心に何度も言い聞かせる。
 だけどこの不安な気持ちは私を必要以上に駆り立てた。
 大久保さんとデートをした。久しぶりに気分が宙に舞い上がる感覚を味わい、「また遊びに行こう」という言葉に笑顔で頷いてしまった。意外に大久保さんは紳士的な態度で、デートの最中も嫌だなと思う部分が全然なかったし、男の人とのデートは女性同士で遊ぶのとは別のスリルがあって楽しい。拓海という恋人がいる私がこんなことを思うのは不謹慎だと思う。でも私は自分の気持ちに正直に生きていたい。たまには心がときめくような瞬間だってほしいし、誰かが自分に心を寄せてくれるくすぐったいような感覚を手放すのは惜しい。それが身寄りも友達もいない大都会で、仕事が生活のすべてになってしまった私の紛れもない本音だった。


 そのデートの後、出社すると給湯室で大久保さんと会うのが日課になった。特に約束したわけではないので、大久保さんが私の時間に合わせてくれているのだろう。社内だから人目を気にして、他の人と同じ態度で接しているつもりだけど、それが毎日となると少しずつお互いに打ち解けてくるのはどうしようもない。
 拓海とは相変わらず連絡が取れずにいて、さすがにそろそろ白か黒かをはっきりさせなくてはならない気がした。電話もメールもダメなら直接彼の家に行くしかない。拓海の住居には本格的に仕事が始まる前に何度か行ったが、一人で無事にたどり着けるかどうか自信がなかった。それが私を消極的にさせる一番の要因だ。しかもこれほど間が開いてしまうと、拓海がとても遠い人に感じられて、会うのが怖い。
 そんなことを考えていた朝、大久保さんが軽い調子で言った。
「彼氏とはどう?」
 私は苦笑しながら「忙しいみたいで」と言葉を濁した。大久保さんには「最近あまり会っていない」と言ってあったが、しばらく音沙汰がないことを打ち明けてはいない。それを言うと、自分から一歩踏み込んでしまうことになるので躊躇していたのだ。
 そのとき、私の名前を呼びながらパタパタと駆け寄ってくる女性の足音が聞こえてきた。大久保さんと私は一瞬顔を見合わせたが、彼はなにも言わずに給湯室を出て行った。入れ替わりに給湯室に駆け込んできたのは、隣の席の同僚だった。
「大変よ。月末に希美の起こした振替伝票が間違っていて、一つも処理されてなかったみたい」
「えっ!?」
 頭の中が真っ白になった。処理されていないということは、つまり相手方へ代金が振込されなかったということだ。
「とにかく課長が呼んでいるからすぐに来て」
 同僚の言葉を聞き終わる前に私は駆け出した。フロアに戻ると課長が黙って私を手招きした。小走りで課長の後に続き、小会議室に入る。室内には冷たい目をした部長が私を待っていた。
「引き継ぎはきちんとされていたんだよね?」
 私は「はい」と言うのがやっとだった。その声もか細く語尾が震える。課長が椅子に座るよう促してくれたが、戸口から数歩入ったところから足が動かない。
「君は、自分が新人だから『わからない』とか『できない』のが当たり前だと思っていないか?」
 足がガクガクして、冷や汗が噴き出した。
「支払いが滞るとどうなるか、わかるか? 君の担当は一件の金額が数万円だからと軽く考えていないだろうか? 大げさだと思うかもしれないが、君一人のミスは会社全体のダメージになる。そのことをよく考えてほしい」
 その後、部長は少し優しい口調で私を励ますようなことを言ってくれたが、その部分はなにも覚えていない。最初に指摘された自分の落ち度が、頭の中でぐるぐると回っていた。
 自分の席に戻ると、周りの態度が明らかに変化していた。だが、とにかくすぐに間違った処理をやり直さなければならない。突き刺さるような視線を感じながら、自分の甘さを恥じた。部長は私の本質を見抜いていたのだと思う。
 昼休みになり、席を立つと、後ろから声がした。
「意外と使えない子ね。大久保さんも趣味が悪いわ」
 こみ上げてくるものを必死にこらえて足早にトイレに向かう。個室に入り、一人きりになった途端、涙が溢れた。自業自得だ。大人になったと勘違いし、浮かれていただけで、社会人としてはなんの自覚も持っていなかったのだ。
 大久保さんとのこともそうだ。仕事もまともにできないくせに、ちょっと素敵な男性から言い寄られていい気になっていただけだった。自分のしたことが恥ずかしかった。
 私は涙がおさまると会社の外へ出た。人気のないところまでくるとケータイを取り出して拓海に電話をかけた。電波が発信される間、祈るような気持ちで待つ。
 呼び出し音が鳴る。私はそれを奇跡が起こったかのような気持ちで聞いた。
「もしもし」
 おさまったはずの涙が、一気に溢れてこぼれた。胸がいっぱいになって言葉が出ない。
「希美?」
 拓海の声が私の心を震わせた。
「会いたいよ」
 それを言うのが精一杯だった。涙声を隠すことができない。拓海はすぐに「うん」と言った。
「今日の夜、一緒にご飯食べよう。それまで頑張れ」
 なにかを察したのか、拓海はいつもの声でそう言ってくれた。私はようやくほんの少し自分を取り戻した気がした。
 午後は気を引き締めて仕事をした。周囲もなにもなかったように接してくれる。だけどその腫れ物に触れるような態度が、時折私の心の傷口を深く抉った。