この作品は2011/03/11東日本大震災チャリティ電子書籍プロジェクト『One for All , All for One ……and We are the One〜オンライン作家たちによるアンソロジー〜』(VOL.2)に掲載されていた作品の再掲載となります。



 翌日、古東さんから預かった封筒を社長に渡すと、気のせいかもしれないけれども、社長はほんの少しだけ表情を緩めたようだった。
「古東はすぐ帰ったか?」
「はい」
 社長は私の顔をまじまじと見つめてきた。疑うように顎を引き、少し上目遣いになる。私は思わず目を逸らした。
「えっと、古東さんにミュージカルのチケットをいただきました」
 これは正確な表現ではないな、と思ったけれども、間違いでもないと自分を励ました。
 しかし、社長にはごまかしが通用しなかったらしい。
「後藤さん。君のプライベートにいちいち口出しするつもりはないが、相手が古東となると話は別だ」
 私は怒られているような気分になってうつむく。やはりオイシイ話だからとよく考えもせずにチケットを受け取ってしまったのが失敗だったのだろうか。でも、と私は思い直した。
「古東さんがどういう意図で私を誘ってくださったのかはわかりませんが、社長の幼馴染と知っていて簡単にお断りすることは私にはできません」
「君はバカか」
 呆れたような声を真正面からぶつけられた。私は社長を無言で睨み返す。
「それじゃあ君は、古東がミュージカルの後も強引に付き合えと言ってきたらついて行くのか。あの男が俺の幼馴染だから簡単には断れないんだろう? どうなんだ?」
「それは……わかりません」
 社長と私はその場で身動きもせず、数秒間睨み合っていた。突然視線をフイと外して背中を向けたのは社長のほうだった。社長室のドアが乱暴に閉じられる。
 完全に怒らせてしまったようだ。
 私は自分の椅子に腰を下ろすと、ふうと大きく息を吐いた。プライベートに口出しする気はないと言ったくせに、どうして怒られなければならないのかよくわからない。
「『バカ』って、ひどい。言い過ぎ」
 胸の中に収めておくことができなくて、囁き声で愚痴った。チケットをもらっただけのことがそんなにいけないことだとは、私にはどうしても思えなかったのだ。
 それから一週間、社長は頑として私とは口を利かず、私は仕事上どうしても必要な連絡事項のみを伝えるだけで、お互いピリピリとした雰囲気の中で過ごすことになった。


 そして、ついにミュージカルの日がやって来た。その日も朝から社長は最高のご機嫌斜めぶりを発揮し、私もデスクの前を素通りする社長を、形式的には頭を下げつつ、冷たい目で見送った。
 朝は社長が出社するとコーヒーを入れるのが日課だ。いくら険悪なムードでも日課は欠かさない。私はいつもと同じように社長室へコーヒーを運んだ。
「濃いな」
 久しぶりに聞いた社長の声がそれだった。
「入れ直しますか?」
 私は慌ててコーヒーカップに手を伸ばした。社長が私の顔をじろりと見る。
「メイクが濃い」
 私はそこで彫像になったかのように固まった。わざとらしい嘆息を漏らしてから「失礼します」と苛立ちを何とかこらえて退室する。
 せっかくの楽しい日の始まりが最悪だ、と社長室のドアを閉めた後でもう一度ため息をつく。
 自分のデスクに戻って仕事を始めた私は、急に気になって自分のポーチから鏡を取り出した。そんなにいつもと変わらないと思う。でも、いても立ってもいられない気分になって、トイレに立った。
 メイク直しを終えてデスクに戻ると、社長が外出の準備をして出てきた。
「今日はもう戻らない」
 ぶっきらぼうにそう言い残して足早に去った。エレベーターが社長を乗せて動き出すと、私はようやく気持ちが落ち着いて、その後は胸を弾ませながら仕事をこなした。


 定時に仕事が終わり、ドキドキしながら会社を後にした。新しくできた劇団専用の劇場は会社から徒歩で20分ほどの距離だった。到着して時計を見ると開演時間には十分な余裕がある。お腹が空くかもしれないと思ったので、ロビーで軽食を取った。
 開演時間が近づいてくると、周囲の人たちは場内へと移動し始めた。私はあまり早く席に着いているのも変かな、と妙な気づかいをしてしまい、自分の席に行くのを躊躇していた。でも10分前になるともうロビーでじっとしていることができない。はちきれそうな胸のドキドキを抑えて場内へ足を踏み入れた。
 チケットの座席番号を確かめて舞台のほうへと近づいていった。前から二列目の真正面の席だ。舞台が間近で、私の興奮は最高潮に達する。
 私の隣はまだ空席だった。少し拍子抜けして、同時に少しホッとした。古東さんのことはよく知らないけど、彼には社長が心配するような変な意図はないと思う。
 そこで思考がピタッと止まった。
 社長は何を心配していたのだろう。私が古東さんの誘いに乗ったことにどうして怒ったのだろう。相手が古東さんだから話は別、みたいな言い方をしていたけれども、もしかしたら私が勝手に大丈夫だと思い込んでいるだけで、実は手の早い危険な男性なのかもしれない。幼馴染の社長が言うことだ。二度会っただけの私の判断より社長のほうが正しいに違いない。
 そう思うと急に不安が全身を駆け巡った。私は本当にここにいていいのだろうか。
 開演ブザーが鳴った。同時に列の端から身を屈めてこちらへ向かってくる人影が見えた。
 来た!
 心臓がドキドキする。舞台にわずかな照明がついた。その途端、私は「ええっ!?」と声にならない声を上げていた。
「すまない。遅くなった」
「あの、古東さんはどうしたんですか!?」
 私の隣に腰掛けたのは社長だった。社長は後ろの人を気にしてか、足を前に出し、座高を調節する。
「君をアイツには任せられない」
 小声でそう言うと、私の顔を見て微笑んだ。それから舞台へと視線を移動させた。
 私も舞台を見る。だけど頭の中は激しく混乱していた。
 これはどういうことなんだろう。
 ミュージカルが始まってしまったので、社長に話しかけることはできない。そのうちミュージカルの進行とともに、私の意識も舞台へと向いたが、頭の片隅では隣にいる社長のことがずっと気になっていて、どっぷりと物語に浸かることができなかった。
 終演後、私たちはしばらく立ち上がることができずにいた。しかも気まずいことに社長は黙ったままだ。私はどうしてよいのかわからず、困り果てて社長を見る。
「何か言いたそうだな」
 社長はやっと口を開いた。私は少し考えて、それから言った。
「社長がミュージカル好きとは知りませんでした」
 隣でフッと笑う声が聞こえた。
「昔、この劇団を家族で観に来たことがある。嫌いではないな。今日も楽しかった。両親の結婚記念日にこのチケットを贈ったのは正解だった」
 自然な表情で笑う社長に、私の視線は釘付けになっていた。
「どうして……」
 思わず口走ってしまう。
「いつもそういう顔をしてくれないんですか」
 社長の頬から笑みが薄れて、みるみるうちに寂しそうな表情が浮かんできた。
「俺は俺のやり方でしかできないんだ。社員に冷酷だと言われても、俺一人くらいはそういう役を演じなければ成り立たない。会社とはそういうものだ」
「そうは思いません」
 私は社長の勝手な思い込みに腹が立っていた。
「社長が冷たい顔をして厳しい態度で社員に接したところで、社内がギスギスするだけでいいことなんか一つもありません。それよりもっと普通に、人間らしいところを見せてくれたほうが、社員だって社長を素直に尊敬してついて行こうと思うはずです」
 言い終えるとすっきりしたけれども、次の瞬間、言い過ぎたような気がしてハッとした。社長は反対側の肘掛に肘をつく。
「わかったようなことを言うな」
 その言葉を聞いた途端、得体の知れぬ感情が湧き上がり、胸を突き破って出てきそうになった。反射的に立ち上がって出口へ向かう。途中、上を向いて激情がこぼれそうになるのをこらえる。そのとき、後ろから腕を掴まれた。
「待て」
「帰ります」
「送る」
「なんで優しくするんですか? 怒っていたんじゃないんですか? それにどうして今日、社長がここに来たんですか!?」
 私は涙が頬を伝うのも気にせず、思っていたことを全部吐き出した。つかまれていた腕が解放される。
「古東のほうがよかったのか?」
「違います」
 頭上でクスッと笑う声がした。見上げると社長が優しい表情をして、私の頬の涙を指で拭う。
「続きは車の中で話そう」
 返事をする前に再び腕がつかまれ、私はふわふわとした足取りで劇場を後にした。
「君はしっかりしているようだが、実際は全く無防備だな」
 車を発進させると社長はまずそう言った。当然、社長の車は私が乗ったこともない高級車だ。助手席に乗ったのはいいけれども、居心地が悪くて仕方がない。
「心配で放っておけない」
 私は社長の顔をおそるおそる見た。社長はクスッと笑ってハンドルを握っていないほうの手を伸ばして、私の手をつかむ。
「あの、でも、これって……」
「本当はもっとギリギリまで待つつもりだったのに、そうも言っていられなくなった」
「ギリギリ?」
「そう。君が俺のことを好きになるまで」
 心臓が壊れそうなくらいドキドキしていた。ずっと社長の遠まわしな言い方に半信半疑で、でも本気に受け取ったらそれこそバカを見ると思っていたのだけど、これはもしかしてもしかするということなのだろうか。
「私は社長のこと……」
「ストップ」
「えっ!?」
 いきなり出端をくじかれて、私は目をパチパチと瞬かせた。社長は握った手にぎゅっと力を込める。
「その続きはもっと後で聞かせてくれ。俺と同じくらいに、君が熱くなるまで、もう少し待っているから」
 息が止まった。社長の顔を確かめるように見ると、一瞬だけ私に視線を合わせてくれた。その途端全身がボンと熱くなる。これは夢じゃないよね、と何度も自問した。
 その後社長は、今夜と同じ特別招待席の別の日のチケットを古東さんに頼んであったのだと説明してくれた。勿論、社長が両親の結婚記念日を祝してプレゼントするためのものだ。そのお礼をするために古東さんの会社に出向き、彼を優しく脅して今夜のチケットを奪ったのだと言う。優しく脅す、なんてひどく矛盾しているけれども、社長らしいと思った。私は二人のやり取りを想像して、楽しく幸せな気分になる。ミュージカルの幕は下りたのに、まだ夢の中にいるようだった。それもそのはず。私と社長の恋はまだ幕が開いたばかりなのだから。


 翌日、会社に古東さんから電話が来た。社長に取り次ごうとすると「後藤さん」という冷静な低い声が受話器から聞こえてくる。
「昨夜は楽しんでくれた?」
「はい! あの、本当にありがとうございました」
「俺、キューピッドになるつもりは全然なかったんだけど」
 古東さんのぼやく声に私は思わず笑ってしまった。
「光輝に伝えてよ。『この借りは必ず返せよ』って」
「はい。承りました」
「それから後藤さん。アイツ、すごくわがままなヤツだけど、よろしくね」
「はい。承りました」
 電話を終えて、私は立ち上がった。時計を見るとちょうど午後三時だった。静かだからもしかすると眠っているかもしれない。でもいいよね、と一人にんまりしてコーヒーメーカーにスイッチを入れた。
 ドリップしたてのコーヒーを持って社長室のドアをノックする。私だってこのコーヒーよりもっと熱くなっているのに、と思いながら……。

◇ END ◇

※ラストの劇場の座席に関して、通常演劇の招待席が前から2列目に設定されることはありえないと、今回投稿後に教えていただきました。
ご指摘をいただきましたとおり、本来招待席は劇場やホール全体を見渡せる特等席に設けられるもので、この作品では「招待席」のチケットとしては誤った記述をしております。お気付きになられ、不快に思われました皆様には深くお詫び申し上げます。
(丁寧にご教授くださいました方には本当に感謝しております。ありがとうございました)