この作品は2011/03/11東日本大震災チャリティ電子書籍プロジェクト『One for All , All for One ……and We are the One〜オンライン作家たちによるアンソロジー〜』(VOL.2)に掲載されていた作品の再掲載となります。



 私がこの席に座るようになって半年が過ぎた。
 真っ白な壁に真紅の絨毯。私のデスクは木製だけど白く塗装されている。椅子は赤。そしてすりガラスのパーテーション向こうには白いドアがある。このスタイリッシュな空間の奥に我が社の社長室があるのだ。
 社長室の手前に受付兼秘書係のデスクがあり、ひょんなことから私がここで仕事をすることになった。私の前にこの席に座っていた女性は、私の知る限り、私の数倍は聡明で美人だった。口調はどんなときも淀みなく、電話の応対も老練の域に達していた。まだ自分に自信のなかった頃は彼女の喋りを録音して真似しようかと思ったくらいだ。でも半年前、彼女は両親の介護を理由に会社を辞めた。あまりにも突然だったので誰もがその理由を疑い、そして本当の理由は社長の逆鱗に触れたためだという噂が社内に広まった。
 それを他人事だと思って聞いていた私に、いきなり異動が言い渡され、あろうことか社長室にて勤務することが命じられた。このときは本当に驚いた。どうして私に白羽の矢が立ったのかは未だにわからない。でも前任者が突然辞めたのは、結局のところ社長に気に入られなかったからだ、とみんなは言う。我が社の社員なら誰でも知っていることだが、社長は気難しい人なのだ。
 昼休みの時間になった。
 ここに来る前は同僚たちとランチに出かけたり、コンビニで弁当を買ってきて食べていたけれども、今は昼もこのデスクで過ごす。トイレや飲み物を買いに行くくらいの中座はできるが、基本的には定時までデスクを離れることはできない。というのも昼時に来訪する人は少ないのに、電話を掛けてくる人は案外多いのだ。でも昼休みまで行儀よく座っている必要もないだろうと私は思う。それに社長もこの半年間、昼休みの間は一度も姿を見せたことがない。きっと彼なりに気をつかってくれているのだ。
 私は駅前のパン屋で買ってきたクロワッサンを頬張りながら、情報誌に目を通していた。もうすぐこの街にとある劇団専用の劇場が完成する。その特集記事に私は目を奪われていた。
 クロワッサンをほぼ食べ終わり、残りのコーヒーを飲み干したときのことだった。突然、予告もなしにエレベーターが開く音がした。私は驚いて通路へ視線を移し、そして背筋を正した。
「あっ」
 考え事をしていたらしく、目を上げて短く声を発したのは相手のほうだ。
「食事中か。すまない」
「いいえ、もう済んだところです」
 私は立ち上がって一礼する。彼が私の前を通り過ぎるまで、こうして礼をするのが私の日課だ。他は電話の応対と予定の確認、社長から依頼された資料や文書の作成、そして来客時にお茶かコーヒーを運ぶくらいのことしかしていない。ここに来るまでは漠然と社長室勤務は大変そうと想像していたが、今は思ったよりも楽な仕事だと感じていた。
 普段は社長室のドアが開く音がするので、それを合図に頭を上げるのだけど、一向にドアの音が聞こえてこない。不思議に思いながら姿勢を戻すと、私のデスクの前に社長が立っていた。
「この劇団が好きなのか?」
 私は目を大きく見開いて社長を見上げた。長身である彼の顔を見ようとすると、首を上げなければならない。端整な顔立ちだが常に厳しい目つきをしていて、冷たい印象の人だ。普段声を荒げるようなことはないのだけど、その表情を少しも変えずに冷酷な命令を下す場面は何度か目撃している。私はドキドキしながら、ぎこちなく頷いた。
 社長は何も言わずに私のデスクから雑誌を手に取り、しばらく眺めていたかと思うと、急に私に向かってその雑誌を突き返してきた。
「懐かしいな」
 ポツリとそう言うと社長は私に背を向けてデスクから離れていく。去り際に見た彼の頬には確かに微笑が浮かんでいた。
 私は社長から受け取った雑誌を胸に抱えたまま、ストンと椅子に腰を下ろす。笑った顔などほとんど見たことがなかったから、驚きのあまり心臓の音が耳のすぐ横で鳴っているようだった。
 それからすぐに外出のために社長が部屋から出てきた。
「少し出かけてくる。二時間ほどで戻る予定だ」
「はい。お気をつけていってらっしゃいませ」
 今日のスケジュールには午後の二時間は「私用」と記入されている。空いている時間に私用を済ませることの多い社長には珍しいことだ。恋人とデートかな、と思う。彼目当てで電話を掛けてくる女性が常に数人いるから、その中の誰かが恋人である可能性もあると密かに思っていた。
 だけど、本当の恋人ならわざわざ会社の電話に掛けなくても、社長個人のケータイに掛ければいいはずだ。と、そこまで想像して私は苦笑した。私には何の関係もない話だ。
 でも初めて見た社長の笑顔を思い出すと、胸がきゅうっと締めつけられるような痛みを感じる。胸を押さえながら、私は自分の気持ちを力いっぱい否定した。
 社長は思わず見とれるような容姿を持ち、若くして会社を大きく育てた有能な男性だ。実際その仕事ぶりを近くで見ていると、私の心の中にはいつしか彼を深く尊敬する気持ちが宿っていた。だけど私は単に受付兼秘書係であって、彼と特別な関係になりうる立場ではない。どんなことがあってもそれを忘れてはいけないと思う。
 それでも昼休み以降、私の心の中は妙に騒ぎ出すようになってしまった。そんな自分自身に困惑している頃、社長が戻ってきた。
「コーヒー、入れてくれる?」
 それだけ言い残して足早に社長室に姿を消す。いつものぶっきらぼうな言い方だ。私は手際よくコーヒーを入れて社長室のドアをノックした。
「どうぞ」
 ドアを開けると、社長は応接用のソファに長い足を投げ出して横になっていた。いつもなら私が入室すると座り直すのに、今日は横たわったままだ。恐縮しながらテーブルの上にコーヒーを置いて応接ソファから離れようとしたとき、不意に声を掛けられた。
「後藤さんは兄弟いるの?」
 私はトレーを持ったまま立ち止まる。
「はい。弟が一人います」
「そうか。いや、そうだな。君はしっかりした姉さんという感じがする」
 社長は頭の後ろで腕を組んで伸びをした。彼が私をそんなふうに見ていたことに意表をつかれてその場から動けない。どうしようか、と思ったところで社長は身を起こしてコーヒーを口にした。
「俺には今年二十歳になる妹がいるんだ。俺とは一回りも離れているから、仲がいいとか悪いというレベルじゃないんだけど、部屋を借りたいから一緒について来てくれと頼まれて、仕方なく行ってきた」
「そうだったんですね」
 私はその光景を思い浮かべてみた。この冷たい顔をした綺麗な男性が、歳の離れた妹に振り回される図が面白く、微笑ましい。
「でも、あれは男だな」
 愉快な想像を打ち消すように社長は言った。
「えっ?」
「まだ大学生で、実家から通うほうがいろいろと都合がいいはずなのに、わざわざ部屋を借りるなんて、男が理由に決まってる。その部屋の品定めを俺に頼む妹の神経がわからない」
「社長は妹さんから慕われているんですね」
 私はほとんど確信に近い思いで言った。そんな秘密を含んだわがままを言っても、聞いてくれる兄がいたらどんなに心強いだろう。学生時代に何度か私にも兄か姉がいたら、と思ったことがあるから、社長の妹という身分は純粋に羨ましくもある。
「それはどうだかわからないけど、妹がもうそんな年齢になったのかと複雑な気分だよ」
 社長は大きくため息をついた。そしてふと私を見る。
「後藤さんはいくつ?」
「24です」
 なぜそんなことを聞くのだろう、と思いながら答えると、社長はコーヒーを一口飲み、「うん、知っていた」と言って笑った。
 一瞬何が起こったのかわからず茫然とする。気がつけば、トレーをものすごい力で握り締めている自分がいて、今は目を開けたまま夢でも見たような気分だった。
「少し寝る。何かあったら起こして。電話は急ぎじゃなければ折り返しで」
 社長はコーヒーカップをテーブルの上に戻すと、またソファに横たわった。足が長いのでソファからはみ出している。靴下が水玉模様でかわいい。彼の冷たい印象とかけ離れた模様だ。
 飲み終えたコーヒーカップをトレーにのせて退室しようと立ち上がったとき、目を閉じた社長の姿が視界に入る。綺麗に揃った睫毛と穏やかな表情に胸がドキッとした。でも私は何もなかったように、静かに社長室を出た。


 社長の笑顔を見るという稀な体験はこの日以来しばらくなくて、私もあれは本当に夢だったのかもしれないと思い始めていた。だけど私の心の中には社長の笑った顔が焼きついていて、また見ることができないかな、と毎日密かに期待していたりする。
 もしかしたら私や社員のみんなが思い描いている社長と、本当の社長は少し違うのかもしれない。だって「社長が水玉模様のちょっとオシャレな靴下を履いていた」と言っても、同僚は全く信じてくれないのだ。それどころか逆に私が社長に変な関係を強要されているのではないかと心配されたりする。「社長はそんな人じゃないよ」とむきになったら、同僚たちは一斉に怪訝な顔をして、私の反応に引いたようだった。
 でもみんなも社長のそばにいたら、きっと少しは今までの認識を改めると思う。彼は何も理由なく冷酷な判断を下すわけじゃない。両者がもう一歩ずつでも歩み寄ってくれれば会社の雰囲気は変わるのに――。
 何かいい方法がないかと考えてみるけど、やはり私一人の力ではどうにもならないことだった。