この作品は2011/03/11東日本大震災チャリティ電子書籍プロジェクト『One for All , All for One ……and We are the One〜オンライン作家たちによるアンソロジー〜』(VOL.2)に掲載されていた作品の再掲載となります。



 ある日、社長と同年代の男性が社長室を訪れた。三十代前半の男性の来客は珍しい。しかもスーツ以外の服装でやって来る人はほとんどいない。
「おっ! かーわいい子じゃない」
 そんな挨拶をされたのも初めてだった。私は困惑しながらも、他の来客と同じように応対するよう心がける。社長はその男性の背中を押して、社長室のドアを素早く閉めた。
 コーヒーを運んでいくと、珍客の男性が私の顔を興味津々で見つめてきた。
「ねぇねぇ、彼女に俺を紹介してよ」
 社長の目が普段より一層鋭くなった気がする。だけど、向かい側の男性は全く気にする様子はない。大きなため息の後、社長の投げやりな声がした。
「この男は俺の同い年の幼馴染。小学校から大学まで一緒だった。今は建築士をしているらしい」
 建築士と聞いて、一瞬頭の中に「?」が浮かんだ。この男性の軟派な感じから、どんな仕事をしているのか想像できなかったのだ。でも、社長の幼馴染という点には納得したので「そうですか」とにこやかに答えた。
「いや、幼稚園から一緒だよ。コイツの初恋の女の子も知ってる。確か……」
「お前、そういうどうでもいいことは言うな」
「ま、そうだな。それより彼女に俺がどんな仕事をしてるか説明してあげてよ」
「説明したいなら自分でしろ」
 私は二人のやり取りを笑顔で聞いていた。社長が誰かと打ち解けて話している姿は珍しい。本当に幼馴染なんだ、と思った。
「自分で自分の仕事を説明するのは恥ずかしいだろ。お前だって自分で『私が社長です』って言いたくないだろうが」
 幼馴染の言葉に、社長は腕組みをし、上目遣いで凄んで見せた。私の背筋にひやりとしたものが滑り込む。息を潜めて成り行きを見守っていると、意外なことに突然社長が私の顔を見た。
「君はミュージカルなんかを上演している劇団が好きだったな」
「はい」
 急に劇団の話題になって、頭の中にまた「?」マークが出る。社長は向かい側に座る幼馴染を顎で差した。
「コイツの最近の仕事はその専用劇場の設計だ」
 私は社長の幼馴染の顔を改めてよく見る。
「すごい方なんですね」
 すると相手は立ち上がってシャツの胸ポケットから名刺入れを取り出し、名刺を一枚、私の前にうやうやしく差し出した。
「古東(ことう)と申します。以後、お見知りおきを」
「あ、えっと、ありがとうございます。私は後藤と申します。宜しくお願いいたします」
 受け取った名刺に目を落とす。古東さんはいきなり感激した様子で「え、後藤さん!?」と甲高い声を出した。
「俺、コトウでしょ? 彼女がゴトウさん。うわぁ、似てるね!」
「だからどうした」
 至って冷静な声が社長室の空気を一度下げた。古東さんは眉をひそめて、それからおとなしく元の場所に腰を下ろす。
「光輝(こうき)はホントにつまんない男だな。後藤さんもそう思うだろ?」
 同意を求められた私は何と返事をしたらよいのかわからず、中途半端に口を開いたまま固まっていた。社長を見ると怒ったような顔でコーヒーを飲んでいる。
 私は勇気を出して言った。
「社長は一般の笑いのレベルでは満足しないのではないでしょうか?」
「えっ?」
 思惑通り古東さんが戸惑ったような声を出す。
 社長は私の顔をチラッと見た。余計なことを言うな、という表情だ。でも私はそんなプレッシャーには負けない。
「おそらく非常に高度な笑いを、常に求めているのだと思います」
「……っぶーーー!」
 古東さんが噴き出しながら背もたれにそっくり返った。
「『常に求めている』のか! 後藤さんに一本取られたな」
 彼の反応に満足していると、反対側から「フッ」と笑い声が聞こえた。おそるおそる視線を社長へ移動する。社長は口に手を当て、背を丸めて笑っていた。
「コイツを笑わせるとは、やるなぁ。光輝、こんないい子は滅多にいないぞ。大事にしろよ」
 私の頬は急にピキッと引き攣った。古東さんは社員として私を大事にしろと言ってくれたのだ。他意はないはず。でも私の心臓はドキドキとうるさくなっていた。
「お前に言われなくても、彼女の資質は俺が一番理解している」
 ドン、と心臓を打ち抜かれたような衝撃を感じ、息が止まる。
 古東さんが「はいはい」と茶化すように受け流した。そこに電話の音が聞こえてきた。私は本来の仕事を思い出し、すぐに礼をして社長室を後にする。電話の応対をしながら、もう少しだけ社長と古東さんの話を聞いていたかったな、と思った。


 それから一週間が経った。また特に変化のない日常が繰り返されていて、社長は能面を貼りつけたような顔で私のデスクの前を素通りする。それは当然と言えば当然のことだけど、私は何か物足りないような気持ちで社長の背中を見送った。
 この日も頭を悩ませるような事件は起こらず、着々と定時が近づいてきていた。社長は外出中だったので、仕事をキリのいいところで終わらせ、デスクを片付ける。その最中に一階の受付が来客を伝えてきた。
「コトウ様、ですか。漢字は『古い』に『東』でしょうか?」
「そうです」
 私の脳裏に社長の陽気な幼馴染の顔が浮かんだ。
「社長は外出中ですが、ご用件は?」
「それが、社長に頼まれた品をお持ちいただいたとのことです。お通しいたしますので宜しくお願いいたします」
 受付の女性社員は一方的に用件を伝えて電話を切る。彼女は私の苦手なタイプだ。ピンと伸びた背筋と、ツンと澄ました表情が印象的な綺麗な人だ。私が社長秘書に異動になった当時、彼女は率先して陰口を叩いていたらしい。でも直接聞いたわけではないので、私自身は彼女に対しての評価を保留したままでいる。私自身は彼女に何の恨みもないからだ。
 それでも何となくもやもやした気持ちで受話器を置くと、エレベーターが動き出す音がした。あの古東さんがわざわざやって来るとはどんな用件だろう、と好奇心がむくむくと顔を出す。
 エレベーターが開くと、先日とは違って黒いスーツに身を包んだ古東さんが現れた。スーツ姿だが、一般の会社員とは何かがかけ離れている。たぶんスーツのデザインが既にビジネス用ではないし、シャツもグレーの光沢のある生地で、ネクタイは一般的なものより少し細い。おそらくどれも高級品のはずなのに、古東さんが着るとどこか浮世離れして見えるから不思議だ。
「やぁ、後藤さん! 悪いねぇ、急に来ちゃって」
 私は笑顔で挨拶をした。
「それでご用件は?」
 時計はもう定時をまわった。この後、急ぐ用があるわけではないが、できれば早く帰りたい。
 古東さんは私のデスクに手をついて、私の顔に視線の高さを合わせた。
「後藤さんに会いに来たんだ。どうしても君に会いたくなって……」
 私はギョッとした。後ろに一歩下がる。
 すると古東さんは急に「あはははは!」とのけぞって笑い始めた。
「嘘。冗談だよ」
「そ、そうですよね。あはは……」
 本当にたちの悪い冗談だ。ドキドキする胸を古東さんに悟られないように、私はできる限り平静を装った。
 古東さんは上着の内ポケットに手を突っ込み、古東設計事務所と社名の入った封筒を私のデスクの上に置く。
「これを光輝に渡してほしいんだ」
「はい。お預かりいたします」
「それと……ちょっと言いにくいんだけど」
 片手を後頭部に当てて、伏し目がちにしていたかと思うと、急に私の目を覗き込んできた。そして今度はズボンのポケットから何かを取り出して私に差し出す。古東さんの手に握られていたのはチケットだった。
「一緒に行ってくれないかな?」
「……えっ!?」
「この劇団、好きだって言ってたよね」
 私はおずおずと古東さんの手からチケットを受け取った。まず大好きな劇団の名前が目に飛び込んできて、小さく息を呑む。
 この劇団を初めて観たのは小学生の頃だった。当時、この劇団のミュージカルが全国で大流行し、私の住むこの街にも専用劇場があった。そこへ母に連れられて観に行ったのが最初で、そして最後だ。専用劇場は数年後、周辺地区の開発により閉鎖し取り壊されている。でもあの素晴らしい体験は十数年経った今も忘れることができない。小学生だった私は、生のミュージカルの迫力に最初は圧倒され、次第に興奮し、最後には感動して涙を流していた。その後もいくつかの演劇を観る機会があったけれども、これほどまでに心を突き動かされる舞台はなかった。
 あのとき私の中に巻き起こった大きな感動が一瞬脳裏によみがえる。
「大好きです!」
 思わず言葉に熱がこもった。それから「あっ」と思う。慌てて言い直した。
「この劇団が大好きなんです」
 向かい側で古東さんが噴き出す。
「ホント後藤さんって面白いなぁ。やっぱり君を誘うことにしてよかったよ」
「いえ、でも私、まだ行くとは言ってな……」
 言葉の途中で古東さんが私の手からチケットを奪い取った。
「嫌ならいいんだ。でもこれさ、招待席なんだよね。こんな席、なかなか取れないよ?」
 私の喉がゴクリと鳴った。古東さんの指の間でひらひらと揺れるチケットに目が釘付けになる。
「どうなの? 行きたい? 行きたくない?」
 畳み掛けるように返答を迫られた。私は一呼吸してから口を開く。
「行きたいです」
 古東さんはにっこりとして、私のデスク上にチケットを置いた。
「こういう場所に男が一人で行くのもちょっとな、と思っていたから嬉しいよ。それじゃあ、当日は現地集合で」
 待ち合わせなどの面倒なことがないとわかって、私は心の底から嬉しくなった。
 古東さんが立ち去った後、思い切り表情を緩めてチケットを眺める。実は友達と行きたいと思っていたのに、誘ってみたら「あまり興味ない」とすげなく断られてしまったのだ。一人で行くのは少し勇気がいるな、と諦めかけていたところに、この話が舞い込んできて、こんなラッキーなことがあるだろうかと思う。しかも招待席だ。お金もかからない上に特等席に座れるなんて夢のようで、気分はふわふわと高揚していく。
 自分の鞄にチケットを大事にしまい、それから社長宛の封筒を社長のデスクへと運んだ。だけどデスクは郵便物や書類などが山になっていたので、結局私のデスクの施錠できる引き出しに預かっておくことにした。