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第三部 28

 折戸とのミーティングを終え、自席に戻った陸は、離席している間に舞い込んだ仕事をひとつずつ片づけ、終業時刻になるとすばやく机の上を整頓し、部署を後にした。残業はどうしても必要な場合に限りおこなうことにして、基本的には定時で退勤するようにしている。

 これは沙希の体調を慮って、陸が自発的に決めたことだ。出産後もしばらくはこのスタイルで仕事をし、できるだけ早く帰宅するつもりだ。その点、役員という役職は勤務時間も多少の融通が利くので、今の陸にはありがたかった。

 世の中にはそれを逆手にとって、報酬に見合う仕事をしない者もいるのだろうが、陸はそういう考えかたを嫌悪している。だから時間内に密度の濃い仕事をするよう心がけていた。

「もう帰るのか?」

 階段をおりていると、階下に潤也が現れた。

「なにか俺に用?」

「駐車場に客が来ているぞ」

「客?」

 潤也は1段飛ばしで陸のところまでやってきて、涼しい顔で頷く。

「会社に戻ったら、裏門の守衛と押し問答をしている男がいた。見覚えのある男だと思ったら、ずいぶん髪を短くしたんだな、アイツ」

「もしかして、トオル?」

「ああ、そんな名前だったな」

 陸は潤也の脇をすり抜け、階下へ急いだ。トオルがK社の敷地内にいると思うだけで、陸の足は小走りになる。わざわざやって来たということは、トオルにはなにか目的があるのだろう。それがなんなのか見当もつかないから、陸は恐怖に似た感情を覚えてしまうのだ。

 駐車場を見渡せる場所まで来ると、陸は歩を緩める。長身のトオルが、品定めするように車の間をうろついていた。

「トオル」

 陸の声で振り向いたトオルは、薄暗がりの中でも目立つ青白い顔に妖艶な笑みを浮かべた。

「やあ、陸。元気そうだな」

「なにしに来た?」

「そんなに警戒するなよ」

 トオルも陸のほうへ近づいてきた。陸は潤也のスポーツカーの前で立ち止まる。トオルの透き通るような白い肌は相変わらずなのだが、近くで見ると頬骨が目立つほどに肉が落ちていた。

「お前、痩せた?」

 陸の発した言葉に、トオルは珍しく苦笑した。

「そうかもな。別にダイエットしていたわけじゃないけど」

 思わず陸は眉根に皺を寄せ、トオルを注意深く観察する。どこか近寄りがたい尖った雰囲気は確かにあるものの、それがところどころ綻んでいるような気がしてならない。

「女と別れたから、なんて言うなよ。お前はそんなヤワな男じゃねぇし」

 トオルはフッと笑って、陸に横顔を見せる。

「……だな。俺自身が引きずるような付き合いかたは、したことがない」

「つーか、お前は本気で誰かを好きになったこと、あるのかよ?」

 遠くを見つめたままトオルがクスッと笑った。

「逆に聞きたいな。本気ってなんだ? 俺は遊びだろうと本気だろうと、どうでもいい。そういうことを考えて付き合っていたら疲れるだろ?」

「いや、普通は疲れる前に気がつくはず。ああ、お前、鈍感なのか」

 陸が挑発するように言うと、トオルは笑みを消して陸を見た。

「麻痺している、と言えよ。でも俺だけじゃない。陸もそうだろ? なんだって気がつかないふりをしているほうが楽だから、さ」

「それは……」

 一瞬返答に詰まる。陸にも、自分の本音に気がつかないふりをしていた時期があった。だが、あれはそのほうが楽だったから――なのか?

 トオルが陸の心を見透かすように艶やかな笑みを浮かべ、そして意外なことを口にした。

「今日は別れを言いにきたんだ。俺、向こうに帰るわ」

「向こう……って実家か?」

「実家に戻るわけじゃないが、まぁ故郷に、ね。それじゃあ、元気でな」

 それだけひと息に言うと、トオルは陸に背を向けた。

 夕闇に溶けそうな暗いその背中を黙って見送るつもりだったが、別れを惜しむ気持ちがそれを阻んだわけではないと、後になってこのときを思い返すたび陸は思う。

「……最後にひとつ訊きたい」

 トオルの足が止まる。陸はぎゅっと唇を噛んでから、思い切って口を開いた。

「本当は気がついていたんだろ? 真里亜から娘の名前が瑠璃亜だと聞いたときに、お前は気がついたはずだ」

 肩越しに振り返ったトオルは、切れ味のよいナイフのような鋭い視線を陸に向けた。

「……なにか、俺が気にしなきゃいけないことがあるか?」

「あの子の名前は、父親から1文字もらってつけた名前だろ」

 薄暗くなった中でも、トオルの目が大きく見開かれたのがはっきりとわかる。



「なぁ、透瑠(とおる)」



「陸は案外おせっかいだな。自分のことで精一杯だった昔の陸に教えてやりたいね」 

 皮肉っぽく言うと、トオルはまた歩き始めた。

 陸は1歩進み出て、こりずに声をかける。



「お前の娘だろ! どうするんだ」

「だから、連れていくんだよ」



 背を向けたまま、透瑠が面倒くさそうに言った。

「真里亜は?」

「子どもに母親がいなかったら困るだろう。あれでもまだ授乳しているんだ。俺は乳が出ないんでね」

「マジかよ」

「誰かのおせっかいでこうなったんだ。満足だろ?」

 最後に手を挙げると、透瑠は駆け足で駐車場を出ていった。

 残された陸はしばらくその場に茫然と突っ立っていたが、透瑠の姿が完全に見えなくなったころ、ようやく本来の目的を思い出し、急いで自分の車に乗り込んだ。


     


「え? それってもしかしてハッピーエンド?」

 陸は帰宅するなり沙希を寝室に呼び、退勤後のできごとを興奮気味に話した。DNA鑑定の結果を知らされていたとはいえ、沙希からすると、あの透瑠がそんな決断をしたという事実をにわかには信じがたい。

「まぁ、アイツらのことだし、いつまで続くかわからないけどな」

「そんなこと言っちゃだめだよ」

「沙希だって本当は同じこと思ったはず」

「いいや、私はあのふたり、けっこうお似合いだと思う」

「お似合いか。似たもの同士って感じだな」

 スーツを脱ぎ捨てた陸はシャツのボタンをひとつはずし、ベッドに腰かけた。沙希はそのスーツをハンガーにかけて、陸の隣に座る。

「なぁ」

「ん?」

「俺たちはお似合いなのか? 似たもの同士……じゃねぇよな」

 沙希は「うーん」と唸った。

「似ているところもあるんじゃないかな。少なくとも価値観は似ていないと、一緒にいるのがつらくならない?」

「まぁ、そうだな」と返事をしてから、陸はくすくすと笑い出した。沙希が不思議そうに首をかしげると、陸はニヤニヤしたまま「いや……」と続ける。

「俺はいつも違うところばかり考えていた。沙希のやることに『俺ならそうしない』って……。でも、そっか。似ているところが多いぶん、違うところが気になるんだな」

「そうかもしれないね。私はあまり考えたことないけど」

「考えてないのかよ」

 陸が非難するような視線をよこす。

「まぁ私の場合、陸のすることが理解できなくても『陸はそういう人だな』ってなんか納得しちゃうんだよね」

「それさ、納得って言わなくね?」

「えっと、じゃあ……あきらめ?」

「あきらめるな!」

 沙希の髪の毛は、陸の手でくしゃくしゃとかき回された。沙希は空いている陸の胸に飛び込む。深呼吸をすると陸の匂いがした。

「よかった」

「なにが?」

 優しい声が頭上に降ってくる。ふと、胸に熱いものがこみあげてきた。

「だってね、私は今でも『これは夢なんじゃないか』って、ときどき不安になるの。朝、目が覚めたら、また私はひとりで……」

「大丈夫。お前はもうひとりじゃないよ」

 ぽんぽん、と陸の手が沙希の背中を軽くたたいた。たったそれだけのことで、沙希の心は深く安堵する。

「どこにもいかないでね」

「俺はずっとお前のそばにいる。『もう、嫌だ』って言われても、ずっと……」

「嫌なんて言わないよ」

「わかってる」

 背中に回された腕にぎゅっと力が込められて、沙希は陸の広い胸にぴったりとくっついた。目を閉じると、陸の心臓の音が聞こえてくる。それに呼応するように、大きく揺れ動いていた心の振り子が、ゆったりとしたリズムに落ち着く。

 こうして自分を深く理解してくれる人と出会い、身も心も結ばれる喜びを知り、その確かな愛の証を胎内に宿したことは、これ以上ないほど幸せなできごとだから、幸せすぎて夢を見ているようなふわふわした気持ちになってしまうのだと思う。

 陸の温かい腕の中で沙希は、その幸せをかみしめながら、新しい命の未来に思いを馳せた。


     


 本を読むのが好きな沙希にとって、書店はオアシスである。図書館の読み古された本も嫌いではないが、新しい本の、まだ誰もめくっていないページを開くことに至福を感じるのだ。ほのかなインクの匂いをかぎとったら、思わず本の中に顔を埋め、鼻腔を本の香りでいっぱいにする。これは幼い時分からのくせだった。

 そのオアシスに来たものの、今日はこれまでほとんどなじみのない雑誌を手にしていた。白いドレスに身を包んだ女性が美しい花束を抱えている表紙には「ウエディング」と「ブライダル」の文字が印刷されている。

 挙式の準備は、披露宴のような綿密な打ち合わせが不要なので、沙希としては気楽なのだが、ドレスとブーケは沙希でなければ決められない。ドレスは先日決めたので、今度はブーケをどうするか、というのが沙希の課題になっていた。

(目移りしちゃうな……)

 挙式では白を基調にしたブーケを持つのがセオリーらしい。

 しかしブーケの形もいくつかある上、花の種類と緑の配合具合で印象はがらりと変わる。見れば見るほどどれかひとつに絞ることが難しくなっていく気がした。

「すげぇな。花だらけ」

 背後から雑誌を覗き込んできたのは陸だった。

「どうしよう。すごく迷う」

「俺にはどれも同じに見える」

 沙希が口を尖らせて睨むと、陸は慌てて言いなおした。

「いや、どれを選んでも沙希に似合うって言いたかったんだ」

「ふーん」

「どれだけ花が美しくても、世界で1番美しい沙希の前では、ただの花でしかないってこと」

 そう言うと陸は沙希を後ろから包み込むように抱いた。人目もある書店の、しかも女性向けの雑誌売り場で、いくら夫婦であるとはいえ陸の大胆すぎるふるまいに沙希は焦る。

「こんなところでダメでしょ。私、もうレジに行く」

「じゃあ早く帰ろう」

 最近、陸のスキンシップが頻繁になってきている、と感じていた。それは沙希の腹部が膨らんできたことと関係があるのかもしれない。父親になる喜びの表現なのか、胎児への嫉妬なのか、あるいはその両方という可能性もある。

(そりゃ私はうれしいけど、昔みたいに若いわけじゃないし、ちょっと恥ずかしいよ)

 レジへ向かう間も腰に回した手を離そうとはしない陸に、沙希は心の中で呼びかけた。



 陸は運転席に座ると、沙希が手にしている買い物袋をすばやく受け取り、助手席のドアが閉まるまで沙希を心配そうに見つめていた。

 陸の帰宅時間に合わせて本屋へ出向いたので、帰りは屋敷の玄関先まで歩かずにすむ。夕方以降は腹部が張ることが多いため、外出した場合はこうして陸と落ち合うのがなにより安心だ。沙希は助手席のシートベルトを着用し、足をのばしてリラックスした。

「あのさ、家に帰る前に見せたいものがあるんだけど」

 なかなかエンジンをかけないのはなぜだろう、と沙希が運転席を見ると、陸は心なしか緊張した面持ちで後部座席のほうへ手を伸ばした。

「なぁに?」

「もうネットでもニュースになっているだろうな」

 そう言いながら、沙希へ新聞を差し出した。一般紙の夕刊くらいの厚みしかなく、駅の売店やコンビニエンスストアでは見かけない新聞だが、沙希には見覚えがある。業界新聞と呼ばれる専門紙だ。

 1面トップ記事の左横にK社の社名をみつけた沙希は「あっ」と声を上げる。

「これ、陸が企画した……」

「そうそう」

「ん? 音の研究施設……を作ったの?」

「うん。いろいろ考えているうちに、記録媒体や録音機器の品質向上も大事だけど、別のことが気になってきてさ。沙希は『いい音』ってなにかわかる?」

「わからない。ていうかそれは、人それぞれ感じかたが違うから『これがいい音』という定義は難しいんじゃない?」

 沙希が新聞から顔を上げると、陸は感心した表情で「おっしゃるとおりです」と言った。それを見た途端、脳裏に自分の言葉への反論が浮かぶ。

「あ、でも確かに、多くの人が『これはいい』と評価するものは、ある水準を満たしていたりするよね。ということは、『いい音』を研究するのは可能なんだ」

 陸がニヤリとした。

「それを主観の問題と片づけてもいいけど、結局企業っていうのは利益を出さないといけないから、できるだけコストを抑えて作るじゃん。それに慣らされているから、データを多少圧縮しても、俺たちの耳にはその違いがわからない」

「そう……なの?」

「ま、人間の耳に聴こえない音域をカットしたり圧縮すれば、データが少なくて済むだろ。今はパソコンで簡単にデータを圧縮できるし、たくさんの曲を持ち運べるという利点もある」

 そこまで話すと、陸は前を向いて車のエンジンをかけた。沙希はもう一度新聞に視線を戻す。

「それで陸は、どっちの方向に進もうとしているの? なんとなく『いい音』だと感じる最低ラインを探すの? それとも……」

 車は駐車場を出て、幹線道路へ向かう。陸は左手を伸ばしてカーステレオのボリュームを上げた。沙希は思わず新聞から目を離し、その形のよい指にみとれる。

「沙希も知っていると思うけど、どんな会社でも金にならない企画は通らない。でもなにかを始めるときには、投資も必要だろ?」

「なにを始めるつもり?」

 その投資が研究施設を作ることなのだろうか、と首をひねった沙希に、陸は一瞬だけ優しい視線を投げかけた。

「音楽を愛する人を育てること、かな」

 ああ、と思う。

(さっきのは愚問だったな。私だって陸が音に妥協するようになったら、がっかりするもの)

 しかし陸がどんなことを考えて企画を練っているのか、聞く機会もなかった。陸のもとを飛び出したあのとき以来、すっかりK社から離れてしまっていたと思い知らされる。

 沙希はまた新聞の見出しを眺める。S社とK社が合同で子会社を設立し、レコーディングスタジオとリハーサルスタジオ、小ホールの管理・運営、そして研究をおこなうらしい。S社との話し合いがうまくまとまったことを、自分のことのように嬉しく思った。

「へぇ、スタジオを経営するの?」

「まぁ、表向きはそういうことだな」

「裏の顔があるんだ」

 茶化すように言うと、陸も笑う。

「そりゃ、下心あっての経営でしょ。俺らの目的は製品開発や品質向上だからね」

「そうだよね。でも、これ、すごいね。『国内最大規模』って書いてあるよ」

「どうせやるならデカいほうがいいだろ?」

 陸が不敵な笑みを浮かべた。沙希はそれを見て、噴き出してしまう。

「その言いかた、なんかヤダ」

「沙希はすぐエッチな話にもっていくから心配だな」

「心配ってどういうこと?」

「お腹の子がエッチになっちゃう。これはもう間違いない」

「それは絶対、陸のせいでしょ!」

 楽しそうな笑い声とともに陸の手が伸びてきて、沙希の腹部を撫でた。それまで眠っていたのか静かだった胎内が、手のぬくもりに呼応するように動き始めたので、沙希は思わず声を上げた。

「あっ、お腹の中で怒ってる」

「え?」

「『ママをいじめちゃダメ!』って」

「違うだろ。これは『パパ大好き』の表現だから」

 陸は手を動かすのをやめ、胎動を手のひらで感じ取ろうとしている。

(ねぇ、君のパパもすっごくがんばっているよ)

 沙希が祈るような想いで胎動を待ち望んでいると、それに応えるように特大のキックが繰り出された。

「お! 将来はサッカー選手か?」

 前を見たまま、陸が上機嫌で言う。

 胎内にふたりの声が届いていて、それをまだ見ぬわが子が喜んでいるのなら、たわいない幸せな会話を途切れることのないよう毎日積み重ねていこうと、助手席の沙希はひとり静かにほほえんだ。


     


 夜はなるべく外出しないようにしている陸だが、今夜の約束だけは断ることができず、仕方なくタクシーで出かけた。おそらく酒を勧められるだろうと思ってのことだ。だが、酔うほど飲むつもりはない。

 相手から指定された店に到着し、店員の質問に2回「はい」と答えると、1番奥の座敷へ案内された。約束の時間前だったが、先客のふたりはすでに酒を酌み交わしている。陸は当然のことだが、祖父の隣に座った。

「君ももうすぐ父親になるのだから、親の子を想う気持ちが少しはわかるようになっただろう」

 祖父の向かい側には堂本真里亜の父であり、D自動車の社長が上着を脱いだワイシャツ姿で座椅子に悠然と背中を預けている。

 祖父は黙ったまま盃を口へ運ぶ。

「そうですね。自分の子が特別だということはよくわかります」

 これは嫌味でもなんでもなく、陸の素直な実感だ。

 体内に子を宿している沙希とは違い、陸は今のところ沙希の腹部に手を当てて声をかけるくらいしかできることはないのだが、それでも目に見えないわが子への愛着は日に日に増していく。陸自身、この感情がどこからやってくるものなのか不思議で仕方ない。

「たとえば、幸せが上・中・下という3段階にわかれているとしたら、誰だって子には上級の幸せを与えたいと思うだろう。私は間違っているかな?」

 堂本は陸をまっすぐに見つめている。その暑苦しい視線に困惑しながら、陸は再度彼の言葉を肯定した。

「正しいと思います」

「そうか。君がそう言ってくれるのは心強い」

 タイミングを見計らったように陸のビールが運ばれてきた。それに口をつけたところで、祖父が「前提が間違っている」と言い出した。

 堂本は盃に手をかけたまま、上目遣いで祖父へと視線を定めた。祖父のほうは普段よりもいっそう不機嫌な表情で卓に並ぶ皿を眺めている。

「だいたい親が子になにかを与えてやれると思っていること自体が勘違いだ。親が子に与えてやれるものは命くらいなもの。もちろん『与えている』と錯覚できてしまうものが、この世に溢れているから、勘違いしたまま有頂天になる輩を責める気はないがね」

 陸の背中をひやりとした感覚が滑り落ちた。いくらなんでも言い過ぎだと思うが、祖父を諌める言葉も浮かばない。

 堂本が盃をあおる。

「なるほど。娘を持つもの同士、もっとわかりあえると思いましたが、そういえば、あなたは失敗したんでしたね」

 失敗という言葉で陸は母親の顔を思い出し、祖父の様子を横目で窺った。これは挑発だ。祖父がどうするのか興味深い。

「なにを言っているのか、わからんな」

 祖父の感情のこもらぬ声が、室内の空気を凍りつかせた。 

 堂本は切り返すことができず、口の中で舌をあちこちに移動させている。これほどまずい飯は久しぶりだ、と思いながら陸は料理に箸を伸ばした。

 奇妙な沈黙が続いた。目の前の皿が空になってしまったので、陸は腹を決めて口を開く。

「それで、用件は以上ですか?」

 向かい側からねっとりとした視線が、陸の心を絡め取るように張りついてきた。皮肉のひとつでも言ってやろうと意気込んでいたのに、そんな余裕は一瞬で消えた。

 

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1st:2013/05/24
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