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第三部 29

 沙希がその箱を見つけたのは偶然だった。

 挙式の会場より、エントランスに陸と沙希それぞれの幼いころの写真を飾らないか、という提案があったので、沙希は陸とふたりで暮らしていたマンションへ自らの写真を探しに来た。陸が祖父とともにD自動車社長との会食へ出かけるというので、陸のタクシーに同乗し、マンションまで送ってもらったのだ。帰りも陸が迎えに来てくれる。

 トオルや元カレの影が見え隠れしていたころは、ひとりで立ち寄る気にはなれなかったが、今はその心配もなくなった。当時は恐怖しか感じなかったのに、その恐怖が消えた後は、そんな理由で自宅への出入りが不自由になるなんて理不尽だと憤りを覚える。

(彼らのせいで私の自由が奪われていたんだよね。よく考えたらそんなのおかしい)

 しかし彼らの纏う狂気は、沙希の思考をひどく混乱させた。暴力の脅威の前では、思考など無力で無意味になってしまう。萎縮し、混乱した沙希は、自分自身すらコントロールできなくなった。

(それもやっと終わったんだね)

 念のため玄関のドアに鍵をかけ、チェーンを手に取る。施錠後、ドアチェーンをつけるのがくせになっていたから、無意識のうちにつかんでいたのだ。

(これはもう、しなくてもいいか)

 手放したチェーンがジャラジャラと音を立てる。それが沙希には小気味よい音に聴こえた。

 ふたりが一緒に暮らし始めたこのマンションには、特別な思い入れがある。だから、できるならこの場所に戻りたいという気持ちは、陸より強いかもしれない。

 部屋は出たときのまま、まるで時を止めていたかのようにひっそりとしていて、静かに沙希を迎え入れた。カーテンを閉め、電灯をつける。ひとりで探し物をするのは心細いので、テレビのスイッチに手を伸ばした。

 シンとしていた部屋に突然コマーシャルの軽快な音楽が流れだす。

 沙希はリビングルームのドアを開け放ったまま、自室として使っていた部屋へ移動した。ひとり暮らしの部屋からここへ移るときに、写真のアルバムなど、普段使わないものはダンボール箱に詰め込んで、クローゼットの奥へしまっておいたはずだ。

 クローゼットを開けると、ダンボール箱が4つ見えた。2段に積み重なっていて、引っ越し業者のロゴ入りの箱が沙希の荷物だった。

(あれ、こんな箱あったかな?)

 写真が入っていると見当をつけたダンボール箱をクローゼットから運び出し、沙希はなにげなくその下敷きになっていた箱を見た。箱のサイズが少し違っていて、側面には洋風のマークが印刷されている。どうやらそれは元々ワインが入っていた箱らしい。

「私の荷物じゃないよね?」

 誰もいないのに、沙希は思わずそう口に出して言った。

 重い荷物を収納してくれたのは陸だったから、沙希はクローゼットの奥に陸のダンボール箱が残されているとは知らなかったのだ。

 そのダンボール箱には封がされていなかった。ふたの隙間からノートが見える。沙希には見覚えがないので、陸が使っていたノートなのだろう。

 沙希は軽い気持ちでその箱に手を伸ばした。もし、見てはいけないものであれば、すぐにふたをしよう、と自分に言い聞かせ、一番上のノートをパラパラとめくる。大学の講義の板書が、陸の柔らかい字でびっしり記されていた。

(うわぁ、ちゃんと勉強していたんだね)

 家庭教師をしていたころの陸からは想像もつかないが、素質があったことは沙希も認めるところだ。

 ノートを見終えると、また箱の中を覗き込む。教科書として使われていた書籍や、配られたプリントをとりあえず詰め込んだらしい。その隙間に不自然な封筒が刺さっていた。

(あれ、この封筒……K社のものだ)

 沙希は封筒に手を伸ばす。K社の封筒を陸が持っていてもおかしくはない。彼もK社の入社試験を受けて就職したのだ。

(まぁ、試験は形だけかもしれないけどね)

 澄んだ青空を連想させる水色の封筒から中身を取り出した。予想通り、入っていたのは入社案内のパンフレットだ。沙希はその表紙に印字された年度を見て、息を呑む。

 このパンフレットに見覚えがあった。

 おそるおそる最初のページを開く。ドクンドクンと鳴る心臓。ページを繰る指が震えた。

 そして残った最後の1枚をめくる。



(……これを、見たの……)



 ぎこちない笑みを浮かべる数年前の沙希が、そこにいた。

 入社して半年後に書いたあどけない文面を目でなぞる。どこにでもありそうな新入社員の作文だ。読みながら、詩穂子の推理が的中したことに衝撃を受けていた。

 これを見て、陸はなにを想ったのだろう。

 パンフレットをぼんやり眺めながら、再会した初日のことを思い返す。

(あのときの陸が、私の就職先を「実は知っていたんだ」なんて言うわけないか。でも、これを見てK社に決めた……の?)

 まさかそんなことはないはず――と、うぬぼれそうになる自分にブレーキをかける。陸がK社に入社することは、きっと沙希の存在とは無関係に、最初から決まっていたのだ。大手企業の会長と社長が、祖父と実父なのだから、陸の入社は誰が考えても必然であろう。

 しかし陸の性格からすれば、祖父と実父の下に喜んで入るはずがない、と沙希は苦々しく思う。バンド活動をやめろと迫った祖父と、自分を捨てた父親に「よろしくお願いします」と頭を下げることは、陸にとって屈辱以外のなんでもない。

 それなのに陸はK社を選んだ。

(きっと、私には想像もつかないような覚悟をして、ここへ来たんだね)

 パンフレットを閉じ、丁寧に封筒へ戻す。その封筒を元通りに片づけると、沙希の持ち物を詰めたダンボール箱を重ね、クローゼットの奥へしまいこんだ。


     


 なにを言い出すのかとかまえていたが、D自動車社長の堂本は陸を見つめたまましばらく黙っていた。祖父も口を開く気配はない。

 なんの収穫もない会食に苛立ちを感じた陸は、ほとんど空になっていたグラスにとどめを刺し、ドンと音を立ててテーブルに置いた。

「帰ります」

「せっかく来たのだから、なにか手土産を持って帰ろうとは思わないか?」

 腰を浮かせた陸に、堂本がようやく話しかけてきた。

「なにもいりません」

「困っているのだろう? ウチは明日から君のところの車載用機器すべてを流通させないようにすることもできる」

「僕のしたことが気に入らないなら、はっきりそう言えばいいじゃないですか。これ以上くだらない脅しを続けるなら、警察に相談します」

 堂本を睨みつけながら、陸は立ち上がる。もう一度、腰を落ち着ける気分にはどうしてもなれない。

 祖父が陸を見上げた。

「陸、この男は手土産を用意してきたと言っているんだ。もらってやれ」

「え?」

 祖父の呆れたような目つきは、陸に対してなのか、それとも堂本に対してなのか、判断がつきかね、陸は一瞬ぽかんとなった。

 堂本は座椅子の背もたれに反り返り、陸から目をそらす。

「気に入らんよ。君は私の気に障ることばかりやってくれる」

「だったら無視すればいい」

「君のことは憎いが、それ以上に魅力があった」

「え?」

 陸は後ずさりしたい気持ちをこらえ、怪訝な顔で堂本を見返した。

「君も潤也くんも、うらやむほどの若さに加え、私に反発するだけの逞しさがある。私の周りにも若い者はたくさんいるが、残念なことにそこまで骨のある人間はいない」

 堂本の声から威厳のようなものが失われ、最後には小さなため息が漏れた。

 陸を高く評価していたからこそ、わけのわからない言いがかりをつけ、沙希をも巻き込み、陸を自らの手のうちに取り込もうとしたと言うのだろうか。ばかげた話だと陸は呆れる。

「この先、僕と妻に一切かかわらないと約束してくれるなら、他にはなにもいりません」

 会社のほうも、D自動車以外で協力体制を築ける企業を探していけばいい。これ以上の面倒はごめんだ、というのが陸の本音だった。

 しかし堂本は首を横に振ってみせた。

「私はこれからも君と組んでやってみたいと思っている」

「僕は……」

 堂本を見下ろしたまま、陸は大きく息を吸う。

「邪魔な人間や思いどおりにならない人間を、罠にかけて引きずりまわしたり、奈落の底へ突き落そうとする、あなたのやりかたが嫌いです」

 いくら隣に座る祖父が、キツネかタヌキにたとえられる狡猾な人物であるといっても、堂本とは種類が違う。堂本のやり口は陰湿で悪辣な上、姑息な手段を取ることになんのためらいも感じないようだが、プライドの高い祖父が同じ手段を用いるとは思えない。祖父のことは苦手な陸だが、それだけは信じることができる。

「S社と共倒れする日をカウントダウンしたい、と言うのか、君は。S社の折戸はうまく君に取り入ったものだな。だがもっと貪欲さも身につけないと、君はこの世界ではやっていけない」

「なるほど」

 いつか坂上と島田にも同じことを言われたな、と陸は胸の内で苦笑した。ここまで言われて、手ぶらで帰るわけにもいくまい。陸は少し考えてから口を開いた。

「ではあなたの個人的、感情的な理由で僕や妻を苦しめ、会社同士のいざこざにまで発展させた代償に、なにをしていただけるんでしょうか」

 堂本が今日はじめて満足そうな笑みを浮かべた。


     


 ガチャガチャと鍵を回す音の後、マンションのドアが開く。

 沙希は腹の底部に右手をあてがい、左手でかたわらの椅子をつかんで支えにした。よいしょ、とつぶやいて立ち上がる。

 戸口に姿を現した陸は、沙希の顔を見て「ただいま」と微笑む。疲れているように見えるので、「おかえり」と応じる沙希の声は用心深くなった。

「どう? 写真は見つかった?」

 陸が沙希の背後を覗き込むようにする。もう沙希の幼いころの写真はピックアップして鞄にしまい、クローゼットの扉は閉じてある。扉の前には、春から夏にかけて着ることができそうな、ゆったりした沙希の服が積み重なっているだけだ。

「うん。陸は……どうだった?」

「それは後で話す。帰ろう」

 陸の返事があまりにもあっさりしたものだったので、沙希は目をぱちぱちさせたが、陸はかまわずクローゼットの前へ進み、沙希の洋服を拾い上げた。

「もう帰るの?」

 廊下を歩く陸の背中に問いかけた。

「うん。まだ用事ある?」

「いいや……」

 陸は迷わずリビングルームのテレビを消す。それから沙希を振り返った。

「どうした?」

「もう帰るの?」

 同じ質問を繰り返す。

「え?」

 驚いた表情の陸から目をそらした。薄暗いキッチンのほうをぼんやり眺める。

「ここにはいつ戻ってくるの?」

「ここには戻ってこないよ」

「え?」

 沙希は目を見開いて陸の顔を確かめた。陸も沙希の目をまっすぐに見つめてくる。

「ここはもうおっさんに返す」

「じゃあ、出産後もずっとあのお屋敷に住むの?」

「沙希はここで暮らしたいのか? 意外だな。もうここにはいたくないのかと思っていた」

 沙希の頭の上に陸の手がポンと置かれた。沙希はしばらく使われていないキッチンへもう一度視線を向けた。

「だって、陸とはじめて朝まで過ごした部屋だし、一緒に暮らし始めた部屋だし……」

「そうだな」

 陸は同意して、愛しげに沙希の頭をなでた。沙希は陸の胸に身を預ける。

「陸にとって、そういうことはどうでもいいの?」

「そうじゃないけどさ」

 頭をなでる手に力が込められ、沙希の顔を上向かせたかと思うと、陸の唇が沙希の唇を求めた。アルコールがほんのり香るキスに応えながら、ずるい、と沙希は心の中ですねる。

 長いキスの後、陸は沙希を抱きしめたまま言った。

「帰るのが面倒になったから、今夜はここに泊まるか」

「うん」

「ここなら、沙希も遠慮しなくていいもんな」

 陸の目が細くなり、目尻が下がる。

「どういう意味?」

「それはベッドの上で教えてやるよ」

 言うが早いか、陸は沙希の腰に手を回し、寝室へと誘った。





 シャワーを浴びてさっぱりした沙希は、陸のTシャツを借り、ベッドの上に腰をおろした。陸も同じようなTシャツを着て、沙希の隣に座る。

「大丈夫? お腹、張っていない?」

「うーん、少し張っているかも」

 沙希が腹部をなでていると、陸の大きな手が伸びてきた。

「ごめん。無理させたな」

「ううん、大丈夫」

「沙希は大丈夫じゃないときでも『大丈夫』って言うから心配」

 その言葉に苦笑しながら沙希は陸の手をつかんだ。

「今はそんな余裕ないよ。私だけの身体じゃないし」

「そうだな」

 陸は沙希の手を握り返し、小さくため息をつく。憂いを帯びた視線が宙をさまよう間、陸の指は沙希の手を強く締めつけた。

「よかったら、今日のこと話して」

 迷った挙句、沙希はそう促した。陸が自然に話し出せるような雰囲気を作りたかったが、不器用な沙希には直球しか投げられない。そんな自分を恨めしく思いながら、陸の表情をうかがった。

 強く握られていた手の力が緩む。

「俺は間違っているのかもしれない」

 頼りない声が部屋の空気を震わせて消えていく。その余韻も霧散したころ、沙希は陸の手をしっかりと繋ぎ直した。

「なにが?」

「『手土産』なんて言われて、結局金でヤツらを許しちまった」

「どういうこと?」

「D自動車の子会社のカーオーディオやカーナビの車載部門をK社に破格値で売却してくれるらしい。で、D自動車純正品はすべてウチから納入する。どう? 儲かる話だろ」

「まぁ、そうだね。……儲かる話なのに、陸は後悔しているの?」

 フッと力なく陸が笑う。

「『そんな土産なんかいらない。沙希を傷つけたアンタらのことは絶対に許さない』って言えたらよかったのにな。だけど……」

「私のことは、いいよ」

「よくねぇだろ」

 陸はむきになって沙希を両腕に包み込み、ぎゅっと抱きしめた。その暖かい腕の中で沙希は少し笑う。

「終わったことは、もうどうでもいいの。私は今、幸せだから」

「本気でそう思っている?」

「うん。それにせっかくの儲け話を断るなんてもったいない。『損して得取れ』だよ」

 沙希の頭上でクックッと笑う声がした。

「意外だな。沙希がそこまでがめついとは」

「そりゃ、あんな目に遭ったんだから、それに見合うものをいただかないと割に合わないでしょう」

 得意げに首を上げてみると、陸が額にキスを落とした。

「そういう沙希も大好き」

 その言葉だけで沙希の胸の中はいっぱいになり、今にも涙がこぼれそうだった。こみ上げてくる愛しさをどうにもできなくて、目の前にある陸の頬を両手で包み込む。きっと自分は、この人をほしいと思うすべての人に嫉妬してしまうだろう、と思うのだ。

 それでも沙希は、陸の背から翼を奪おうとは思わない。

 いつかその翼でどこかに飛び立ってしまうときが来るとしても、きっと陸が自らの意志で戻ってきてくれると信じていられるから――。

「私も、大好き」

 沙希の頬にひと粒のしずくがこぼれた。

「なに、泣いてるんだよ」

 つらいことや悲しいことをすべて溶かしてしまいそうな甘い声が、沙希の全身を包み込む。

「だって……」

「もうあんな想いはさせないから、絶対」

 優しい囁きが耳元をくすぐる。沙希は目いっぱい肩をすくめた。それからもう一度陸の頬を両手で挟むと、彼の薄い唇にそっと口づけた。


     


 その日は朝から雲が少なく、窓から差し込んだ光の矢が、窓辺にきらきらとしたまばゆい空間を作り出していた。いつもの食堂が映画のワンシーンでみたような幻想的な雰囲気で沙希を出迎える。陽だまりの中へ足を踏み入れ、窓の外を眺めた。窓際にじっと立っていると太陽が沙希の肌を刺すような熱で刺激する。

「どう? 花嫁を送り出す父親のような心境?」

 背後で陸が坂上を茶化す。

「そうだな。お前にはもったいない、としみじみ思う」

「実の息子にそういうこと言うか、普通……」

「実の息子以外の男なら、どんな手を使ってでも、全力で阻止するが、な」

 冗談とも本気ともつかぬ口調で坂上が言う。陸は沙希のそばへ来て、窓枠に軽く腰かけるようにすると、坂上に軽蔑の視線を送った。

「アンタの場合、本当にやりそうだから怖い」

「お前は違うのか?」

「それは……まぁ」

 そこで沙希ははじめて振り返り、陸と坂上を見比べる。

「もし私が誰かほかの人と結婚しようとしていても、陸は全力で阻止してくれないの?」

「するさ! するけど、沙希の気持ちが一番大事だから」

 坂上が椅子を引いてクスッと笑った。

「腰抜け」

「うるせぇ!」

「くれぐれも沙希ちゃんをほかの男に奪われないよう気をつけなさい」

「アンタに心配されたくないね」

 ふてくされた表情の陸は、沙希を見るとまぶしそうに目を細めて口角を上げた。

「今日は夜遅くまで体力使うはず。朝からきちんと食べておかないとダメだぞ」

「うん」

 陸に促されて朝食が並ぶテーブルに移動する。沙希と陸が席につくのと同時に、遠くで慌ただしくドアが開閉し、岩石が転がり落ちるような迫力ある音が迫ってきた。

「寝坊したー!」

 食堂の入口で身を屈め、寝ぐせそのままのテオが飛び込んできた。

「お前、顔くらい洗ってこい」

 陸が手で追い払う仕草をするが、テオは見向きもせず自分の席につき、誰より早く「いただきまーす」と手を合わせた。

「休日なんだから、ゆっくり寝ていてもかまわないんだがな」

 坂上は穏やかな表情でテオを見守っている。

 ここには沙希の心をとげとげしくさせる不快なものは存在しない。だからこうして坂上の屋敷で、なんの不自由もなく生活することに不満があるわけではない。

 しかし出産後の生活を考えると少しだけ不安になる。

 きっと双方の両親が孫の顔を見たがるはずだ。けれども坂上の屋敷に陸の母親が足を向けることはないだろう。今夜の挙式にも当然のごとく不参加の返事が来た。陸の母親と坂上の間にある溝は、外部からどんな大きな力が働こうとも埋められないものらしい。

(陸はどう思っているんだろう?)

 以前住んでいたマンションに戻るつもりはない、と言い切った陸だが、この先も坂上の屋敷に住み続けるのか、という質問をはぐらかし、なにを考えているのかさっぱりわからない。

(できれば……家族3人で暮らしたいけど)

 そう思うのはわがままなのだろうか、と考えながら、沙希は好物のたまご焼きを口に運んだ。


     


 挙式をおこなう教会のエントランスホールでは、帰りのタクシーを待つ着飾った人々が楽しそうに談笑している。沙希と陸はその脇をすり抜けるようにして式場の中へ入った。プランナーと呼ばれる挙式の担当者が目ざとくふたりを見つけて、ロビーへ誘う。プランナーから指定された時間にやって来たのだが、まだ先客が控室を使用中のため、しばらくここで待たなければならないらしい。

「すごい数の客だったな」

 陸はロビーのほうを見ながら言った。沙希は頷いてオレンジジュースをストローで吸う。

「寂しい?」

「なにが?」

「俺たちの式は数人しか来ないだろ。一生に一度の結婚式なのに、祝ってくれる人が少ないのは寂しいかな、と思ってさ。俺は男だから、そういうことあまり気にならないけど、やっぱり沙希は大勢の人から祝福されたほうが嬉しいんじゃね?」

 真正面からそう言われると逃げ場がない。沙希は曖昧な笑みを浮かべて「うーん」と唸った。

「まぁ、寂しくないと言えばウソになるけど、人が多すぎても疲れるから、私にはちょうどいいと思っているよ。それに今は海外で結婚式をする人も多いでしょう。その場合、参列するのはほぼ親族のみだけど、寂しかったなんて聞かないし」

「そりゃ、海外で遊んできたら、さぞかし楽しいだろうな」

 シニカルに笑う陸を、沙希は睨む。そこへプランナーが現れ、控室に移動することになった。新婦用の控室ではドレスショップ店員の草刈が沙希を待っていた。

「本日はおめでとうございます。お手伝いしますね」

 と、先日と同様、ぴったりとした黒いスーツ姿の草刈が軽く会釈したので、沙希も「よろしくお願いします」と頭を下げた。

 メイクとヘアセットが入念に施されると、草刈とメイクアップ担当のふたりがかりでウエディングドレスへ着替えた。バストの下からAラインに広がるドレスで、フリルが螺旋状に波打ちながらおりていく。どちらかといえば甘くかわいらしいデザインだが、華奢な身体つきの沙希が着ると、細身のドレスよりも安定感が増すので、沙希自身もこのラインが気に入っていた。

「とてもバランスがよくて美しいですね」

 鏡の前に立つ沙希に、メイクアップ担当者が声をかけた。草刈も頷く。

「こうして素敵にセットしていただいたおかげです」

 沙希が礼を言うと、メイクアップ担当者はにっこりとほほえみ、控室のドアを開けた。すでに着替えを済ませていた陸が廊下で待機していて、陸と入れ替わりにメイクアップ担当者と草刈が一礼して退室した。

「これから神父よりおふたりへお話があります。少しお待ちください」

 プランナーがそう告げて控室のドアを閉めた。ふたりきりになった沙希と陸は互いの衣装を上から下まで眺め、それから顔を見合わせた。

「どう?」

「カッコいい。似合っているよ」

「沙希は世界一きれい」

 大げさな褒め言葉に沙希が苦笑すると、陸は沙希の肩をさわった。

「寒くない?」

「大丈夫」

 沙希の返答とほぼ同時にノック音が響く。開いたドアの向こうには陸の祖父が立っていた。

「少し話をしたいのだが、いいかな?」

「どうぞ」

 陸のそっけない返事をものともせず、K社の会長である祖父はこの部屋の主のように沙希と陸の前にやってきて、先ほどまでメイクアップ中の沙希が座っていたスツールに腰かけた。

「まさかジイちゃんが神父なのか?」

「違う。むしろ私は懺悔をしに来たようなものだ」

「懺悔……」

 思わず沙希は口の中でつぶやいた。

 会長が沙希に視線を移動する。それだけで心拍数がグンと上がり、全身の筋肉がこわばるのがわかった。しかし目の前にいる会長は沙希にとって義理の祖父である。怖がっていることを悟られぬよう胸部に力を入れ、深く息を吸い込んだ。

「沙希ちゃんは、私を恨んでいるだろうな」

 意外なセリフが沙希の耳に届く。

「なんだよ。一生に一度の結婚式の前に恨みがどうとか、どうでもいいし、沙希はそんなに心の狭い女じゃねぇから」

「お前に訊いているわけではない」 

 決して大きな声ではないが、会長は反論をぴしゃりと床へ叩き落とすように言い放った。陸は不機嫌な表情で黙りこむ。

「私は……」

 そう言ってから、沙希は意図的に明るい笑顔を作った。

「最近、よく眠れるようになりました。妊婦だから、というのもありますが、それだけではないと思っています」

「ほう。以前、眠れなかったのはどうしてだろう」

 会長がこれまでにない優しい声音で言った。

「それは、断続的に追いかけられる夢を見ていたからです。相手は昔、付き合っていた人で、ずいぶん前に別れたにもかかわらず、いつまでもしつこく私に付きまとうので、私はその人から逃れようとして、夢の中でもがき苦しんでいました」

「なるほど。そんな夢を見ていたのでは、寝た気がしないだろうな」

「でも急にその夢を見なくなりました。たぶん妊娠がわかってから、です」

「ホントに?」

 信じられないという顔をした陸が割り込んできた。

「うん。もう3ヶ月くらい経つけど、あの事件から1度も昔の夢を見ていないの。今までは体調が悪いと必ずといっていいほど見たのに……」

「でもそれはジイちゃんの陰謀が、巡り巡って、たまたまいい結果になっただけの話で、ジイちゃんのおかげなんかじゃない」

「わざわざ念を押さなくてもいい。はっきり言うが、私はお前たちの仲を引き裂こうとしていたのだ。堂本の娘は少々問題が多いけれども、双方の利害が一致していて、これ以上ない良縁だった」

 沙希の胸を抉る言葉が会長の口から飛び出した。これほどきっぱりと断言されても、傷ついてなどいない、と強がれたらどんなにいいだろうと思う。しかし実際は痛みをこらえるようにして、うつむくことしかできない。

「良縁だなんて笑わせるな。利害が一致していたのは堂本の社長とジイちゃんだけだろ? 俺にとっては迷惑な話でしかない」

 陸が沙希をかばうように言った。だが会長は淡々と続ける。

「結婚とは家と家が結びつくことでもある。当人同士が合意していればよい、などともっともらしいことを言って安易に婚姻関係を結ぶから、些細なことで簡単に離婚してしまう。人間関係というものは古今東西、金の繋がりで成り立っているものだ」

「『金の切れ目が縁の切れ目』ってヤツか。人間不信になりそうだな」

 フンと鼻で笑う陸に、会長は淡々とした口調で言った。

「人間とはそういうものだ。信じるからバカを見る。最初から信じていなければ、裏切られることもない」

「でもジイちゃんだって、母さんには『裏切られた』と思っただろ?」

 陸の指摘は図星だったらしい。会長がせつなげに顔を歪めるのを、沙希は見逃さなかった。

「それは関係のない話だ」

「どうだろ? 俺はそう思わないけど。ジイちゃんは俺たちを試したんだ」

(私たちは試されていた……?)

 脳裏で「試す」という単語が脚光を浴びた途端、沙希の目が見開かれる。慌ててこれまでの自分のふるまいを巻き戻してみるが、どこにも会長が満足しそうな模範解答を体現する沙希は見つからない。

(ホントに、私はバカだ)

 どうしてもっと器用に生きることができないのだろう。

 いくつかの選択肢が目の前にあるとき、沙希はわざとハズレを選ぶ傾向がある。アタリを選ぶとどうも落ち着かないのだ。いつの日かそこから転落する自分の姿が脳裏をよぎる。しっかりと踏み固めてきた道が背後にない場合、それが現実になる可能性は高い。

 陸とのことも、どこか自信が持てずにいたのだと思う。愛しているのはもちろん、愛されているという自信もある。にもかかわらず、陸とは釣り合わないと宣告された自分をどうやっても消せずにいたのだ。

(だけど、今は……)

 目を上げると、会長と視線がぶつかった。

「孫が惚れた女性だからといって、無条件に信用することができるほど、私は人間ができていないのでね」

 沙希は表情をこわばらせたまま、小さく頷く。

「それに坂上があまりにも沙希ちゃんをひいきするから、私の警戒心が必要以上に働いたのもある」

「確かに沙希に対するおっさんの入れ込み具合は異常だけど……」

「坂上はできる男だが、私情に走るとロクなことが起きない。本人もその自覚はあるはずなのに、今回は決して譲らなかった。だから辞めてもらったんだ」

 会長の声が狭い控室の中で冷たく響いた。重苦しい沈黙がのしかかる。沙希も陸も身動きひとつできずにいた。

 その空気は突然、会長のひとことで破られる。



「しかし沙希ちゃんには申し訳ないことをした」



 沙希は慌てて口を開いた。

「あの、私は……」

「あやまって済む問題ではないことは重々承知している。君を苦しめて、私が得たものは、周囲の反感だけだった。坂上は君を手放すことはK社にとって大きな損失だと主張したが、私にはどうしてもそう思えなかった。それならばD自動車の令嬢を迎えたほうが、少なくとも今後の安泰が約束されるだろうし、世界に名前を売る大きなチャンスとなる」

 そこまで一気に言うと会長は小さくため息をついた。

「ほしかったものがすべて手に入るはずだった。だが実際は違った。そこにあって当たり前だと思っていたものがなくなっていく。一度失うと、おそらく二度と取り戻せないものが、だ」

 純白の手袋を握る沙希の手に、陸の大きな手が重ねられる。

「手っ取り早く夢を実現させようとするからだろ?」

「お前たちとは違って、私にはもう時間がない。私が生きているうちにできることをしてやりたいと思っただけだ。会社はわが子のようなものだからな」

 沙希は手元に視線を落とした。その気持ちはわからなくもない。まだわが子を抱くこともできないうちから、食事に気をつけ、胎教によいと言われることを試し、できることはなんだってしてやりたいと思うのが親心だと、まさに実感しているところなのだ。

 黙ったままでいる陸は、なにを思っているのだろうか。



「だが、その考えは間違っていた」



 会長はきっぱりとそう言って、沙希と陸の顔を順に見た。

「気がつかなかった。いや、認めたくなかっただけかもしれない。会社も人も、成長し、いつの日か私の手を離れていく、ということを……」

 陸を見つめる会長の眼差しに、親愛なる者への真摯な想いが込められていることを見て取った沙希は、不意に視界が霞むのを感じた。同時にとても安堵している自分に気がつく。

 沙希の手が痛いほど強く握られた。陸は少し怒ったような表情で会長を見つめている。

 会長が立ち上がった。

「いつまでも幸せに、な」

「ありがとう」

 沙希の指は彼の手の中で握りつぶされてしまいそうなほど圧迫されたが、沙希は声を上げることもできず、苦笑を浮かべる。

 会長が控室を出ていくと、ほどなく神父が入ってきた。関西出身と思われる神父の、ユーモアを交えた言葉で陸の顔にようやく笑顔が戻り、沙希の手も解放された。

 指輪交換の練習をしながら、最後のハードルを跳び越えた余韻に浸る。

 なぜか沙希の脳裏には、ゴールの代わりに真っ青な海が見えた。水面にはさざ波が立ち、陽光を反射してきらきらと輝いている。空の色は薄く、春の海は冷たいに違いない。

 それでも沙希は陸とふたりで船を漕ぎだし、水平線の向こうを見てみたくなった。

 

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1st:2013/08/20
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