次に陸の携帯電話が鳴ったのは、房代の電話から30分近く経ってからだった。
房代の結婚式場に到着するまで約15分かかり、それから沙希を探したが、すでに電車に乗ってしまったのか見つからない。家を30分早く出ればよかったと後悔するが、もうどうしようもないことだ。
陸は式場に車を止めて、放心していた。あきらめが胸を覆いつくす。
(やっぱり避けられてるんだな)
しかし嫌われているとは決して思わない。うぬぼれていると言われても陸は、沙希が自分を嫌いになるわけがないと信じていた。
(お前は真里亜に嫉妬するような女じゃないだろ)
心の中で沙希に投げかける。当然だが、答えは返ってこない。
(じゃあ、なにが気に入らない? 子ども……か?)
それはそうだろう、と陸の中で納得する声が上がる。もし逆の立場で、沙希が他の男の子どもを産んでいた、などの事実を聞かされたら、冷静でいられる自信はない。
いくら目に見えないものを信じろ、と訴えたところで、目に見える形あるものの説得力にかなうはずもないのだ。
真里亜の子どもの父親が陸ではないことを、早く証明しなくてはならない。
陸がその手立てを頭の中でさらっていたときだった。携帯電話がけたたましい音を立てる。陸は慌てて電話に出た。
「こちらは中山総合病院救急診療科です。本日8時27分に救急隊が浅野沙希さんを収容し、当院へ搬送。現在当院にて診察中です。入院等の手続きがありますので、ご家族の方にお越しいただきたいのですが」
「あの、沙希は無事なんですか? どんな状態なんですか? けがは……?」
心臓がドクンドクンと鳴っていた。畳みかけるように質問するが、電話の向こうから聞こえてきたのはあくまで事務的な男性の声だった。
「当院の場所はおわかりでしょうか。住所をお伝えいたしま……」
「知っているので大丈夫です。すぐに向かいます」
どうやらこれ以上しつこく質問しても容態を教えてくれそうにない、と陸は即座に判断し、電話を切った。
助手席に携帯電話を放り出すと、車を発進させる。
さっきの不吉な予感が当たってしまったことを苦々しく思いながら、容態のわからない沙希のことを考えた。沙希に異変が起こったのは、時間的には房代が電話をよこした前後だろうと思われる。
房代の「ずいぶん痩せたみたい」という言葉が、耳の奥のほうで陸を責め立てた。
中山総合病院へ到着した陸は、救急車両専用口に白衣姿の男性を見つけた。その端整な顔立ちは優祐に間違いない。
駐車場に車を入れ、優祐の元へ走り寄ると、彼はたまりかねたように大声を出した。
「バカヤロー! お前はなにをやってるんだ!」
陸は黙って優祐を見返した。
優祐も返事を期待していなかったのだろう。自らの怒りを静めるように大きなため息をつき、それからふたたび口を開いた。
「ウチの病院に運ばれたことを運がよかったと思うんだな。沙希ちゃんは、意識は戻っていないが、命に別状はない。そして今のところ、お腹の子どもも無事だ」
「……えっ?」
「やっぱり知らなかったのか。彼女は気がついていたようだぞ」
優祐は二の句を告げずにいる陸を置いて歩き出した。通用口のドアから院内に入ると、長い廊下を歩きながら、優祐は小声でこれまでの経緯を話し始めた。
「悪いが、ウチのスタッフが連絡先を確認するため、沙希ちゃんのバッグを開けさせてもらった。その中に使用済みの妊娠検査薬が入っていたんだ。陽性。彼女は妊娠している。……だがな、厄介なことに、救急車には『身内』と名のる男が同乗していた」
「『身内』……?」
「そうだ。彼女の生年月日、血液型、実家の住所や電話番号も即座に口にした。救急隊員はその男が彼女のパートナーだと思ったんだろう。まぁ、それが自然だろうな。ただ、男は彼女の旧姓しか知らなかった」
(ああ……)
入籍していてよかった、と心の底から思う。陸は紙切れ1枚の絶大なる効力に感謝した。
「もしウチのスタッフが彼女のバッグを確かめなければ、お前に連絡が行くのは数日後だったかもしれない。そして俺が病院にいなかったら、男は今も彼女に付き添っていたかもしれない」
「……その男は?」
「家族に連絡を取ったので付き添いは必要ない、と話してお引取り願ったよ」
「それは、ご迷惑をおかけしました」
「あらためてお前にそう言われると、変な気分だな。とにかく沙希ちゃんが無傷なのはラッキーだった」
「でも救急車を呼んだってことは、また倒れたのか?」
「『また』ということは、以前にも倒れたことがあったのか?」
「ああ。2年前に、社内で仕事中、突然……。結局、ストレスとか過労だったはず」
優祐は低い唸り声を出す。
「結論から言えば、たぶん今回も同じだ。ただ問題は、少量だが出血しているという点だ。もしかすると流産の兆候かもしれない」
「えっ!?」
「まぁ、産婦人科の医師が言うには『母体が生理を起こそうとしている状態』だそうな。俺はその見解に疑問を持っているが、いずれにしろ今は子宮の収縮を抑える薬を投与し、安静にしてもらうしかない」
沙希の妊娠を喜ぶ間もなく、絶望の淵に立たされることになった陸は、茫然としたまま優祐の横を歩いていた。
廊下を何度か曲がり、病院の一番奥に位置する場所の扉をくぐると、これまでの病棟とは違う雰囲気の待合室が目に入る。外来は休診のため照明を落としてあるものの、柔らかい空気が満ちている空間だ。
その待合室を横目に階段をのぼると、ナースステーションのカウンター上でクマのぬいぐるみが出迎えてくれた。
「明日には上の特別室に移動できると思うが、今日は念のためナースステーションに近い部屋で勘弁してくれ」
陸は優祐の言葉に同意し、プレートに201と書かれた部屋へ入る。
手前のベッドは未使用で、奥のベッドはカーテンがかかっていた。沙希がそこにいる、と思うと急に動悸が激しくなる。
優祐が先にカーテンの内側へ姿を消した。
「沙希ちゃん、気がついた?」
返事は聞こえない。思い切って陸もベッドに近づく。
「沙希。大丈夫か?」
大きな瞳が陸をじっと見つめてきた。その視線に吸い込まれてしまいそうだ、と思う。そうしてしばらく互いに見つめ合っていたが、不意に沙希が目をそらした。
(あ……)
陸の胸がズキッと痛む。
「このあと担当の医師から説明があるけど、陸と一緒に聞くかい? それともひとりで聞く?」
沙希は少し考えるように視線をさまよわせ、それから頼りなく頷いた。
「じゃあ、担当を呼んでくる」
そう言って身を翻(ひるがえ)そうとする優祐を、沙希が止める。手を伸ばして優祐の腕をつかもうとしたのだ。
優祐はハッとして、もう一度沙希に向き直った。
「大丈夫だよ。ここは安全だ。警備員も常駐しているし、この部屋の隣はナースステーションになっている。今日は日曜で外来も休診だし、ここには陸もいる」
低い穏やかな声に安心したのか、沙希は腕を引っ込めた。優祐はにっこり笑って見せると、陸の肩を叩いて部屋を出て行く。
突然カーテンに囲われた空間が息苦しくなった気がする。
ふたりきりになるのは2週間ぶりだ。
たった2週間だというのに、陸には沙希とテオの3人でモーターショーへ出かけた日がずいぶん遠くに感じられた。
沙希はなにを想っているのか、ぼんやりと天井を眺めている。
房代の言うとおり、2週間前に比べると頬のラインがシャープになり、目が窪んで見えた。顔は血色がなく青白い。点滴装置の繋がれた手の甲から手首にかけては、骨の形がはっきりとわかるほどに痩せてしまっていた。
「沙希……」
話しかけても沙希は視線を真上に向けたまま身動きひとつしない。
陸は言葉を失い、ただ沙希の白っぽい顔を見つめていた。
誤解を解くために話そうと準備していたことも、沙希の前にすると陳腐な言い訳にすぎない気がして、口にするのはためらわれた。どうせならひどくなじられたほうがまだマシだ、と思う。息を吸うと重苦しい空気が陸の肺を満たし、吐息はふたりの周囲をますます憂鬱にした。
沈黙の海に溺れそうになったころ、ようやく廊下に足音が聞こえた。
陸は手を伸ばして、沙希の頬に触れた。意外と温かい。
それでも沙希は陸を見ようとしなかった。仕方なく頬から手を離し、一歩下がる。沙希はゆっくりまばたきをしただけで、この場に陸がいることを認めたくないらしい。
(ま、お前はいつもそうだよな)
思い切ってベッドに背を向け、陸はカーテンの外に出た。ちょうど担当の医師と目が合い、軽く会釈する。戸口には優祐の姿が見えた。
陸は優祐の案内で産科の入口横にある食堂へ向かった。あらためて周囲を見回すと、面会に訪れた子ども連れの家族や、その子どもたちの祖父母と思われる夫婦が喜びに満ちた顔で行き来していた。
熱いコーヒー入りの紙コップを前に、陸は小さくため息をつく。
「なんだよ、ため息なんかついて。とりあえず無事だったんだ。もっと喜べよ」
優祐は頬杖をついて陸をひやかすような目をした。
「それは本当によかったと思う。でも……」
「子どものことは、その子の生命力を信じるしかない。お前は沙希ちゃんの身を守って、元気になるように努力しろ」
「努力って簡単に言うけど、アイツ、俺をシカトしてるんだぞ? 会話できないのにどうしろっつーんだよ」
「知るか」
優祐のそっけない返事のせいで、陸の口からまたため息が漏れる。
コーヒーを喉に流し込んでいると、沙希の担当医師が食堂に顔を出した。
「終わりましたよ。あとでご主人にもお話がありますので、面会が終わったらナースステーションに声をかけてもらえますか?」
「わかりました。よろしくお願いします」
陸は立ち上がって一礼した。
急いでコーヒーを飲み干すと、優祐に礼をいい、また沙希のベッドへ戻った。
透明なカプセルの中に入っていると、こんな感覚なのではないか。
沙希は房代の結婚式場から脱出した場面を思い出しながら、あれはどれくらい前の出来事なのだろうか、と考えていた。
気がついたら硬いベッドの上に横たわっていて、しかも今まで味わったことのない種類の腹痛が断続的に襲ってくる。倒れたのが今日なのか、それとも昨日よりもっと前なのか、沙希にはよくわからなかった。
「今は大量ではないものの出血が見られますので、できる限り安静にしている必要があります。トイレ、食事以外はなるべく横になっていてください」
医師の言葉を頭の中で繰り返し、ふとんの下で自分の腹を撫でる。痛みが引いているときはなんでもないのに、ひとたびそれが発生すると、あっという間に全身を支配し、動くことすら困難になるのだ。
沙希の頭の中に「流産」という文字が浮かんだ。
まさか妊娠を知ってから1週間もしないうちに流産の危機に遭遇するとは思いもよらなかった。初めての妊娠に対して、最初に言われた言葉が「おめでとう」ではなく、「流産するかもしれない」だったことは一生忘れないだろう、と思う。
ショックと不安と腹痛が混ざりあい、沙希をあらゆる方向から苦しめる。
カーテンが揺れて、誰かが入ってきた。
「沙希、大丈夫か?」
陸の声が聞こえる。天井の白い壁紙が一瞬ぼやけた。慌てて深く息を吸い込み、涙がこぼれる寸前でなんとか防ぐ。
陸はベッドのすぐ横まで来て、沙希の顔を覗き込んだ。視界に入ってきた陸は、少しだけ髪が伸びたように見える。
大きな手が沙希の両頬を包み込む。
「こんなに痩せて……」
もしかしたら陸は泣いているのかもしれない。沙希はまばたきして、そのことを意識しないように努力した。そうとわかったら自分も泣き出してしまいそうだから。
「お前、……話せなくなったんじゃないか?」
陸の目が間近にあって、驚いた。
(そうじゃない。話したくないだけ)
声に出さず返事をするが、陸には届かない。
「なぁ、なんか言ってくれよ」
沙希の額にポツリとなにかが当たった。沙希はまばたきすることを忘れて陸の目を見つめる。それは陸が落とした涙だった。
しかし不思議なことに、沙希が見ようとすればするほど、陸の顔は不鮮明になった。透明だったはずのカプセルの表面が曇ってしまったのだろうか。中にいる沙希は懸命にまばたきした。実際、それしかできることはなかったのだ。
なのに、たった数回でそれすらも面倒になってきた。
カプセルごと闇に飲み込まれたかのように、沙希の意識はそこでシャットダウンした。
坂上の屋敷の前に、見覚えのあるシルバーのスポーツカーが止まっていた。潤也が来ているらしい。陸は渋い顔のまま玄関に進む。
物音を聞きつけてテオが階段を転がるようにしておりてきた。
「ジュンヤと女の子が来てる。女の子が泣いていて、どうしたんだろう。あ、それより沙希は見つかったの?」
ささやき声でまくしたてたテオは、じろじろと陸の表情を窺った。
陸は靴を脱ぎ、「見つかった」と短く答える。
「えっ!? ホント? どこ、どこ!?」
「病院」
「ビョーイン!」
坂上の屋敷がいくら広いといっても、ほとんど絶叫に近いテオの声が他の部屋に聞こえないはずはない。むしろ広いおかげでテオの大声は屋敷中に響き渡ってしまった。
リビングルームのドアが開く。
「おかえり」
坂上はそう言って陸をリビングルームに招きいれた。テオも陸の後ろを遠慮がちについてくる。
ソファには潤也と背の高い女性が座っていた。
「アンタ、詩穂子……さん?」
陸は女性の顔を見て、ハッとした。
高校時代に一度だけ会ったことのある詩穂子はショートカットで少年のような印象だった。だが今は、顎のあたりまで髪を伸ばし、全体にパーマをあてている。その大きなウェーブが柔らかい雰囲気を出していて、昔の尖った面影はない。
(なるほど、沙希は詩穂子のところへ転がり込んだわけだ)
そして詩穂子は泣いていたのか、目を真っ赤に充血させていた。
「それで川島さんは見つかったのか?」
詩穂子の隣で、潤也が口を開いた。
「病院にいる。道端で倒れて救急車で運ばれたらしい」
「大丈夫なのか?」
陸は小さく頷き、坂上のほうを見る。坂上は眼鏡の奥で目を細め「どこの病院だ?」と尋ねた。
「中山総合病院」
「そうか。面会可能なら詩穂子さんをお連れしなさい」
「了解」
用が済んだと判断して陸は一同に背を向けた。沙希の入院準備をし、すぐに病院に戻るつもりだ。誰もが面会可能なフロアにいる間は、できる限りそばについていたい。
ドアノブに手をかけたとき、背後でか細い声がした。
「今、先生が倒れたって言ったけど、どこか悪いんですか? 昨日もお腹が痛いからと早く寝てしまったんです。でも、朝起きたら先生はいなくなっていて……」
陸は振り向いて、青ざめた詩穂子の顔を見る。沙希は彼女に妊娠の事実を伝えていなかったようだ。バッグに入れて持ち歩いているくらいだから、検査薬を使ったのはごく最近かもしれない。
優祐から聞いたことを元に、陸は沙希の足跡をたどり始めた。
目をつぶると、前を歩く沙希の背中が見えた気がした。今にも走り出しそうなほどの急ぎ足で、つんのめるように歩く沙希。早春の朝はまだ寒く、時折身をぶるっと震わせている。
その寒さが沙希の体温を下げ、彼女に異変をもたらしたのかもしれなかった。
「沙希は早朝、会社の同僚の結婚式場まで行き、祝辞を述べ、すぐに立ち去ったらしい。その後、歩いている途中で倒れ、通行人が救急車を呼んだ。その通行人は沙希の身内だと名のり、救急車に同乗している。実際、沙希の生年月日や血液型をすらすらと答えたそうだ」
詩穂子は口を両手で覆った。
「まさか……!」
「ここまでくると、もう偶然で済まされないと俺は思ってる」
言いながら陸は視線を詩穂子から潤也へと移動させた。
潤也がこの件にまったく関与していないというのはあまりにも白々しい。房代の結婚式に沙希が姿を見せることを予測できるのは、社内の人間に限られる。そして沙希の元カレとのパイプ役となれば、潤也をおいて他にいないはずだ。
陸はほんの一瞬でも潤也を信じた自分が腹立たしくて仕方なかった。
だが詩穂子も知らないのなら、潤也もまだ知らないはずだ。そう思った途端、陸の頬に不敵な笑みが浮かぶ。
「ああ、そういえば、沙希は病気じゃない。妊娠しているんだ」
リビングルームがしんとした。
「えー!? ホントに? 陸、おめでとう!」
最初に反応したのはテオだった。背後から陸に抱きついたかと思うと、腕でぎゅうぎゅうと締めつける。
続いて坂上と詩穂子が祝いの言葉を口にした。それを内心複雑な気持ちで受け止めつつ、潤也を見る。陸の目に映った潤也は、腕組みをし、恐ろしい形相で宙を睨んでいた。