病院側から入院準備として指定されたものを助手席に放り込み、それから陸は玄関を振り返った。所在なげに突っ立っている詩穂子は、スラリとしているが、シルエットは針のように見える。
「どうぞ」
「本当に……ごめんなさい」
「いや、あやまるのは俺のほうだわ。とりあえず乗って。病院、誰も付き添っていないから心配なんだ」
詩穂子は「あっ」と小さく声を上げて、慌てて車に近づいた。後部座席のドアが閉まる音を聞くや否や、陸はアクセルを踏み込む。
家を出る前、一応潤也にも声をかけたが、彼はすんなり辞退した。
(まぁ、当然だろうな)
陸は急な下り坂を用心深く進みながら、坂上家での潤也の態度を思い返していた。潤也が今でも真里亜に関わっているのかどうかは、陸にもわからない。
(アイツ、一度は真里亜の企みをぶち壊してるし、それにあんな正義感の強いヤツが、野望のためとはいえ、いつまでも真里亜に加担しているとも考えにくい)
そう思うものの、確証がない。
(ま、いいか。アイツのことを考えたってムカムカするだけ)
住宅街の坂道を下りきって、幹線道路へ出た。休日のせいか、家族を乗せた車が多い。前を走る車の後部座席にも、子どもの頭が見え隠れしている。
「浅野くんは、先生の元カレに会ったことある?」
詩穂子がためらいがちに口を開いた。
ハンドルを強く握り締めながら、陸は答える。
「ない。……詩穂子さんは?」
「私もない。先生は写真とか絶対見せてくれなかったし。背はそれほど高くないらしいね」
「別にそんなこと、どうでもよくね?」
「あ、そうだね。ごめんなさい」
詩穂子は小声であやまった。
陸も感情を抑えきれなかった幼稚な自分に気がつき、「こっちこそ悪い」とつぶやく。今はどうやっても平常心を保つことができないらしい。胸の中でとげとげしたものが絶えず右往左往しているようで、陸自身にも手に負えないのだ。
険悪な雰囲気をとりなすように詩穂子が「でも」と言った。
「まさか東京まで追いかけてくるとは思わなかった」
「そうだな」
「何年越しのストーカーなんだろう。警察には相談したの?」
「相談もなにも、こっちで接触したのは今朝が初めてなんだ。ストーカーだと認定されるにはそれなりに実績が必要だろ」
「実績って……。でも、そうか。いくら私たちが『危険人物です』と言っても取り合ってもらえないか」
「それどころか、救急車呼んで助けてくれたんだ。夫の俺としては、ソイツに『ありがとうございました』と言わなきゃならない」
詩穂子は低く唸り、ため息をついた。
「それで、妊娠のほうは順調なの?」
ずっと言い出すタイミングをはかっていたような間合いだった。陸は大きく息を吸い込む。
「まだなんとも言えない」
「倒れたって、まさか……流産、なんてことはないよね?」
「まだわからない。少し出血していて、その可能性もあると言われた」
「そんな……」
詩穂子の悲痛な嘆きを、陸は無言で受け止める。
ここから先は優祐が言うように、沙希の中に宿った命の生命力を信じるしかない。
「でも半分は浅野くんの遺伝子だし、結構しぶといんじゃない?」
「俺もそう思う」
苦笑しながら陸はそうであればいいと本気で思っていた。過去がどうあれ、今、確実に陸と沙希を繋ぐひとつの生命が息づいているのだ。それをどうにかして守りたい。
とにかく沙希の元へ急がねばならない。
陸はナビゲーションシステムのモニターに表示された時刻を横目で見ると、アクセルを踏み込む足に力を入れた。
詩穂子が面会している間、陸は沙希の入院手続きを済ませ、また産科入り口横の食堂でコーヒーを飲んだ。普段はブラックしか口にしない陸だが、どうしても砂糖を入れたい気分だった。糖尿病のことがチラッと脳裏をかすめたが、一度くらいは許されるだろうと思う。
砂糖入りのコーヒーを飲み終わるころ、沙希の部屋から詩穂子が出てきた。なにか納得がいかないような表情をしている。
陸の近くまでやってくると、遠慮がちに斜め向かい側の席へ腰かけた。
「起きてた?」
「うん」
「なんかしゃべった?」
「……いいや」
陸は苦笑いを浮かべる。
「そっか。ずっとそうなんだ。医者や病院のスタッフの呼びかけには、頷くとか首を振って意志表示するけど、言葉を話す気はないらしい」
「やっぱり相当ショックを受けたんだろうね」
「だろうな。しかも俺のことは完全にシカト」
「あ、私だけじゃなかったんだ!」
「え?」
詩穂子は陸の驚いた顔を気まずそうに見返した。
「たぶん私、先生に避けられていると思う」
「それ、ひどくないか? 世話になった上、さんざん心配かけて……」
「でも先生は私のことを恨んでいるのかも。私は元カレのこともあるし、危険だからひとりで外出してほしくなかったの。だけどそれが軟禁みたいになっちゃって、この2週間、先生はすごく窮屈だったと思う」
空の紙コップを弄びながら、陸は小さくため息をついた。
「俺は感謝してるよ。もし潤也が相手と通じていたら、沙希が詩穂子さんの家から出てくるのを元カレが待ち伏せしていた可能性もある」
「えっ! あの人、信用できないの? でもマンションの周りには不審者は見当たらなかったけど」
「じゃあ違うかもしれない。俺にもわかんねぇ。潤也のヤツ、最初は相手側に加担していたんだ。途中で『もうやめた』とか言い出したけど、どうだかな……」
「先生のこと、あんなに心配していて、実は裏切っていたなんて……信じられない」
グシャと紙コップを握りつぶす。詩穂子がぎょっとして陸を見た。
「とにかく俺は今夜からここに泊り込んで、沙希を守る。詩穂子さん、沙希がお世話になりました。本当にありがとうございました」
最後は立ち上がって頭を下げた。向かい側でガタッと音がして、詩穂子も慌てて席を立つ。
「いや、あの、先生が早く元気になるように、それから赤ちゃんが順調に育つよう祈ってます。浅野くん、先生のことをよろしくお願いします」
ペコリと頭を下げると、詩穂子は逃げるように食堂を出ていった。
手の中でつぶれた紙コップをゴミ箱に捨て、沙希の部屋に戻る。陸がそばに寄ると、沙希は少しだけ頭を動かして陸の姿を確認した。
窓から強い西日が差し込んでいた。沙希は眩しそうに目を細め、顔を歪める。窓にカーテンを引いてやると、沙希はまた表情をなくした。
「俺、今晩からずっと病院に泊り込むつもりだけど、いいよな?」
返事はないだろうと予想していたが、やはり沙希は陸の声が聞こえなかったかのように、天井を見つめたまま、まばたきしただけだった。
陸は窓際に椅子を置き、そこに腰をおろした。パイプ椅子はギシギシと嫌な音を立てたが、それでも沙希は同じリズムでゆっくりと目を開き、そして閉じることを繰り返していた。
(ぼんやりしているように見えるけど、本当に何も考えていないのか?)
不機嫌な沙希が押し黙ってしまうことには、辟易しつつも慣れている。だがその間、沙希に限ってなにも考えていないわけがない、と陸は思っていた。
今の沙希はどうなのだろう。
虚ろな瞳には意志の存在が感じられない。ただ目に映るものを見ているだけで、見たものを認識しているのかどうかもあやしいところだ。
(今回は長期戦だな)
陸が覚悟を決めるのとほぼ同時に、沙希は眠ってしまった。
パイプ椅子からそっと立ち上がり、ベッドの横に膝をつく。深い眠りに落ちたのか、沙希は微動だにしない。
陸は思い切って沙希の頬に唇を寄せた。
「ま、普通に考えたら、ヤツは必ず来るだろうな。犯人は現場に戻ってくる習性があるらしいから」
中山優祐はまぶたを指でかいた。どうやら相当眠いらしい。当直医ではないのだから、本来なら帰宅している時刻だろう。
しかし優祐はただの勤務医ではない。そう遠くない将来、この病院を仕切る立場になる人物だ。現在も院内の状況を把握するために、プライベートの時間を削り、病院で寝泊りしているらしい。
(どう考えても働きすぎだろ。倒れたりすんなよ)
軽薄そうな外見とは裏腹に仕事熱心な優祐に対して、陸は心の中で深く感謝していた。
「俺もそう思う。沙希がここにいることは確実だし、必ずなにか行動を起こすはず。それで、いつまで入院していなきゃならないんだ?」
「まず出血が止まるまでは無理だな。一般的には自宅安静でも大丈夫なレベルだと思うが、問題は沙希ちゃんの体力だ。今は入院して体力を回復させるのがベストだろうな。転院も可能だが、俺は勧めないぞ」
「いや、たぶん他の病院より、ここのほうが安全だろ。それに他の病院にまで迷惑をかけるのは申し訳ないし」
「おい、ウチには迷惑をかけてもいいと思っているのか?」
「そうじゃない。でもウチのジイさんがずいぶん貢いでいるはずだぞ」
「ま、それを言われると弱いな」
優祐は愉快そうに肩をすくめて笑った。おそらく落ち込んでいる陸を元気づけようとして、明るくふるまっているのだと思う。
昔、陸が糖尿病と診断されたときもそうだった。
両親が離婚した後で思いがけず発覚した父方からの遺伝に、陸は自暴自棄になりかけた。しかしそんな陸に優祐は、適度に突き放した態度で接しつつも、根気よく治療に付き合ってくれたのだ。
(こうして世話になるのも、なにかの縁なのか?)
陸が優祐の顔をまじまじと見つめていると、優祐は怪訝な表情で見返してきた。
「それで彼女のご両親が来るのはいつだ?」
「明日の昼過ぎになると思う」
「そうか。俺も挨拶しなきゃ、な」
「なんで? 担当でもないのに」
「いいんだよ。俺はこの病院ではエライ人なんだ。お前にあれこれ言われたくないね」
「意味わかんねぇ」
「ご両親だって心配だろ。あんなかわいい娘が、身寄りもいない東京で倒れたんだ」
「おい、待て。沙希は俺の妻だぞ。『身寄りもいない』っつーのはおかしいだろ」
「だいたいお前がしっかりしていないから、こんなことになったんだ」
「…………」
言い返す言葉が見つからない。陸は優祐から視線を外す。
「……ま、起こってしまったものはもう仕方ないさ。もし俺がお前で、どんなに細心の注意を払っていたとしても、結局同じことになったかもしれない。俺は他人だから言いたいことを言えるんだ。あまり気にするな」
優祐は腕時計を見た。もうすぐ23時になろうとしている。
「警備は万全にしておく。もう寝ろ。お前も今日は疲れているはずだ」
「……サンキュ」
スタッフ用の小会議室を出て、ナースステーションの前を通る。パソコンのモニターに向かっていたスタッフが目を上げて陸に会釈した。
沙希の部屋のドアを静かに開ける。
壁には常夜灯として使えるように光の強さを加減できる照明がついていた。それが室内をほんのりと照らす。沙希のベッドは相変わらずカーテンが引いてあり、陸はその隙間から沙希の様子を確かめた。
規則正しい呼吸をしていることがわかると、陸の頬には自然と微笑が浮かぶ。
安心したので靴を脱いで隣のベッドへ潜り込む。病院側の特別な配慮で、隣の空きベッドを使うことが許可されたのだ。
(寝心地は悪くないな)
仰向けになった陸は天井を見つめながら、もし、と考える。
(ヤツが来るとしたら、明日だろうな)
沙希の元カレという男は、なにを考えているのだろう。沙希の身内だなんて勘違いもいいところだ。そんなことを堂々と口にすることができるのだから、明日もあつかましく見舞いに来るはずだ。
陸は寝返りを打って、沙希のベッドのほうへ身体を向けた。カーテンが邪魔をして沙希の姿は見えないが、そこに沙希がいるというだけで十分だった。
目を閉じる。
神経がたかぶってしばらく眠れそうになかったが、そのうち陸も規則正しい寝息を立て始めた。
翌朝、沙希と無言の朝食をともにした陸は、会社に電話を入れた。沙希の入院中、片時も離れず付き添っていたいが、会社員の陸には無理がある。それでも今日1日は欠勤するつもりだった。
陸の所属部署へ直通の番号にかけると、潤也が電話に出た。
「すみませんが、今日は休みます」
相手が発言する前に、陸は用件をぶつけた。
「そうか」
陸の要求は意外にもあっさり承諾された。拍子抜けしたところに、潤也の声が聞こえてくる。
「あのな……」
言い出しにくい事柄なのか、潤也にしては歯切れが悪い。陸は先を促すように「ん?」と聞き返した。
「いや、すまない。はっきりしてから伝えることにする」
「なんだよ? 気になるじゃねぇか」
上司であることを忘れて、普段の口調で返事をすると、潤也は珍しくもう一度あやまった。
「すまない。もう少し待ってくれ」
「なにを?」
「お前は川島さんから目を離すな」
「は? 最初からそのつもりだけど」
「頼んだぞ」
唖然としているうちに電話が切られた。
(アンタに頼まれる筋合いはない)
と、憤っているところに、携帯電話が鳴る。坂上から紹介してもらった弁護士事務所からだった。
「堂本さん側がDNA鑑定を受けることに同意されました」
電話の相手は事務的な声でそう言った。陸は自分の耳を疑う。
「ホント、ですか? なにか条件とか無理難題を押しつけてきたのでは?」
「条件は特にありません。こちらの要求に従うとのことです」
直感的におかしい、と思う。同時になにかが陸と沙希に切迫しているのだと悟った。
陸は電話を終えると沙希の部屋へ急いだ。
ベッドを囲っていたカーテンは開け放たれ、沙希がスタッフの介助で車椅子に乗ったところだった。
スタッフの女性は陸の姿を認めると、車椅子の後ろに立ち、急かすような口調で説明を始めた。
「これから外来へ移動し、診察を受けてもらいます。診察後はそのまま特別室へ移動します。ご主人も一緒に先生のお話を聞いてください」
「はい。よろしくお願いします」
陸は沙希の反応を気にしたが、硬い表情を変えることはなかった。嫌がっているわけではない、と判断し、車椅子を押すスタッフの少し後ろを、点滴装置を持ってついていくことにした。
外来の待合室は、診察開始時間前にもかかわらず、診察を待つ女性たちでいっぱいだった。少子化がウソのような光景だが、少子化に輪をかけて産婦人科自体が減少しているのだ。人気のある病院ではベッド数の関係で出産を断られることもある、と昨晩優祐から聞かされていた。
その前を通り過ぎ、通路を左へ曲がる。処置室に続いて、診察室と内診室が並んでいた。沙希は車椅子のまま内診室へ入り、陸は通路で待つように指示された。
しばらくすると1番の札が出ている診察室から「お入りください」と呼ばれる。
陸が立ち上がると、内診室から青白い顔をした沙希が、点滴装置にすがるようにつかまり、おぼつかない足取りで出てきた。
その痛々しい姿に、陸は条件反射で手を差し伸べ、沙希の背中を支える。一瞬、沙希は顔をしかめたが、陸はかまわず沙希の背を抱いた。
診察室内では、担当医師が小さな紙片を手にして、沙希と陸が座るのを待っていた。40代半ばと思われる産婦人科医は、穏やかな声で語りかけてきた。
「まだ張りが強いようですね。出血も大量ではないものの続いています。こちらが現在の子宮の様子です」
医師は沙希に紙片を手渡した。
陸が横から覗き込むと、感熱紙には扇状の縞が写っている。初めて見る超音波写真だった。子宮内部の映像を囲むように、日付や病院名などの情報と、陸には意味のわからないアルファベットと数字が並んでいた。
「これが赤ちゃんの育つ袋、胎嚢(たいのう)ですよ。まだ真っ黒でなにも見えませんが、着々と準備が進んでいます」
医師が差し示した部分は、そら豆のような形で真っ黒だった。その袋の大きさがミリメートル単位で計測されている。陸はその小さな黒いそら豆を目をこらして見つめた。
「ただ、今の段階ではなんとも言えない。また1週間後に診せてもらいます。それまでつらいと思いますが、できるだけ動かず、安静にしていてください」
沙希が写真を大事に持ったまま、小さく頷いた。
その様子を見ていると、陸の胸に名状しがたい不思議な感動が押し寄せてきた。じわじわとこみ上げてくるというよりは、噴水のようにいきなり奔出した感覚だ。
当然だが、悪い気はしない。むしろ嬉しくて飛び跳ねたいくらいだ。沙希がこんな状態でなければ、他人の目など気にせず、抱きしめてキスくらいしたかもしれない。
(すげぇな。新しい命の始まりを目にするなんて……)
ふたりからひとつの命が始まろうとしている。
陸は突然、どんな生命もひとしく尊いものであることに気がついた。
もちろん幼い頃からそう教えられてきて、陸自身もそれを理解しているつもりでいた。しかしそれが急に薄っぺらな知識でしかなかったことを思い知らされたのだ。
生命は始まったときからどの瞬間も休むことなく生きようと努力している。
それらは皆、ひとつとして同じものはない。
自分も、隣にいる沙希も、そして目の前に座っている医師も、親から命を受けたそのときから大切に育まれ、多くの愛情を注がれ、そして周囲の温かい目に見守られて生きてきたのだ、と陸は今さらだが実感し、その奇跡のような営みを感慨深く心の中で反芻した。
診察が終わり、ふたたびスタッフが沙希の車椅子を押して、特別室へ向かうことになった。陸も点滴装置を移動させながらついていく。
産婦人科のドアを抜けると、長い通路が続く。産婦人科病棟は中山総合病院の西端に位置し、他の外来とは別棟となっていた。
移動先の特別室はいわば本館の最上階にある。この最上階に通じるエレベーターは、あらかじめ事務長より許可を得たものしか利用することができない。たとえ家族であっても自由に面会することができないフロアだ。
沙希の車椅子を押すスタッフが、エレベーター前に常駐している守衛に許可書を手渡した。守衛はうやうやしく一礼すると、操作盤のボタンを押して脇へよけた。
「今は誰か入院しているんですか?」
「いいえ。ちょうど昨日、とある先生が退院されたので、それ以来とても静かです」
上昇するエレベーターの中で、スタッフの女性は意味ありげに微笑んだ。陸は連日、新聞の一面を騒がせている政治家の名を思い出し、「ああ」と返事をする。
ほどなく最上階に到着し、エレベーターのドアが開いた。
「こちらです」
スタッフの女性が沙希の車椅子を進行方向へ回転させた。前に続く通路は直線ではなく、中途からギザギザと折れ曲がっている。奥にいけばいくほど、部屋のランクが上がるのだ。
エレベーターから少し進んで、ナースステーションに立ち寄った。これまでいた産科とは違って、雰囲気はホテルのフロントに近い。ここで記帳を求められ、陸は来訪者ノートに記名した。
「ではお部屋にご案内します」
その声で陸はなにげなく顔を上げる。ほんの一瞬、身体が硬直した。
同時に沙希の肩がピクリと動いたが、スタッフの女性は気がつかなかったようだ。
とっさに陸は車椅子の前に出た。
「えっ? どうなさいました?」
車椅子は陸の後ろで停止した。スタッフの女性が困惑気味に陸の様子を確認する。
「……誰かいる」
「まさか!?」
「ここで待っていてください。僕が見てきます」