翌日、昼休みに弁護士へ電話し、面会の約束を取りつけた直後、陸は社内に珍しい姿を見つけた。和装の祖母が澄ました顔で通路を進んでくる。
佐和は陸のそばで立ち止まり、わざとらしく咳ばらいをした。
「なんだね、このあたりは埃っぽくて掃除が行き届いてないじゃないか。気の利かない男どもしかいないのかい」
「すみません」
陸は祖母の顔を見ずに神妙な声を出した。佐和は嫌味を言いに来たのだから、言わせておくほかない。
「それと送ってほしいところがあるんだが、アンタ、車の運転はできるのかい?」
「できます」
「じゃあすぐに準備しなさい」
ずいぶん強引だ、と思うものの、佐和の命令にそむくことはできない。
陸は「はい」と返事をして、ちょうど通りかかった長谷川に「午後は戻らないかもしれない」と言い残し、祖母とともにフロアを後にした。
「まだ仲直りしていないのかい」
助手席の佐和は仏頂面のままだが、その声には少しだけ同情が含まれていた。「仲直り」という表現を新鮮だと思いながら陸は答える。
「それどころか、離婚届以外はなんの音沙汰もない。話すらできないのに、仲直りもなにも……。だいたい沙希は、いつもそうなんだよ。勝手にいなくなる」
「前にもこういうことがあったじゃないか」
「あのときだって……」
「陸はまったく悪くないと言い切れるのかい」
「それは……」
佐和の容赦ない指摘に、陸は歯切れの悪い返事しかできなかった。それでも今回のことはあまりにも一方的すぎる、と沙希を責めたくなる。
空がぶ厚い雲に覆われているせいで、世界は灰色に染まっていた。陸は前方を見つめ、小さなため息をつく。
「あの子が、わざわざ私のところに離婚届を持ってきたのはなぜだか、わかるかい?」
「さぁな」
「本当になにもわかっちゃいないね」
「なにが?」
苛立った口調で陸が訊き返すと、佐和は大きく深呼吸をした。
「あの子は私に『幼稚園の理事はできません』と断りに来たのさ。私が先回りして、陸の嫁に理事を継いでもらいたいとパーティで公言したものだから、あの子はその約束を違えることを詫びに来たんだ」
陸は思わず絶句する。
これまで、沙希が佐和の幼稚園へ立ち寄った意味など、考えもしなかったのだ。佐和に「なにもわかっちゃいない」となじられるのも仕方がない。
(本当にアイツはバカだ)
自分のことで精一杯だったはずなのに、よくそこまで気が回ったな、と驚き、呆れた。
たぶん、どこまで行っても沙希は優等生でい続けるだろう。そういうふうにしか生きることができないのが沙希なのだ。
そして陸はそういう沙希が好きだった。きっと、これからも、ずっと――。
「それでも私は、あの子に譲りたいんだ」
「え?」
「もし陸と離婚しても、私はあの子に幼稚園を任せるつもりだよ」
「待てよ。そんなこと、勝手に決めるなって。それじゃあジイちゃんと同じだろ」
佐和は驚いた顔で陸を見た。
「私が、あのジイさんと同じだって?」
「口に出して言わなくても、やりたいことくらいあるんだよ、沙希にも。それが俺と結婚したせいで、周りからいろいろ押しつけられたら迷惑だろ」
そこそこの常識人だと信じている祖母ですら、沙希に自分の幼稚園を継がせたいと言い出し、陸はこの状況につくづく閉口していた。祖父のように悪意とわかれば「やめろ」と声を荒げることもできるが、祖母の場合、そうではないから余計に厄介なのだ。
しかし沙希は頼まれたら嫌とは言えない性格だ。陸が防波堤になるしかない。
「確かに、私もお前たちの問題に口を挟みすぎたのかもしれないね」
佐和が力のない声で言った。
「いや、ばあちゃんには感謝してるし、これからも助けてもらうことはたくさんあると思う」
「いいや、私もそろそろ隠居したほうがよさそうだ」
さすがに機嫌を損ねたらしく、佐和はあからさまに顔をそむける。
(俺だって拗(す)ねてどうにかなるなら、そうしたいさ)
だが陸にはそんな暇などない。
「ほら、ついたぞ」
前方に、灰色の網で囲われた建築現場が見えてきた。一般的な住居の2倍ほどある建物が、その骨格をさらしている。
「あと1ヶ月くらいかい?」
「順調にいけばそうだろうな」
陸は工事関係車両の脇に駐車した。すぐに助手席側へ回り、佐和がおりるのを手伝うと、トランクを開けてダンボール箱を抱える。差し入れのコーヒーだ。
佐和の姿を見つけた現場責任者が小走りで近づいてきた。
陸はその男に差し入れを渡すと、佐和と彼の会話を聞きながら胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込んだ。かすかに潮の香りがする。目を細めて海の方角を見たが、水辺までの距離は近いようで遠い。
まるで誰かと自分の心の距離みたいだ、と思いながら、陸は空を仰いだ。
マンションの1室にこもりきりの生活が1週間も続くと、さすがの沙希も気がめいり、心が塞がりそうだった。
詩穂子も沙希の顔色が優れないのを心配したのか、休日に買い物へ行こうと言い出した。
実際、沙希の着替えが必要になっている。
今は詩穂子の服を借りているが、彼女はガリガリの長身だ。着ることはできるものの、すべて丈が長いため、どう頑張っても不格好になってしまう。外出しないから気にしない、と虚勢を張っていたが、毎日合わない服を着ているのはあまりいい気分ではない。
それに、他にも自分で買いたいものがいくつもあるし、できれば自立して生活する準備もしたい。
(自立するとなると、仕事も探さないといけないよね)
買い物の予定が立ち、少し浮上した沙希は、テレビを眺めながらそんなことを考えていた。
ここのところ、することがないので、結局テレビばかりみている。おかげでワイドショーのネタにはずいぶん詳しくなってしまった。
(本当は在宅でできる仕事がいいけど……)
沙希の頭の中には潤也の顔が浮かんでいた。
(前に亀貝さんが、大手出版社の編集をしている知り合いがいるって言ってたよね)
潤也がわざわざパリまで乗り込んできたときのことだ。沙希が会社の広告用に書いたエッセイを見て、紹介してほしいと言った編集者がいると、潤也は口にしたはずだ。
(あの人に頼めば、なにか探してくれるだろうな)
仕事だけでなく、住む場所も含め、なにもかも不自由なくそろえてくれるような気がする。沙希がただひとこと「お願いします」と言って、頭を下げさえすれば――。
しかしすぐにその誘惑を振り払った。
(もうこれ以上亀貝さんに頼っちゃダメだね。私にはあの人の期待するなにかを差し出すことはできないもの)
やはり自力で探すしかない。そう思い至った沙希は肩を落とした。
真里亜に対面する前の、陸と過ごした新婚の日々が懐かしかった。陸との生活がどれほど恵まれていたか、といまさら思い知らされる。
どうして大事なものをふたたび自分から手放してしまったのか。
(あー、またどうしようもないことを考えてる!)
沙希はリモコンを手に取って、テレビを消した。
(やっぱりたまには外に出て、身体も心もリフレッシュしないとね)
それからキッチンに立つ。あの日以来、沙希の食欲は戻っていないが、詩穂子のために夕食を作らなければならない。
野菜を洗いながら沙希は、詩穂子の目を盗んで房代の結婚式に着ていける服も買おう、と考えていた。
「会社の友人の結婚式かぁ……」
そう言ったきり、詩穂子は考え込んでしまった。
向かい側で沙希は小さくなっている。判決はどう出るか。祈るような気持ちで待つ。
ついに明日が房代の結婚式なのだ。
前日になるまで詩穂子に言い出せずにいた沙希だが、結婚式に出席できそうな服と靴は、買い物に出かけた際に首尾よく購入できた。これで出席できない、ということになったら、がっかりして寝込んでしまいそうだ。
「ま、行くのはいいと思うよ」
「ホントに!?」
沙希は思わず大声をあげた。
しかし詩穂子の表情は硬いままだ。喜びを隠して、少しだけ首を傾げてみる。
「いや、元カレはそこまで嗅ぎつけて来るとは思えないけど、浅野陸は先生のお友達のことも知ってるんでしょ? だったら絶対先生に会いに来ると思うな」
「あ……」
詩穂子の指摘はもっともだった。
沙希もそのことをまったく考えてなかったわけではない。だが沙希の中で出席したいという気持ちが大きすぎたのか、陸が房代の結婚式にまで足を運ぶはずはない、と決めつけていたのだ。
急に沙希の気持ちは欠席へ傾いた。
「でもちょうどいい機会だし、きちんと話したら? 離婚のことだって、このままじゃ……」
「いや、友達には悪いけど、やっぱり結婚式に行くのはやめておく」
「先生!」
「陸には会いたくない」
「だけど、どうするの? 今の先生はひとり暮らしなんかできないよ。結局、先生を守ってくれるのはアイツなんじゃない?」
詩穂子の言葉は沙希の心をザクザクと斬りつけた。同時に鈍い痛みが腹部を襲う。沙希は無意識にその部分を手で押さえた。
「ダメだよ。もう会えないよ。会っちゃいけないんだよ」
大粒の涙が目からこぼれ出る。
驚いた顔の詩穂子に、沙希はただ首を横に振って見せることしかできなかった。
その晩、沙希は腹痛を理由にはやばやと布団を敷き、毛布にくるまって横になった。腹痛は本当のことだが、痛みはそれほどでもない。この程度の腹痛は、沙希にとって日常茶飯事なのだ。
詩穂子は沙希をいたわり、寝室のドアをそっと閉めると、テレビの音量を絞った。沙希はドアの隙間から差し込んでくる光を見て、彼女の厚意に改めて感謝する。
それから静かに目を閉じた。
目が覚めたのは、いつもより早い時間帯だった。
窓の外は暗く、朝が来るまでにはしばらく時間がある。沙希は物音を立てないように注意して起床した。
普段の倍以上の時間をかけて布団を片付け、着替えをすると、久しぶりにしっかりとメイクをした。
寝室をそっと覗く。詩穂子はよく眠っていた。
沙希は足音を忍ばせて玄関へ向かうと、新しく買った靴を履き、慎重に玄関のドアを開けた。すばやく外に出て、静かに閉める。
鍵をかけないまま詩穂子の家を出ることに罪悪感を覚えるが、マンション自体のエントランスはオートロックなので、たぶん大丈夫と自分に言い聞かせた。
廊下も靴音が響かぬようつま先立ちで歩き、エレベーターの稼動音にハラハラしながらドアが開くのを待つ。やって来たエレベーターに乗り込み、マンションを出ると、沙希は小走りで最寄の駅へ向かった。
始発の電車が15分後に来る。こんな時間に電車に乗るのは、大学生のとき以来ではないだろうか。
朝の澄んだ空気を吸い込むと、気持ちがしゃんとした。ホームで電車を待ちながら、房代から届いた結婚式の招待状を確認する。招待状は会社で受け取ったので、陸の元を去った日にデスクから持ち出してあった。
式が午前11時開始となっている。
そうなるとおそらく房代はかなり早い時間に式場入りするはずだ、と沙希は予想した。今から向かえば、間違いなく房代より先に式場へたどり着ける。そこで房代を待つつもりでいた。
結婚式に出席することはできないが、どうしてもひと目房代に会って「おめでとう」を直接言いたい。
それだけのために沙希は詩穂子が寝ている隙にマンションを抜け出し、ひとりで電車に乗り込んだのだ。
沙希がいないことに気がついたら、詩穂子は心配するだろう。
しかし沙希は書き置きを残さずに出てきた。房代に会うことができたらすぐに戻るつもりだ。書き置きよりも、沙希が戻ることのほうが詩穂子を確実に安心させられるのだから――。
房代の結婚式が予定されている式場は、沙希が想像していた建物とは少し趣が違っていた。異国情緒たっぷりの外観だが、こじんまりとしていて、富裕層が所持している別荘のようにも見える。
近頃は画一的なホテルウエディングよりも、別荘風の式場を借り切って、それぞれのカップルの個性を前面にアピールするような結婚式がブームらしい。手作り感のある式は、当人たちはもちろん、参列者にも記憶に残るものになる。
(房代ちゃんも準備すごく頑張っていたな……)
午前7時に到着した沙希は、まだ式場の門が閉まっていたのでホッとした。
以前、房代が「朝8時に式場入りしなくちゃいけないの」と話していたのを記憶しているが、もしかすると予定が変更になっている可能性もある。だが、7時は少し早すぎたかな、と門の前で棒立ちになっている沙希は、ひとり苦笑した。
15分くらいすると式場のスタッフが出勤してきた。沙希の姿を訝しげに見る。
「あの、すみません。本日、式を挙げられる新婦、宮川房代さんの友人です」
沙希は自分よりも年下に見えるその女性に声をかけた。
「本日はおめでとうございます」
スタッフは営業用の笑顔を浮かべ、慣れた様子で頭を下げる。美しい動作だ。
彼女が顔を上げると、沙希は房代からもらった招待状を提示し、こんな朝早くにやって来た理由を説明した。
「実は今日、急用で式に出席することができなくなってしまったんです。でもどうしても『おめでとう』をひとこと言いたくて……」
「そうでしたか。宮川様のお支度は8時から始めさせていただきますので、もうしばらくお待ちいただければ、じきに宮川様もお見えになると思います。ここは寒いので中へどうぞ」
沙希はスタッフの心遣いに感謝し、エントランスホールで房代を待つことにした。
スタッフたちが出勤してくるのをそわそわしながら確認していると、エントランス前に乗用車が止まり、開いたドアから房代の姿が見えた。沙希は慌てて房代のもとへ駆け寄った。
「房代ちゃん!」
「えっ、沙希ちゃん!? どうして……?」
房代は目を大きく開いたまま絶句した。
その表情から沙希は、自分がなにかとんでもない失敗をしてしまったのだと悟る。だが、そのことは顔に出さず、当初の目的を果たすことに専念した。
「ごめんね。今日、結婚式に出ることができなくなっちゃったの」
「あ、……うん。でもここまで来てくれたんだね。ありがとう。せっかくだから、私がドレスに着替えるまで待っていてよ。お願い」
「いや、ごめんなさい。私、すぐに帰らないといけないの」
「帰る? どこに?」
房代は沙希の腕をつかんだ。まるで逃げようとする沙希をつかまえるように。
とらわれた沙希は背中にうっすらと汗をかいていた。
「あのね、私、人を待たせているの。ここに長くいることはできないの。ごめんね。でもどうしても房代ちゃんに会いたくて……」
「だったら、もう少しだけここにいてよ。もう少しでいいの。お願い。お願いだから!」
「ごめんね。もう行かなきゃ」
「沙希ちゃん、ダメだよ。それに、指輪はどうしたの?」
沙希はハッとした。房代は沙希の左手を握り締めていたのだ。
ということは、当然、離婚届のことも知っている。
(まずい――!)
これから花嫁になる人を傷つけるわけにはいかない。しかし沙希はつかまれた左手をねじって、少し乱暴に房代の手を振りほどいた。
そしてエントランスを飛び出し、門の外へ向かって走る。
「待って、沙希ちゃん!」
「房代ちゃん、おめでとう。幸せになってね!」
一瞬足を弱め、振り向きざまに叫んだ。それからは後ろを見ずに、式場から遠ざかる。
房代が追ってこないことを確認すると、立ち止まって呼吸を整えた。ここ2週間、詩穂子のマンションにいる間はほとんど運動していない。そのせいか、沙希はわずかな距離を走っただけなのに、気だるくて仕方なかった。
どこかで座って休まなければならない、と思うほど身体は重く、気分が悪い。
しかし道端には休めるような場所はないし、早朝に開いている店といえばコンビニエンスストアくらいだ。
もっと駅の近くまで行けばカフェがある。そこまで歩いていけるだろうか。
考えただけでも気が遠くなり、沙希はとりあえず身近な電柱に手をついた。
(まずいな。こんなところで倒れたりしたら……)
背後に誰かの足音が聞こえた。
携帯電話も持っていない沙希は、助けを呼ぶとしたら、どうしても他人に頼らなくてはならない。振り向いて、声をかけようとしたが、視界が急速に狭まり、足から力が抜ける。
「大丈夫? ……さーちゃん?」
ガクッと膝をついたそのときに、その声が聞こえた。
(ウソ……でしょ?)
沙希を「さーちゃん」と呼ぶ人物は、この世にひとりしかいないのだ。
電柱に抱きつくようにして、なんとか意識を保とうと努力する。ここで気絶するわけにはいかない。
「来ないで!」
叫んだつもりだったが、自分の声が聞こえない。沙希にはもう余力がなかった。指1本すら動かすことができないのだ。
終わった――。
最後の瞬間、沙希はそう思った。
房代から電話が来たのは車の運転中だった。陸は路肩に駐車し、電話に出る。
「ごめんなさい! 今、沙希ちゃんが式場に来てたの。でも出て行っちゃった。私、時間がなくて追いかけられないんです。どうしよう」
「沙希が? そこからどっちの方向へ行ったか、わかりますか?」
「えっと、門を出て、右の方角へ走っていったから、たぶん最寄の駅へ向かったんだと思います」
「わかりました。ありがとうございます」
「あの、沙希ちゃんは元気だったんですけど……」
房代はそこで言いよどんだ。
「どうかしましたか?」
「ずいぶん痩せたみたい」
「……そうですか」
(あれ以上痩せてどうするんだよ! 骨と皮だけになっちまうだろ)
房代との会話を終えると、陸は車を発進させた。
遠くからサイレンの音が聞こえてくる。だんだん近づいてくるその音が、前方から聞こえてくるのだと気がついたときには、もう救急車が陸の目にいた。
そして不穏な響きを残し、急速に遠ざかるサイレン――。
陸は嫌な予感が胸をよぎるのをどうすることもできず、ただハンドルを強く握り締めて、沙希との物理的距離を縮めるためにアクセルを踏んだ。