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第三部 10

 誰かに強く誘われなければモーターショーへ足を運ぶ機会などないだろう、と会場入りした沙希は周囲を見渡しながら思う。

 展示場全体があからさまに男性向けだ。

 各社のブースにはそれぞれの顔である自慢の車種が展示されている。その車の脇で、目を引く衣装のコンパニオンたちがポーズを取りながら観客にアピールしていた。沙希が思うに、メインの車よりもそのコンパニオンたちに熱い視線を送る男性が多いようだ。

「ねぇねぇ、あの子かわいい!」

 テオは吸い寄せられるように目的のブースへ向かう。

 陸を見上げると苦笑いを浮かべていた。

「アイツの目的はそれだったのか、と今気がついた」

「いいんじゃない。本当にみんな綺麗でスタイルいいし。私でもドキドキしちゃう」

「お前も負けてないって」

「いや、私はかわいくないし、背も小さいし、あんなにスタイルよくないし」

「ま、そこが沙希のいいところだよな」

 ポンと頭に陸の手が載せられる。沙希としては心の底からそう思うのだが、陸は謙遜と受け取ったようだ。

「でも他の男の見てるところでエロい格好なんか絶対させないけど」

「エロい格好? 何の話?」

 デジタルカメラを上着のポケットにしまいながら、頬を紅潮させたテオが割り込んできた。

 陸はテオの言葉を無視して歩き出す。

「ねぇねぇ、陸が言ってたナントカの発表はどうなったの?」

「ああ、別に見なくてもいいわ」

 不機嫌な声が聞こえてくる。沙希とテオは顔を見合わせた。

「でもせっかくだから見に行こうよ」

 沙希が軽い調子で言うと、陸はチラッと振り返り、渋々「いいけど」と同意した。

 男性ばかりの行列は華やかさとは正反対の独特な雰囲気を醸し出している。その隙間を縫うようにして歩いていくと、スピード感溢れるデザインのD自動車展示ブースが見えてきた。

 その裏手にトイレの表示を見つけたので、沙希は陸に小声で言う。

「あ、私ちょっとトイレに行ってくる」

「じゃあ、この辺にいるから」

「うん」

 沙希は陸とテオに微笑みかけて、小走りでD自動車ブースの裏手に回った。

 トイレの近くまで来て、一瞬足を止める。休憩中のコンパニオン数人がトイレに入っていった。ブースの裏側は忙しく動き回るスタッフの他に、関係者たちが談笑する姿が見られ、一般客が覗いてはいけない舞台裏のように見える。

 しかし別のトイレは遠すぎる。沙希は広大なホールを見渡し、やはりここのトイレに入ろうと決意して歩き出した。

 洗面台を占領するコンパニオンたちの無言の視線が痛い。そして複数の香水の混ざり合った強烈な匂いによって沙希の鼻腔は侵食されていく。

 異臭漂う狭い空間からホールに帰還した沙希はまず深呼吸した。そして陸の元へ戻ろうと一歩踏み出したところで、警備員が目の前に立ちはだかっているのに気がつく。

 目を上げて、鋭く息を呑んだ。



「またお会いできて嬉しいですよ」



 艶のある低い声が、沙希の耳にざらざらとした感触だけを残す。

「この前は怖がらせてしまったみたいで、悪いことをしたと思っています。でも、またお会いできて嬉しいですよ」

 警備員は最初の言葉をもう一度繰り返した。

 彼の頬に浮かぶ笑みは一体何を意味するのだろう。沙希は激しい動悸に襲われ、浅い呼吸を繰り返す。

「……どうして」

 口の中が乾いて、上手く発音できない。

 警備員の男は「ああ」と何かを納得したように相槌を打ち、自分の制服を指差した。

「これ、案外似合っていると思いませんか?」

 沙希が無言で目を見開くと、相手は器用に口角だけを上げて笑みを作った。

「コスプレをするのは好きなんです。元々ヴィジュアル系のバンドをやっていましたからね。でも失業したので今はこの仕事をしているんです」

 違和感を持ったのは、肩先で切り揃えられていた栗毛色の髪が制帽で見えなかったからだ、と気がつく。帽子の下はたぶん短髪だ。

 トオルという名前と、陸の昔のバンド仲間ということ以外、彼について沙希が知っていることは何もないのだと改めて悟る。

(失業? ……バンドを辞めたということ?)

 だが、自分には何の関係もないことだ、とすぐに思い直す。

 その隙にトオルが沙希のほうへ一歩踏み出してきた。咄嗟に沙希は後退りする。

「怖がらないで。今日は何もしませんよ。そういう契約なんで、ね。あなたには指一本触れない、とお約束します」

「契約?」

 訝しい表情でトオルを睨むと、トオルは嬉しそうな笑顔を見せた。

「仕事上の契約ですよ。詳しくお話したいけど、できないんです。これも契約。とにかくあなたをお待ちしていました」

 沙希はトオルを振り切り、後ろを向いて駆け出そうとした。だがその瞬間、誰かの腕に阻まれる。

「おや、前も見ずに突然走り出すと危ないですよ。会場内はとても混雑しているからね」

 真っ先に沙希の目に飛び込んできたのはスーツの生地だった。紺色で滑らかな肌触りなのに、ハリのある上質な素材。

 沙希は自分を抱きとめた男性から慌てて身を引いた。

「こちらのお嬢さんは?」

 低く貫禄のある声がトオルに向けて発せられる。途端にトオルから自信に満ちた表情や横柄な態度は消え失せ、心なしか緊張している様子だ。

「浅野沙希さんです」

「そうか、君が……。私はD自動車の代表取締役の堂本と申します。陸くんは心強いパートナーとして我が社でも力を発揮してくれているよ」

 そう言いながら堂本は沙希へ握手を求めた。拒否することもできず、おそるおそる手を伸ばすと、堂本はギュッと握り締めてくる。

「きっと来てくださると思ってお待ちしていました。私の娘があなたに会いたがっていてね。少し顔を出してくれるだけでいいので、さぁ、こちらへどうぞ」

「えっ……」

 堂本は強引に沙希の背中を押して歩き始めた。振り返るとトオルが艶然とした微笑を浮かべている。その透き通るような白い肌と異様に赤い唇が、目をそらした後も残像として沙希の瞳に焼きついた。

 陸と一緒に来場していることを伝えても、堂本はそれに取り合わず、むしろ沙希の背中を抱くように密着してきた。父親と同年代の男性だが、陸の実父である坂上のような安心感が堂本からは少しも感じられない。この違いは何だろう、と嫌悪感が充満する頭の片隅で思う。

 関係者専用の扉をくぐり、一番奥にある控室の前に立つと、堂本は咳払いをした。それからドアをノックする。

「真里亜、お連れしたよ」

 開いたドアの向こう側には不思議な世界が広がっていた。

 男性ヴォーカルの絶叫するような高音の歌声と、エレクトリックギターとベースの生み出す重層的な電気信号音、そして畳みかけるような激しいドラムのリズム。まず沙希の耳になだれ込んできたのは、若い日本人アーティストによるロックの楽曲だ。

 そして次に沙希の目がとらえたものは、色とりどりのおもちゃだった。室内には数種の積み木やブロックが足の踏み場もないほど散らばり、音の鳴るプラスチック製の大型おもちゃも点在している。

 この溢れかえるほどのおもちゃで遊ぶのは、まず間違いなく幼児だろう。

 案の定、大きなクマのぬいぐるみの影から、人形かと見紛うようなかわいらしい幼女が、用心深い目つきで沙希を観察していた。

「お父様。本当に連れて来て下さったの? 嬉しいわ!」

「お前の願いを叶えなかったことなどないだろう」

「そうね。さすが私のお父様だわ」

 部屋の奥から若い女性の声が聞こえてきた。室内には数人の女性がいるようだが、堂本を「お父様」と呼ぶ女性がこの部屋の主人だろう。

 沙希は堂本に背中を押されて部屋に一歩踏み出した。奥にいる女性の姿が目に入った瞬間、驚いて息を呑む。

「はじめまして、沙希さん。私は堂本真里亜です」

「……はじめまして。浅野沙希です」

 一目見てすぐにわかった。以前、マンションのエントランスですれ違った女性だ。赤ん坊を抱いていたので、彼女のことははっきり記憶している。

(この人がD自動車社長の娘……)

「真里亜は大学で陸くんと同じゼミにいて、非常に親しい関係だったんだ。なぁ、真里亜?」

「お父様、わざわざありがとう。もうお仕事に戻られたほうがいいわ。みんなが心配するといけないもの」

「そうだな。では沙希さん、どうぞごゆっくり。真里亜と仲良くしてやってください」

 沙希を強引にここまで連れて来た張本人が、娘の言葉でそそくさと退室していった。手のひらを返したような態度の違いに、沙希は唖然とする。

「あなたたちも、もういいわ。ネイル、すごく気に入ったわ。出張してもらったのでいつもの倍、お支払いするわね。それと瑠璃亜(るりあ)は私が連れて帰るから」

 真里亜の傍にいたのはネイリストで、真里亜と同じように胸元まで伸びた長い茶髪を揺らし、流行のショートパンツにニーハイソックスを合わせ、瞬きすると上下が絡まるのではないかと心配になるほどの長い付け睫毛を施している。

 そしてぬいぐるみに埋もれそうな幼い子どもの隣に座っていた女性はベビーシッターのようだ。この女性は真里亜やネイリストとは対照的に一切メイクをせず、髪も無造作に束ねただけだった。

 ネイリストとベビーシッターの二人は静かに退室準備をし、ろくに挨拶もせず、沙希を残して次々と出て行った。

 背後でバタンとドアの閉まる音がした。

「今日も会えないかと思ってた」

 真里亜はシンプルな一人掛けのソファに形のよい足を組んで座っている。その長い足は女性の沙希でも思わず見とれてしまう美しさだ。彼女はリモコンを手に取り、大音量で流れていた音楽を止めた。

「少し前にもチャンスを作ったのに、亀貝さんに裏切られてドタキャン。ま、あの日はブランドのパーティーだったから、沙希さん、そういうの興味なさそうだし、無理があったのは事実。それにしてもあのカメくんまで沙希さんにメロメロって、どういうこと?」

 言葉の上っ面を舐めるような喋り方だ、と沙希は思った。これが真里亜の地なのだろう。父親との会話は、他人の沙希でさえそのわざとらしさにうんざりした。

(そういえばさっきあの父親が言っていたことが本当だとしたら、彼女が陸の元カノ?)

 だとすれば、腑に落ちないことはいくつかあるにしろ、おおむね納得が行く。

「ね、どうやって誘惑するの? 今まで結構いろんな男、狂わせてきたんでしょ? そんな地味で暗そうな顔してると、男のほうから寄って来るの?」

 真里亜は長い髪を弄びながら、嘲るような視線をよこした。胸の中に小さな炎が燃え上がるのを感じるが、沙希は真里亜をじっと見つめ返す。

「残念だけど、誘惑したことも、されたこともないわ。真里亜さんこそ美人でスタイルもいいからモテるでしょう」

 できるだけ感情を抑えて返事をすると、真里亜の顔がふてくされた子どものようになった。

「ふーん、大人の余裕ってヤツ。なんかムカつく」

「私を怒らせようとしてるのね」

「ムカつくからムカつくって言っただけ。その学校の先生みたいな言い方、やめて」

 沙希は黙った。真里亜が苛立っているのは嫌と言うほど伝わってくる。しかし何がそれほど彼女を苛立たせるのかは一向にわからない。それにこれは幼い子どもの前でするような話ではない。

 瑠璃亜と呼ばれた子どもを見ると、ぬいぐるみをギュッと握り締め、上目遣いで沙希を見張っていた。

(この子、真里亜さんの子……だよね?)

 すっかり沙希を母親の敵と見なしている様子だ。

 その健気な姿に同情しながら真里亜に視線を戻す。それまで気だるそうに腰かけていた真里亜が、急に目を輝かせて立ち上がった。

「ね、陸から聞いてない?」

 沙希がわずかに首を傾げると、真里亜は勝ち誇ったように微笑んだ。それから瑠璃亜を抱き上げる。

「言うわけないか。まだ新婚だもんね。でもこういうことは早いうちにはっきりさせておいたほうがいいよ。お互いのために、ね」

(どういう……こと?)

 室内はシンと静まり返った。

 真里亜がクスッと嫌味な笑いを漏らす。その腕に抱かれた瑠璃亜がもぞもぞと身体の向きを変え、沙希の顔を窺うように見た。

 二人並ぶとよく似ている。屋外で遊ぶことが少ないのか、瑠璃亜は透けるように白い。髪も毛量が十分でないこともあり色が薄い。印象的なパッチリとした大きな目。すべてが計算されたように整ったパーツ。まるで西洋のお人形のようだと沙希は思った。

 その瑠璃亜に向かって真里亜が言った。  



「瑠璃亜、パパの名前、言って」

「パーパ」

「だから、パパのな・ま・え」

「……く」

「ん? もう一回」

「……いう」

「違うって」

「り……く」



 嬉しそうに笑い合う母子の姿を、沙希はドアの前で茫然と見つめる。

 頭の中にノイズが生じていた。ザーッという耳障りな音と、意識の集中を妨げる騒がしい信号。

(パパの名前が……りく)

 声も出ない沙希を真里亜は憐れむように見下ろす。

「陸に言ったら絶対『堕ろせ』って言われるから、この子ができたとわかってすぐ、何も言わずに陸から離れたの。足手まといになりたくなかった。……陸のこと、大好きだから」

 瑠璃亜が不思議そうな顔で沙希を見ている。

(この子が……陸の子?)

 濃いメイクの真里亜と並んだ瑠璃亜は、母親に劣らず美しい顔立ちなのに、どこか心もとなく寂しげだ。小さな顔に不釣合いなほどの大きな瞳。それらをぼんやり眺めていると、暗い表情をした陸の面影が、幼い瑠璃亜の不安げな表情に重なる。

「私、一人でもこの子を育てていけると思ってた。妊娠がわかったばかりの頃、両親は当然激怒。でも生まれた瑠璃亜の顔を見て急に態度が変わった。『援助は惜しまない。でもこの子に父親は絶対に必要だ』って言うの」

 真里亜は抱いている瑠璃亜に頬ずりした。瑠璃亜が声を上げて笑う。

「それから『父親は誰だ』って問い詰められて、言いたくなかったけど仕方なく陸の名前を出したら驚いてた。でも陸はもう沙希さんと同棲してるし。それ知ったとき、正直すごくムカついたわ。陸は瑠璃亜のことを何にも知らずに、昔から好きだった人と結婚するんだから……」

「ママぁ……」

「何?」

「……だちゅ」

「あ? ちゃんと日本語喋ってよ」

「お、だちゅー」

「おやつ?」

 瑠璃亜は勢いよく頷いた。真里亜は大きくため息をつきながら、先ほど腰かけていたソファの裏側に回ってスナック菓子の小袋を取り出すと、瑠璃亜をソファに座らせて袋を開ける。

 カリカリと小気味よい音が聞こえ始めると、真里亜が沙希を振り返り薄っすらと笑みを浮かべ、それからモデルのような足取りで沙希の前にやって来て、手にしていた写真を沙希の目の前に突き出した。

「いいもの、見せてあげる」

 沙希は眼前に示された写真をとりあえず見た。

 マンションの入り口から出てくる男性の姿が写っている。

 まずその建物が少し前まで陸とともに住んでいたマンションであることに気がついた。そして小さく写る男性の姿に目を凝らす。



(……この……男!)



 写真が視界に入った瞬間から、沙希の頭の中に警報音が鳴り響いていた。しかし目の前に差し出されたものを見ずにはいられなかった。写真に写る男性が、確かに見知った人間であるとわかった途端、沙希はこれ以上ないほど目を見開き、真里亜を見つめる。

(どうして、この人がここにいるの?)

 合成ではないかと疑いながら、もう一度写真を確かめる。

 脱色した長い前髪、白い肌と綺麗な顎のライン。少し細身だが背は高くない。地方の大学生のようなどこかあか抜けない服装のセンス、微妙に野暮ったい靴の好み――。

 背筋に寒気が走った。皮膚が粟立ち、思考が止まる。

 カサッと音がした。瑠璃亜が食べ終わった菓子の袋を床に捨てたのだ。

 口の周りに菓子の粉をくっつけたまま瑠璃亜が駆け出した。足の踏み場もないほど、床にはおもちゃがちらばっているのだが、彼女はそれらを蹴散らしながら部屋の中をぐるぐると走り回る。

 沙希は自分の指先が震えていることに気がつく。後退りすると腰がドアにぶつかった。

「沙希さん」

 ドアノブに手を掛けた瞬間、真里亜が言った。



「陸を返して」
 


 どうしてだろう。真里亜の目を真っ直ぐに見ることができない。沙希はカラフルなおもちゃを意味もなく凝視していた。

 ガシャンと派手な音を立てて瑠璃亜が転ぶ。

「危ないって!」

 真里亜の金切り声が部屋に響いた。その剣幕に沙希の身体がビクッと反応する。胸の中には汚泥のようなものが堆積し、すぐにでも吐き出したいという強い欲求が腹の底から湧き上がった。

 一瞬表情をなくした瑠璃亜が、思い出したように大声で泣き始める。

 もう我慢の限界だった。

 ドアに体当たりするようにして室外に出る。真里亜が何か言ったような気がするが、沙希の耳には届かない。暗い通路を小走りで突き進み、大ホールへ飛び込むが、そこで立ち止まらずに先刻利用したトイレへ迷わず向かう。

 一番奥の個室へ駆け込むと同時に、いくつもの鋭い針が腹部に突き刺さるような感覚に襲われ、その直後沙希は嘔吐した。

 意志の力でどうにかなるようなものではなかった。吐いてから、自分が吐いていることに気がついた。次から次へとこみ上げてくる嘔吐感に抗うこともできず、沙希は吐きながら涙を流した。

 何も考えられなかった。

 ただ息を吸っては吐くことを繰り返す。胃に吐くものがなくなっても止まらない。苦しくて勝手に涙がこぼれた。

 水を流しながら、どれくらいの間そうしていたのだろう。沙希には果てしない時間のように思えたが、10分かそこらだったのかもしれない。

 さすがに嘔吐感もおさまったので便器に座る。身体が重い。体力をごっそり削り取られ、自分の身体を支えているのが精一杯だった。

 そのとき初めてバッグの中で携帯電話が鳴っていることに気がつく。

 ドアの荷物掛けに手を伸ばすことすら億劫だった。身体が熱く気だるい。熱があるのかもしれないと思う。

 何もする気が起きなかった。動くことも考えることも、泣くことも悲しむことも、何もかもが面倒で、もっと正確に言うなら、生きていること自体に嫌気が差した。

 携帯電話は30秒間鳴り続け、そこでプツリと音が切れる。留守番電話に切り替わるのだ。しばらくするとまたくぐもった呼び出し音が聞こえてくる。何度も何度も繰り返す電子音にも、次第に慣れて、そして飽きた。

 それが30分くらい続いただろうか。

 急に携帯電話が沈黙した。もしかすると電池切れかもしれない、とぼんやり思う。沙希はそういうところに無頓着なのだ。

 そろそろ陸も諦めたことだろう。

 沙希は深いため息をついてうな垂れた。

 北国で生まれ育った沙希にとって、冬は友達のようなものだ。雪が降り積もり、厳寒の日が続いても、いつか必ず雪は解けて春がやって来る。それを信じているから、冬の到来を憂慮することもない。

 だが今、沙希の心にはどこまでも永久凍土が広がっていた。凍てついたこの地には、いつまで経っても春は来ない。涙を流せばおそらく瞬時に凍りつくだろう。

 結局、過去のある時点から、沙希の心の根底は何も変わっていないのだ。

 陸と再会後、少しずつほどけていく自分の心を、さなぎから蝶へ変身する瞬間を待つような気分で歓迎していた。けれども、さなぎからやっとの想いで羽化したところで、美しい羽は凍りついて広げることができない。

 浮かれていた自分の心が恨めしかった。沙希はいつの間にか、日々の生活の延長上に明るい未来が戻って来たと錯覚してしまったのだ。

 その甘い幻想も氷の世界からは裸足で逃げ出していく。

 何もかもが氷結する寒々しい心の風景を、沙希はただ静かに見つめていた。



 真里亜の示した写真に写っていたのは、他の誰でもない――沙希の元彼だった。

 

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1st:2011/12/16
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