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第三部 9

「わざわざ呼び出すなんて何の用?」

 坂上の書斎で陸は居心地悪そうに大きく肩を回した。ここのところずっとデスクワークで腕が重く感じるのだ。これが肩こりか、と今まで感じたことのない痛みに顔をしかめる。

「どうするつもりだ?」

「は? 何が?」

「お前たち、式は挙げないのか?」

「あ?」

 自分と同じ血が流れている男の顔を確かめるように見たが、冷やかしで言っているわけではなさそうだ。

 陸は腕を組んだ。

「今は忙しくてそんな暇ねぇよ」

「いつなら暇があるというんだ?」

 責めるような口調に驚き、陸は目を丸くした。

「前にも言ったけど、アンタ、沙希のことになると妙に干渉してくるよな。どういうつもりなのか聞きたいのはこっちのほうだけど」

「問題を摩り替えるな。お前に式を挙げる気があるのかと訊いている」

(何なんだよ)

 威圧的な言葉に対して反発心が膨れ上がるが、とりあえず冷静になれと自分自身に言い聞かせた。ひとりでいきり立ったところで坂上に言い負かされるのは目に見えている。

「沙希にウエディングドレスを着せてやりたいとは思ってるよ」

「陸は『結婚式などやりたくない』ということか。確かに金もかかるし面倒だからな」

「そういうわけじゃねぇよ」

「じゃあ、どういうわけだ?」

(……前は「入籍だけでも」って言ったくせに、今度は「式を挙げる気があるのか」だと?)

 坂上の顔をまじまじと見つめた。しかし彼が何を考えているのかまではわからない。

 しばらくして陸はフッと笑った。

「いや、確かにアンタの言うとおりだ。俺は無意識にその問題を遠ざけていたのかもしれない。沙希とも相談して考えてみる」

 坂上はなおも鋭い視線を向けてきたが、それ以上は何も言わなかった。

 家主の書斎を出て階段を上りながら、陸は収まりがつかない心を持て余し、深いため息をつく。

(だけどもし結婚式を挙げるとしても、アンタは出席できるのかよ?)

 北国に住む母親と現在の父親の姿が脳裏に浮かんだ。

 母親には坂上の家にいることを報告していない。これは緊急避難という特殊な事情でもあり、いわば仮住まいだ。それをいちいち知らせて、母親を無駄に悩ませたくはなかった。

(ホント、俺の周りって面倒なことばかりだな)

 だが沙希に結婚式には半年程の準備期間が必要と言われたことを思い出し、急がなければならないとも思う。

 陸と沙希が寝室として使用している客間のドアを開けると、沙希はベッドの上で雑誌を読みながら寛いでいた。陸のほうを向いてニッと笑う。

 その笑顔を見た途端、面倒な問題は全てどうでもよくなった。

 雑誌を取り上げて沙希の横に座り、肩に手を回す。不思議そうに目を見開いているのが可笑しくて愛しくてたまらない。

 まず軽く口づけた。初めてキスしたときから変わらない感触。それなのに毎回感動してしまうのはなぜだろう。



「結婚式、どこで挙げたい?」



 沙希の目が更に大きく開かれる。

「どうしたの、突然」

「沙希のウエディングドレス姿を見たくなった。あんまりのんびりしてるとおばあちゃんになっちゃうからな」

「ちょっと、ひどいじゃない!」

 腕の中で沙希が暴れたが、陸は離そうとはしなかった。

「やっぱり二人とも両親が向こうにいるから、あっちで挙げるのがいいよな。会社の人間とか呼びたいなら、披露宴みたいなパーティーをこっちでするっていうのもアリだし」

「……ホントにどうしたの? 私、別にしなくてもいいかなって思っていたんだけど。お金もかかるし、陸も忙しそうだし」

「金の心配とかしなくていいから」

 そう言うと、沙希は「ふふっ」と笑って陸の胸に頭を預けてきた。だが、笑ったままで何も言わない。

「何?」

「それってすごいことだなぁと思って。もし私がものすごく贅沢なことを頼んだらどうする?」

「全て姫の仰せのままに」

「なんかカッコいいなぁ! どうしよう。史上最大のウエディングケーキとか頼んじゃおうかな」

 目を輝かせて楽しそうに話す沙希の顔が普段よりも幼く見えて、陸は微笑みながら胸が詰まるような気持ちに耐えた。

(いつもそういう顔で笑っていてよ)

 しかし昔とは違って、沙希の表情を曇らせているのは陸の側にある問題だ。坂上の言葉が余計な干渉ではなく、適切な助言だったと苦い思いで噛み締める。

(結婚式くらいでそんなに喜んでくれるなら、ためらう理由など何もない。むしろもっと早く気がついていれば……)

 そう後悔しながら腕の中の沙希に囁いた。

「仕事も何とかするから、沙希も考えておいて。そうだな、実家のほうにも相談したほうがいいから近いうちに一度帰ろう」

「それはいいけど。……結婚式に……」

 陸を見つめる瞳が戸惑いの色を浮かべて揺れる。

「いや、なんでもない」

 沙希は迷いを振り切るように大きく首を振った。それから陸を見上げる。少し甘えるような仕草に誘惑の色を見た陸は、細い首筋と柔らかい髪の間に顔を埋めた。


     


 坂上家のいわゆる執事である牛崎の運転する車が、幹線道路を折れて小道に入った。駅が近いため、線路は真っ直ぐに伸びた道を塞ぐ形で横たわっている。目的地は見えているがなかなか近づけないのはそのせいであるらしい。

 どうやってあの場所に近づくのだろう、と駅の近くにそびえ立つマンションを見ながら沙希はドキドキしていた。

 何しろ沙希にとっては初対面となる折戸夫妻だ。陸から夫のほうは長身でワイン好きな紳士、妻は明るくおしゃべり好きの美人と聞いている。

 そして夫婦の間に子どもはいない、とも――。

 やはりそのことには殊更触れるべきではないだろうと思う。

 自分たちはまだ新婚の部類だが、沙希も懐妊の兆しがない。月の物がやってくるたび、残念な気持ちになる。

 こればかりは望めば必ず叶うというものではない。子どもを授かるのはおそらくひとつの縁なのだ。その縁を引き寄せる力が自分に備わっているのかどうか、沙希にはいまいち自信がなかった。

(まぁ、陸がああ言ってくれなかったら、もっと自信なかったと思うけどね)

 そう頭の中でつぶやいていると車が減速した。目の前には見るからに堅固な造りのマンションがある。沙希は持っていた花束を強く握りしめ、車を降りた。

 坂上が陸と沙希、そしてテオを折戸の家の前まで先導する。陸と沙希が住んでいるマンションもそうだが、ここも最上階フロアに一邸のみという贅沢な間取りのスペースのようだ。

 これくらいのことでは驚かなくなってしまった沙希は、慣れとは怖いものとしみじみ思う。

 折戸家の玄関ドアが開くと、笑顔の紳士が「いらっしゃい」と張りのある声で迎えてくれた。

「沙希ちゃんに、テオくんだね。よく来てくれました!」

「まぁ! いらっしゃい。上がって、上がって! あら、こんなにかわいいお嫁さんだなんて!」

 長身の夫を押しのけるようにして、小柄な妻が玄関に現れた。すると場がパッと花が咲いたように明るい空間に変わる。

「沙希ちゃんね。はじめまして、折戸の妻の秀子(ひでこ)です。夫は茂。パリで偶然陸くんと会ったんだけど、沙希ちゃんとお会いできなくて本当に残念だったわ。それでね、二人が入籍して日本に戻って来たって聞いて、これは是非お祝いしなくちゃ、とこの人と話していたのよ」

 沙希が愛想良く「ありがとうございます」と頭を下げて妻へ土産の花束を渡すと、夫の折戸茂が「話は後で。まず入ってよ」と一同を促した。

 リビングルームに通された沙希は、思わず感嘆の声を上げた。

 テーブルには美しく盛りつけられた料理が並び、各席には一流レストランのようなメニュー表が準備されていた。

 そのメニュー表には「本日のゲスト」という欄があり、そこには沙希の名前も含め全員の名が記されている。自分の名前を見つけた沙希は、些細なことではあるが、ひどく感激した。

 珍しくテオが沙希の隣で小さくなっている。緊張しているらしい。そのことに真っ先に気がついた陸は急に噴き出した。

「テオらしくないな」

「そりゃ僕だって……」

 テオが反論しかけたところに、折戸茂がワインの瓶を持って現れた。早速坂上のグラスに慣れた手つきで注ぐ。

「いいね、譲一は。若者に囲まれて、賑やかで楽しい毎日だろう。あれ、譲一も少し若返ったんじゃないか?」

「おかげさまでね」

 坂上は笑顔で答えた。それからキッチンのほうを覗く仕草をして秀子を気遣った。

「テオくんはワインというわけにはいかないだろうな」

 茂が少し大きな声でそう言うと、キッチンで冷蔵庫が開く音がした。秀子は慌ててりんごジュースの瓶を持ってくる。

「さぁ、それじゃあ乾杯しましょうか」

 それぞれのグラスに飲み物が行き渡ったことを確認して、秀子が夫を促した。茂は「それでは」と立ち上がって軽く咳払いする。

「私たちの友人、陸くんと沙希ちゃんの結婚、それからテオくんとの出会いを祝して、乾杯!」

「乾杯!」

 グラスに少しだけ口をつけテーブルに戻すと、茂は今飲んだばかりのワインについて講釈を始めた。坂上は「ほう」と感心しているが、沙希にはさっぱりわからない。陸とテオは料理を自分の皿に取り分けることに熱中していた。

 秀子の料理の腕前については、事前に坂上から聞いていたが、それにしてもこれはすごい、と沙希はテーブルの上を眺めた。

 主に野菜メインの料理たちが並ぶ。ホームパーティーならでは素朴さと温かな気遣いがテーブルに満ちている。

 その中で鯛のカルパッチョとスモークチキンが早々に姿を消そうとしていた。陸とテオが競うようにして食べている。肉・魚類には目がない二人だ。

 沙希も秀子の料理に舌鼓を打ちながら、ソースの作り方を訊ねたり、初対面なのにそれほど気兼ねせずに秀子と会話を弾ませた。

 食事が一段落すると、秀子は沙希にヨーロッパ旅行の話を始めた。秀子は特に南イタリアの陶器が気に入り、行く度に少しずつ買い集めているのだと言う。そしておもむろに食器棚を開くとその中から一枚の小皿を取り出し、沙希に手渡した。

 鮮やかな黄色が目に飛び込んでくる。レモンが大胆な筆づかいで描かれていて、皿のふちは青で囲まれていた。

「かわいい模様ですね」

「でしょ? 見ているだけで元気が出る気がして」

「そうですね。でもこのお皿、結構な重量がありますね」

「そうなの! だから持ち帰るのが大変」

 沙希と秀子は顔を見合わせて笑った。

 しばらくして秀子が小さな声で「沙希ちゃん」と呼びかけた。男性陣は折戸家のワインセラーを見学に行き、テーブルには沙希と秀子しか残っていなかった。

「無理していない?」

 その質問の意図を図りかねて、驚いたように目を大きくすると、秀子が言いにくそうに口を開く。

「譲一さんの家は男性ばかりで、女性は沙希ちゃんだけでしょ?」

(ああ……)

 沙希は苦笑した。

「無理はしていません。坂上さんには以前からずっとよくしていただいてますし」

「あの人、よく気が回るけど、肝心なところがダメだからね」

 手厳しい発言に沙希は頷くこともできず、曖昧な笑みを浮かべる。そんな沙希を見て秀子はクスッと笑いを漏らした。

「だけど驚いたわ。陸くんはもうちょっとひねくれた感じになっちゃうのかなって思ってた」

 沙希も同じようにクスッと笑う。

「それは確かに……」

「二人は仲良しなの?」

 男性陣が戻ってくる気配はないのだが、秀子の声は囁くように小さくなる。

「仲良しと言ってしまうと語弊があるかもしれないですね」

「それはそうよね。普通の父親と息子の関係だってあの歳まで仲良しってことは滅多にないもの。……まぁ、私には子どもを育てた経験がないから、本当のところはわからないけど」

 咄嗟に沙希は目を細めて唇をぎゅっと結んだ。それから「私もです」と同意すると、秀子が大きな声で笑った。

「ねぇ、沙希ちゃんは何人兄弟?」

「妹が一人います」

「私も同じよ! 長女って何かと気苦労が絶えないのよね」

「はい」

「女姉妹だけ見て育つと、男の人の些細なことがいちいち不思議じゃない? 私だけかしら?」

「私もそうですよ」

 過去のこと、陸のこと、陸の祖父である会長のこと。それらが一瞬で沙希の脳裏を駆け抜ける。

「理解できないことも多いです」

「そうよね! 逆に『どうしてこんなこともわからないの!』と思うことも多い」

 沙希は秀子の言葉に力強く頷いた。

 向かい側で秀子が嬉しそうな笑顔を見せる。

「沙希ちゃん、お願いがあるの」

「はい?」

 無邪気に返事をした沙希は、秀子の顔を見て瞬時に表情を消した。

「赤ちゃんが生まれたら抱っこさせて」

 切実な響きがこもるその言葉をどう受け止めたらいいのか、判断がつかない。

 秀子はフッと笑った。

「変な意味じゃないの。私、陸くんも生まれてすぐに抱っこさせてもらったのよ。その陸くんと沙希ちゃんの子どもなら、私たちにとって孫も同然。二人の子どもなら絶対かわいいと思うし」

「……もし子どもが生まれたら、そのときは是非」

「いいの!?」

 上擦った声が聞こえた。沙希は満面の笑みでそれに答える。

「抱っこしてください。秀子さんに抱っこしてもらったら、真っ直ぐないい子に育ちそうな気がします」

「そうよ、そうよ。陸くんという立派な前例があるからね」

 顔を上気させた秀子は得意げに言った。そんな秀子を見ていると少しでも早くその約束を実現させたくなったが、ふと本当にそんな日が訪れるだろうかという不安が沙希の胸をよぎる。

 秀子に悟られないよう小さくため息をついたとき、リビングルームに男性陣が戻ってきて急に賑やかになった。沙希と秀子だけの秘密の語らいはそこで途切れてしまったが、秀子と交わす視線に優しい何かが加わったような気がして、沙希は胸の中に温かいものを感じていた。


     


「企画書読んだよ」

 折戸茂が陸の隣に座り、唐突に言った。

「どうですか? やっぱり難しいですか?」

 陸は茂のほうへ身を寄せて問う。聞かれて困るというわけではないが、何となく小声になった。

「簡単ではないが、ウチも今はこれという稼ぎ頭がない状態だ。そうなると会社全体の士気が下がる。悪循環さ。それを打開したい。よって前向きに検討中だ」

「ありがとうございます」

 ホッとしながら軽く頭を下げる。

 実はこの企画書を書き上げた時点で、陸にはかなり自信があった。今回の企画は突然の思いつきではない。潤也と競ったプレゼンの段階で既に考えていたことだ。ただ、K社が独自に発売することは技術的にも、営業力的にも難しいと思われた。

 しかしS社と組めば、互いに得意分野を補い合いながら、同業他社には簡単に真似できない高品質のものを作り出せるという確信がある。

 茂が陸のワイングラスにワインを注いだ。

「だが陸くんは出向中だ。となると、そっちの責任者は陸くんというわけにはいかないんだろう? 来週には話し合いを始めるつもりだが大丈夫かい?」

 心配そうな低い声を出す茂に、陸はニヤッと笑って見せた。

「ウチの責任者は亀貝潤也というヤツに頼むつもりです」

「亀貝!? お宅の会長と同じ名字じゃないか」

「そうですよ。俺の親戚です」

「ということは、亀貝家の人間か。……おい、本当に大丈夫なのか? お宅の会長、今はD自動車にべったりなんだろう?」

 茂は疑うように肘で陸を小突く。

「潤也は今のところ俺の上司ですし、生真面目で信頼できるヤツですよ。それに潤也の秘書が沙希なんです」

「沙希ちゃんが! そりゃいい。早速明日から打ち合わせを始めようか。俺のほうは毎日でもいいぞ」

 皿に料理をこんもりと盛りつけたテオが、ニコニコしながら「何だか楽しそう」と割り込んできた。茂はテオの顔を見るとアニメの話を始めた。途端にテオのテンションが上がる。

(折戸さんが話のわかる人でよかった)

 陸はテオの皿からオリーブの実を摘んで口に放り込む。噛むと種が歯に当たった。

 沙希のほうを見ると、酔いが回ったのか頬は勿論、首筋までほんのりと赤い。目元も上気し、瞳は潤んで見えた。少し微笑んだ横顔がとても綺麗だと思う。

 出会った頃に比べると頬のラインがいくぶんシャープになった。それが緩いウェーブのかかった髪型とよく合っている。

 家庭教師時代は勿論、大人になって沙希に再び出会い、一緒に暮らし始め、彼女の横顔など見飽きるほど見てきたはずなのに、それでも陸はその横顔から視線を離すことができずにいる。



 できることならいつまでもいつまでも見ていたい――。



 何かを想うより早く視線が沙希をとらえてしまうことにずいぶん前から気がついていたが、それを恥ずかしいと思ったことは一度もない。彼女に対する自分の気持ちが曖昧なときですら陸は、自分が沙希を見つめることは息をするのと同じくらい当たり前だと感じていた。

 結局、自分の全てが沙希を欲しているのだと思う。生まれたときから無条件で両親を愛するように、出会ったときから心は沙希を求め続けているのだ。

 内心苦笑しながらも、陸は時間の許す限り薄桃色に染まる沙希の横顔を見つめ続けていた。

 

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1st:2011/10/11
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