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第三部 11

 トイレに行ったはずの沙希がなかなか戻ってこない。そのことに気がついたのは沙希と別れて15分を経過したころだった。

「なぁ、ちょっと遅くねぇか?」

 D自動車のブースでもらったカタログを開いているテオに話しかけると、無邪気な笑顔が返ってきた。

「そうだね。でも女の子にはいろいろ事情があるからさ」

「沙希とは長い付き合いだけど、アイツはな、時間がかかるときは『ちょっと時間かかるからね』とか必ず言い残していくんだよ」

「トイレが混んでいるのかもしれないよ」

 陸はテオの顔を睨んだ。

「その可能性はあるな」

「そうでしょ? 見てくる?」

「いや、もう少し待つ」

 本当は気になって仕方がない。それでも女子トイレの前で沙希が出て来るのを待ち構えている自分の姿を想像すると、陸はげんなりしてしまう。

 テオと男ふたりでいると手持ち無沙汰だが、それからさらに5分待った。

「やっぱり遅すぎる」

 陸はいてもたってもいられない気分だった。

「見に行こうよ。混んでるかどうかくらいはわかるからさ」

「そうだな」

 言い終える前に陸は歩き始めた。焦燥感が喉元まで迫ってくる。

 D自動車のブース裏にはできれば近づきたくないが、そうも言っていられない。トイレの表示を確かめて、人通りの少ないスペースへ進む。

 華やかなブースの裏側はピリピリした異様な空気に包まれていた。スタッフ全員が何かの目を気にして、ぎこちない動きをしている。陸は目をこらしてその原因となる人物を探した。

「混んではいないみたいだね」

 隣でテオがのんびりした声を出す。

 陸はD自動車のブース裏を観察するのをやめて、トイレの入り口まで歩み寄った。

「女子トイレに何かご用ですか?」

 背後で艶のある低い声がした。驚いて振り向くと、警備員の格好をしたトオルがいた。

「トオル! お前がなんでここにいるんだ」

「見ればわかるだろ? 仕事さ。それより陸、不審者として報告されたくなければ、女子トイレからは離れてもらわないとね」

 トオルは胸ポケットからトランシーバーを取り出した。どうやら本物の無線機らしい。

(やられた!)

 後退りしながら唇を噛む。テオが隣に来て肩を叩いた。

「へぇ、ボディガードを雇ったんだ」

 艶然とした笑みを浮かべたトオルは、陸が下がった分だけ、前に進んできた。この余裕の態度から、トオルが沙希の行方を知っていることは間違いないと確信する。

「沙希をどこに連れて行った?」

 トオルは不気味な微笑を浮かべたまま、一向に答えようとはしない。

 その不遜な態度が陸の苛立ちをあおった。

「お前……!」

 低く唸るような声を出す。

 直後に誰かが小走りで近づいてきた。D自動車の社長だ。

「浅野くん、探していたよ」
 
 陸は堂本を視界にとらえた瞬間、耳の奥で絶望的な音が鳴ったような気がした。陸のそばで、テオが息を潜めている。余計な口出しをしないほうがいいと察している様子だ。

 これ以上もたもたしていられない。

 どうせトオルからは有益な情報を引き出すことはできないだろう。そう判断して、陸は堂本へ向き直った。

「妻がここでいなくなりました」

「沙希さんだね。君とはぐれて困っている様子だったから、こちらで待っていてもらったよ」

 堂本は「さぁさぁ」と陸を促して移動する。一礼するトオルの横を通り過ぎて、陸とテオも堂本の後を追った。

 本当に沙希はそこにいるのか。胸に不安がよぎる。だがたとえこれが罠であっても確かめずにはいられない。

 関係者専用と書かれた扉を抜け、堂本は一番手前のドアを開けた。

「ゆっくりしていってください」

 その言葉が誰に向けて発せられたものなのかわからないまま堂本が出て行き、背後でバタンとドアが閉じる音がする。狭い戸口に陸とテオの二人が残された。

 室内は思ったより広い。戸口すぐの左脇には給湯室があり、正面は10畳ほどの和室だった。戸口の右側は壁だが、どうやらこれは建物の構造上、柱として機能している壁のようだ。

 テレビの音が聞こえてくる。

 陸は室内に数歩踏み込んでいき、部屋全体を見渡せる場所で立ち止まった。テレビは戸口からは見えない右側にあった。和室より一段低い床には絨毯が敷きつめられている。

 テレビの前には応接セットがあり、決して若くはない男の後頭部が見えた。



(くそっ! 罠だ!)



 顔を見ずとも、そこに座っている人物の正体がわかった。それも当然のことだ。どんなに嫌悪しようとも、自分の祖父に気がつかないわけがない。

「あの男の行動力は認めるが、スマートさが足りないようだな」

「沙希は?」

「その点、坂上は逸材だった。お前は恨んでいるかもしれないが、あれほどの男はそうそういない」

「沙希をどこにやったって訊いてんだろ? 答えろよ」

「女のことで騒ぐな」

「女を利用してるのはそっちじゃねぇか」

「なるほど。それはお前の言うとおりかもしれない。彼女は一番奥の部屋だ」

(それを早く言え!)

 陸は祖父の言葉が耳に届くと同時に踵を返し部屋を出る。テオも後ろからついてきた。

「一番奥ってあのドア? 本当に沙希はいるの?」

「わかんねぇ。でも行くしかないだろ。そこにもいなければしらみつぶしに探す」

「ねぇ、沙希に何があったの? 誰かに狙われているの?」

 暗い通路を大股で歩き、ついに突き当たりのドアの前にたどり着く。

「説明してる暇がない」

 陸はノックすると同時にドアノブを回した。

 勢いよく開いたドアの向こうは、祖父のいた控室とは正反対で、床一面におもちゃや菓子の袋が散らばった乱雑な空間だった。

「いらっしゃい。遅かったわね」

 部屋の奥から女性の声がした。陸はおもちゃを蹴り飛ばしながら部屋の中央へ進む。

「沙希は?」

「少し前に帰った。一応呼び止めたんだけど、走って出て行った。ショックだったみたい」

 一人掛けのソファに真里亜が足を組んで座っていた。陸の顔を見ようとはせず、自分の爪を撫でては目の前にかざして眺めている。

 真里亜の長い足に巻きついているのが彼女の娘だ。その幼女は用心深い表情で陸の顔を窺っていた。

「その子が俺の子だと言ったんだろ」

「本当のことを教えてあげただけ」

「ふざけんな! 子どもの前で他人を騙す母親なんて最低としか言いようがない。お前、恥ずかしくねぇのか?」

「陸こそ熱くなっちゃって、大丈夫? あの女の毒にあたったんじゃない?」

「それ以上、沙希を悪く言ったら許さない」

「私、おしおきされちゃうのかな。それも面白そうだけど、その前にいいもの見せてあげる」

 真里亜はクスクス笑いながら立ち上がった。そしてソファの肘掛に置いてあった紙片をつまみ上げ、くるりと表に返す。

 一枚の写真が陸の目の前に掲げられた。

(なんだ、この写真?)

 見覚えのあるマンションのエントランスに、若い男性の姿が写っている。陸はひと目でその男がこのマンションの住人ではないことに気がつく。

「陸は初めて見るんじゃない? でも沙希さんはこの男が誰だかすぐわかったみたい」

 下卑た笑みを浮かべる真里亜の顔を見るなり、彼女の手から写真をひったくる。そのまま奪い取った写真を手の中で握りつぶした。

「彼、結構いい男でパッと見は外国の俳優みたいな顔立ちしてる。背が低いのがちょっと残念な感じ。沙希さんって意外とイケメン好きなんだ」

「……お前、なんてことしやがる」

 写真がグシャッと音を立てる。

 印画紙は硬くて厚みがあるため、強い力で握ると手のひらが痛む。それでも陸は手の力を抜くことができない。

「もともと沙希さんは彼のものだったわけで、それを陸が寝取ったんでしょ。『なんてことしやがる』は彼のセリフじゃない?」

「お前に、俺や沙希の何がわかるって言うんだ!?」

 怒鳴り声が部屋に響いた。

 真里亜の表情がすっと消える。

「誤解しないで。その男は自力で沙希さんの居場所を探し当てたんだから。頻繁にうろついてる……って、わざわざ忠告してあげてるのに」

 陸はあらためて真里亜を睨みつけた。その忠告がどこまで本当なのかはわからない。だが、たとえすべてが真実だとしても、この件に関して陸が真里亜に対して感謝することなどありえない。

「お前と話している時間が無駄だ」

 ため息とともにそう吐き捨て、陸はドアへ向かう。ドアの前ではテオが沈痛な表情をしていた。

「素敵なボディガードね」

 見送るつもりなのか、真里亜が近づいてくるのを、陸は肩越しに振り返り牽制する。

「お前がどれだけ卑怯な手を使っても、俺は絶対に沙希と離婚しない。それにその子が俺の子だと主張するなら、DNA鑑定を受けろ。それまで俺は出向命令を拒否する。お前の親父にそう伝えておけ」

 テオを押しのけるようにしてドアを乱暴に開けた。それから黙ったままのテオをドアの外へ押し出すと後ろ手でドアを閉める。くしゃくしゃになった写真はズボンのポケットにねじ込んだ。

「どうする?」

 通路を戻る途中、テオが小声で話しかけてきた。

「とりあえず携帯にかけてみるか」

 陸は歩きながら携帯電話を操作し、耳に当てる。呼び出し音が聞こえてくると、祈るような気持ちで電話が繋がる瞬間を待つ。しかし待てども待てども沙希が電話に出ることはなく、呼び出し音が途切れたかと思うと、留守番電話サービス案内に切り替わった。

「ダメだ。出ない」

「会場の中、全部を探す?」

「二人で手分けして探したところで、見つけられる可能性は低いかもな」

 テオと会話しながらも、携帯電話で沙希を呼び出し続けた。沙希の携帯電話に電波が届いていることは間違いない。藁にもすがる想いで呼び出し音を聞く。

「こういうとき、沙希はどこへ行くかな?」

「そうだな……」

 関係者専用のドアから大ホールへと戻ってきた。陸とテオは同時に辺りを見回すが、沙希の姿は見当たらない。肩を落とすテオの向こう側に、沙希と似た背格好の女性が見えた。

「あれ、沙希かも」

「え、どこ!?」

 陸は携帯電話を耳にあてがったまま駆け出した。後ろからテオがついてくる。

 それにしても遠い。沙希らしき人影は隣のホールへ向かって移動しているが、彼女に追いつくためには全速力で走ったとしても数分かかるだろう。その上、直線を走るのとは違い、各社のブースごとに人だかりができていて、それらを迂回し、かつ彼女を見失わないようにすることは、いくら陸が敏捷に動き回ろうともほとんど不可能だった。

 沙希と同じカーキ色のジャケットを着た女性の姿を完全に見失ったところで、陸は立ち止まった。携帯電話からは相変わらず呼び出し音しか聞こえてこない。

「くそっ! どこにいるんだよ!」

「陸……」

(お前が帰ってくる場所は俺のところだろ!? 約束したじゃねぇか!)

 留守番電話サービスに切り替わるアナウンスを消す。そしてリダイヤル。繋がる可能性は低いとわかっていても、呼び出していないと不安で仕方がないのだ。

 テオが心配そうな目で陸の様子を見つめていた。

「ねぇ、陸。館内放送は使えないかな?」

 陸は少しの間考える。

「もし沙希が放送を聞いていたとしても、出てくるとは思えない」

「……それは沙希が僕たちから逃げてるってこと?」

 左の耳に留守番電話サービスの女性の音声が聞こえてきた。陸は電話を切り、自分の携帯電話をぼんやり眺めた。

「だろうな」

「え、どうして? さっきの女性のところにいた女の子を、陸の子どもだと思ったから? それとも陸がぐしゃぐしゃにした写真と沙希に、何か関係あるの?」

「たぶん、どっちも……」

 言ってから、陸は目を伏せた。

 どうせなら真里亜の言葉を鵜呑みにせず、陸に直接「本当なのか」と問いただしてほしかった。しかし沙希がそんなことをするとは思えない。

(アイツが俺のそばからいなくなろうとしてるなんて……)

 信じたくないが、これが現実だった。

 ずいぶん前から悪い予感はあったのに、結局陸は最悪の事態を回避することができなかったのだ。今更悔やんでも遅いが、次から次へと後悔の念が湧きあがる。

「じゃあ沙希は一人でいるのかな」

「それはわかんねぇ……」

 急に警備員の制服を着たトオルのことが脳裏に浮かんだ。そういえばトオルはどこに行ったのだろう。まさか――?

「陸、諦めたらダメだよ。やっぱりここを探そう。迷子になっているだけかもしれないよ」

「いや、あの警備員を捕まえるぞ。一番ヤバいのはアイツだ」

「わかった。さっきのトイレ前まで戻るんだね」

 陸は頷くと、急ぎ足で移動を開始した。テオも陸の後ろを歩きながら左右を見回している。

 会場を行き交う人々の間をすり抜ける。顔を見合わせて微笑みを交わす恋人たちの姿が、しぼみかけている陸の胸を容赦なく押しつぶした。



(アイツに、俺を信じろ……と言っても無理なのか)



 つい1時間前には、沙希だって陸の隣で笑っていたのだ。その沙希がいなくなってしまった。

 真里亜のことが憎い。

 しかし陸は、沙希に信じてもらえない自分自身にも同じくらい憎しみを感じていた。過去の素行の悪さが今になって自らを窮地に追いやるのだから、自業自得としか言いようがない。もし人生にリセットボタンがあるなら、今の陸はためらうことなく押すだろう。

 陸は長谷川の言葉を思い出した。



『彼女のそういうところにつけ入ろうとする輩がいます。敵の嗅覚は鋭い。そしてやり方はあざとく、狡猾です』

 

 真面目すぎる沙希が心の底から愛しかった。そしてできるなら自分の手で沙希を守りたいと思った。

 だが、沙希本人はそれを望んでいないような気がして、陸の心はみっともないくらい怯えていた。沙希に拒絶されたらどうなってしまうのかは、陸自身にもわからない。

 すくんでしまいそうな足を前へ前へと進める。

 不安と心配が、愛しさと切なさが、爪を立てて陸の心をかきむしっていた。


     


 会場の外に出ると、太陽はもうすっかり姿を消していた。

 バッグからおそるおそる携帯電話を取り出してみると、やはり電池切れだった。沙希は小さくため息をついてバッグを閉じる。

 それからタクシー乗り場へ向かう。すでに閉場時間をすぎているため、タクシー待ちの列には数人しかいない。ほとんど待つことなくタクシーに乗り込み、沙希は都心へと向かった。

 車は30分ほどでK社の本社ビル前に到着した。沙希は裏門へ回り、さりげなく駐車場を確認する。見覚えのあるシルバーのスポーツカーが役員専用の駐車スペースに停まっていた。

 裏門の守衛に社員証を見せて、沙希は休日の職場へ向かった。もっぱら庶務の仕事をしている沙希が休日に出勤することはめったにない。ひっそりと静まり返った社内は見知らぬ場所のようだった。

 沙希はまっすぐ自分のデスクへと向かった。潤也の姿はなかったが、デスク上のパソコンは起動している。しばらくしたら戻ってくるだろう。それまでにやっておきたいことがあった。

 予想どおり10分も経たないうちに潤也が現れた。

 いるはずのない沙希の姿を見つけた潤也は、驚いて「えっ」と短く声を上げる。

「どうした? それもこんな時間に」

「休日出勤、お疲れさまです」

「俺には休日など関係ない。日曜日にデートをする相手もいないから」

 そう言って自嘲気味に笑った潤也は、沙希の顔を見て瞬時に笑みを消した。それから手にしていた書類を整えて机上に置くと、あらたまった声を出す。

「川島さんがわざわざ一人でここにやって来たからには、それなりの理由があるということか」

 沙希は無言で潤也のデスクの前へ移動する。

 机を挟んで向かい合い、潤也の胸元めがけて封筒を差し出した。



「突然で申し訳ありませんが、一身上の都合で退職させていただきたいと思います」



 潤也は退職願と書かれた封筒には目もくれず、沙希だけを見ていた。

「陸はこのことを知っているのか?」

「いいえ。私の独断です」

「つまり、キミがこういう決断を下さずにはいられない出来事に直面したということだな。それもほんの少し前に……」

 沙希は潤也の視線を真正面から受け止めた。

 潤也の嘆息が聞こえると同時に、封筒が沙希の手から離れる。

「わかった。預かっておく」

 沙希が深々と頭を下げると、潤也はもう一度ため息を漏らした。

「それで、キミはこれからどうするんだ? 陸とは別行動なんだろう?」

「もう一つ、お願いがあります」

 顔を上げた沙希に、潤也はゆっくり頷いて見せた。 



「私を佐和さんのところへ送り届けてもらえませんか」



 一瞬、潤也の表情が険しくなったが、数秒後には「わかった」という返事が戻ってきた。

 

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1st:2011/12/22
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