応接用ソファの端に腰かけた沙希は、改めて来客の顔を順に見た。
倉田由紀の隣には仕立ての良いスーツを着た真面目そうな若い男性、そして一番奥に貫禄を漂わせた風貌の元大臣と思われる人物が座っていた。
この二人の男性はどうやら親子らしい。紹介された際に名字が同じ「谷川」だったことからも容易に推測できたが、顔や体型もよく似ている。
だが、彼らと倉田由紀の関係がわからない。
そう思いながら沙希は、前社長坂上と元大臣谷川の当たり障りのない世間話を聞いていた。
ふと、坂上が沙希のほうへ顔を向けた。
「私たちの話はつまらないだろう。倉田さんと二人で喫茶に行ってくるといい」
沙希は驚いて坂上の顔を見つめ返す。返答に窮していると、向かい側から「行きましょうよ」と軽やかな声がした。
「少しお話したいこともありますし」
そうまで言われると頷かないわけにはいかなかった。沙希はおずおずと立ち上がり、一礼すると、由紀を先導するように前を歩き、社長室を後にした。
喫茶室は売店と同じフロアにある。名称は喫茶室だが、ガラスドアをくぐると中は昔ながらの喫茶店そのものだ。新入社員の頃、ここで上司にコーヒーを奢ってもらったことを思い出す。
(あのときは仕事でミスが続いたり、向かいの席に座る人から仕事と関係ないメールを毎日送りつけられていて、相当まいっていたな。おまけに元彼から手紙が来て……)
自分にとっては不可解なことばかりだったが、相手は何かに駆り立てられるように行動を起こしていたのだろう。
(でもあれからもうずいぶん経つんだな)
店内に充満するコーヒーの香りを深く吸い込み、昔のトラブルを意識の上から追い払う。
就業時間中ということもあり、社員の姿はほとんどないが、入り口から一番遠い奥の席へと進んだ。
腰を落ち着けてスタッフに注文を伝えると、倉田由紀が真っ直ぐにこちらを見つめてくる。それを居心地悪く感じながらも、沙希は再度正面から由紀の顔をとらえた。
「まず、以前のことをあやまります。とても失礼なことを言ってごめんなさい」
由紀は座ったまま、腰から身を折り曲げるようにして頭を下げる。
「いいえ、あの、もう気にしていませんから、頭を上げてください」
さすがの沙希も度肝を抜かれた。全く期待していなかったということもあるし、彼女がなぜ謝罪しようという気持ちになったのか、沙希には想像もつかない。
顔を上げた由紀は沙希の顔を見て苦笑した。たぶん表情に当惑が滲み出ていたのだろう。
「驚いているでしょう?」
「ええ」
沙希は正直に答えた。由紀の豹変ぶりを見て驚かないほうが不思議だ。
「私もね、自分が今こんなふうに穏やかな気持ちでいることに少し驚いているの」
言葉の続きを促すように由紀を見ると、ちょうど注文したコーヒーが運ばれてきた。由紀はそれに口をつけて喉を潤すと、また静かに話し出す。
「K社はとても魅力的な会社だと聞かされていたの。技術力が高くて、小回りの利く組織だと。大財閥の後ろ盾があるわけでもなく、グループ化もしやすい。……言いたいことはわかるでしょ?」
沙希は小さく頷いた。
由紀は元K社員としてではなく、S社の創業家の一員として発言しているのだ。他社、特に日本有数の大企業から見たK社は、取り込めば旨味(うまみ)のある組織という位置づけなのだ。
沙希の反応を確認すると由紀は続ける。
「高校生になった頃、父親から『K社の社長にはお前と同い年の息子がいる。お前が彼と結婚すればお互いに救われることばかりだ』と言われたのよ。最初は気持ち悪く思った。いきなり会ったこともない男と結婚しろと命令されて、素直に言うことを聞けるわけないわ。それからずっと父親には反発していたけど、結局私の意志とは無関係に、K社に入社することになっていた」
「そう……だったんですね」
複雑な気分で相槌を打った。高校生という言葉が沙希の胸に暗い翳を落とす。
「でも入社して、浅野くんを一目見て、この人なら結婚してもいいかも、と思ったの」
由紀は笑いながら言った。反対に沙希は唇を噛む。
「だって想像以上に格好よくて、きっとものすごく私のタイプだったんだと思う。もう『絶対この人と結婚する』って決めたわ。だけど彼は全く私のことを相手にしなかった。それどころか、完全にバカにされてたのよね。悔しくて悔しくて、こんな屈辱初めてだったから、絶対許さないって心に誓ったの。だってデートの約束を2回もすっぽかされたのよ!?」
(ああ……)
沙希は自分が会社で倒れた日のこと、そしてリフレッシュ休暇で帰省し、陸と再会した日のことを次々と思い出した。
「それなのに彼はあなたと結婚することを決めてしまって、私は自分の夢が永遠に叶わないものになったショックで、……あなたに八つ当たりをしてしまいました」
「……いえ、あの……」
「ごめんなさい。あやまって済むことではないけど、あやまりたかった。あの頃の私は本当に世間知らずで、自分でも自分が何をしているのか全然わかってなかった。お金さえあればどんなことも自分の思い通りになるって信じていたのね。大抵のことは父親に言えば何とかしてもらえていたし」
(それはすごい……)
心の中でつぶやいた。実際、以前の由紀は本人の告白とそれほど違わないイメージだった。
「でも、浅野くんのことはさすがに父親の力でもどうにもならないし、更にここの会社から追い出されることになって、今度は父親が代議士と結婚したらどうだ、なんて言い出してね」
(代議士……)
沙希は社長室で由紀の隣に座っていた男を思い出した。
「もう父親の言いなりになるのは嫌だと思いながらも、その人と会ったの。それが三ヶ月前。彼に出会って私の世界が変わったわ。大げさだって言われるかもしれないけど、本当に、何もかも。私、はっきり言って自分は特別な人間だと思っていたの。一般のサラリーマン家庭の人たちと、S社創業家に生まれた私は住む世界が違うんだって本気で思ってた」
沈痛な面持ちで由紀がコーヒーを啜る。ほどなくカップがソーサーに戻される音が聞こえた。
「だけど彼は違った。彼の父親も祖父も政治家で、彼自身も代議士だから、きっと私と似た価値観を持っているはずだと思ったのに、まず私の話を聞いて怒ったわ。『君は勘違いをしている。君が会社をクビになるのは当然だ』ってね」
そう言ってから由紀はクスッと笑った。
「最初はムカついたけど、なぜか彼にまた会いたいと思う自分に気がついたの。いつも怒られてばかりなんだけどね。これまで私の話をきちんと最後まで聞いてくれる人が周りにいなかったんだって、今は思う。でも当然よね。自分が特別だと勘違いしている人間と仲良くなりたいなんて誰も思わないわ」
「でも、この会社にも友達はいたでしょ?」
沙希は由紀の取り巻きだった女性社員たちを思い出していた。彼女たちとはたまに廊下ですれ違うこともあるが、仕事上接点がないので挨拶を交わすことも稀だ。
「友達と呼べるような関係じゃなかったわ。だけどこういうところで仲間を作るのは得意だったの。私は彼女たちが羨ましがるものを持っていたから」
ああ、と沙希は心の中で思う。由紀の服装や持ち物、派手なふるまいや金遣いの豪快さは同年代の女性たちからすれば、憧れる部分もあっただろう。
「私、きっと川島沙希さんに憧れていたんだと思う」
「え?」
唐突な告白に沙希は驚いた。
「私にないものを持っていたから。だから浅野くんの相手があなただと知って、無意識だったけど、どう頑張っても勝ち目がないと悟ったのよ。でも認めたくはなかった。それで何かひとこと言わずにはいられなかったんだわ。本当に愚かよね」
「でも……」
自嘲気味に微笑む由紀を、沙希は複雑な表情で見つめる。
「倉田さんの言ったことは正しいかもしれない、と思うことがある」
思い切って言うと、由紀は眉をひそめて険しい目つきをした。
「何かあったんですか?」
「いいえ、何かというわけではなくて、ほら、私はパーティーとか出たことなくて、ああいう華やかな世界に少し気後れを感じてしまって……」
沙希は内心の動揺を宥めながら、いわゆる上流階級の人々が集っていた夜のことを思い出した。きっと由紀にとっては珍しくもない光景のはずだ。やはり由紀は特別な世界で生きてきた人なのだと思う。
コーヒーを飲んで苦い気持ちを紛らわしていると、由紀が考え事をするように首を傾けた。
「華やかに見えるだけで、実際はつまらない見栄の張り合いだったりしますよ。むしろあんなところに染まらないほうがいいと思いますけど」
「倉田さんにそう言われるのは、なんだか不思議な気分」
途端に由紀が笑い出した。
「ですよね! だけど中にはブランド品を身につけていなくても、素敵に見える人がいるんです。『その時計、どこのブランドですか?』って訊いたら『ノーブランドで五千円くらいだった』って答えられたときは、負けたって思ったわ」
「それってもしかして、谷川さん?」
社長室で由紀の隣に座っていた誠実そうな男の顔を思い浮かべる。由紀は頬を薄っすらと赤く染め、笑顔で小さく頷いた。
「スーツはオーダーメイドなのに、時計は五千円なんて、その頃の私には絶対許せなかった。でも急に、そういう自分のこだわりは、ポリシーでも何でもないって気がついたの。着飾らなくても輝いている人はいる。私も自分を磨こうと思って」
「……恋、してるんだね?」
由紀の顔が更に赤くなった。
「たった一人の人との出会いが、自分をここまで変えるとは思わなかったわ。しかも彼に認められるような人間になりたいと思うなんて……。笑ってもいいですよ」
「笑わないわ。そういう倉田さんも素敵だなって思う」
素直な気持ちを述べる。
女子トイレで由紀からきつい言葉をぶつけられたという事実はなくなるわけではない。しかしこれからはその傷跡に触れても、沙希の心は以前ほどズキズキとは痛まないだろう。
由紀は沙希の目を真っ直ぐに見つめてきた。
「あなたにはやっぱり敵わない」
「え?」
「今日、浅野くんがいないのを知っていたから、ここに来ることができたんです。私、彼にはもう合わす顔がないもの。本当はあなたにだってそう。だけど川島さんはきっと受け止めてくれると思ったんです。あんなことを言ったときだって、私にきちんと向き合ってくれましたよね」
沙希も由紀の顔をじっと見つめた。
「浅野くんが川島さんを好きになる気持ちがわかるわ。私なんか視界にも入っていなかったんじゃないかしら。でも……」
由紀は急にうつむいて小声で言う。
「それでも浅野くんから冷たい言葉を聞きたくなくて。……他に好きな人がいる、今でも……」
「私も倉田さんに敵わないなって思うわ」
「え? 何が?」
不思議そうに目を丸くする由紀に、沙希はフッと笑って見せた。
「素直に自分の気持ちを言葉にできるところ。すごく羨ましい」
由紀は笑いながら首を横に振る。
「この率直すぎるところがダメだって、彼にもよく注意されるの」
「そう?」
内心で「ごちそうさま」とつぶやきながら、コーヒーに口をつけた。
それから社内の変わった部分について、由紀と世間話を交わす。束の間、心の中の靄が晴れたような清々しい気持ちになり、普段よりも一層コーヒーが美味しく感じられた。
噂にたがわず、国内屈指の大企業は、その堅実な運営を反映して、奇抜なデザインや豪奢な装飾は一切排除し、質と機能を重視した建屋を本拠地としていた。つまり、大きいがその他にはこれといった特徴のないビルがD自動車の本社である。
新入社員の頃、とはいえまだ1年前の話だが、陸は営業部の一員として様々な企業を訪問した。
K社もそうだが、大抵の会社は商談室が設けられ、会社の中枢部へ他社の人間が入り込むことは滅多にない。この平和な国でも企業スパイはいる。そういう意味で陸の出向は潤也の言うとおり、D自動車の内部を見学できる滅多にないチャンスだった。
そして陸の新たな仕事場は社長室の真下、企画室と呼ばれる部署だ。
一見普通のオフィスだが、かなり雑然とした印象のK社に比べると、整理整頓、そして清掃が行き届いている。
(さすが、と言うべきか。5S管理が徹底されてるな)
5Sというのは整理・整頓・清掃・清潔・しつけの頭文字を取って名づけられたスローガンだ。製造業やサービス業の現場では職場環境を美化し、社員のモラル向上を図るために用いられている。
K社では終業時間後の15分が5S活動に充てられているが、全員が熱心に取り組んでいるとは言いがたい。
(こういうところは見習わないとな)
だがこれを社員全員に徹底させるのは非常に困難な作業だ。社員それぞれ仕事のやり方が違う。それを今日から急に変えろと要求すれば、必ず反発が起きるだろう。
ため息をつき、手にしている企画書に目を戻す。
D自動車の一部の車種に、K社で最も人気のあるカーナビゲーションシステムを標準装備するという企画だ。
(これって……)
陸が眉間に皺を寄せるのと同時に、机上の電話が鳴った。
真上の社長室から、呼び出しの電話だった。企画書を携えて席を立つ。
社長室で陸を待ち構えていたのは、堂本真里亜の父親だった。
「どうだい。いい話だろう?」
応接用ソファに腰を下ろすやいなや、真里亜の父親は満面に笑みを浮かべて訊ねてくる。
陸は数秒、企画書の表紙を眺めた。
「そうですね。ウチにとってはいい話です」
「何か不満でも?」
陸の言い方に感じるところがあったのか、向かい側に陣取る堂本の顔が少し曇った。
「いいえ。不満ではなく、都合がよすぎる話なので、御社に迷惑がかかるのではないかと思っただけです」
「迷惑どころか大歓迎だよ。これで惜しみなくK社に出資させてもらえる」
(結局ウチの車載部門がほしいってことだろ。……ったく、このままだと本当にのっとられるぞ)
しかし営業用のポーカーフェイスを崩さず、曖昧な相槌でごまかした。陸にはこれ以上意見を言う権限がない。それに元手となる金がなければ会社が立ち行かなくなってしまう。
堂本は陸の様子を見て薄っすらと笑みを浮かべた。
「この国を動かしているのは政治家だと思うかい?」
唐突な質問に、陸は眉だけを動かして反応する。向かい側では堂本がソファに背中を預けた。
「そういうことには興味がありません」
大きな笑い声が社長室内に響きわたった。のけぞるような姿勢の真里亜の父親は、いかにも満足という表情で頷く。
「昔、坂上くんも同じことを言ったよ。だがね、坂上くんは知っていたから、政治家になる道を選ばなかったんだ。この国を動かしているのは政治家じゃない。経済だ」
(つまり「金だ」って言いたいんだろ)
陸は喉元まで出かかった言葉を押し留めて、視線を斜め下方へ落とした。
「K社はいわゆる大財閥の後ろ盾がない珍しい組織だ。それがここまで成長したのはひとえに坂上くんの手腕によるものだろう。素晴らしい。しかしこれからは一社で頑張っても世界での競争には負けてしまう。それは我が社も同じこと」
堂本は茶碗に手を伸ばす。口を潤し「だから」と続けた。
「互いに協力できる部分は大いに協力し合おうじゃないか。別の風が吹き込むことで刺激にもなる。そう思わないかい?」
「……そうですね」
「真里亜のことも頼むよ」
反射的に目を上げた。いつのまにか堂本の顔から笑みが消えている。真っ直ぐに向けられる視線に切実なものを感じ、陸は少しだけ目を細めた。
「無理です」
「君はもう少し話のわかる男だと思っているんだがね」
「わかろうとも思いませんね。僕の全てを失っても、妻を手放したくはないので」
「若いな。若いからそんなことが言える。だがK社が立ち行かなくなったら、君たちの生活だって行き詰まるのではないかな? 君たちだけじゃない、K社の社員全員の生活が君の返事にかかっているのだよ」
(脅し、か。アンタらは間違いなく親子だよ)
挑戦的な目つきで堂本を見る。
「娘さんが本当にかわいいなら、彼女が産んだ子の本当の父親と結婚させてあげたいと思うものじゃないかと、僕は思いますが」
「父親というものは、結婚する娘には幸せな生活を送ってもらいたいと望むものだよ。私は君を見込んで頼んでいるんだ。娘に似合う相手としてね」
(似合う? ……どういう意味だよ)
陸は嫌悪感を隠そうとせず、わざとらしいため息をついた。
「娘さんにお似合いの相手は他にいくらでもいるでしょう。これ以上僕を脅しても無駄ですよ」
「……そうか。誤解しないでほしいのだが、私は君を脅すつもりはない。互いにメリットのある良縁だと思うから強く勧めるだけのこと。しかし気が変わることもあるかもしれない。私はまだ望みを持っているよ。君ももっとよく考えてみるといい」
(考える前から答えは決まってる)
ムカムカしながら堂本の言葉を聞き流す。理不尽な要求に対して律儀に返事をする義務はない。
そろそろ暇を告げようと口を開きかけたとき、堂本が立ち上がってデスクへと向かった。机上の書類を手に取って応接スペースへ戻ってくる。
「K社と我が社が手を組むことを今度のモーターショーで発表するつもりだ」
手渡された書類をパラパラとめくってみる。期日は1ヵ月後だ。D自動車との提携は後戻りのできないところまで来ている、と陸は悟った。
「そうですか」
返事をしながら、頭の中では別のことを考えていた。ぐずぐずしてはいられない。次々とやるべきことをリストアップする。
「せっかくだから楽しくやろうじゃないか」
「はい」
陸は軽く微笑んだ。
これほど面倒なことに巻き込まれて、楽しいわけがない。だが腐っているだけでは道は拓けないだろう。どうせならこの立場を利用してやる、と狡猾な堂本の顔を見ながら陸は思いを新たにした。
定時に仕事を切り上げると、陸は沙希を迎えに行き、更に途中でテオを乗せて帰宅した。テオは結局演劇部に入部し、楽しく活動しているようだ。高校生のテオは車に乗った途端、今日の出来事を時系列順に話し始め、それには沙希が愛想良く応対した。これもそろそろ日常の風景として定着しつつある。
食事の席に着くと、坂上が食前酒を飲みながら、陸たちの帰りを待ち詫びていたようだ。陸の顔を見るなり口を開く。
「折戸から『遊びに来ないか』と誘われたが、お前たちはどうする?」
陸は即座に長身の折戸の姿を思い出した。
「俺たちもいいの?」
「お前と沙希ちゃんとテオも『是非一緒に』と言われている」
「じゃあ行く。いつ?」
「二週間後の週末だ」
カレンダーを振り返り、陸は頷いた。
箸を手に取ったところで、不安そうな目をした沙希がこちらをみていることに気がつく。
「あ、そっか。沙希は折戸さんと会ったことないよな」
「うん」
問うような視線を受け止めながら、陸は帰宅途中に聞いた倉田由紀の話を思い出した。あの倉田由紀が沙希に謝罪したとは、意外すぎてにわかには信じられない。
(そういえばアイツの家がS社の創業家一族だったな)
生まれた家がたまたま一般的ではない血筋だった、というだけの話だが、普通ではないことを強いられるのは、それはそれで厄介なことだと陸は知っている。
(しかし沙希は相変わらず妙なヤツらに好かれる体質だな。男も面倒だけど、女も微妙……)
向かい側で沙希が小首を傾げるのを見てハッとした。倉田由紀のことはS社繋がりで連想しただけなのに、折戸の説明を忘れるところだった。慌てて頭を整理する。
「折戸さんはS社の幹部なんだ。おっさんの友達でワイン好きの紳士だよ、な?」
坂上に同意を求めると、彼は眼鏡を押し上げてフッと笑った。
「友達の中でも悪友に近い男だが、なぜか陸のことが気に入ったらしい」
沙希が感心したように大きな目を更に大きく開いて相槌を打つ。テオも坂上の前だからか、あるいは事態を把握していないためか、「えー、すごいじゃない」と大げさな感想を漏らした。
陸は気恥ずかしくて、目の前の皿を手に取ると、料理を夢中で口に運ぶ。
そして一息つくと、テーブルを見渡して言った。
「D自動車は今度のモーターショーでK社との提携を発表するらしいぞ」
「モーターショー?」
最初に反応したのはテオだった。
「モーターショーっていうのは車の展覧会だ」
「そのくらい意味はわかるよ。ねぇねぇ、それって誰でも見に行けるの?」
「一般公開日もあるはず」
「行きたい! ね、沙希も行きたいでしょ? 一緒に行こうよ!」
向かい側を見ると、沙希がきょとんとしていた。
「テオは車が好きなの?」
「勿論!」
沙希は乗り気ではないらしく「うーん」と唸っている。
「私、車とか全然詳しくないから……」
「大丈夫だよ。きっと楽しいよ! 陸も一緒だし」
「おい、俺はまだ……」
反論しかけたが、テオの顔を見て思わず絶句する。テオはニヤリと笑って隣席の沙希に擦り寄った。
「あ、陸は来なくてもいいよ。沙希は僕が全力で守るから」
「誰が行かないと言った?」
低い声で抗議すると、真向かいからクスクスと笑うかわいらしい声が聞こえてきた。
「じゃあ、みんなで行こうよ」
テオが沙希に抱きつこうとしたので、陸は威嚇代わりに腰を浮かせてわざと椅子の音を鳴らす。意地悪い笑みを浮かべたテオは、何事もなかったように姿勢を正し、食事を再開した。
ワイングラスに手を伸ばしたとき、それまで黙っていた坂上が不意に口を開いた。
「陸、食事が終わったら私の部屋に来なさい」
改まってそう言われるとドキッとした。軽く「ああ」とだけ返事をしてワインを喉に流し込む。
心配そうな表情で沙希が陸を見ていた。
最初は気がつかないふりをしていたが、何だかくすぐったい。そのうち急に笑いがこみ上げてきたので正面から見つめ返すと、沙希も安心したのか、フッと緊張を解いて優しい顔で微笑んだ。