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第三部 6

 デスクの上は、沙希が席を外した昨日の午後から時を止めたように、そのままの状態で保存されていた。さすがにノートパソコンの電源は切ってあったが、いくら黒川が派遣社員で、まだ世間知らずな部分が多いとしても、それくらいの判断は自分でできたのだろう。

(じゃないと困るけど)

 黒川の席に目をやり、沙希は苦笑いを浮かべた。彼の出社時間はいつも沙希より遅い。

 沙希が新入社員の頃はできるだけ早く出社するように心がけていたが、黒川はいつも始業時間ギリギリだ。遅刻しないだけマシと考えている自分は、彼の指導係にふさわしくないかもしれない、と思う。

「おはよう」

 背後から声がしたので顔を上げる。潤也が自分のデスクの上に鞄を置くのが目に入った。

「今日は欠勤かと思ったよ。アイツ、意外と甘くないんだな」

「おはようございます。欠勤する理由がありませんので出社しましたが」

 整った顔に皮肉な笑みを浮かべる潤也と、目が合った。

「嬉しいよ。キミに休まれると仕事がはかどらないから」

 その言葉を聞いて、沙希は警戒心を強くしたが、潤也の視線が黒川の席に注がれていることに気がついて少し慌てた。

「あ、黒川さんはもう少しで出社してくるはずです」

 潤也は厳しい表情で小さく頷く。

「彼がいるとできない話だから、ちょうどいい。……昨日のことだよ。陸はキミにどう説明しているのか、知りたくてね」

「どうって……」

 逆に昨日の潤也の行動について訊きたいことが山ほどある。しかし、それは一旦心の中で凍結しておいて、陸が自分に言ったことを振り返ってみた。

「『悪いのは俺』だ、と。具体的にはそれくらいです」

「なるほど」

 斜め前方に位置する潤也のデスクを見ると、彼は腕を組み思案顔をしていた。間が悪いので沙希は机上の書類に目を落とす。

「俺は昔からアイツのそういうところが嫌いだったよ」

 険のある口調が耳について、反射的に目を上げた。潤也はわざと嫌そうに表情を歪めて見せる。

「そもそも俺を庇って誰が得をするんだ? ……他人の悪口を言わないのは、結局アイツ自身のためさ。相手を立てて自分のイメージを上げるんだ。甘やかされて何でも手に入る環境に育ったせいか、他人に対する嫉妬心も少ないらしく、挑発しても乗ってこない。全く手ごたえのない陸を、以前はただのバカだと思っていたが……」

「今は違うんですか?」

 潤也はフンと鼻で笑う。

「少なくとも俺は、逆立ちしてもアイツの真似はできない」

(……それって、陸を認めたということ?)

 沙希は潤也の顔をまじまじと見つめるが、何を考えているのかまではわからない。

 潤也がこちらを見た。

「最初から勝ち目がないのはわかっていたんだ。会長が陸を差し置いて、俺を優遇するはずがない。だが、会長の目指す『世界一』という夢には興味があった。この国は狭すぎる。国土だけじゃない。人の心も含めて、何もかも……」

 そこで一旦言葉を切ると、潤也はフッと自嘲気味に笑った。

「だけど、そうじゃないということを思い知らされたんだ。悔しいけど、アイツにね」

(……え?)

「狭いのはこの国じゃなくて、俺の心だと……」

 沙希は返す言葉が見当たらず、ただひたすら目の前にあるノートパソコンと向き合っていた。

 潤也がデスクの上を整理して、パソコンに電源を入れた。

「問題はこれからだ。代表者会議の総意に反して、我が社はD自動車と組んで世界の市場へ一気に攻勢をかける方向で動いている」

「D自動車、ですか?」

 思わず言葉を挟んだ。沙希の頭の中には今朝、乗ってきた社用車の姿が浮かぶ。

「そうだよ。キミが驚くのも無理はない。今まで全く取引のない相手だからね。取引と言っても社用車の購入などとは別次元の話だ」

 沙希が小さく頷くと、潤也は満足そうな顔で続けた。

「我が社は海外へ販路を広げたことでブランド力を強化したが、世界的な不況のあおりで致命的な赤字に陥っているのも事実だ。そのため資金調達をどうするかということが深刻な問題になっている」

 パーテーションのそばで人の気配がした。潤也がそちらへ視線を送る。

「おはようございます」

 姿を見せたのは黒川だった。ぼそぼそとした声の挨拶に応じながら、沙希は苦笑する。あまりにもタイミングが悪い。

「簡単に言えば、スポンサー候補だよ。覚えておいてほしい」

 それで話は切り上げられた。沙希も神妙な面持ちで「はい」と返事をして、ノートパソコンの電源を入れる。

(スポンサーにD自動車か……。あの大企業が出資してくれたら心強いけど、ウチの主要取引先はS社だし、そんなに簡単な話じゃないよね、きっと)

「あの、川島さん」

 向かい側の席から声がした。見ると黒川が申し訳なさそうに首をすくめている。

「この処理、次にどうすればいいのかわからなくなってしまったんですが……」

 席を立って、黒川の隣へ移動した。同時に潤也の携帯電話が鳴り、彼は電話を持ってパーテーションの外へ出て行った。

 パソコンモニターを指差しながら、説明を終えると、黒川が急に声を潜めて「昨日のことなんですが」と切り出した。沙希が驚いた顔をすると、黒川は慌てふためく。

「あの、わけがわかってなくて、全然お役に立てなかったんですが、……浅野さんってすごいですね。歳は僕とそれほど変わらないのに、考え方が大人で、あの亀貝さんにもはっきりと自分の意見を言えて。それに比べると僕は……と考えて落ち込んでしまいます」

 黒川の言葉を聞いているとくすぐったくてたまらない。沙希はとりあえず困ったような顔を作る。

「浅野くんも昔は、音楽と女の子のことしか考えていない高校生だったよ」

「えっ? でも成績はよかったんでしょう?」

「それが全然なの。勉強もしないし、世の中のニュースにも興味なし。どんな社会人になるんだろうって、当時は心配だったな」

「でもそれって家庭教師の先生がよかったってことですよね?」

 比較的真面目な声でそう言われたので、沙希は大げさに噴き出した。

「私は関係ないよ」

「いや、絶対そうですよ。川島さんの仕事を近くで見ていると、こっちまで背筋が伸びる気がしますから」

「そう言ってもらえるのは嬉しいけど、でも浅野くんは自分で気がついたんだと思う。このままじゃダメだ、ってことに」

「じゃあ、もし浅野さんの家庭教師が川島さんではなく別の人だったとしても、今の浅野さんになっていたと思いますか?」

(それは……どうだろう?)

 実際、陸の家庭教師は、前任者のギブアップによって沙希が引き受けることになったのだ。沙希と出会わなければ、陸はバンドを続け、メジャーデビューを果たし、今頃は手の届かない人になっていたかもしれない。

(……いや)

「たぶん、私と出会わなくても浅野くんは自分で気がついたと思う。きっかけはどこにでもあるんだよ。ただそれに気がついて、それを深く心に留めるかどうかは、その人次第ってことじゃない?」

「そうですね。……僕も頑張ります」

 セリフとは裏腹にどこか頼りない黒川の姿を見て、沙希は微笑んだ。そして小さくため息をつく。

 自席に戻ると無力感がどっと押し寄せてきた。

 沙希が他人のためにできることなど限られている。ましてや他人を変える力などあるはずもない。

(それに陸がこの会社を継ぐ気になったのは、私とは無関係だもの……)

 陸の母親に「どうしても陸を大学に進学させたい。もう先生しか頼れる人はいない」と真剣な眼差しで懇願された日のことを思い出した。

 それから坂上や佐和の姿が目に浮かぶ。言葉にしなくても、それぞれが陸に大きな期待を寄せていることを、たぶん陸も嫌というほどわかっているだろう。



(だとすれば、……今、陸の足手まといになっているのは……私?)



 陸の疲れた顔を思い出すと、急に胸が痛んだ。沙希には不可避の出来事だったとしても、陸をひどく心配させてしまったことは変わりない。

(困ったな……)

 陸と入籍したことを後悔しそうになる。

 慌てて頭の中からその考えを追い払うが、突き詰めていけば結局、この不愉快な出来事は、陸と沙希が結婚したことに起因するのだ。

(やっぱり「つり合わない」ってことなのかな)

 陸から婚約指輪をもらった翌日、今はもうこの会社にいない倉田由紀から言われた言葉を思い出した。



『つり合わないと思いませんか?』

『浅野くんと川島さんとじゃ住んでいる世界が違うんです』

『どうせ、うまくいくわけないわ』



(「うまくいくわけない」……か)

 明確な身分の上下などなくなったはずの現代で、家柄など気にするのはバカバカしい。それに元より沙希は、金にも名誉にも興味がなかった。

 しかし今はその想いが、ただの強がりでしかないような気がしている。

 倉田由紀が言うように、資産や社会的地位のある家に生まれついた人間は、それに見合う相手を選ぶべきなのかもしれない。そのほうが周囲の理解を得やすく、障害も少ないはずだ。

 一般的な家庭に生まれ育った沙希が、いわゆる富裕層の生活に馴染めるようになるまでどれくらいかかるだろう。それを考えただけでも気が遠くなる。



(だけど……陸と別れるなんて……もう二度と考えたくない)



 手元のファイルを開いた。

 だが、沙希の脳裏には全く別の映像が流れている。

「その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し……」

 結婚式で壇上の神父が、新郎と新婦の前で「誓いますか」と問う場面だ。

「誓います」

 まず新郎が答える。そして、新婦に同じ問いが繰り返されるのだ。

(もし……)

 と、沙希は純白のウエディングドレスを着て新婦になった自分を想像する。



 自分だったら、どんな声で答えるだろう――。



 ファイルに意識を呼び戻した。確認した数値を目の前のノートパソコンへ入力し、またファイルに視線を落とす。 

 営業部のあるフロアと違って、ここは静かだ。パソコンや周辺機器が起動中、常に出している音以外は、キーボードを叩く音や紙をめくる音、通路を歩く誰かの足音、そして電話に応対する声くらいしか聞こえてこない。

 単純な作業を繰り返しながら、沙希は漠然と抱いていた疑念が、徐々に確信へと変わっていくのを感じた。

(ちゃんと誓い合っていないから?)

 だから自分たちの結婚は、不安定な土台の上でとりあえず成立している状態なのではないか、と。

 誰かがそこに落とし穴を用意していても、何の不思議もない。そんな気がしてきた。

(バカバカしい。そんな乙女チックな発想、恥ずかしくて誰にも言えないよ)

 勝手に暴走する自分の思考に慌ててブレーキをかける。

 結婚式をしなくても、揺るぎない基盤の上に築かれた家庭はたくさんあるに違いない。問題は、沙希と陸が未だに、どこかおぼつかない夫婦であるということなのだ。

(今朝、陸は「二人で一つ」って言ってくれたのにね)

 沙希はノートパソコンの液晶画面を凝視する。

(……ということは、何か足りないのは私のほう?)

 ドキッとしながらファイルの数字を目で追った。

 まだあんな夢を見るようでは、陸の妻として失格なのかもしれない。過去の忌まわしい記憶はほとんど思い出せなくなっているのに、眠っている間は勝手に記憶がよみがえり、頼んでもいないのに現実の出来事かと錯覚するほどリアルに再生されてしまう。

 沙希の中には依然として陸の影の及ばない場所があるということだ。

(ああ……。こんなんじゃダメだ。そしてどんどんダメになっていく。……そんなの、もう嫌!)

 沙希はキーボードを少し強めに叩いた。

 結局、起こってしまったことはどうすることもできない。何度も考えてみたが、結論は同じだ。

 ならば、もっと頭の中を陸のことでいっぱいにすればいいのだ、と急にひらめいた。

(ぶっ! 高校生みたいなこと考えてるなぁ)

 その恥ずかしい思いつきのせいで笑いがこみ上げてくるのを、ノートパソコンの陰に隠れてやり過ごす。

 そしてふと、自分ばかりが満たされていたのではないかと思った。

(陸が私を想ってくれるのと同じように、私は陸を愛せているかな?)

 物事を複雑に考えてしまうのが、沙希の悪い癖だった。だから行き詰っては、些細でつまらぬことにこだわり、大事なことが見えなくなってしまう。

(何が起こっても、陸に対する私の気持ちは変わらない)

 昨日のように不可解な事件に翻弄されても、沙希は絶対に逃げ出したり諦めることはしないと改めて自らの心に誓う。

(こう見えても私、実はものすごくわがままなんだから!)

 また身を縮め、ほんの一瞬だけニヤッと笑った。ふてぶてしい自分も案外嫌いじゃない、と思いながら――。


     


「川島さんの様子はどうですか?」

「まぁ、今朝は何でもないような顔をしてたな。でも今日は大丈夫じゃね? 何があっても亀貝さんが守ってくれる」

「浅野さんは、相変わらず余裕のある態度ですね」

 長谷川が運転席から嫌味っぽく流し目を送ってきた。陸は大げさに嘆息を漏らす。

「余裕なんかあるわけない。しかも幽霊に遭って気分は最悪」

「幽霊とはひどい。元カノでしょう? それにあれほどの美女はそうそういませんよ」

「俺、ずっと自分は面食いだと信じてたけど、アイツに限っては最初からいまいち好きになれなかったんだ……。性格の悪さが目つきに表れてるっつーの?」

 クスッと笑う声がした。陸も鼻で笑っておく。

「ところで、何か対応策を考えましたか?」

 運転席から真面目な質問が飛んできた。午後の幹線道路は予想通り渋滞している。信号が青に変わっても一向に進まない車列を、陸はうんざりという目で眺めた。

「確かに長谷川さんの言うとおり、俺一人でどうにかなるような話じゃないみたいだな。だけど会社の取引と、娘が産んだ子どもの認知は、公私混同もいいところで、どこでどうやっても結びつかないだろ。考えることがおかしいんだよ、大企業のお偉いのクセに」

「そういうものですよ。身に余るものを持つと、何よりもまず保身を考えてしまうのでしょう。どこで足をすくわれるかわからない世界ですしね」

「長谷川さんって毒吐きキャラなんだ」

 茶化すように言った。あえて厳しい言葉を口にする人間を苦手とする若者も多いが、陸はそれほど嫌いではない。

 長谷川は少し目を細めて見せる。

「毒を吐いているつもりはないのですが、僕は腹の括(くく)れない人間を見ると無性にイライラするんです」

「腹を括る、か」

「自分の過ちを認めるのは、簡単なようで実際は難しいでしょう。誰だって自分が間違っているとは思いたくないですから。でも苦境のときほど人間の真価が問われるというのに、そこで腹を括ることができなければ、結局ジタバタするしかないんです」

「なんか胸が痛いな」

 陸は自分の胸元に手を当てて苦笑した。しかし隣の男は笑わない。

「浅野さんは既に一度、夢を諦めているでしょう? そしてK社を選んだ。腹を括らないとできないことですよ」

「どうだろ。結局、金とか地位がほしかったのかもしれないじゃん。俺の場合、K社に入れば比較的簡単にそれらを手に入れることができるってわかってたんだから」

 車は路肩に寄って停車した。長谷川は陸の言葉には答えず、黙って助手席の窓の向こう側を確認している。

「お待ちかねみたいだな」

「お一人で大丈夫ですか?」

「長谷川さんが来てくれたら心強いけど、アイツも警戒するだろうから、一人で行って来る。とって食われそうになったら加勢に来て」

 そう言い残して車を降り、自宅マンションへと向かう。実父の家に住むのはいいが、着替えなどの必要なものを取りに来る必要があった。沙希も一緒に連れてきたかったが、この場所は安全ではない。

(案の定、お化けよりも厄介なヤツが現れたぜ)

 エントランスに到着すると、ショートパンツにロングブーツを履き、短いダウンコートを羽織った真里亜の姿が見えた。素肌がむき出しになった太腿が嫌でも陸の目に飛び込んでくる。形の良い足を強調したいのだろう。

 しかし興味がないので真里亜を無視してポケットからマンションの鍵を出す。

「考え直してくれた?」

 不機嫌な声が陸の横面にぶつけられた。

「何を?」

「あの女と離婚して、私と結婚する」

「はぁ? 好きな女と結婚した俺が離婚なんかするわけねぇだろ。俺には何のメリットもない。じゃあな」

「K社はどうなってもいいの? ウチの会社が買い取って、社員全員解雇とか、簡単にできるんだから!」

「脅迫か? どうせなら、もっとマシなこと考えられねぇのか?」

 肩越しに振り返ってみると、真里亜の顔が怒りで歪んでいた。

「陸、冷たくなったね。前はそんなんじゃなかったのに」

 思わず鼻で笑ってしまう。

「今の俺が本当の俺だけど。俺のことを理解してたつもりでいるかもしれないけど、お前に俺の本心なんか一度も見せたことねぇし」

「……なにそれ」

「とにかく、お前がどれだけ言いがかりをつけてきたところで、俺は相手にしないし、沙希に危害を加えたことは絶対に許さない」

「危害? 別に何もなかったでしょ。カメくんが白馬に乗った王子様よろしく助けてくれたんだから」

 本来のふてぶてしい表情に戻った真里亜から、陸は目を逸らした。そして迷った末、とっておきのカードを突きつけた。



「お前、トオルをどうする気だ? アイツを犯罪者にしたいのか?」



 真里亜の視線が束の間さまよう。陸はその動揺の意味を図りかねたが、とりあえず反応があったことは大きな収穫だ。鍵を差し込んで回すとドアが開いた。

 陸は振り返らずに住人専用スペースへと進んだ。そして不愉快な顔をした真里亜がエントランスから出て行くのをエレベーターの前で見届ける。

(やっぱ、長谷川さんの言うように対応策を考えないとダメか)

 エレベーター内の操作盤でロック解除をすると、陸の乗った箱がふわりと揺れ、上昇を始めた。


     


 陸が会社に戻ったのは、太陽がビルの谷間に姿を消してゆく時間帯だった。

 本社ビルの商談コーナーを横目にしながら、社員通用口へ向かう。ガラス張りの待合室には人影がなく、磨かれたばかりで曇り一つない大ガラスは、夕陽を反射し黄金色に輝いていた。

 昨日、ここにトオルがやって来て、黒尽くめの異様な格好をしていたにも関わらず、やすやすと商談待合室まで入り込み、沙希に内線電話をかけたのだ。

 真里亜は「何もなかった」と言うが、沙希の手首と肩には青紫のあざが残っていた。強い力でつかまれたときにできたものだろう。沙希が抵抗した分、トオルの指が沙希の身体に食い込んだのだ。

 昨夜それに気がついた陸は、残された跡の生々しさに愕然とした。

 沙希が過去に暴行を受けたことがあるとか、望まない行為を強いられていたことは知っている。

 しかし陸にとってそれは、別世界で起きた出来事と同じくらい現実味の感じられないものだった。

 陸は実際にその場面を見たわけではない。だからいくらそれが事実だと言われても、信じたくないというのが本音なのだ。

 潤也に「他人のことなんかわかるわけがない」とうそぶいたのも、それがあってのことだ。

(あの内出血を見ただけでも、相当頭に来たぞ。もしこれで最悪の事態になっていたら……)

 全身が炎になったかと思うような、凄まじい怒りが陸の内部から噴き上げる。

 その憤りをぶつけるように通用口のドアを乱暴に開けた。

 目の前には長い通路が伸びている。薄暗い空間の途中で、うずくまっていた沙希の姿を思い起こした。

 見た瞬間、心臓が地面に叩きつけられるような衝撃が全身を駆け抜け、気がつけば夢中でその人の名を呼んでいた。

 他の社員の目などどうでもよかった。沙希の身に異変が起こったのだと気がついた途端、彼女のことしか考えられなくなっていた。

 自分の足は確実に地面を踏みしめているというのに、その地面がガラガラと音を立てて崩れ落ちていくような感覚が陸に襲いかかった。

(あんなこと、初めてだ)

 今は誰もいない通路を急ぎ足で進む。

 あんな想いは二度と経験したくない。寿命が縮まったような気さえしたのだ。

(昨日のことでも俺の人生、三年は短くなったんじゃねぇか)

 歩きながら対応策を練るが、予想される真里亜の動きに対処することはできても、こちらが相手に先んじることは難しい気がした。

(やべぇな。もたもたしてたらD自動車に会社ごと乗っ取られちまう)

 階段を駆け足で上がる。

 陸の脳裏にトオルの姿がよぎった。栗毛色の髪と日陰を選んで生きてきたかのような白い肌。女性的な顔立ちに似合わぬ長身――。

 頭上でドアが開く音がした。ハッとしてそちらを向くと、長身で体格のよい男が陸を見下ろしている。

「陸? どこをほっつき歩いていたんだよ?」

 驚きのあまり、声が出ない。

 ちょうどトオルのことを考えていたから尚更だ。大柄の男性など見慣れているのに、社内にいるはずのない人間がここにいるという事実が陸を激しく動揺させた。

「沙希も仕事で何とか会議に行っちゃったしさ、沙希の向かい側に座ってる黒川さんは冗談が通じないし、もう僕、どうしたらいいの!?」

「つーか、テオ。お前、どうやってここまで入ってきた?」

 陸は無邪気な笑顔を振りまくフランスからの来訪者に、厳しい視線を向けた。テオは不思議そうな顔をする。

「門番みたいな人に陸と沙希の名前を言ったら、沙希に連絡してくれて、そしたら、ほら! パリにいるとき沙希が陸から逃げ出したことがあったでしょ?」

「逃げ出したって……お前な……」

「あのとき沙希と一緒に飛行機に乗った若い男がわざわざ来てくれて、彼が通行証を出してくれたんだ。彼、偉い人だったんだね」

 陸が答えないでいると、テオの目尻がいやらしく下がり、じろじろと陸を眺め回した。

「陸とそんなに歳変わらないよね? この国じゃ若いうちは偉くなれないのかと思っていたけど、そんなことないんだね。陸ももっと頑張ってよ」

 わざわざ真上の段まで下りてきて、大きな分厚い手で陸の肩をバンバンと叩くと、テオはニッと歯を見せて笑った。

 その顔を、上目遣いで睨みながら訊く。

「で、お前は何をしに来たんだ?」

 

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1st:2011/08/15
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