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第三部 5

 目が覚めて、見覚えのない天井に一瞬ドキッとするが、自分が枕にしている腕が陸のものとわかった途端、沙希は安堵で大きく息をついた。

 少し首を動かすと陸の寝顔が見える。昔に比べると男性らしさが増し、その分真面目な顔をしていると冷たい印象を受けるが、今はそれにも慣れた。

(私、陸と結婚しているんだよね)

 他人が聞いたら笑うかもしれないが、沙希は朝起きるとまずそのことを再確認する。ほぼ毎朝の日課だ。そして心の底からホッとした。

(特にこんな朝は、ね)

 陸の前髪を触ってみた。少し伸びた現在の髪型は、高校生の頃を彷彿とさせる。カッコいいけど、やっぱりかわいいかな、というのが沙希の素直な感想だ。

 ふうっと大きく息を吐くと、陸のまぶたがすうっと開いた。

「眠れた?」

 まだ眠そうな薄目だが、開口一番に沙希を気遣うセリフが出てくる。それが何より嬉しいと沙希は思う。

「うん。寝てた、と思う」

「お前、枕が違うと眠れなくなるタイプだからな。俺なんかどこでも『おやすみ三秒』だけど」

 沙希は笑った。同時に胸の奥が引き攣れるように痛む。どうせ見るなら陸が出てくる夢を見たかった。

 だが先ほどまで沙希が見ていた世界に、陸はいない。

「顔色悪いな」

「そうかな?」

「熱はないみたいだけど。昨日、晩飯食ってないからな。食欲はある?」

 小さく頷くと、目の前の顔がフッと笑顔になる。

「よかった」

 黙ったままでいると、陸は一瞬困ったような表情を作った。

「そんな泣きそうな顔すんなって」

「別に……」

「お前ね、よく考えてみろ。泣きたいのは俺のほうだって。まだ新婚の妻に『生きるのに疲れた』みたいなことを言われて、まぁ、お前は昔からそういうことばかり言ってたけど、ぶっちゃけ俺だって辛い」

 急にまくし立てられて、言い返す言葉もない沙希は布団の中で小さくなった。

「……ごめん」

「だけど、昨日のことは……」

 珍しく陸が言いにくそうに唇を噛む。それから意を決したように口を開いた。

「お前は何も悪くない。悪いのは俺なんだ。ごめん」

 前髪を撫でていた手で陸の頬を触った。悲しそうな顔が沙希の心をざわざわと波立てる。

「誰が悪いとか、そういうことはどうでもいいよ」

 これは本心だった。

 誰かを責めて事態が好転するなら全力で糾弾するが、物事は大抵そう簡単にはいかない。面倒なことが起こる要因は、始まりは単純であっても、厄介な事態に発展する頃には複雑になっているのが世の常なのだ。

 不条理だと思うのは、他人を貶めずにはいられなくなる激しい衝動が、誰の心にも潜んでいることだ。どんなに善人に見える人間にも、それは間違いなくある。

(「罪を憎んで人を憎まず」と悟りを開くほど、私も出来た人間じゃないんだけどね)

 それでも沙希は心の底から誰かを憎むことができずにいた。

 それがたとえ自分のアイデンティティを完膚なきまでに破壊し、自分の命をも奪おうとした相手であっても、だ。

(憎いというよりも、ただ悲しいだけ……)

 もし相手に一矢を報いたとしても、沙希が一時的に満足するだけのこと。むしろ後々その行為を悔いる自分の姿が容易に目に浮かぶので、結局「どうでもいい」ことと未処理のまま片付けるのが妥当だと思うようになっていた。

「どうでもよくないだろ。少なくとも俺はこのままでいいとは思ってないから」

「だけど……」

「お前を傷つけるヤツは許さない」

 陸は怒ったように言った。それから頬に触れていた沙希の手をつかむ。

「俺ね、最近思うんだけど、夫婦っていうのは二人で一つだなって」

(二人で一つ……)

 陸の瞳を真っ直ぐに覗き込むと、陸はほんの少し照れたような表情を見せる。

「お前ができないことは俺がやればいい」

 思わず苦笑が浮かんだ。嬉しいような恥ずかしいような妙な気持ちだ。

 顔をシーツに埋めると、身体が陸のほうへぐいと引き寄せられた。

「でもまぁ、結局俺もお前と同じで、周りから利用しやすい人間だと思われてるのかもな」

 頭上で陸が自嘲気味につぶやくのを、彼のぬくもりに包まれながら、沙希は複雑な気持ちで聞いた。





 着替えを済ませると、陸と沙希は階段を下りた。

 一応、昨夜のうちに陸からこの家についての概略は聞いていたが、朝の光が溢れる住居内を見る沙希の目は驚きのあまり瞬きを忘れるほどだった。

(ここもずいぶん立派なお屋敷だな。会長の家に比べると部屋数は少ないけど、家自体の材質や調度品はここのほうが上かも)

 かなりの歴史を感じさせる建物なのに、古びた匂いはない。隅々まで清掃や手入れが行き届いている。

「おはようございます」

 階下で穏やかな声を掛けてきたのは、陸の実の父親ではなく初老の男性だった。身なりからこの家の執事のような立場の人だと沙希は判断する。

 陸は気まずそうな笑顔を作って、頭を下げた。

「急に押しかけて来て、すみません」

「そのようなご心配は無用です。あなたにはいつでも自由にここを使う権利があるのですから」

 初老の男性は一旦言葉を区切ると、沙希のほうへ向き直った。

「当家の雑事を任されている、牛崎(うしざき)と申します」

「……浅野沙希です。よろしくお願いします」

 牛崎が品の良い笑みを浮かべる。

「朝食の準備ができております。ご案内いたします」

 そう言うと牛崎は有無を言わせぬ動作で陸と沙希を食堂へ誘導した。

 屋根裏のない吹き上げ天井は、食堂の空間を開放的にし、その中途に設けられた天窓からは眩しいほどの朝日が降り注ぐ。

「おはよう」

 前社長が既に席に着いていた。挨拶を交わした後、沙希は陸の真向かいに着席した。

「では、感謝していただきます」

 軽く手を合わせた前社長に倣って、沙希も合掌し「いただきます」と唱える。陸は無言で箸を手に取った。

 苦笑しながら前社長が口を開く。

「陸は幼い頃からこの家が嫌いだったな」

 その言葉を聞いた陸は嫌そうに顔を歪めた。

「だってこの家、出るって言うじゃん」

「出る?」

 沙希はサラダの入った小鉢を持ったまま、陸に訊き返した。

「そう。……お化け?」

 小声の返事に思わず噴き出してしまう。前社長もつられて笑い始めた。陸はムッとした顔で卵焼きを口に放り込む。

「陸は昔から男のクセにひどく怖がりでね。沙希ちゃんはどう思う?」

 前社長は眼鏡の奥で目を細めた。それは沙希も知っていることだった。

「私はまだお化けを見たことがないのですが、確かにこの家にはそういう雰囲気がありますね」

「だろ? お前、この家にひとりで住むとか、絶対無理だって」

 陸は我が意を得たりとばかりに口を挟んだ。

「そうかな。私はお化け、そんなに怖くないよ」

「え?」

 信じられないものを見るような目をする陸に、沙希は苦笑する。

「だってお化けが人を殺したってニュースは聞いたことがないもの。それより生きている人間のほうが断然怖い」

「おまっ……」

 陸が絶句するのを見て、失言だったなと思う。だが、不愉快な出来事があった翌朝にこんな皮肉を言えるのだから、自分はずいぶん回復しているのだと沙希は実感していた。

「沙希ちゃんにはかなわないな」

 いつもと変わらぬ穏やかな表情で、前社長は沙希に笑いかける。そして陸のほうを向いた。

「お化け屋敷でもかまわんのか?」

「ま、沙希が平気ならいいんじゃね。あっちのマンションは生きている人間が出るかもしれないから、どうせ当分戻れない」

(……え?)

 沙希は陸と前社長を見比べる。

 向かい側に座っている陸が、沙希の顔を真っ直ぐに見つめてきた。



「しばらくここで暮らそう」



 おそるおそる首を縦に振った。沙希には反対する理由などない。

 前社長は朝食を終えたのか、牛崎にコーヒーを頼む。それから明るい声で言った。

「実は本当に偶然なのだが、今日からお前たちの他にもう一人、下宿人がやって来ることになっている」

「……はぁ?」

 にこやかな笑みを浮かべた前社長は、陸と沙希を順番に見た。

「お前たちもよく知る若者だ」

「誰?」

 陸は怪訝な顔をする。沙希も前社長の次の言葉をドキドキしながら待った。



「テオだよ」



「はぁ!? 何しに来るんだ!?」

 間髪を入れず、陸の大声が食堂に響いた。とっておきのサプライズを披露した前社長は、陸の反応を満足そうに眺めている。

 沙希も驚いたが、それよりも嬉しくて笑いがこみ上げてきた。

「どうしても大好きな日本に行ってみたいと言ってきかないそうだ。しばらくここにホームステイすることになっている。急ににぎやかになって楽しくなるな、牛崎?」

 ちょうどコーヒーを淹れて戻って来た牛崎は、笑顔で「はい」と答える。

「アイツ、学校はどうするんだ?」

「勿論、ここから高校に通うことになっている。陸、お前に車を貸してやるから通勤に使いなさい。ついでにテオを学校まで送ってやってくれ」

 穏やかな口調で前社長がそう言うと、途端に陸は噛みついた。

「おいおい、冗談じゃねぇ! なんで俺がテオの足なんだよ!? 勝手に決めるな!」

「パリで世話になったことを忘れたのか」

「世話してやったのは俺のほうだっつーの!」

 沙希はこらえきれずに声を上げて笑った。可笑しくて笑いすぎたのか、涙が溢れてくる。目尻をそっと指で拭うと、少し真面目な顔をした陸がこちらを見ていた。

「アイツ、身体も態度もデカいからお前のいいボディガードになるね」

「私なら……もう大丈夫だよ」

 笑顔でそう言うのが精一杯だった。

 大丈夫とは便利な言葉だ、と思いながらコーヒーを飲む。香りも良く、コクのある深い味わいに心の中で驚嘆した。苦味が強いので、豆はたぶん前社長の好きなマンデリンだろう。

 つい数分前までは、会社も辞めてしまおうと本気で考えていた。だが、やはりそれはできないと苦いコーヒーを飲みながら思い直す。少なくともここにいる二人は、沙希が会社を辞めることを望んではいない。

(どうしようか……)

 立ち止まってみると、自分が進みたいと思っていた道がどの方向なのか、急にわからなくなってしまった。しばらくの間、ここまで酷く気分が落ち込むことがなかったせいか、心の片隅では鬱から完全に回復することなど無理なのだ、と諦めに似た想いが沙希を暗い闇のほうへと向かわせる。

 それでも闇が完全に沙希の心を覆ってしまうことはなかった。そこが昔とは違う。

(以前は「大丈夫」なんて簡単には言えなかったからね)

 沙希の顔色を観察するように、陸がじっとこちらを見ている。あまりにも真っ直ぐに見つめてくるので、沙希はぎこちなく微笑んでみた。

 すると陸もニッと笑い、「会社に行くぞ」と言って立ち上がった。


     


 車の助手席に乗って、シートに深く腰掛けた。

 この車は昨日陸が運転してきた社用車で、国産メーカーの割と人気のある車種だ。しかし会社の車に初めて乗った沙希は、内装が想像以上に立派で驚いた。

「素敵だね」

 助手席のドアの内側を手で撫でながら言うと、すぐさま「そうか?」と陸の呆れた声が聞こえてくる。

「この車って実は高級車だったんだね」

「違う。これはグレードが高いだけだって。金をかければどうにでもなる」

「そうなんだ」

 沙希は少しがっかりしながら返事をした。そしてぼんやりと車外の景色を眺める。

 昨日は潤也の車でこの道を通ったはずだが、まるで記憶にない。外の様子は目に映っていたはずなのに、沙希の心には何も残さなかったということだろう。

(亀貝さんは何をしたかったのかな)

 昨晩、眠りに落ちる前に考えたことの中で、唯一わからなかったのが潤也の意図だった。

 一方、わかりやすいのはトオルだ。



 昨日は薄日しか差していないどんよりした天気だったが、日光の下で見たトオルの肌は人形のように真っ白く、最初に見たときから変わらない栗毛色の髪は染めているのではなく、色素が薄いためにその色であることが沙希の目にもはっきりとわかった。

「もう少しお姉さんと話がしたいんですよ。誰の邪魔も入らないところで」

 内線で呼び出されて商談スペースへ足を運ぶと、上から下まで黒い服に身を固めたトオルが待合室で行儀よく沙希を待っていた。 

 当然だが、沙希は勤務時間であることを理由にトオルの無茶な申し出を断った。すると、トオルは表情を変えずに更に無茶なことを言い出した。

「僕はこの綺麗に磨かれたガラスを全部割ってもいいんですよ」

 途端に身が竦んだ。目の前にいる男はそれを平気でやってのける、と沙希にはわかるからだ。

 そして渋々彼とともに会社の外へ出た。沙希が逃げ出すことを恐れてか、無造作に腕をつかまれる。その乱暴な動作で沙希の思考回路は悲鳴を上げた。



「そんなに怖がることもないだろ? 彼氏と付き合いながら陸ともヤッてたくせに。今更、清純ぶったって遅いって」



「離して」

 大声を上げたくても腹の底に力が入らない。足がガクガクと震え、恐怖で涙が出た。

 だがトオルは怯える沙希の様子を愉快そうな目で見て、必要以上に強く腕を掴んだまま、会社前の大きな通りへ連れ出した。

 そして、黒いワンボックスの後部ドアが自動で開くのが見えた瞬間、沙希の脳は理性的な処理を放棄する。

「離せぇ!」

 そこからの自分はまるで駄々をこねる子どものようだった。さすがのトオルも驚いたのか瞬時に顔色を変えた。



 沙希はそこで回想を打ち切って、運転席の陸を見た。

 物思いに耽っていて気がつかなかったが、陸も難しい顔をして、何か考え事をしているようだ。気軽に声を掛けられる雰囲気ではない。

(昨日のこと、あまり訊かれてないけど……陸は知ってるんだよね?)

 だからこそ「悪いのは俺なんだ」と言ったのだろう。トオルの言動を振り返ってみると、彼が沙希に接触してくるのは、陸に対する嫌がらせと考えるのが妥当だった。

(だけど嫌がらせなんて……どうして今更?)

 彼らがバンド仲間だった高校生の頃なら、こんな疑問も抱かなかっただろう。だが、今は互いの立場も生活も、音楽との距離さえも違っている。

(そう考えると、トオルって人がしたいことはわかりやすいけど、彼の背景が全然見えない)

「あのさ」

 急に隣から声を掛けられた。沙希は驚いて陸の横顔を見る。

「ん?」

「沙希はあのおっさんのこと、どう思う?」

「え?」

 意表をつく問いかけに、沙希は返事を迷った。

「えっと……もう『社長』じゃないよね。今は相談役?」

「呼び方なら『おっさん』で十分」

「そんなのダメ!」

 これには手厳しく返答した。本来の血縁関係からすると、前社長は義父に該当する人だから「おとうさん」と呼ぶべきだが、今はそれができない。とはいえ、陸の呼び方は酷いと思う。

「じゃあ、坂上でいいんじゃね? 俺は変な感じがするけど」

「あ、うん……」

(そっか。昔は陸も「坂上」だったんだ)

 沙希も奇妙な感慨を抱いたが、それはすぐさま胸にしまい、最初の質問について改めて考えてみる。

「でもどうしたの、急に?」

 運転席を見やると、陸は眉に皺を寄せて難しい顔をした。

「あのおっさんは誰の味方だと思う?」

「陸と亀貝さんだったら、陸の味方じゃない?」

「じゃあ、ジイさんと俺だったら?」

 沙希は無意識にほんの少し首を傾げる。

「陸だと思う」

「……わかんねぇ。なんでそう思う?」

 喉の奥が締めつけられるような不思議な感情が沙希の中に沸き起こった。理由を説明するのは難しい。しかし答えはシンプルだ。



「父親だから、じゃない?」



 陸はフッと笑った。バカにしたような笑いだ。

「まぁ、ぶっちゃけ俺もこっちに出てきてからはあのおっさんに甘えまくってるよ。最初はウザいと思ったけど、実際便利だし、踏み台に利用してやろうくらいに考えてた。アイツの資産ももらえるものはもらってやる、って」

 考えてみれば前社長は現在独身で、その資産を相続する権利は実子の陸にある。

 沙希が知るだけでも、前社長の所有する不動産は相当な数にのぼる。更にあの屋敷を含めた坂上家の資産の全容など一般の家庭に育った沙希には想像もつかない。怖くなり、慌てて考えるのをやめた。

「でもあのおっさんのことは、全部を信じるわけにはいかねぇよ」

 絞り出すような声に、陸の苦悩を見た気がした。

「うん」

「それにアイツ、沙希のことを気に入ってるし」

 思わず苦笑する。自分が彼らの関係を複雑にする要因の一つだと言われるのは納得が行かない。

「娘みたいに思ってるんだよ、きっと」

「アイツ、お前のことを母さんに似てるって言ってただろ? 俺にはその気持ちがすごくわかる」

「え? 全然似てないでしょ」

 茶化すようにおどけて言ってみたが、陸は浮かない表情のままだ。

 それから少し間を置いて、ためらいがちに口を開く。

「俺、たまに思うんだ。母さんがもっと弱気なところを見せていたら、あのおっさんも違う対応できたんじゃねぇのか、とか。もし、とか考えてもどうしようもないけど、お前見てるとそう思う」

 沙希は陸の言ったことを頭の中で反芻してみたが、意味がよくわからない。大げさに首を傾げた。

「私を見てどうしてそう思うのかよくわかんないし、それがどうしてお義母さんと私が似てるという話に繋がるのかますますわからないんだけど」

「だから、母さんは気が強くて頑固すぎたんだよ。お互いの家の問題もあってか、おっさんに頼るとか甘える部分は皆無だった。お前もそういうところあるじゃん。けど、沙希のほうが気弱なところもあって、こっちからするとそれが理想的だってこと」

 怒ったように言い放つと、陸は小さくため息をついた。

「なんか今、めちゃくちゃ恥ずかしいことを言った気がする」

 沙希は驚きと喜びと照れくささが混ざり合って、頬が熱くなるのを感じた。

「えー、私は全然ダメダメでしょ」

「お前はそれでいいの。身体もあんまり丈夫じゃなくて、たまに鬱っぽくなるけど、自棄(やけ)にならないで真面目に頑張ってる」

 こんなふうに褒められると嬉しい反面、逃げ出したくなるほど恥ずかしかった。とりあえずうつむいて照れ笑いを噛み殺す。

(でも私だって、元彼と付き合ってなかったら、こんなふうにはなっていなかったよ)

 そう思うと、舞い上がっていた気分がストンと急降下した。

 陸が言うように、仮定の人生など考えても仕方のないことだ。しかし、もし沙希が道を外れずに痛みや悲しみ、そして苦しみの少ない光に溢れたレールの上をひた走ってきたとしたら、今頃は全く別の沙希がいたに違いない。

(もっと自信に満ち溢れて、自分は絶対正しいと頑固に主張できて……、ってそれはそれで微妙な人間か)

 傲慢さを全開にした自分自身の姿を思い浮かべて苦笑した。

 自分の信じる道を脇目もふらず進んでいける強い心の持ち主に憧れることもある。だが、沙希は自分の弱点から目を逸らし、ただ猪突猛進していくだけの強さをほしいとは思わない。



(陸がこれでいいって言ってくれるなら、もう少し頑張れる気がする)



「そっか。ありがとう。なんか元気が出たよ」

「ま、お前が元気ないと、俺がテオに責められるからな」

 車内に二人の笑い声が広がった。

 昨日のこともあり出勤したくないというのが沙希の本音だ。それでも今日一日だけは頑張ろうと思う。それから先のことは、後で考えればいい。

(陸がいてくれて本当によかった)

 彼に出会ってから、何度そう思ったことだろう。この世界に陸がいるというだけで救われた気持ちになる。

 そして前社長の実家であるお化け屋敷の、歴史を感じる重厚で威風堂々とした存在が、沙希にこれ以上ない安心感をもたらしていた。

 

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1st:2011/06/14
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