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第三部 7

「会社を見学させてもらおうと思って。将来、勤める会社だからね」

 テオは得意げな顔でそう言うと、陸に背を向けて階段を上がった。

「将来? ……冗談だろ?」

「本気だよ。今からわくわくするな」

 テオの大きな背中を見て、それから段飛ばしで階段を上り切る。重い鉄製の青いドアをくぐり、テオと並んで部署へ戻った。

「ねぇねぇ、陸。社内を案内してよ」

「俺は仕事中で忙しい。そこにおとなしく座っていろ」

 陸は自分の隣にある空きデスクを指差した。

「ヤダ! つまんない」

「あのな、ここは……」

 自分より上方にあるテオの顔を睨むが、テオはニコニコしながら陸のデスクの上を物色しているようだ。

「沙希の写真とか置いてないの?」

「あのな、ここは……」

「あーっ! 沙希だ!」

 テオはパーテーションの隙間から目ざとく沙希の姿を見つけ、軽やかに身を翻す。

「おい、待て、こら!」

 慌ててテオの腕に手を伸ばすが、テオのほうが僅かに早かった。気がつけば陸は自分の拳を握り締めていた。

 チッと小さく舌打ちしてテオの後を追う。

 パーテーションの外では、テオが沙希に抱きついていた。

「離れろ!」

「いいでしょ、チュウしないんだから」

「そういう問題じゃねぇし!」

 テオの腕から逃れた沙希が陸の顔を見る。表情が硬い上、顔色も悪い。陸は瞬時に身構えた。

「どうした?」

 沙希の腕をつかんでテオから引き剥がす。

「今、会議に出て……」

 か細い声が途切れ、代わりに別の足音が近づいてきた。

 陸は通路に潤也の姿を見つける。今日のスーツは明るい茶色で、小柄な潤也によく似合っていた。

「戻っていたんだな」 

「ええ」

 社内なので一応潤也に敬意を払った返事をする。

 潤也が抱えていたファイルを開き、一枚の紙を陸の胸元へ突きつけた。



「辞令だ」

 

(……俺?)

 怪訝な面持ちでそれを受け取ると、紙面に目を走らせ、それから再度潤也に視線を戻す。

「あちらはどうしてもお前がほしいそうだ。ずいぶん期待されているようだな」

「俺が行ったところで、何の役にも立たないと思いますけどね」

 陸は潤也を睨みつけながら、辞令を片手でくしゃくしゃに握りつぶした。

 心配そうにこちらを見ている沙希の顔をまともに見返すことができない。沙希はもう辞令の文言を知っているのだ。

(くそっ! 卑怯なことをしやがる)

 辞令を握りつぶしたところで、この件が消滅するわけではないが、悔しくて仕方なかった。自分には力がないということを思い知らされる。

「どうしたの?」

 テオが声を潜めて沙希に訊ねた。陸は天井を仰ぐ。首を戻すと、一息に言った。

「俺に来週からD自動車に出向しろって社長命令が出た」

「シュッコウ?」

 何を思い浮かべているのかわからないが、テオは奇妙な表情をして鼻の頭をかいた。それを横目に見ながらため息をつき、黙っている沙希の代わりに口を開く。

「ここじゃなくて別の会社で働け、ということ」

「へぇ。どうして?」

「それは俺が聞きてぇよ!」

 笑い声が意外な方向から聞こえてきた。口角を皮肉っぽい形に上げて潤也が笑っている。

「D自動車はあの業界では世界一の売り上げを誇る企業だ。まんざら悪い話でもないだろう。他社で仕事ができる機会など滅多にないのだし、ここしか知らないというのは将来的にマイナスだと思うが、川島さんはどう思う?」

 突然話題をふられた沙希はビクッと肩を震わせた。

「そう……ですね。悪い話ではないと、私も思います」

 健気にも笑顔でそう答える沙希を見て、胸に重苦しい痛みを感じる。先程顔を合わせた真里亜をもっと罵倒しておけばよかった、と後悔がよぎるが、その考え自体がバカバカしくて更に苛立ちが増した。

 憂さ晴らしにもならないが、潤也に憤りの矛先を向ける。

「亀貝さんはウチの会社がD自動車に面倒を見てもらうことに大賛成ですよね」

「金を出してくれるなら、手を組むのはどこの会社でもいいと俺は思うが、な」

 陸は眉をひそめた。少し意外な答えだった。

「へぇ。じゃあ、世界一じゃなくてもいい、と?」

「この会社を世界一にすることにはやりがいを感じるが、世界一の企業と組んで、自分も世界一を気取ったところで何になる? それを『虎の威を借る狐』と言うんだ」

 最初に沙希が顔を背けてプッと噴き出した。沙希は誰も反応しないようなくだらないギャグでも律儀に笑う。笑わずにはいられない性格なのだろう。そして陸は、沙希のそういうところが好きだった。

(でも、笑うところじゃねぇだろ)

 内心で突っ込みながらも、沙希の笑顔に救われた気がした。

 同時にひらめく。

(そうか。そういう手があったか!)

「さすが怖いもの知らずの亀貝さん、鋭いことを言いますね」

 そう口にすると、潤也の目つきが少し変わった。潤也とは古くからの知り合いだが、互いに通じ合えたのは今日が初めてかもしれない、と陸は思う。

「俺よりお前のほうがよほど怖いもの知らずだろう。それにお前の手の内を相手は知らないんだ。上手くやれば出し抜くことは可能だろう。……上手くやれば、な」

 神妙な目つきの沙希がじっと陸を見つめている。

 陸は立ち去ろうとする潤也に声を掛けた。

「いいんですか? 俺に肩入れするようなことを言って」

 潤也の足が止まる。

「お前の味方をするわけじゃない。だが、俺にも理想がある。できるならより理想に近い方法で夢を実現させたいと思うだけのこと。利用できるものは利用する。それだけだ」

 簡潔に主張を述べると、潤也は通路を曲がりパーテーションの向こう側へ消えた。

 緊張していたのか、テオがふうっと大きく息をついた。

「彼、いい人だね。そしてカッコいい!」

「……どこが!?」

 目をむいて抗議しようした瞬間、沙希がクスッと笑って遮った。

「どんな人にも良い面、悪い面の両方あるってことだよね」

 周囲に配慮しているのか、沙希は小声で言う。そのありきたりの言葉が、なぜか陸の心にじわりと沁みてきた。

「ま、俺くらいになると良い面しか見当たらないけどな」

「沙希、こんな男と結婚しちゃったことを後悔してない?」

 テオが沙希の耳元でひそひそと囁くと、沙希は「うーん」と唸った。

「陸もいい人だよ」

「だろ?」

「え、どこが?」

 大げさに理解不能というジェスチャーをするテオの横で、沙希は少し首を傾げた。

「どこだろうね」

「もう仕事に戻るぞ」

 陸はため息をついて二人に背を向けた。実は少しガッカリしたというのが本音なのだが、それを悟られるのも恥ずかしい。

 背後からクスッと笑う声が聞こえてきた。

「良い面も悪い面も全部許せるのが好きってことだから、とても一言では言えないよ」

(沙希……)

 悪い面という言葉が棘のように突き刺さったが、その胸の痛みには気がつかないふりをした。

 テオの冷やかしを無視して自分のデスクに戻る。隣の空席にテオが座った。

「早くここで働きたいな。なんかわくわくするよ」

「楽しいことばかりじゃないぞ」

 陸はパソコンを起動し、社内ネットワークにログインしながら返事をする。

「そんなことはわかってる。だけど僕にしかできないこともあると思うんだ。……違うかな?」

 パソコンのモニターから目を離した。

 テオの目が陸を真っ直ぐに射抜く。陸もその視線を真正面から受け止めた。

「違わない」

 テオが嬉しそうに笑うのを黙って見ていられなくて、陸はモニターに向き合い、マウスを少し乱暴に動かす。

(俺にしかできないこともあるよな)

 D自動車に出向となる日まで、陸に残された時間は僅かだ。その間にできる限りのことをやっておきたい。

 隣からテオが話しかけてくるが、適当に相槌を打ちながら文章を作った。

(……ったく、D自動車のことは降って湧いた災難だけど、まずはコイツを片付けないとな)

 夢の実現が遠ざかる気配がして、陸の心には不満が居座っている。けれどもそれを懸命に宥めた。

 陸はしばらくの間打ち込んだ文面を見つめ、それから宙を睨みつけた。


     


 早朝のオフィスは静かだ。まだ電子音も少なく、人の話し声もほとんどない。それが逆に落ち着かないような気がしたのも最初の二日間くらいで、一週間も経つとすっかり慣れてしまう。

 陸がD自動車に出向となってから、沙希はそれまでよりも更に早い時間に出社していた。陸の運転する車に同乗しているので、彼の出社時間に合わせると否応なしに出勤時間が早くなる。

 一応、電車で通勤することも提案してみたが、陸は即座に沙希の案を却下した。

「だいたい、沙希は普通に電車に乗っていても痴漢に遭うとか、面倒なんだよ」

「痴漢に遭ったのは一回だけだし、大丈夫だよ」

「いや、二回だろ」

「……え?」

(しかしよく覚えているよね。ちょっと話しただけなのに、状況までちゃんと覚えてるってすごい)

 沙希は新聞5紙を抱え、階段を上りながら先日の会話を思い出していた。

 自分ではそれほど痴漢に遭いやすいとは思わないのだが、陸はその話題が終わるまでずっと嫌悪感を滲ませていた。そこまであからさまに嫌な顔をされると「それでも電車で」とは言えない。

(心配してくれるのは嬉しいんだけど、過保護じゃないかなぁ?)

 沙希としては他人の目が気になる。だが、夫が妻を会社まで送ることは、一般的にも別段不思議なことではない。気にすることもないか、と思い直した。

(こういうときはホント入籍していてよかったと思う)

 それだけが入籍したメリットだと言うつもりはないが、二人の関係がただの恋人同士だったときと、夫婦になってからでは全く別の意味合いを持つようになるのだから、やはりあの婚姻届には計り知れぬ効力があったのだ、と今更思う。

(高校の先生が「結婚は社会的契約だ」と言っていたけど、やっとその意味がわかってきたかも)

 ダンディな化学の教師が授業中何かの話題から派生して結婚に言及し、格言のごとく繰り返した言葉で、それが沙希の記憶に今もはっきりと残っていた。授業内容に全く関係ない事柄だが、人生においては複雑な化学式よりも確実に深みのある一言だった。

 所属部署のフロアに到着し、通路を進んでいくと珍しい人影を発見した。

(あれは確か役員の……島田さん)

 K社内では役職に関係なく、敬称は「さん」付けが推奨されている。役職が数ヶ月単位で変わることの珍しくない職場だというのもその一因だ。

 島田は役員の中でも年長で、そのキャリアも長い。坂上が社長であったときには右腕とみなされていたが、現社長の下ではご意見番のような立場との推測が飛び交っていた。

「早いね、川島さん」

 人懐っこい笑顔を浮かべた島田が近づいてきた。腹部のでっぱりが気になるが、貫禄があると言えなくもない。

 しかしさすがに役員ともなると、ある程度の年齢になっても、身なりの清潔感などは他の社員と一線を画している、と沙希は感心した。

「おはようございます」

「陸はどうだろう? 出社拒否になりそう?」

 島田は声を潜めて訊ねてくる。相手が真剣なので、沙希は笑い出しそうになるのを必死にこらえた。

「いいえ、毎日張り切って出社しています」

「ほう。線が細そうな外見だけど、陸には意外に豪胆なところがあるからな。でも陸がいないと寂しいでしょう?」

 丁寧な口調の問いかけには、からかうようなトーンが一切感じられない。島田はどちらかというと低俗な発言を嫌う性質であるように思われた。

 沙希は笑みを浮かべつつ、「そんなことはないです」と答えた。

「ほう、つれないなぁ。だがね、それくらいがいいよ。陸のような男に夢中になっちゃダメだ。奥さんがアイツを夢中にさせておかないと。それが夫婦が上手く行くコツかもしれないね」

 しきりに頷きながら、沙希を励ますように語る島田の声が心地よく胸に響く。

「覚えておきます」

「でも陸はウチの会社でも有望な若手だから、早く返してもらうように働きかけるつもりです。アイツ、置き土産になかなかいい企画を残していったんでね」

 そこまで言うと、島田は腕時計を確認した。

「今日は午前中にちょっとした大物が来社する予定なんだ。おっ! 長谷川くん、ちょっといいかな?」

 振り返ると長谷川が通路に姿を現したところだった。沙希は島田に軽く礼をして自席へ戻る。

(新しい企画なんて考えていたんだ)

 新聞をスチール製のキャビネット上に並べ終えると、次はFAX台の整理に移った。夜間に送信されてくるものはダイレクトメールが多いのだが、重要な連絡事項が紛れていることもある。それに別の部署宛の書類が届くことも少なくない。

 紙面に目を通して内容を判別する作業は、簡単なようで実はとても神経を使う作業だ。庶務の仕事は基本的にはルーティンワークだが、毎回個別の対応が必要になる。同じ伝票であっても、緊急性があれば提出先が変わるのだ。

(これでも社内ネットワーク導入のおかげで、書類はかなり減ったらしいけどね)

 しかし、沙希が毎日さばく書類の量は少ないとは言えない。特に潤也の下で仕事をするようになってからは、書類の重要度が高いため、紙面の確認作業中は神経をすり減らすこともあった。

 また書類の内容を判断するために、会社全体の動きを把握することが必須だ。開発・企画部門は数年先の生産を目指したプロジェクトばかりだが、この計画の進度は日々変化する。

(陸の企画、気になるなぁ)

 潤也のデスク上の決裁済みボックスから書類の束を取り出し、中身を確認しながら配布先をより分けた。潤也は承認印を押し忘れるようなミスはしないが、それでも万が一漏れがあると差し戻され、二度手間となってしまう。それを防ぐのも沙希の仕事のうちだ。

 その作業が終わるとメールセンターへ赴く。社内での書類のやり取りはメールセンターの部署ごとに設置されたロッカーにて行われるのだ。このロッカーが郵便受けに似ていることもあって、陸は庶務の仕事を「郵便配達みたいだ」と揶揄していた。

(でも私はこの仕事、そんなに嫌いじゃないけどな)

 地味だが自分の性に合っていると沙希は思う。

(そりゃ、文章を書くのも好きだけど、それが仕事になると、常にそれなりのものを生み出さなければならないものね)

 今の自分にそれだけの覚悟や根気、そして情熱があるとは思えない。

 逃げていると指摘されれば、首を縦に振るしかないのだが、自分自身の内側に深く潜り込んでいくことで、表面的には何とか均衡を保っている精神がバランスを崩してしまいそうで怖いのだ。

(やめよう。たぶん今は考えないほうがいい。考え始めたら悪い方向に行ってしまいそう。きっと今は「そのとき」じゃないんだ)

 メールセンターに到着すると持参した書類を各部署へ配布し、新たに沙希の所属部署宛に投函された書類を持ち帰る。

 こうして忙しく動き回っていると時間の経過が早く感じられた。陸がいないことを寂しいと思っている暇もない。

 部署へ戻ると、潤也が待ち構えていた。書類を抱えたまま潤也の言葉を聞く。

「もうすぐ社長室から呼び出しがかかると思う。川島さんも一緒に来てほしい」

「来客ですか?」

 沙希は少し前に会った島田の顔を思い出した。

「今、代議士が来ているんだ。元大臣だよ」

 潤也が口元に笑みを薄っすらと漂わせるのを見て、背筋が寒くなる。島田は「ちょっとした大物」と言っていたが、おそらくこの業界にも影響力を持つ人物なのだろう。

「私も、ですか?」

 確認するようにさらりと問う。

「そう。あちらからのご要望なんだ」

(……え?)

 さすがに驚いた。警戒心が沙希の顔を強張らせていく。

 潤也は笑みを浮かべたまま、小さなため息をついた。

「大丈夫。坂上さんも同席している。身構える必要はないよ」

 陸の実父の名前が出てきたので、沙希は困惑しながらもホッとする。

 文書の束を自分のデスク上に置いたところで、潤也の電話が鳴り、わけがわからないまま沙希は潤也に従い社長室へと向かった。

 久しぶりの社長室訪問だ。

 何故自分が呼ばれたのかは判然としないが、坂上がいるならとりあえず安心できる。

(でも今朝はそんなこと言ってなかったのに)

 朝食の風景を思い返しながら廊下を歩く。

 テオが部活動の見学に行くと張り切っていたが、それが演劇部だと知った途端、陸は「お前はどこからどう見てもラグビー部だろ」と決めつけた。そんな二人の盛んな応酬を穏やかな表情で眺めているというのが坂上のポジションで、沙希は食事中に下品だと思いつつも時折噴き出したり、冷静に突っ込む役割に徹していた。

 思いがけず同じ屋根の下に暮らすことになったのだが、四人が集う食卓は賑やかで楽しい。いつまでもこの生活が続けばいいのに、と思う。

 潤也が社長室のドアをノックした。沙希は数歩下がった場所で待機する。

 ドアが開くと、社長秘書の女性社員が一礼し、潤也と沙希を室内へ誘導した。

 応接セットが見える位置まで進んだところで、沙希は三人の来客のうち、一人が女性であることに気がついた。そしてソファに坂上の姿を認めると表情を緩めて会釈する。

 坂上が潤也と沙希を手招きした。

 来客の女性がゆっくりと振り返る。

 沙希は小さく息を呑んだ。



「お久しぶりです、川島さん。あ、今は浅野さん、ですね」

 

 紺色の落ち着いたデザインのスーツを着たその女性は、優雅な仕草で沙希に頭を下げた。それから見慣れない温厚な表情で見つめてくる。

 沙希も条件反射で軽く礼をするが、頭の中は激しく混乱していた。何しろ、彼女と最後に直接言葉を交わしたのは社内の女子トイレだった。あの憎悪の炎を宿した目を簡単に忘れることはできない。

(どう……して……?)

 問いたいことは山ほどある。しかしどれも言葉にはならない。

 潤也に促されて来客の正面に進む。

 立ち上がった来客の女性を、沙希は真正面から見つめ返した。彼女は沙希の顔を見て嬉しそうな笑顔を作る。

(倉田さん……)

 以前の若々しく派手な印象は全くない。かなり明るめのカラーリングを施していた髪も、今はしっとりした黒系で、きっちりと後ろで一つにまとめている。

 この会社の社員だった頃とはまるで別人だ。しかしその人は、倉田由紀本人に間違いなかった。

 

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1st:2011/08/29
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