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第三部 4

 昔、この家には陸の祖父母にあたる人々が住んでいた。つまり前社長の実家だ。この家の以前の主は政治家だった。しかし陸にはこの祖父についての記憶がない。

 後から知ったことだが、祖父は時の政権内で重要な役割を担っていたことがあるらしい。そのためか、この家は以前から警備会社との契約があり、何か異常事態が発生すれば夜中でも即座に警備員が駆けつけることになっていた。

(つーか、警備会社の支所がこの住宅街の入り口にあるからな。坂の下には警察署もあるし、ここは山奥のジイさんの家より安全だろ)

 陸は眠っている沙希の頭を撫でながら、潤也のことを考えていた。

(安全……か)

 陸は沙希の髪を軽く引っ張った。沙希はよく眠っていて目を覚ます気配はない。

(アイツ、本気で沙希のことを好き……なのか?)

 彼の気持ちもわからないではない。自分がそうだったように、下心も含めて沙希の力になりたいと思うのは男にはありがちな心理だと思う。

 しかし先ほど相対した潤也は今まで見たこともない表情をしていて、さすがに胸騒ぎがしていた。

 これまでの芝居がかった態度とはまるで違う。

 沙希を陸に引き渡すことにしたのも、沙希のことを第一に考えた結論だろう。普段の潤也なら間違いなく自分の保身を一番に考えるはずだ。

 いきり立つ潤也の姿が脳裏によみがえった。そしてその潤也の姿に、陸は呆れた。

(……ったく、沙希をこんなふうに追い詰めたのは、自分だってことに気がついてないのか?)

 潤也の言う「誰も知らない土地」で「新しい人生」を始めさせることは、陸が既に実行済みだ。連れ戻したのは誰だ、と心の中で潤也をなじる。

 しかも今日の一件は真里亜と潤也が仕組んだ狂言だ。それを潤也が沙希にほだされて途中で書き換えてしまったが、シナリオ通りに進んでいたら、沙希の心は更にダメージを受けていただろう。



(もしそうなったら、沙希は……?)



 沙希の髪の毛は柔らかくて傷みも目立たず綺麗だ。その髪を触っているとこれ以上ないほど心が落ち着く。

 陸は眠っている沙希の顔をじっと見つめた。

(なぁ、寂しいこと言うなよ。俺だってどうにかしてやりたいってずっと思ってる。だけど……)

 潤也の言うように、現実はそんなに簡単ではない。

 綺麗な顔に残された傷跡は、もうほとんど目立たない。だが、生涯消えることはないのだ。

 その傷跡に指でそっと触れてみる。



(痛かった? ……怖かった?)



 自分に刃を向けられるのはどんな気持ちなのだろう。

 経験のない陸にはいくら想像してみても、実感など湧かない。

 自分の存在を「いらない」と否定されるのと似ているだろうか。

(いや、そんなもんじゃねぇな)

 彼女の自由を奪い、心を縛りつけ、それでも満足せずに彼女の全てである命までをも奪おうとするのは、ただのエゴだ。愛などではない。

 かつて沙希の彼氏と呼ばれていた顔も知らない男への憤りが陸の胸を荒らし、やがて去っていく。

(お前の泣いた顔もかわいいけど、やっぱり俺はお前に笑っていてほしい)

 結局、出会った頃から願うことは、ただ一つ――。

(ずっと俺の傍にいて……)

 何もかもから自由になって、つまらない計算も妥協もしないで、そうして最後に沙希の心に残るのは自分だと信じたい。

 陸はもう一度沙希の寝顔を見つめた。

 どんなことがあっても沙希を守るのは自分だ、と強い決意を胸に秘めて……。


     


(アイツ……。今更、あんなバカなことを言い出すとは)

 沙希を寝かせた部屋から出て、陸は階段を下りた。

 真里亜の派手な和服姿を思い出してうんざりする。そして真里亜が今日、わざとあの香水をつけてきたことに陸も気がついていた。

(シャネルの19番――。忘れるわけがない)

 昔、出会った頃の沙希がつけていた香水と同じ香りだ。

(同じ女でも、まるで月とスッポンだよな。俺はどうしてあんなヤツと沙希が似てるなんて思ったのか……)

 陸は真里亜と知り合った頃のことを思い出した。あまり愉快な記憶ではない。最初に声を掛けてきたのは真里亜のほうだった。



「ねぇ、過去問、コピーしてあげようか?」

 大学で最初のクラスにいた女だ、とすぐにピンと来た。大学内では少数派の派手な格好をした女子だったからよく覚えている。

「あー、ほしいかも」

 陸が履修している講座の教授陣の中に、定期的に小テストを行う教授がいる。しかも内容はどれも最終テストかと思うような難しい問題だ。先輩から過去問をもらっていなければ到底クリアできないとの前評判だった。

 正直、他のルートからも手に入れられるとは思ったが、今すぐもらえるならもらいたい、と気軽な気持ちで返事をした。

 そして近寄った真里亜から昔馴染んだ懐かしい香りがして、陸はハッとした。思わず真里亜の顔を確かめる。

 ――違う。アイツじゃない……。

 わかってはいても、離れがたい香りだった。自分の未練がましい想いにうんざりしながらも自分からは立ち去ることが難しい。

 同じ匂いなのだから、どこかに彼女の面影があるかもしれない。何かに縋るような想いが陸の胸に次々とこみ上げてきた。  

 そして、それがこの悪夢の始まりだったのだ。

 真里亜と親しく会話をするようになり、陸は彼女が深刻な悩みを抱えていることを知った。今思えば、そこで沙希と真里亜が似ていると勘違いしてしまったのだ。

(アイツの悩みっていうのは……結局アイツのわがままが発端なんだよな)

 今ならそう斬って捨てることができる。

 だが、あの頃の陸は沙希と同じ匂いに騙されて、真里亜の本性を見抜くことができなかった。それに彼女は大学内でも一、二を争う美しい女性だったということもある。そういう女性を目の前にして、誘惑に負けないほうが不思議というものだ。



「なんか、変な男に粘着されてるの」

 ある日講義が終わって、何となく一緒に帰路に着くことになった。隣を歩く真里亜が小声で言った。

「変な男?」

「そう。少し小太りで、眼鏡かけた、オタクっぽい男」

「大学にいる男の半分はそんなヤツだろ」

「そうだけど、電話番号まで知られてて、たまに電話来るんだ」

「え?」

 さすがに陸も気味が悪いと思い始めた。

「その話し方を聞いてると、私がまるでソイツの彼女みたいに聞こえてくるの。一度も顔を合わせて話したことないのに」

「そんなの切ればいいだろ。それに着信拒否すればいい」

「してるよ。それでも公衆電話とか自宅からかけてくるんだよ」

 これは本物だ、と陸は顔を歪めた。

「俺、昔、よくお前みたいな目に遭う女と付き合ってたよ」

「へぇ。どんな人?」

「美人で優しくておとなしそう。アイツ、頭いいんだけど、そういうことは全然ダメだったな」

「それ、陸の忘れられない人ね。噂で聞いたから知ってる。……ねぇ、お願いがあるの」

 真里亜の顔が真剣になり、陸はドキッとした。 

「私の彼氏になってくれない?」

 たぶん返事をしなかったと思う。だが、否定しなかったことで陸は真里亜の彼氏になった。

 真里亜は陸の時間をそれほど拘束しなかった。それが最初は心地よくて、滑り出しは順調だった。

 ところが、すぐに陸はあることに気がついた。

 真里亜の手首に刻まれた、いくつもの傷跡――。

 最初は見ないふりをした。しかし新しい傷が増えると、さすがに知らないふりができなくなった。

「何これ?」

 陸は真里亜の手首を捕まえて訊いた。真里亜の顔がまるでふてくされた子どものように見えた。

「別になんだっていいでしょ」

「よくねぇだろ。お前、自分が何をしてるか、わかってるのか?」

「わかってるわよ。死にたいのよ! でも死にたくないの。血を見たら安心するのよ。放っておいて」

 言っていることがめちゃくちゃだが、その気持ちはほんの少しわかる気がした。

 陸も一時期は出口のない迷宮を彷徨い、自分が生きていることに何の意義も見出せなかったからだ。

「やめとけ」

「どうせ陸にはわかんない! ずっと私の傍にいてくれるっていうの? そんな約束できないでしょ。それなら優しくしないでよ」

「傍にいるだろ」

「どうせみんな、私のことなんかどうでもいいのよ」

 こうなると真里亜はうわ言のように同じセリフを繰り返し、手が付けられなくなった。陸は密かに嘆息を漏らし、嵐が過ぎ去るのを待つ。時には目の前で新たな傷を刻まれることもあった。

 正直に言えば、この状況に辟易した。

 真里亜の不満が何に由来するものなのか、当時の陸はよくわからなかった。真里亜の家族が一般の家庭とは違う、ということは彼女の話で知っていたが、特殊なのは陸も同じだ。しかし陸には真里亜の自傷行為を止めることも、理解することもできなかった。

 彼女が不満を爆発させるのを眺めながら、次第に陸は沙希に会いたいと思うようになった。

(今なら少し沙希のことをわかってやれる気がする)

 こういう場面を見せつけられると、その場にいる者は簡単には立ち去りがたくなる。陸はまだいい。見ているだけだから、目を背ければいいのだ。



 だが、その不満の捌け口が自分に向かってきたら……?



 陸ですら、真里亜の目に見えない呪縛にかかっているのだ。その呪縛を自分の身体に深く刻み込まれたら、「もう嫌になった」とその鎖を自ら断ち切って逃げ出すことが果たして可能だろうか。

(……なんなんだ、これ?)

 陸は目の前に広がる光景にただ茫然としていた。

 そのうち真里亜から徐々に距離を置くようになる。心が離れていけば、当然身体も離れていく。会う機会も少なくなり、陸はいつでも逃走可能な状態になった。

 そしてついに絶好のチャンスが訪れたのだ。

 ある日、ゼミの指導教官の研究室へと向かう陸の耳に、研究室棟にそぐわない派手な音が聞こえてきた。ガシャンとガラスが割れる音だ。

 彼の研究室の前に立つと、聞き覚えのある女の声がした。

「ここで死んでやるんだから!」

 ヒステリックに叫ぶ声は真里亜のものだと陸はすぐに気がつき、ドアをノックするのをやめた。

 教授の声は聞こえなかったが、真里亜は更に苛立ち、わけのわからない叫び声を上げる。

「私のこと、好きだって言ったじゃない。別れたいってどういうこと? 結婚したいって言ったのは嘘だったの? この……嘘つき! 嘘つき!」

(ああ、コイツらデキてたのか)

 陸はドアの真横で中の様子を窺いながら苦笑した。

 真里亜がパッと見で容姿の優れた男性を好むことは知っていたが、まさか教授にまで手を出しているとは思わなかったのだ。

(ま、どうでもいいけど)

 そもそも陸は真里亜の身体にも興味がなかった。付き合い始めてすぐに興味を失ったのだ。

 彼女の美しさには誰もが感嘆の声を上げるかもしれないが、それを武器に自ら男性に迫る彼女の性癖までを愛せる男がこの世にどれほどいるだろう。

 機嫌のよいときには真里亜は陸の彼女ぶって、陸の友人に会いたがった。いちいち断るのが面倒になって「勝手にしろ」と言うと、喜んでついて来た。真里亜が自分から離れていってくれるなら逆に好都合だと陸も彼女を拘束しなかった。

 実際、真里亜は陸の友人知人と隠れて会っているようだった。

(まさかこんな女だったとは)

 沙希とは似てるどころか正反対だ。陸の胸の中にはほろ苦い想いが広がった。

(つーか、真里亜につきまとう男って、結局コイツとやりたいだけなんじゃね? そしてコイツも寂しいからすぐ男を求めるんじゃね?)

 今まで真里亜に振り回された時間がただ虚しく感じられる。

 しかし、こんな決定的な場面に出くわして、これを利用しない手はない。

 気を取り直した陸は薄っすら笑みを浮かべて、わざとらしく研究室のドアをノックした。

「浅野くん……」

 陸の姿を見て顔面蒼白になったのは教授だった。真里亜は居直るようにふてくされた表情で顔を背ける。

「お取り込み中、失礼します」

 そんなにおどおどしなくてもいいのに、と教授に同情しながら陸は言った。

「誰にも言いませんよ。言える訳がないじゃないですか。僕の彼女が実は教授と……なんて」

「ま、待て。誤解だ」

「教授、よく聞いてください。僕はこのことを誰にも言いませんし、これからも彼女の彼氏でいてやるつもりです」

 真里亜の鋭い視線が陸に突き刺さった。だが気にせず続ける。

「その代わり、僕はもう真里亜には関わりません。彼女を宜しくお願いします」

「どういうこと?」

 ようやく真里亜が口を開いた。

「私から逃げる気? 私を置いてどこに行くつもり?」

「どこにも行かねぇよ。ただ俺もお前と同じように、好きなようにやらせてもらうわ」

「他の女としたいならすれば?」

 このとき陸は心の底から真里亜を軽蔑した。

「もう俺に話しかけるな!」

 そう言い捨てて研究室を後にした。

 それ以降の陸は真里亜の名目上の彼氏として気楽な大学生活を過ごすことができた。

 面倒な恋愛沙汰に巻き込まれることもなく、無事に卒業して社会人になる日を指折り数えながら――。


     


 リビングルームでは、相変わらず前社長がソファに座って本を読んでいた。ソファに根が生えているのではないかと陸は思う。

「沙希ちゃんは?」

「寝てる」

 本から目を上げた実の父親は「そうか」と相槌を打って顔をほころばせた。

「アンタ、どういうつもりだよ」

 陸はソファの横にあるスツールに腰掛けて、相手の眼鏡を睨みつけた。

「何が?」

「見合い。堂本ってヤツがD自動車のお偉いさんで、その娘が俺の大学の同期で、元カノで、ソイツに子どもがいるって……アンタ、全部知ってただろ?」

 坂上譲一は静かに本を閉じた。

「知っていたよ」

「じゃあなんで見合いなんかセッティングするんだよ? アンタ、俺に沙希と早く入籍しろって言ったよな?」

「そう言ったな」

「どういうつもりだよ?」

 陸はもう一度問う。

 相手は陸の顔をまじまじと見つめ返してきた。

「たとえ私がこの話に乗らなくても、やはりお前は引き摺り出されると思うが?」

「そうかもしれないけど、結局アンタは誰の味方なんだよ?」

「私は誰の味方でもない」

 坂上は不敵な笑みを浮かべた。

「私は私の役割を演じるだけのこと」

「あっそ。その割にはあれこれ調べたり、やることが卑怯だな」

「お前には事前に忠告したはずだ」

 実の父親の声音が変わったことを敏感に察して、陸はハッとする。

「大切なものを大切にしなさい。私がお前に唯一父親らしいことを言えるとしたら、それしかない」

 坂上譲一はそう言うと、深い嘆息を漏らした。

 それから立ち上がってキッチンへ向かう。戻って来た彼の手にはワインとワイングラスが握られていた。

「昔、私の父がよく言っていた。『自ら人の上に立とうとするな』と。そして人の上に立つ者は『引き際は自らが決めよ』と」

 ワイングラスが陸の前に置かれる。

「父は父なりに私の性格を考慮して、そう言い聞かせていたのだろうな」

「へぇ」

 祖父の記憶がほとんどない陸には曖昧な相槌を打つことしかできない。

「それでアンタの引き際がこのタイミングだったと言いたいわけ?」

「それは私にもよくわからない」

「え?」

 ワイングラスに手を伸ばした陸は、そこで動きを止めた。珍しい返答だったからだ。

「アンタにしては自信なさげな言い方だな」

 前社長はワインを口に含み、笑って見せた。

「物事には必ず表と裏がある。絶対などということはありえないものだ」

「ま、そうかもな」

「お前のプレゼンを見て、私自身がやり残したことはもうないと思った。しかし彼女をこのような形で巻き込んだのは、私の責任でもある」

 苦い表情を作る父親の顔を、陸は注意深く見守った。

「……どういうこと?」

「会長の拡大路線を止めることができなかったのは、私の力不足だ」

 リビングルームはしばらく奇妙な沈黙に包まれた。

 陸は何も映っていないテレビの黒い液晶画面を眺める。
 
(まさか、アンタ……)



 坂上譲一という男が、母親と離婚した後もK社に残っていたのは何のためか――?



 ずっと謎だった事柄の答えがすぐそこに見えているというのに、陸はそれを掴み取ることを躊躇した。

(だけど、もし俺が違う道を選んだらどうするつもりだったんだよ?)

 坂上は自分のワイングラスに並々と液体を注いだ。それから陸のグラスにもワインを満たす。

「お前たち、しばらくここで生活したらどうだ?」

「……うん」

 よく考えもせず、自然にそう答えていた。

 父親が嬉しそうに微笑むのを、陸は複雑な気持ちで眺める。気まずくなって顔を背けると、視線の先に起動中のパソコンがあった。

 テレビだけ消して、パソコンの電源を落としていないことを不思議に思いながら、そのパソコンの前に移動する。マウスを動かすとモニターの画面が切り替わった。

(……え!?)

 モニターに映し出されたインターネットニュースは、音楽関連の情報ページだった。そのニュースタイトルに目が釘付けになる。

「なっ……!」

 急いで詳細記事に目を通した陸は、その内容に愕然とした。そして父親を振り返る。

 彼は悠然とワイングラスを口に運んだ。しかし陸を見ようとはしない。

 絶句したまま、再びパソコンのモニターに目を戻す。

 そこには、以前陸が一緒に活動していたバンドメンバーの写真とともに、メジャーデビュー後ようやく人気の出始めたこのバンドから、トオルが脱退したことを発表する文章が淡々と綴られていた。

 

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1st:2011/05/31
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