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第二部 23

「ダメ……だよ」

「何が?」

「だって、聞こえちゃうよ?」

 沙希は少し首を起こして向かい側の壁を見る。隣の部屋は陸の両親の寝室だ。

「大丈夫。聞こえない」

「ウソ! だって前に『壁が薄い』って言ったのは陸だよ?」

 温かい腕の中にストンと再び納まると、沙希は陸の顔を見上げた。陸は涼しい顔で沙希の髪を撫でる。

「もう二人とも寝てるって」

「でも!」

「じゃあ、声出さなきゃいいじゃん」

 そう言いながら陸の手は再び沙希のパジャマの中で悪戯し始める。胸には下着をつけていないので彼の手を阻むものは何もない。

 沙希が少しくらい身を捩ったところで、その手から逃れることなどできはしないのだ。むしろ逆に膨らみの先端に指が引っかかり、その途端甘くて痺れるような強い刺激が全身を駆けた。

「やっ……!」

「聞こえちゃうぞ? 我慢して」

 沙希は激しく首を振っていやいやをした。触られることは嫌ではない。だが、この状況下で求められても自分の気持ちがついてこない気がした。

「やめて」

「そんなに嫌だった?」

 心配そうな顔をする陸を上目使いに窺った。

「だって……気になって集中できない」

「集中?」

 陸はふぅと息を吐いて困ったように笑うと、沙希のパジャマの裾を引っ張って直した。そして沙希から少し身体を離して行儀よく寝転がり、あっさりとした口調で言った。

「じゃあ、寝よう。今日は疲れたし」

 枕元のリモコンで部屋の明かりを消すと、陸は沙希に背を向けておとなしくなった。

 沙希はひとり取り残された気分で、暗闇の中、目を閉じることもせずぼんやりする。嫌だと思ったのは事実だが、こんなに簡単に諦められるのも残念だと思う。

(私……もしかして、本当は嫌じゃなかったのかな)

 胸の中にもやもやとした想いが残り眠ることもできない。仕方がないので、後ろを向いた陸をしばらく眺めていた。

 陸の背中は呼吸に合わせてゆったりと上下し、眠ってしまったように見えた。それもそうか、と沙希は思う。今日はいろいろなことがあった。いくら陸が若くても、こんな日はベッドに入り横になれば眠くもなるだろう。

 小さくため息をつくと沙希は寝返りを打った。自分も疲れているのだから寝ようと思ったのだ。

 静かに目を閉じた。

 不意に背後で陸が動く。寝返りだろうと思い、じっとしていると沙希の太腿の上に陸の手がのせられた。毛布の下で動きとしては不自然だったが、その手は力が抜けてずっしりと重い。沙希は安心して身体の力を抜いた。

 しかし意志を持たないはずの陸の手が太腿をじりじりと這い上がってきた。

 途端に沙希の胸はドキドキと早鐘を打ち始める。

(眠っているんじゃなかったの?)

 沙希は目を瞑ったまま、どうしようかと思案した。思案している間も陸の手はじわじわと沙希の太腿の間に入り込む。

 そしてとうとう指が沙希の敏感な部分に到達し、閉じた足の隙間からパジャマの上をゆっくりと行きつ戻りつして、沙希の期待通りの官能を呼び起こし始めた。

 その指の動きがもどかしくて、沙希は僅かに足をずらした。指はもう意志を持ち、布越しにでも沙希の好きな部分を探り当て、そこを重点的に往復する。だが、あくまでもゆっくりとした動きは変わらない。

 更にもどかしく感じ始めた沙希は自らもっと大きく足を開いた。陸の指は円を描くようにして沙希の敏感なところを数度撫で上げると、するりとパジャマの中に入ってきた。

 下着の上から陸の中指が沙希の襞を撫でた。今までより数倍強い刺激が沙希を貫く。

「はぁっ……あっ……ん」

 できる限り声を殺して喘ぐと、陸は指を立てて突起を擦る。

「ああっ……」

 その声を聞くと陸は下着の横から指だけを滑り込ませてきた。そしてようやく口を開いた。

「気持ちいい?」

「……んっ」

「すげぇ感じてる。それでも嫌?」

 わざと濡れている中心をかき混ぜながら背後から耳元に囁いてくる。沙希は首を横に振った。

「寝てたんじゃなかったの?」

「眠れるわけないって。昔に戻ったみたいでめちゃくちゃ興奮する」

 沙希は笑った。陸の顔が見えないので、身体をくるりと回転させ横になったまま抱きつく。

 その隙に陸の手が沙希のパジャマの下だけ素早く脱がせた。

「お前も本当はしたいくせに」

 全てを見透かしたように意地悪な目をした陸が沙希の顔を覗き込んでくる。うん、とは言い難いので、その目を笑いながら睨み返した。

 しかし、それも長くは続かない。今度は両方の手を使えるようになったので、陸は水を得た魚のように嬉々として沙希の身体を撫で回し、濡れた突起だけでなく胸の膨らみの先端をも弄り始めた。

「お前の身体ってホント綺麗」

「んっ……、見えないでしょ」

「見えるよ。肌が白いから。それに見なくても覚えてるし」

 恥ずかしくて目を伏せると、陸は唇を寄せてきた。最初は唇を触れ合わせるだけのキスを数度繰り返す。

 くすぐったい感じだったのが次第に物足りなくなり、沙希は自分から陸の唇に割って入り込んだ。その沙希のリードに合わせるように陸は控えめに舌を絡めてくる。

 それを契機に陸の指が意地悪に動きだす。優しく襞をかき分けて秘められた部分に指を滑らせた。

「やぁ……んっ!」

 大きな声が出そうになるのを陸の肩に唇を押し付けて我慢するが、逆に一瞬隣の部屋を意識してしまったことで、沙希を押し留めていた何かが弾け飛ぶ。羞恥心はどこかに消え失せ、沙希は自ら快感を得るために身を捩った。

「んっ……、んんっ……」

 陸は沙希の望むように巧みに導いていく。ゆったりとした波は徐々にうねりを増し、沙希の胸は更なる高みへ登りつめたいという切ない期待でいっぱいになっていた。その絶妙のタイミングで沙希の中に長い指が侵入してくる。

「はぁ……ん!」

「お前の中、熱い」

「だって……」

 指の動きとともに甘美な刺激が間断なく与えられ、沙希は何かを考えるよりもただその気持ちのいい刺激だけを感じていたいとひたすらに願った。

「いい……気持ちいい……」

「どこが?」

 もう言葉を話すことも面倒だった。快楽に溺れるだけ溺れ、呼吸をするのもひどく困難だった。

 目を閉じると頭の中は真っ白になる。陸の指の動きとそこから生み出される痺れるような快感に酔いしれた。静かな部屋に沙希の荒い息使いと卑猥な水音が響き、淫らな気持ちがますます煽られてゆく。

「はぁっ……んっ……あぁん、あぁっ!」

 受け止めきれない快感の波が襲ってきて、沙希は陸にしがみついた。肩で息をしながらぐったりと全身の力を抜く。

「すぐ、いい?」

 目を上げると切ない表情の陸がじっと見つめていた。こくんと首を縦に振ると、我慢できないというように性急な動作で陸の熱く硬いものが侵入してくる。

「……んっ!」

 一気に奥まで入ってきた。顔を歪めると、陸は「痛い?」と小声で心配する。笑顔を作って首を横に振ると、陸も安心したように慎重に動き始めた。

 次第にその動きが激しさを増すと、ベッドの軋む音が静かな部屋で一際大きく響いた。隣の部屋に聞こえてしまうのではないかと沙希は心配になる。

 陸も同じことを思ったのか、ベッドのヘッドボードを掴み、反対の手で沙希の頭を抱いた。そのままゆっくりとした動作でぎりぎりまで腰を引き、一気に奥まで貫くのを数度繰り返すと、次はその反動のように息をする間もないほどの激しさで突きまくる。

「もう、いいよね?」

 さすがに陸の息も上がっていた。

「ん……?」

「外に、出さなくても」

 身体を激しく揺さぶられる合間に頭を上げて陸を見る。つらそうに何かをこらえているような表情だった。

「うん」

 沙希は手を伸ばして陸の頬を包んだ。

(いつだって陸のことなら、どんなことだって受け止める覚悟はできているよ)

 それが二人にとって喜ばしい事柄であれば拒む理由などあるわけがない。

 目を瞑って切なげに顔を歪めた陸は、最後の力を振り絞るように腰を動かした。そしてぎゅっと沙希の頭を抱え込み、動きを止める。

「なんかもう、ずっとこのままでいたい」

 満足そうな微笑を浮かべて、陸は沙希の胸の谷間に頬をくっつけて甘えてきた。生暖かいものが自分の中に放たれ、心も身体も満たされるような感覚になる。

 しかしそれはすぐに少しずつ沙希の体内からこぼれ出て、ずっとこのままでいることは不可能だと警告してきた。沙希は陸の髪を撫でながら「ねぇねぇ」と彼を促した。

「このまま寝ちゃったらどうなる?」

「絶対後悔する」

「じゃあ仕方ない」

 やっと陸は身を起こした。面倒くさそうな動作でヘッドボードのティッシュボックスを手に取り、慎重な手つきで自分と沙希の間にティッシュペーパーをあてがって腰を引く。

 陸が自分の中から出て行ってしまうのが少し寂しかったが、綺麗に拭き取ってもらうと気持ちが落ち着き、急に睡魔が襲ってきた。

 再び陸がベッドに戻ってきて、今度こそ二人とも眠る体勢を取る。陸は沙希を後ろから抱きかかえると、沙希の腹を撫でた。

「早くできねぇかな」

「え?」

「沙希に似てるといいな」

「子ども、ほしいの?」

「うん」

 沙希は少し意外に思いながら、首を回して陸を振り返った。

「もしかしたら……私、できないかもよ?」

 ずっとその可能性は高いと思っていた。初めて経験した日から十年以上経つが、高校時代には生理が遅れてもうダメだと思ったことが何度かある。それでもありがたいことに十日遅れても生理はきちんとやってきた。

 陸は目を閉じる。

「まだわかんないって。それにお前はどこもおかしくない」

「え?」

 そのまま目蓋を開けようとはせず、少し怒ったような顔で陸は言った。

「できない身体かもって、それ、誰かに言われたんだろ? お前はソイツの言うことを今でも信じるんだ?」

「…………」

 沙希は無言で首を横に振った。頭の中では陸の言葉が何度も繰り返される。



(私……どこもおかしくない……の?)



 心の中にある根深いしこりが徐々に溶けていくような気がする。沙希はこれまで自分を縛っていたものの姿を、今ようやく正視することができたのだ。

(そっか。そうだったんだ) 

 陸は眠そうに重いまぶたを開けて、沙希の強張った身体を転がすようにして自分の正面に向き直させた。

「大丈夫だよ。俺がそばにいるから」

「うん」

「何? そんな顔して」

 怪訝な声で陸は言った。彼の目はもう半分も開いていない。沙希も眠いのだが、陸の責めるような口調が気になり、その顔を確かめるように見返した。

「怒ってるのかな、と思って」

「別に。お前が悪いわけじゃないってことはわかってる。でもいい気分はしないな」

 それはそうだろう。沙希は顔を伏せた。できるのならあの男に関する記憶を全て切除して捨ててしまいたいと思う。

 だが、そんなことはできない。無意識にため息が漏れた。

 不意に陸の手が頬に触れた。

「だけどお前が苦しんでいれば俺もつらい。だからお前を助けたい。ただそれだけ……」

 顔を上げると陸はもう目を瞑っていた。頬に乗せられた彼の手から力が抜け、急に重くなる。

 その寝顔を見ながら沙希はひとり苦笑した。

(ありがとう)

 陸の腕をそっとシーツの上に置き、ほんの少しだけ身体をずらして沙希も目を閉じる。二人にとって忘れることのできない長い一日がようやく終わろうとしていた。


     


 翌朝目を覚ました沙希は、陸が熟睡しているのを確認してから静かに部屋を出た。時計はもうすぐ八時になろうとしている。

 廊下に立つと、キッチンのほうから物音がした。陸の両親は休日のはずだが、それでもこの時間であれば陸の母が起きているのは当然だ。沙希は少し慌ててキッチンへ顔を出した。

「あら、まだ寝てていいのに」

 そう言いながら陸の母は忙しそうに朝食の準備をしていた。沙希も腕まくりをしてシンクの前に立つ。

「何を手伝いましょうか?」

「じゃあ、そのトマトを切ってくれる?」

 既に用意してあった包丁を手に取り、トマトをくし切りにしていく。料理は得意とは言えないが、毎日やっていればそれなりに手際もよくなるものだ。切り分けたトマトをサラダの脇に盛り付けながら、沙希は陸の母に話しかけた。

「実は佐和さんから真珠のネックレスとイヤリングをいただいたのですが、あんなに高価なものとは知らずに受け取ってしまって……でもやっぱり受け取れません。どうしたらいいでしょうか」

 陸の母は手を止めて沙希を見る。

「『先生』って言ったら陸が怒るけど、でも先生はホント昔のまま変わらないのね。真面目で欲がなくて、しっかりしてる」

「そんなことありません」

 よく言われる言葉だが、きまりが悪くて沙希はうつむいた。欲がないわけではない、と心の中で反論する。沙希が本当に欲しいものは金で買えないのだから、自分こそが真の欲張りだと思うのだ。

 その様子を見ていた陸の母は小さく笑い声を漏らし、フライパンを手に取った。

「父がまたバカなことを言い出したんでしょ?」

「……いいえ、あの、なんて言えばいいのかわからないのですが」

 沙希は口ごもった。

 会長が世界進出を考えているのはわかったが、それが陸と自分の関係にどんな影響があるのかまではよくわからない。陸は会長の言葉の意味を沙希よりも正確に理解しているようだったが、結局「気にしなくていい」としか言ってくれなかった。

(あまりいい話じゃないことは確かだよね)

 それを考え始めるとキリがない。沙希は憂鬱な物思いを断ち切るために、食卓に並ぶ美しい器を眺めた。北欧のブランドのものだ。雑誌で見たことがある。

 素敵だな、と思っていると陸の母が明るい声が聞こえてきた。

「母から『今の時代は結納をしないのか』と訊かれたので、『するほうが稀じゃないか』と答えたんだけど、きっと母は何もしないことに気が咎めてあなたに真珠を贈ったんだと思うわ」

「でも……」

「父のこともあるから、母はあなたをとても気にかけているのよ。本当は私が力になってあげなきゃいけないのに、ごめんなさいね」

「いいえ、そんな、謝らないでください」

 陸の母が表情を翳らせたので沙希は慌てた。確かに陸の家の事情は沙希の家に比べれば数倍複雑だ。沙希にも祖父母はいるが、孫の結婚に口出しをするようなことはない。

 だが会長が陸の将来を憂慮するのも当然だと思う。ごく一般的なサラリーマン家庭出身の沙希と、国民のほとんどがその名を知る大会社の後継者と見なされている陸を単純に比較することはできまい。

 それにもし沙希が会長に望まれていたとしても、今後周囲から陸の妻として認められるよう努力していかねばならないことは何の変わりもないのだ。

 陸の母はIHクッキングヒーターに空のフライパンを戻し、険しい顔のまま眼鏡のフレームを指で押し上げた。

「私はね、あなたたちが日本に戻って来てからが心配なのよ。先生のお家もこっちだし、向こうには私の母くらいしかいざというときに頼れる者がいないでしょ。でも母もあの歳だし、あの人も結局父に逆らうことはできない。せめて父が何を企んでいるのか、わかれば……」

 どこかのドアの開く音がした。陸の母はハッとして口を噤む。

 廊下からキッチンを覗いたのは陸だ。

「ジイちゃんの企みがわかったところで、母さんに何ができるって?」

「陸!」

 陸はパジャマのままキッチンに入ってくると、まず水を飲んだ。沙希と陸の母は食事の準備を忘れて陸の挙動をじっと目で追う。

 コップをシンクの脇に置き、振り返りざまに陸は言った。

「大丈夫だよ。ジイちゃんの好きにはさせない」

「あら、頼もしい」

 笑いながら陸の母は肘で陸を小突いた。それを嫌そうな顔で払いのけると、陸は沙希の隣に立ち、サラダが盛り付けられた皿からミニトマトをつまみ上げる。

「俺はもうガキじゃないっつーの。ジイちゃんが何を企んでいようが、俺の人生は俺のもの。会社とか家に縛られるのはまっぴらだね。それにジイちゃんも言ってたし」

「なんて?」

「俺が沙希を護ればいい、って」

 ミニトマトが陸の口の中に消える。沙希は内心「あっ」と思うが、それは声にはならなかった。

 陸の母は食卓の真ん中に置いてあった食パンの塊を手に取ると、呆れたように大きなため息をついた。

「『もうガキじゃない』なんて言う人がつまみ食いとはね」

「腹減ってるから一つくらいいいじゃん」

 また大げさな嘆息が聞こえてきたが、陸は全く気にしない様子でリビングルームへと姿を消す。

 その背中を見送ると陸の母は食パンを切り分けた。焼きたてパンのよい香りが辺りに漂い、沙希はその香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

「沙希ちゃんのところにはホームベーカリーある?」

「ないです。でもこの匂いだけでホームベーカリーが欲しくなっちゃいました」

 沙希は正直な気持ちを言った。買いに行かずとも焼きたてのパンを食べられるなんて、とても贅沢な朝食だと思う。それに材料を入れておけば自動的に食パンが焼けるのだからお手軽だ。

「結婚のお祝いに買ってあげようか?」

 なぜか陸の母は目を輝かせていた。返事に困った沙希は口を開いたまま、愛想笑いを浮かべる。

「えっと、でも……」

「そんなに高価なものじゃないから遠慮しなくていいわよ」

 どうしようか、と困っているとリビングルームから陸の声がした。

「欲しい!」

「わかったわ。でも陸が材料をセットするのが条件よ」

 陸の母が大声で答える。その横で沙希は小さく吹き出した。

「それくらいやってやるよ」

 そう返答する陸の声はどこか頼りない。キッチンでは笑い声が起こり、その賑やかさに寝ていられなくなったのか、ドアの開く音に続いて重量感のある足音が聞こえてきた。

「ずいぶん楽しそうだな」

 陸の父が機嫌の良さそうな声で言う。

 もう一度、沙希は息を大きく吸い込んだ。ここが陸を育んできた場所なのだと思うと感慨もひとしおだった。この食卓の幸せな匂いを身体の隅々にまで行き渡らせて、覚えておこうと思った。


     


 朝食を終えると、陸と沙希は徒歩で区役所へ向かった。昔、家庭教師をしていた頃によく歩いた懐かしい道だ。

 沙希は左右をきょろきょろしながら、立ち寄ったことのあるコンビニが今も同じ場所にあることにホッとしたり、古い平屋の店舗に替わって新しいマンションの出現に驚嘆の声を上げる。

「俺はお前の反応を見てるだけで笑えるんだけど」

 道すがら陸はクスクスと笑い通しだった。自分と同じように陸も上機嫌でいることが嬉しい。それが沙希を更にはしゃいだ気持ちにさせた。

 区役所は閉庁日だが、当直室にて二人の婚姻届は受理された。日直の職員が書類を大事に保管するのを見届けて区役所を後にする。

「というわけでよろしく。浅野沙希さん」

「何だか変な感じ」

「変って言うな」

 陸が目を鋭くして睨むので、沙希は思い切って陸の腕にしがみついた。頬が熱くなり、笑みで口元が緩む。興奮と照れが入り混じっている今の表情は恥ずかしくて、陸に見られたくなかった。

 前日に続いて爽やかな晴天が二人の頭上に広がっている。もうすぐこの北国にも短い夏が来る。肌を撫でる風は洗いざらしのシャツの匂いに似ていると思いながら、沙希は故郷の街を歩いた。

 その夜、二人は最終便で東京に戻ると、翌々日にはパリへと向かう国際便に搭乗していた。

 機内で寛ぎながら映画を観ていたが、エンディングを迎えると、思いついたように陸が音楽の話を始めた。

 最近は音楽を楽しむスタイルが多様化し、CDを購入して音楽を聴くことが当たり前だった時代はすっかり過去となった。時の移り変わりがもたらす結果とわかってはいても、陸にとっては少し寂しいことのようだ。

「でも、俺がバンドやってた頃からその変化を無意識に感じてはいたんだ。音楽の世界だけじゃなくて、俺らの生活そのものが変わり始めているって」

 陸は沙希が頷くのを見ると満足したように機内サービスのコーヒーを飲む。

「何となくわかる」

「だろ? それで俺はずっとミュージシャンになれば金持ちになれるというお気楽な考えでいたんだけど、ある時それはどうも違うようだと気がついてしまった。勿論、連続してヒットを飛ばせるようなアーティストなら金持ちにもなれるだろうけど、ぶっちゃけそれって宝くじに当たるより難しいんじゃね?」

「確率とかよくわかんないけど、宝くじのほうが公平なチャンスがありそう」

 沙希には人の持つ才能というものがよくわからない。この世に生を受けたときから才能には個人差があるとしたら、とある分野で特別な成功を収めるためには、その分野の才能を持って生まれる必要があるということになる。

「ま、宝くじだって買えない人には最初からチャンスがないからな」

「そうだね」

「でも、全然ヒットしなくても素晴らしい曲はたくさんあるだろ。つまり世に認められるためには、音楽以外の才能が必要ってことにならねぇ?」

「うん。じゃあミュージシャンになって更にお金持ちになるっていうのは、音楽だけじゃなくていろんな才能が必要ってことだね」

 話を要約して陸の顔を見ると、眉間に深い皺を刻んでいた。

「俺が思うに、人望のある人と、そうでない人がいると思う。それが才能と同じかどうかはわかんないけど」

「人望?」

 沙希はほんの少し首を傾げる。

「沙希を例えにすると、お前の場合、仕事面ではものすごく評価が高い。それは実際に仕事ができるからというのもあるだろうけど、たぶんお前の仕事をする姿勢とか他人に対する物腰とかがプラスに評価されているからだと俺は思うわけ」

 自分を例に出され、しかも褒め殺しにあった沙希は、苦笑しながら反対側に首を傾けた。

「でも、プライベートの沙希は俺が心配になるくらい友達がいねぇ」

「ぶっ!」

 絶望的な声を出す陸にすぐさま「ひどい!」と言い返したが、陸は肩をすくめただけであとはニヤニヤしていた。

「それが言いたくてここまで話を引っ張ってきたの?」

 できる限り怖い顔を作って隣の席に座っている人物を睨む。すると陸は我に返ったように「あっ」と短く声を上げた。

「そうじゃなくて、俺には何かあるのかって考えちまうんだ。……才能とか人望とか、さ」

 ため息混じりにそう言うと、陸は腕組みをして物憂げな視線を機内の前方へと放った。

 その横顔を見た瞬間、胸が締め付けられるような感覚が沙希を襲う。



「あるよ」



 反射的にそう口にしていた。

「プレゼンを見て思ったもん。陸にはみんなの意見をまとめて引っ張っていく力があるって」

 その言葉には沙希も気がつかぬ内に熱がこもっていた。陸は表情を崩して笑みを浮かべる。

「俺にリーダーシップなんかあるのか?」

「あるよ。ついでに言えば、人望だってあるよ」

「ま、人望という点では潤也に負ける気がしねぇ」

 そのセリフに二人は同時に吹き出した。周囲の席から一斉に注目を浴びて、沙希は肩を小さくすぼめる。

 陸はその肩をぐいと自分のほうへ引き寄せて言った。

「沙希にそう言われたら頑張るしかねぇな」

 沙希は自分の頭を陸の身体に擦り付けるようにして頷く。

「頑張って」

「違うだろ」

 不満げに言う陸の顔を見上げると、いきなり鼻をつままれた。

「何!?」

「二人で頑張るんだろ? お前は俺の心の支えなんだからさ」

 鼻が解放された途端、目頭が熱くなる。目が潤むのを瞬きで懸命に誤魔化した。そんな沙希を見下ろす陸は急に悪戯っ子のような顔をする。

「それで俺は、プライベートでは全然人望のない沙希の支えになってやるよ。だから友達がいなくても泣くな」

「泣いてないもん! それに私にだって友達はいるって!」

 バレているのならもういいや、と指で涙を拭って、陸の腕を軽く叩いた。陸は大げさに痛がって見せる。

 二人で声を潜めつつもひとしきり笑った後、沙希は機内の小さな窓から上空の様子を眺めた。雲海の上を滑るように進む飛行機の翼が太陽の光を浴びて白く輝いて見えた。

 前も後ろも、右も左も、真っ青に塗りつぶされた部屋のようだ、と沙希は雲の上の世界に浸る。

(分厚い雲に覆われている空も、その雲を突き抜けたらいつだってこんな上天気なんだよね)

 土砂降りだろうと、吹雪だろうと、嵐だろうと、頭上を遮蔽する雲を突き破ることさえできれば、この澄み切った青空に会えるのだ。そう思うだけで心が強くなる気がする。

 気がつけば隣の席の陸は静かに寝息を立てていた。

 力が抜けてだらりとした腕にそっと触れてみるが、陸の呼吸は深く一定だ。それを確かめてから、慎重にその腕に身を預ける。

 どんな夢を見ているのだろう?



(ねぇ、私はここにいるよ)



 沙希は心の中でつぶやいてみる。

 いつもよりほんの少し太陽に近いところで見る夢が、陸にとって安らかなものであることを願って――。


〈 第二部 END 〉


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1st:2011/02/18
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