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第二部 22

 約四ヶ月ぶりに実家へ戻ってきた沙希は、元気そうな母親の顔を見て少し安堵した。同時に浮き立つ気持ちも少しだけ落ち着きを取り戻したように感じる。

「沙希の家っていいですよね」

 ダイニングテーブルの上に夕飯を運ぶ母に向かって陸が言った。沙希はそれを手伝いながら「何が?」と応じる。

「いや、居心地がいいっていうか、雰囲気があったかくて」

「そう言ってもらえると嬉しいわ」

 沙希の母がにこやかに答えた。普段あまり愛想のいい人ではないが、気に入った相手には自然と愛想良くふるまってしまうものらしい。そんな母親の姿を、沙希は微笑ましく思う。

 玄関でドアが開く音がした。

「お父さん?」

「たぶんね。沙希が来るって連絡しておいたから」

 陸が立ち上がりそわそわした様子で沙希を見る。その姿が可笑しくて仕方がないが、沙希は笑いをこらえて玄関へ向かった。

 父と軽く会話を交わしながらリビングルームに戻ってくると、緊張した顔の陸が父に礼をした。

「いらっしゃい」

 人当たりの良い父は「まぁ座って」と陸を促した。そして自ら冷蔵庫へビールを取りに行き、グラスを二つ用意する。

「沙希も飲むかい?」

「私、ビールはそんなに飲めないからいいや」

「じゃあ、まず我々だけで乾杯しようか」

 父はさっさとビールをグラスに注いで乾杯の格好をする。

「待って待って!」

 キッチンとダイニングテーブルを忙しく往復していた母は、エプロンを外すとお茶を二人分持参した。その一つを沙希の前に置く。

「それじゃあお疲れさま。かんぱーい!」

 待ちきれないという口調で父は音頭を取った。そして美味しそうにビールを喉に流し込んだ。

 一息ついたところで陸が「おとうさん」と向かい合っている沙希の父に呼びかける。心臓がドキッと音を立てた。

「今日は突然押しかけてしまいまして申し訳ありません。お話があってやって来ました」

「はい」

 父は陸の態度に恐縮しているようだった。意を決して口火を切った陸はその勢いで続ける。



「沙希さんとの結婚を認めていただけますか?」



 一瞬、緊迫した空気がリビングルームを占めたが、父が真っ先に相好を崩して頷いた。

「二人でよく考えて決めたことなら、私たちが言うことは何もない。ね、母さん?」

 同意を求められた母はうつむいて首を縦に振った。口元は笑っているように見えるが、おそらく目に涙を溜めているのだろう。頑なに顔を上げようとはしない。

「お父さん、お母さん、ありがとう」

 沙希は心を込めて言った。母が涙を拭いながら静かに頷く。

 しんみりした食卓を盛り立てるように、父がビールの缶を開けて陸のグラスに注いだ。陸は自分のグラスを置くとすぐに父のグラスをビールで満たす。それをにこやかに受けた父はぐいっとグラスを傾けて喉を潤し、一息ついてから言った。

「実は二人がパリに旅立った直後に、陸くんのご両親がわざわざ挨拶に来て下さったんだ。私たちもだいたいの事情は聞かせてもらったよ」

「そうでしたか」

 陸が複雑な表情をした。それを見ても父は微笑んでいた。

「会社の経営というのは実際大変な苦労があると思うよ。しかも今の時代は特にね。陸くんの母上は君の立場がまだどうなるかはわからない、ととても心配されていたけれども、私たちは全く心配していないんだ」

 父の隣で母が何度も頷く。沙希は父の顔を真っ直ぐに見つめた。

「沙希が選んだ君なら大丈夫だと信じられるからね。それに沙希はどこに出しても恥ずかしくない、私たちの自慢の娘なんだ。君がK社を継ぐことになっても、そうじゃない道を選んだとしても、二人で力を合わせてやっていけるだろうと思う」

 ビールを飲んでいるせいか、父の頬はほんのり紅潮していた。いつもと変わらぬ柔らかい口調だが、沙希と陸に対する厚い信頼の情が伝わってくる。

 沙希は強い後ろ盾を得たような気がした。父に深々と頭を下げる。

「ありがとう、お父さん」

 言いながら涙が溢れた。家族とはいえ、想っていることを直接口にする機会はそう多くはない。両親の自分に対する愛情を疑ったことは一度もないが、こうして言葉にしてもらうことの嬉しさは格別だ。

「ありがとうございます」

 陸の胸にも迫るものがあったのだろうか。感謝の言葉を噛み締めるように口にした。

「僕の全てで沙希さんを護りますから」

「どうか宜しくお願いしますね」

 母が縋るような表情で陸に頭を下げるのを正視するのが辛くて、沙希はそっと目を伏せた。

 食事が終わると陸は沙希が記入し終えた婚姻届を父に渡し、証人になってもらいたいと願い出た。証人は二人必要なのでそれをお互いの父親に頼みたいと陸は考えていたようだ。

 父はどこか温かみのある柔らかい筆跡で自署し、陸に手渡した。

「結婚式は予定しているのかい?」

 その父の言葉に陸は申し訳なさそうに顔を歪める。沙希は父を宥めるように言った。

「私、プロポーズされたの、ついさっきだよ? まだそこまで話してないの」

「そうか」

 少し残念そうに肩を落とす父の様子が意外だったので、沙希と母は顔を見合わせて笑った。

 20時を過ぎたところで二人は沙希の実家を出て、今度は陸の実家へと向かう。

 共働きの陸の両親はちょうど夕食を終えて寛いでいるところだった。

「ホント、陸はいつも突然なんだから!」

 玄関で出迎えた陸の母は呆れたように文句を言うと、沙希に「ごめんなさいね」と謝った。

「先生のご両親はご立腹じゃない?」

「母さん、沙希を先生って呼ぶのはやめてくんない?」

 実家に戻り、すっかり緊張が解けた陸は苛立たしげに言い放ち、沙希を手招きした。

「あら、そういえばそうね」

 陸の母は美しい眉をひそめた。スラリと背が高く、緩くかかったパーマにプラスチックフレームの眼鏡姿は以前から変わりがない。知的で洗練されたキャリアウーマンというのがぴったりな容姿の女性だ。

(相変わらず若々しくて美人だな)

 沙希は陸の母を見て思う。彼女に陸のような成人している息子がいると言ったら驚く人が大半ではないだろうか。

 そしてリビングルームに入ると、陸の現在の父親が笑顔で待っていた。

「父さん、相変わらずデカいな」

 陸の挨拶はそれだった。笑ってはいけないと思うが、沙希はこらえきれず小さく吹き出した。

「腰が曲がればわからないけど、まだそういう歳じゃないんでね」

 身長もさることながら屈強な体格がまず目に入る。気の弱い男性なら陸の父親の姿を見ただけで逃げ出すかもしれない。何しろその立派な体格の上に顔もどちらかというと強面なのだ。父の職業がプロレスラーだと言われたら沙希は素直に信じてしまっただろう。

「つーか、父さんまだ40になってないんだっけ?」

「39」

 知ってはいるが、何度聞いても驚いてしまう。勧められるままにソファに腰を落ち着けると、陸の母はワインとチーズを目の前のローテーブルに並べた。

「まず、酔っ払う前にこれにサインして」

 陸は沙希の実家での振る舞いが嘘のような横柄な態度で父親に頼む。沙希は隣でドキドキしながらその様子を見守っていた。

 婚姻届を受け取った陸の父親はしばらくの間、その書面をじっと見つめていた。

「これは俺が名前を書いてもいいのか?」

 陸の父親は自分の妻と息子を交互に見る。陸も母親も表情を変えずにその視線を受け止めた。

「俺は父さんに証人になってもらいたいんだ」

 陸のきっぱりとした声が部屋に響いた。

「陸がそう言うんだから、いいのよ」

 陸の母は笑顔を見せる。それに後押しされるように陸の父は立ち上がってペンを持ってきた。

「何だか緊張するな」

 いかつい顔に似合わぬ冗談を言うので、沙希は声を殺して笑った。外見の印象とは違って陸の血の繋がらない父親はウィットに富む優しい心根の人だ。

 沙希が陸の父に会うのはこれが二回目なのだが、パリに行く直前に挨拶をした初対面のときから沙希はこの父に尊敬の念と好意を持っている。陸は彼だからこそ、自分の父親として心を許したのだろうと思う。

「それで式は?」

 一本のワインが空になる頃、陸の父が切り出した。陸はまたかというように目を細くして大きく息をついた。

「まだ何も決めてない。今はそれどころじゃないって」

「それはよくないな。結婚式は重要なことだぞ」

 沙希は意外な気持ちで陸の父を見た。昨今は結婚式をしないカップルも増えている。沙希自身も陸が考えていないのなら、わざわざ式を挙げる必要もないと思っていたのだ。

「重要?」

 怪訝な表情で陸が聞き返した。

「そうだ。結婚式というのは周囲の人間に対して二人が『これから夫婦として一緒にやっていきます』と決意表明する場だからな」

 父に強い口調でそう言われて、陸はすっかり黙ってしまった。 

 急に部屋がしんとなり、沙希が視線を彷徨わせると陸の母と目が合う。どちらともなく二人は微笑み合った。

「何だか不思議な感覚ね」

 目を大きく見開いて少しだけ首を傾げると、陸の母は「先生が陸のお嫁さんになるなんて」と続けた。

「だから先生じゃないっつーの」

 即座に陸が突っ込む。母はすぐに「はいはい、ごめんなさい」と身を小さくした。

「俺はそうでもないな」

 陸の父が口を開いた。沙希は更に目を大きくする。

「なんで?」

 陸が自分のグラスにワインを並々と注ぎながら言った。

「陸が高校生の頃、俺に一度だけ恋愛相談をしてきたことがあって……」

「あーっ!」

 いきなり陸が絶叫して父の言葉を遮る。父は意味ありげにニヤニヤと笑った。

「その先は言うな!」

「まぁ、俺はこういうこともあるかもしれないと思ってた」

 陸は大声を出した際に手元が狂ってワインをこぼし、慌ててテーブルの上を拭いていた。それを手伝いながら母もニヤニヤ顔で陸の肘を突く。

「あの頃の陸はこっちが見てられないくらい先生に一途だったもんね」

「だからっ! 先生じゃねぇって!」

「今はね。わかってるって」

 両親にからかわれて陸はふてくされた顔をした。沙希は恥ずかしいのと可笑しいのとで小さな声で笑う。 

 やはり故郷はいいな、と沙希は思った。二人の実家に共通点は少ないものの、どちらも優しい空気があって居心地がいい。

 昼間の会食の席での出来事がもう何年も昔のことのようにさえ感じられた。会長は結婚が家同士の問題だと言っていたが、どちらの実家でも二人の婚姻を温かく認めてくれている。何の問題もないじゃないか、と沙希は大きな気持ちになっていた。

 先にバスルームを借りた後、陸の部屋に下がった。家庭教師として通っていた頃に比べると、物が少なくて寂しい感じがした。だが、勉強机とベッドは依然として同じ場所にある。

 沙希は陸の机に座ってみた。

(なんか変な感じ)

 そう思いながらも、昔のことが懐かしくて頬が緩んだ。

 ドアが開く音と同時に陸の声が聞こえる。

「何やってんの?」

 タオルで髪の毛を拭きながら部屋のドアを閉め、鍵をかける。それを見て沙希はクスッと笑った。

「何か可笑しい?」

「いや、昔も必ず鍵をかけていたな、と思ったの」

「だって突然入ってこられたら困るし」

「困るようなことをするからでしょ?」

 沙希の言葉など全く気にせず、陸はパジャマの上着を脱ぎ捨てた。

「え?」

 それを非難の目で見ると「暑い」という短い声が返ってきた。

「沙希も暑かったら脱いでいいよ。鍵かけてあるから大丈夫」

「いや、私、暑くない」

 しかしとぼけた顔で陸が近づいてくる。沙希はさすがに頬を強張らせた。

「ちょっ、ダメだよ」

「何が?」

 陸は座っている沙希の前に跪いた。そして椅子を回して沙希を自分の真正面に向かせると、沙希の膝の上に頭をのせる。

(なんだ……)

 ホッとしながら、まだ乾ききっていない陸の髪の間に指を潜り込ませた。それから手首をゆっくりと動かして髪を梳く。

 沙希の太腿に片頬を押し当てたまま、陸は目を閉じた。

「今日はめちゃくちゃ緊張した」

 全身の力を抜いてそう言った陸の横顔には、疲労よりも満足の色がいくぶん濃いように見える。思えばプレゼンを成功させたのも今日のことだった。ずいぶん長い一日だったと思う。

「あんなにたくさんの人の前で話すのは緊張するよね」

 髪を撫でながらそう言うと、陸の目が薄く開いた。

「いや、あれはそうでもなかった」

(え……?)

 沙希は陸の横顔を見つめたまま首を傾げた。

「そうじゃなくて、お前の父さんと母さんに話を切り出したとき」

「ああ……」

 一瞬、陸の髪を撫でる手を止めたが、再びゆっくりと指で梳かし始める。

「本当にどうもありがとう。すごく嬉しかった」

 実家でのひと時が脳裏によみがえり、幸せな気分が胸いっぱいに膨らんだ。陸が自ら動いてくれたことが何より嬉しいと思う。

「でも一番最初のときのほどじゃないか」

 陸は心地よさそうな表情でまた目を閉じた。

「最初のとき?」

「ほら、お前を海外に連れて行きたいって言ったとき」

 ああ、と頷いた。あのときも突然で驚いたな、と思い出す。そして今日よりも緊張していたという告白をほんの少し意外に思った。

「お前の父さんが話のできる人でよかった。いきなり殴られるかも、と最悪のケースも想定したけど」

「まさか!」

「でも考えてみれば、お前の父さんだもんな」

 沙希はクスッと笑って何気なく部屋の中を見渡した。視線が部屋の隅に置いた自分の黒いビジネス用のバッグの上で止まる。

「あ、そういえば佐和さんからいただいた包みは何だったんだろう」

「さぁ? 鞄、取ってくる?」

 面倒くさそうに身を起こした陸は大股でドアの脇まで移動し、沙希のバッグを持って戻ってきた。

 沙希は早速バッグから薄桃色の包みを取り出してみる。渡されたときは気が動転していたこともあり、すんなり受け取ってきてしまったのだが、こうして改めて手の上にあるものを見てみるとそれほど大きくはないもののずっしりと存在感があった。

 風呂敷の結び目を解くと、中から包装された約15cm四方の正方形の小箱が姿を現す。

 沙希は不安になって陸の顔を窺ってみるが、陸は促すように笑顔を見せただけだった。

 仕方なくその包装紙を丁寧に開き、箱を開けた。

「これ……!」

 沙希は思わず絶句した。

 箱の中にはケースが入っていた。そのケースをおそるおそる開けると、パールのネックレスとイヤリングが燦然と輝きを放つ。おそらく最高級品を扱うブランドの、正真正銘の最高級品だった。

「こんな高価なもの、もらえないよ」

 ブランド品にはほとんど関心のない沙希でも、このパールがどういうものかは知っている。おそらく一生使える品物であろう。しかし、陸の祖母からこのような値の張る贈り物をもらっていいのだろうか、と沙希は戸惑った。

「返すわけにもいかないから、もらっておけばいいじゃん」

「だって……」

 簡単に言う陸に反論しようと口を開いたが、それよりも早く陸がケースを沙希の手から奪い取り、ネックレスの留金を器用に外したかと思うと、沙希の首にかける。

「パジャマに真珠」

 陸のひとことに沙希は失笑した。確かに陸の母に借りた少し大きめのパジャマにパールのネックレスは不釣合いだ。

「でも似合ってる。ばあちゃんは人に物をあげるのが趣味みたいなもんだから、もらってやって」

 そうまで言われると沙希も頷かずにはいられなかった。自分の胸元に視線を移す。真新しいこともあり、珠には一点の曇りもなく部屋の電灯の光を浴びて魅惑的な光彩を照り返している。ネックレスを摘み上げて間近でみると、真珠は真っ白ではなく淡いピンク色がかっていた。

 また膝の上に陸が頭を預けてきた。

「結婚式するか」

「……いつ?」

「明日」

 沙希はネックレスを慎重に外して、机の上に置いてあったケースに戻した。それから少し口を尖らせて「結婚式の準備って結構時間がかかるんだよ」と抗議する。

「どれくらい?」

 言った後で陸はくしゃみをした。慌てて身を起こし、鼻をかむとベッドの上に脱ぎ捨ててあったパジャマの上着を羽織る。

「最低でも半年くらいかな。まず会場を決めて予約しなきゃいけないから」

 パジャマの前をはだけたまま、陸は腕を組んで考えるような顔をした。

「面倒くせぇな」

 沙希は陸に背を向けてパールのケースを箱にしまった。何だか不愉快な気分だ。

「いいよ、面倒なら式なんかしなくても」

 投げやりな口調でそう言うと、沙希は椅子から立ち上がって自分のバッグに佐和からもらった箱を詰めると、ドアの脇に戻す。

 振り向くと陸がベッドの上に座ってじっとこちらを見ていた。

「怒るなって」

「怒ってないもん」

「俺は別に式が面倒なわけじゃなくて、準備が面倒だと思っただけだって」

「同じだもん」

 沙希は口を尖らせてそっぽを向く。だが視線が自然に床のほうへ落ちていった。

 陸が立ち上がる気配がしても頑なにその場に突っ立っていると、両腕を掴まれて彼と向かい合わせになった。沙希はそれでもまだ意地になって下を向いている。

「かわいいな」

「何が?」

「拗ねてる」

 クッと笑う声がしたので上目遣いで陸を見た。

「別に、拗ねてない」

「お前も結婚式とかウェディングドレスに憧れたりするんだ、って思った」

(なにそれ……)

 沙希は眉をきゅっとひそめる。私も一応普通の女の子だけど、と心の中で文句を言った。

 それが聞こえたのか、陸は沙希を突然ぎゅっと抱き締めてクスッと笑う。

「だって沙希は初めて会ったときから俺よりずっと大人で、何でも知っていて、そこらへんにいる女とは全然違って、ぶっちゃけ男なんかいなくても平気っていうか、男に幸せにしてもらおうなんて考えてなさそうで」

「酷い……」

 だが、陸の言うように男性に幸せにしてもらいたいと考えていたら、元彼のような男とは付き合っていないだろう。あまりの言われようだが、思わず苦笑してしまった。

「くすぐったい」

 陸の素肌の胸に頬を寄せていたので、その部分から離れようとするが、身じろぎした途端、二人ともベッドの上に倒れこんでいた。

 陸の腕の中から見る天井、シングルベッドの狭さ、いつも変わらぬスピードで時を刻む壁の時計の音……。

 自分の奥のほうに大事にしまってあった古い記憶の扉が一気に開け放たれ、懐かしく切なく愛しく狂おしい感情の激流が沙希を飲み込んだ。目の前が一瞬暗くなる。

 しかし意識はすぐに現実へと引き戻された。

 首筋に熱い吐息を感じるのと同時に、胸元に直接陸の手が滑り込んでくる。

「ちょっ……、やめ!」

 小声で抗弁し、手で陸の胸を押し返そうとするが、一度火のついた陸がこれくらいの抵抗でやめるはずがない。むしろ逆に陸を煽ることになるのだが、沙希には声を潜めて力なく抗うくらいしかできることがなかった。

 

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1st:2011/01/18
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