故郷とは不思議なものだと思う。
普段気にかけることはほとんどないのに、ふとした拍子に思い出すと急に懐かしく恋しい気持ちになる。当然その記憶は優しいものばかりではなく、中には二度と思い出したくない苦いものもあるが、それでも故郷が持つ懐の広さ、そして深さに救われることは多い。
だが故郷とはどこを指すのだろう?
陸にはここが故郷だと言える場所がない。幼い頃に住んでいた家は、今は見ず知らずの人が住んでいるし、その後数回引っ越したが故郷と呼べるほど一つの場所に長く留まっていたことはない。
そう考えていくと、現在実家のある場所が故郷と呼ぶのに一番ふさわしい気がした。
「でもさ、アンタはなんであの北国の病院にいたわけ?」
「そりゃあ食べ物が美味いからだな」
「はぁ!?」
「あと、女の子がかわいい」
「……あ、そう」
「お前もそう思うだろ?」
中山優祐は爽やかな笑顔を見せて言った。こういう顔に女性は騙されるのか、と思いながら陸も「まぁね」と答える。
「陸の母さんから電話をもらって驚いたよ。まさか再婚してるとは……」
「アンタ、何か変なこと考えてただろ?」
「ガキの頃から『綺麗だなぁ』と憧れていた人が、バツイチになったと聞いて何も考えないほうがおかしいだろうが」
パソコンの画面に目を戻した優祐は「うん」と力強く頷いた。
「検査結果は特に問題なし。いい嫁さんをもらってよかったな!」
陸はフッと笑った。束の間優越感に浸り、それから突然嫌なことを思い出した。
「でも東京にも綺麗な女はいるよ」
「は!? お前、新婚のクセに何を言い出すんだ」
優祐は机の上の書類を片付けながら呆れた声を出す。
「いや、綺麗なだけの女ならどこにでもいるって言いたかったんだよ。それこそ女優とかモデルとかさ。でも中身まではわかんねぇじゃん」
陸の実家が北国にあることを知ると、大抵の人は優祐と同じように言う。陸もその意見には同調するのだが、実際のところかわいい女性は全国どこにでもいるし、それぞれの地域の名産品が美味しいのは言うまでもないことだ。それらが北国の際立った長所だとは思わない。
怪訝な顔をした優祐が心配そうにこちらを見ていた。
「なんだか意味ありげなセリフだな」
「意味なんかねぇよ。アンタにも早くいい人が見つかるよう祈ってるわ」
陸は身体にまとわりつく優祐の視線を振り払うように立ち上がった。
「余計なお世話だ」
背中で優祐の声を受け止めると、軽く手を上げて診察室を出る。
パリから戻ってすぐに健康診断を受け、今日はその結果を聞きに来たのだが、異常がなくて心からホッとしていた。
陸が糖尿病と診断されたのは中学一年生のときだった。小学校高学年で急激に体重が増え、自分でもずいぶんぽっちゃりしたな、とは思っていた。だが、まさかそれが病に繋がっているとは考えもしなかったので、診断結果を聞いたときには本当に驚いた。
直接的な原因は糖分や脂肪分の摂取過剰にあるのだが、当時研修医だった中山優祐と陸の母親の話を横で聞いていた陸は、とある単語を耳にして更に激しいショックを受けたのだった。
「糖尿病は1型と2型と呼ばれるものがあるのですが、陸くんの場合は小児に多い1型ではなく、2型で、もっと正確に言えば現在は境界型糖尿病との診断です。これは放っておくと今後糖尿病に進行する可能性が高い状態です。ご家族に糖尿病の方はいらっしゃいませんか?」
「えっ?」
母親も優祐の質問の意味がわからなかったのだろう。しばらく考えて小声で言った。
「この子の父方の祖母が糖尿病でした」
「なるほど。陸くんはおそらく遺伝的要素が強く働き、インスリンが作用しにくい体質であると思われます。減量し、生活習慣を変えることで、症状を改善することは十分可能ですが、30年後くらいに再び糖尿病を発症する確率はかなり高いと見込まれます」
遺伝――。
しばらく絶句した母の隣で、陸は小さくなっていた。
血縁とはどうやっても断ち切ることはできないものらしい。この身体に流れている血が、この身体にある遺伝子が、陸を形づくる全てのものが、半分はあの男に由来しているのだ。それを今更拭い去ることはできない。
母は何も言わなかったが、陸の闘志には火がついた。とにかく絶対に治して、その後も何十年経とうが糖尿病にはなるものか、と。
病院を出て、真っ直ぐ会社へ戻る。
階段を駆け上がると長谷川が待ち構えていた。
「ちょうど先方がお見えになったそうです」
陸は頷いて「資料を取ってくる」と言い残し、長谷川の脇をすり抜けて自分のデスクへ向かう。ここは営業部があったフロアではなく、その一階上に新設された営業と企画の統括部署で、陸は企画部門の担当になっていた。
パーテーションの向こう側には沙希の後ろ姿が見える。伸びた髪に緩いパーマをかけて、それがよく似合っていると思った。
見とれている暇はない。陸は急いで自分のデスクから資料を手に取り、商談フロアへと急いだ。
経済誌の取材が終わると、陸は長谷川とともに自分の部署へ戻った。
「明日は新聞社が取材に来る予定です。先ほど電話がありました。新聞社は前日に連絡が来ればよいほうで、ほとんどの取材依頼が当日なんです。社長室にいた頃はお断りすることもしばしばありました」
「へぇ。話題になるのは嬉しいし、これが営業になるのもわかるけど、何だか疲れるな」
本音を言うと、長谷川はクスッと笑った。
「仕事とはそういうものですよ」
「長谷川さんも『やってらんねぇ』とか思うことあるんだ?」
「たまには、ですが」
陸は周囲に人がいないことを確認して、少し声を潜めて言った。
「実はこの部署に回されて、俺の面倒を見なきゃいけなくなったことも不愉快なんじゃ?」
「そんなことはありませんよ」
予想外にきっぱりと明るい声で長谷川は言う。
「これは当然の成り行きだと思います。潤也さんが川島さんを選ぶのも、浅野さんを僕がサポートするのも」
何気なく視線をパーテーションの向こう側へ送る。座っているとパーテーションが邪魔をして沙希の姿は見えない。潤也の顔を見ずに済むのは嬉しいが、二人の様子が見えないことにはイライラする。
(全くどうなってんだ、ここの人事は!?)
「亀貝さんが川島さんを選ぶのが当然って、どういう意味?」
ここでは陸が一番若年者なので一応さん付けで呼ぶ。そして沙希は便宜上まだ旧姓を使っているのだった。
陸の問いかけに、思案しているのか長谷川は少し黙っていた。そして言葉を選ぶように口を開く。
「あなたの実のお父上が川島さんに目をかけていたからです」
陸は眉根に皺を寄せる。思いがけない答えだった。長谷川は陸の表情を見て言葉を続けた。
「お父上は川島さんに雑談という形でいろいろな話をされていたそうです。彼女はそれらの話からあなたのお父上の考え方を深く理解している。潤也さんがそういう人を自分の側に置いておきたいと思うのは当然でしょう」
「じゃあ長谷川さんはどうして俺?」
「前にも言いましたよね? お父上は川島さんを自分の秘書にせず、僕を選んだ。あの方はずいぶん前からこうなることをある程度予測されていたのではないですか?」
「まさか」
思わず大きな声が出た。長谷川は微笑を浮かべる。
「少なくとも、僕なんかよりはずっと先を見ていらっしゃいました。それにおそらくあなたは否定するでしょうけど、あなたはお父上とよく似ている」
「似てねぇよ」
言い返すのは子どもっぽいとわかっていたが、それでも言わずにはいられなかった。あの男と自分の何が似ていると言うのだ。根本からまるで違う。
陸の胸の内を理解しているのか、長谷川は賢しげに口を閉じ、それ以上持論を主張しようとはしなかった。
この車の助手席に乗るのは二回目だ、とため息をつきながら沙希は思う。二度目があるとは想像もしなかったことだ。潤也の運転は陸よりもブレーキのタイミングが遅い。おかげで助手席の沙希はずっとハラハラしっぱなしだった。
「公共交通機関を利用したほうが早く着きませんか?」
「そうだけど、製品を積んで帰りたいから今日は我慢してもらうよ」
潤也から顔を背けて嘆息を漏らす。
そもそもどうして私がこのポジションなんだろう、と帰国してからこの一ヶ月、沙希は繰り返し自問していた。
潤也は新設された営業、企画の統括事業部長になっている。その補佐が沙希に与えられた仕事だった。
救いは陸と同じフロアで仕事ができることだが、パーテーションで仕切られていて、営業部にいた頃のように陸の姿をすぐに見ることはできない。それに陸は企画した製品が脚光を浴びて取材の対応に忙しく、社内で顔を合わせる機会が少なかった。
「新婚生活はどう?」
潤也が何気なくたずねてくる。あまり答えたくはないが、車内に二人きりの状態で無視するわけにもいかず、仕方なく口を開いた。
「おかげさまで順調です」
「そう。仲がいいのはいいことだ」
沙希はその返答を白々しく受け止めた。
わざわざパリにまで乗り込んできて、陸とのことを「恋人としてはいいかもしれないが、結婚は辞めたほうがいい」などと口出ししてきた張本人が言うセリフとは思えない。
それに潤也の後ろには会長がいるのだ。陸の祖父であるあの人物が、陸と沙希の結婚をよく思っているわけがない。
(未だにその理由がよくわからないんだけど)
会長の企みに沙希が邪魔だということか。それとも沙希が普通の家庭の出身だから釣り合わないと言いたいのか。その両方ということも考えられる。
帰国する際にある程度覚悟はしていたが、本社に戻り、この辞令を受けた沙希はなるほどと思った。
しかしこれは学生でも思いつきそうな嫌がらせでしかない。会長の目的はもっと別なところにあるはずだ。
「陸の意見が通ってT事業所は存続したが、こうしてキミと堂々とドライブできるのだから結果的にはよかったかもしれない」
沙希はそれを独り言だと断定した。バカバカしくて返事をする気にもなれない。
「俺は相当嫌われてるみたいだな」
自嘲気味にうっすらと笑みを浮かべて言う潤也の顔を見てゾッとした。いつかもこんな場面に遭遇した気がする。嫌悪感が胸いっぱいに広がった。
だが沙希は精一杯の愛想笑いを浮かべる。
「陸の敵は私の敵ですから」
「言うね。キミは控えめで脆そうに見えるけど、実はものすごい力を秘めていそうだ」
隣のシートを笑顔で一瞥する。そう思うならもう話しかけるな、という合図だ。
潤也は苦笑してようやく黙った。
沙希も助手席の窓から外を眺める。今は潤也の部下なのだから仕事は仕事と割り切って最善を尽くすが、それ以外の部分で潤也に尽くす必要はないはずだ。
それよりももっと楽しいことを考えようと、沙希は意識を自分の内側に向ける。
入籍する前も陸と一緒に住んでいたのだから、入籍して変わったのは名字くらいなものだ。それでも沙希の気持ちに大きな変化があったのは間違いない。
(誰がなんといっても家族だからね)
陸と共に進む人生の予想図を思い描いていると、あっという間に不愉快な思いは消えて、自然に笑みが浮かぶ。
そして今夜は陸と彼の父親との食事が予定されている。今はそれを純粋に楽しみにしていられるのだから、自分は本当に幸せだと思う。
車は高速道路に入り、潤也がアクセルを踏み込むと彼のスポーツカーは力強く加速していく。車体が低いのでシートから見る景色もいつもより地面に近い。このまま速度制限を無視して加速すれば、タイヤが地面を離れ、飛び立てるのではないかと思うようなスピード感だ。
助手席の沙希はそれを恐ろしく感じた。ここに座っているだけで寿命が縮んでしまいそうだと思う。
無事に帰社すると、まず大きく深呼吸した。それから次の移動はたとえ自腹になろうとも絶対に電車で行くと心に決めた。
一時間ほど残業をして、パソコンの電源を落とすと、パーテーションの向こう側から陸が顔を覗かせた。
潤也が席を外しているので、沙希はにっこりと笑って見せる。陸はフッと笑って、ただ一言「早く」と急かした。
二人揃って会社を出ると、近くに停車していたタクシーのドアが開く。
「あれだ」
陸は沙希の腰を抱いてそのタクシーへと近づいた。助手席から「お疲れさま」と聞き覚えのある声がする。二人が乗り込むと同時にタクシーは発進した。
それから15分ほど走り、車は緑、白、赤の縦三色をモチーフにした看板を出す店の前に停車した。イタリア料理店のようだ。
タクシーを降りた沙希は、こじんまりした店のドアをくぐる陸の父親の背中を驚きをもって眺めていた。陸に背中を押されて、沙希も店内へと進む。
店内は細長く、一番奥が厨房になっていた。席はざっと見て30席に満たない。入り口近くの壁際には大き目のワインセラーが陣取り、その隣には一般の家庭にあっても違和感のない食器棚が置かれていた。
案内された席に腰を落ち着けると、オーナーが人懐っこい笑顔を見せる。
「うわぁ、こちらが譲一の息子くんに、そのお嫁さん? いやぁ、よく来てくれました! 今日はとっておきのワインと料理をご馳走しますよ」
この店も基本的にはメニューを見てオーダーするスタイルのようだが、なぜかこのテーブルにはメニューがない。そして頼まずとも前菜が運ばれてきた。
これまでにないシチュエーションにポカンとしている沙希を見かねて、陸が小声で言った。
「ここはおっさんの知人の店で、オーナー兼ホール係のあの人が鈴木さん。……って、俺も今日初めて来たんだけど」
「あ、そうなんだ」
陸の実の父親は早速前菜を口に運んだ。
「大きな声では言えないが、あの鈴木と知り合いになったのも、私自身どうしてなのかよくわからないんだ。誰かに連れられてここに来たのが始まりだと思うんだが」
そう言って陸の父親は首を傾げる。
沙希は斜め向かいに座る彼の服装を意外に思いながら眺めていた。紺を基調にしたチェック柄のシャツにウールの黒いカーディガン、それにジーンズを穿いている。
それを察したのか、陸が言った。
「それで、社長を辞めて気分はどう? 肩の荷が下りて開放感溢れてるって感じ?」
フフッと笑う声がする。
「別に変わらんな」
「つーか、これからどうすんだよ?」
陸と沙希の視線を同時に浴びた前社長は眼鏡の奥で目を細めた。
「まだ相談役としての仕事がある。非常勤だから今までよりずいぶん気楽なものだが」
その言葉を聞いて、沙希は少し寂しい気持ちになった。
陸の実父である坂上譲一は約十年間勤めたK社の社長を二週間前に辞任した。沙希はそれを社内ネットワークでの告知で知った。陸も事前には知らされていなかったようだ。
この社長交代のニュースで社内は一時騒然となったが、二週間経った今はすっかり沈静化し、以前と全く変わりない日々が戻ってきている。新社長は当然のことながら会長の息が掛かった人物で、目の前にいる坂上前社長に比べると格段に影が薄いというのが沙希の第一印象だった。
「本当なら潔く引退して南の島にでも移住したいところだが、実際はそうもいかない。まぁ相談役も一年だけということで引き受けたんだがね」
陸は前菜を平らげると腕組みをした。
「他の会社に行くんじゃないのか。会社ではみんなそういう噂してるけど」
前社長は愉快そうに頬を緩めた。
「我が社の社員は想像力が豊かだな。それを是非仕事にも活かしてほしいものだ」
沙希もその意見には心から同意する。噂は勝手に発展しながら広まっていくものだが、善い行いは誰かが叱咤激励しなければなかなか浸透しない。これが人の特性だというなら悲しい性だと思う。
「それより二人とも、新しい部署はどうだい?」
店のオーナー兼ホール係の鈴木がタイミングよく料理を運んできて、新しいワイングラスを並べた。そして次の料理には赤が合う、と説明しながら慣れた手つきでワインを注ぐ。
その赤ワインに口をつけて、陸は「うーん」と唸った。
「どうもこうも、今は忙しくて新しい企画に手を付けられない。それにどうして俺のほうには男しかいないんだよ!」
「いいじゃないか。沙希ちゃんが近くにいるだろう」
「パーテーションで見えねぇんだよ! あんな狭い場所に、あんな囲いはいらねぇだろ!」
狭い店内に陸の声が響いた。だがアットホームな店なので、他の客の笑い声にかき消される。前社長は沙希のほうをちらりと見た。
「私は……亀貝さんの車にはもう乗りたくないです。寿命が縮む気がして」
沙希が正直な気持ちを言うと、隣でブッと噴き出す音がした。
「アイツ、神経質そうなのに、運転は荒いんだ?」
「前の車に『ぶつかる!』って、助手席にブレーキペダルはないのに、何度も足を踏み込んじゃった」
陸と彼の実父は声を出して笑う。ウケたようなので沙希も気分がよくなった。
そこに鈴木がやって来た。
「そろそろメインをお出ししますよ。譲一、今夜も勿論グラッパを一緒に飲んでくれるよね?」
そう言いながら空いたグラスを片付ける。前社長は「いいよ」と軽く返答した。
グラッパとは何だろう、と思いながらメインの肉料理を口に運ぶ。鹿肉のローストだったが、独特の臭みがほとんど感じられず、柔らかくて美味だった。
メイン料理の皿が下げられると、デザートが並べられ、それと同時に新しいワイングラスが用意された。
「息子くんもグラッパ飲んでみる?」
鈴木は二つの瓶を手に持っていた。陸が「せっかくだから飲んでみるかな」と答えると、待っていましたとばかりにグラスの一つに液体を注ぐ。水のように無色透明だ。
それから残り二つのグラスには少し色のついた液体が注がれる。前社長がそれを手に取ると、鈴木も素早くグラスを手にした。
「それではいただきます」
鈴木は一口味わうとグラスを持ったまま上機嫌でテーブルを去った。
グラスを手にして匂いを嗅いだ陸は「うわっ、これ」と飲む前に渋い顔をする。それからおそるおそるグラスに口をつける。
「グラッパはブドウの搾りかすで作るブランデーだ。度数がとにかく高い。沙希ちゃんも一口飲んでみて」
「いや、沙希はやめたほうがいい。これ、匂いだけでも嗅いでみ?」
陸のグラスを受け取って、顔に近づけるとふわりと強力なアルコール臭が鼻をついた。
「うっ!」
「陸のほうが度数が低いんだがな」
前社長はそう言うと「ほら」と陸に自分のグラスを差し出した。そのグラスにほんの少し口をつけると陸は「ああ」と納得したような声を上げた。
「これはヤバい」
その様子を微笑ましく眺めていた沙希の前に、琥珀色の液体が入ったグラスが置かれた。
「沙希ちゃんもどうぞ」
好奇心も働いて、言われるままに沙希はグラスを鼻に近づけてみた。
「こっちのほうが香りは上品ですね」
「香りだけじゃなく、飲んでみないと」
その有無を言わせぬ調子に負けて、微量の液体を口に含んだ。途端に口の中に刺激が広がる。
「飲んだのかよ!」
「い、痛い! カラい?」
沙希の反応に二人はまた楽しそうに笑った。
陸はその少量のグラッパを飲み干すまでにかなりの時間をかけたが、その間の和やかで穏やかな時間は酔っていない沙希にも十分楽しく幸せな時間に感じられた。
「陸はどういう男なんだろう? 私にもよくわからないな」
前社長がつぶやくように言った。沙希は空いている陸の席を見る。陸はちょうど中座していた。
なんと答えてよいのかわからず、曖昧な笑顔を作った。それは結局問いではないのだ、と沙希は後から思う。
陸が戻ってくると、三人は店を出た。夜は更けて、空に月が見える。
「今夜はやけにはっきり月が見えるな」
そう言った陸は珍しく酔っているようだった。ふらふら歩く陸の腕を捕まえる。それからビルの合間に顔を出す狭い夜空を見上げて、あれは下弦の月だ、と沙希は思った。