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第二部 21

 タクシーは管理の行き届いた趣のある庭園の中に入って停まった。ドアが開いたので降りると、埃っぽい都会の真ん中だというのに空気が澄んでいる。沙希は庭園を見回しながら新鮮な空気を胸いっぱい吸い込んだ。

 陸は降車するなり躊躇することなく店の玄関へ向かう。沙希もすぐに陸の後ろをついていった。

 案内されたのは椅子席の部屋だった。店構えを見て座敷だとばかり思っていた沙希は少し驚いたが、そういえば佐和は歳のせいか、膝の曲げ伸ばしをスムーズに行うことができない。鰻店の掘り炬燵の席で難儀していた佐和の姿を思い出すと、椅子席は佐和に優しい選択だと思った。

 部屋には潤也が先に到着していた。

「やあ、お久しぶり」

 潤也は沙希の姿を見るなり、陽気な口調で言った。隣にいる陸がフンと鼻を鳴らす。

「お疲れさまです」

 小声で返事をすると、潤也が満足そうな笑顔を見せた。プレゼンでは陸に負けたというのに、ずいぶん機嫌がいいな、と思う。

 ほどなく会長と佐和も到着し、二人に向かい合うように潤也、陸、沙希の席順となった。ランチだからか、それとも会長が病み上がりのためか、誰もアルコールの入った飲み物は頼まない。沙希は陸に勧められるまま、ゆずのドリンクに決めた。

「お前たちのプレゼンを楽しく見せてもらったよ」

 まず会長が会話の口火を切った。

 その隣で佐和はまるで置物のように身動き一つしない。無表情な白い顔は少し怒っているようにも見えた。

「ありがとうございます」

 潤也が間髪入れずに返事をする。気になって視線を横へ移すと、陸が大きくため息をついた。

「あんなやらせの茶番劇のどこが面白いんだ?」

「少しは大人になったのかと思ったが、お前は相変わらずだな」

 祖父である会長の野太い声が室内に響くと、陸は押し黙った。それを見て会長は笑う。

「だが我々は日々茶番劇をそれと知らず演じているものだ。それを堂々と演じきるのも才能の一つ。二人とも己の見せ方を理解していて見所があった」

(己の見せ方……か)

 沙希は小鉢を手にしたまま少し考え込んだ。それからそっと向かい側に座る会長と佐和に目を移す。佐和と一瞬目が合った。

「潤也の提案は実施すれば必ず効果の出るもので、その点は誰もが評価するところだと思う。しかし今回は陸の提案に賛同者が多かった。どうしてか、わかるか?」

 問いかけは潤也に向かってなされたようだ。会長の視線を受けて、潤也はわずかに首を傾ける。

「数字以上の価値を見出したからでしょうか」

 会長は返事の代わりに口角を上げた。眼光は普段以上に鋭い。そこにただ座っているだけなのに、強い磁力のようなものを感じる。

「沙希ちゃんはどう思う?」

 急に意見を求められ、沙希はハッと息を呑んだ。ドキドキしながら、会長の目を見て口を開く。

「明るい話題の少ない昨今ですから、陸さんのプレゼンに希望を感じた方が多かったのではないでしょうか」

「なるほど。『希望』とは抽象的だが、今回はそれが一番しっくりくる言葉かもしれんな」

 満足そうに頷く会長を見て、密かに胸を撫で下ろす。答えた内容は、潤也の回答とさして変わりはないのだが、二人のプレゼンの大きな違いは向かう方向だと沙希は感じたのだった。

「女性にしておくのが惜しいと坂上が言っておったが、それもわからないではないな」

 自分のことを言っているのだと気がついた沙希は目を見張った。

 どういう表情をすればいいのかと戸惑いながら向かい側を見ると、佐和が上品な微笑を浮かべていた。沙希も照れながら微笑む。

「そのゆずなんとかは美味しいのかい?」

 気を利かせたのか、佐和が話しかけてきた。

「はい。甘すぎず、さっぱりしていて飲みやすいです」

「ほう。それじゃあ私も次はそれにしようか」

 その言葉を聞いていたかのように次の料理を持った仲居がやって来て、手際よく配膳する。仲居が去ると、会長は思い出したように口を開いた。

「しかし、近頃の若者は小さくまとまってしまう傾向があるようだ。陸にしろ潤也にしろ、もっと若者らしく壮大な夢を持ったほうがいい」

 突然、ポンと大きな話題を投げてきた。先に反応したのは陸だった。

「壮大な夢?」

「陸がどんな夢を持っているのか、個人的には興味があります」

 潤也が優等生らしい丁寧な口調で受けると、話題を振られた陸は考え込むように動作を止めた。

「俺自身の夢はまだ誰にも言ったことないし、今は言う気もない」

「秘密か。それは会社を使って実現しそうな夢なのか?」

 よほど興味があるのか、潤也はしつこく陸に質問する。陸の様子をそっと窺ってみると、一瞬だけ険しい顔をして、手に持っていた皿を乱暴な手つきで卓上に戻した。

「アンタは会社を利用して自分の夢を実現させたいのか?」

 一瞬の間があった。

「利用するわけじゃない」

 沙希には潤也の顔が見えないのだが、その口調から彼が笑っているのだとわかる。不気味に思いながら次の言葉を聞いた。



「私の夢はK社を業界一の強い会社にすることです」



 沙希は会長の顔を見た。彼は潤也の顔を真っ直ぐに見つめている。その言葉は会長に向けて発せられたものだった。

「ふむ」

 会長は結んだ唇を徐々に笑いの形に歪めていった。

 見ていた沙希は会長から目がそらせなくなる。

「小さいな」

 それは地面から這い上がってくるような低い声だった。



「世界一、それが私の長年の夢だ」



(……世界一?)

 会長の顔はいやに自信に満ちていた。夢を語る純粋さとは正反対の、ぎらぎらした欲望と狡猾さが見え隠れしている。

 急に背筋に寒気が走った。おぞましいものを見たような気がしたのだ。沙希は慌ててその気持ちを否定する。

 目の前にいるのはどんな野望を胸に秘めていようが、陸の祖父だ。愛する人の祖父をそんなふうに思うのはよくない。そう自分に言い聞かせた。

 たとえ陸が祖父のことを良く言わないとしても、沙希まで同調してはいけないのだ。身内の人間に対する愛憎は他人には理解できない類のものだと、沙希の母親はよく口にしていた。そのくせ母はよく父の怒りを買っていた。自分はそうなりたくないと沙希は思う。

 少し落ち着いてから隣を窺う。

 呆れたような顔をした陸はちょうど目の前の料理を全部平らげたところだった。

「世界一ね。せいぜい長生きしてくれ」

 言ってから陸は沙希のほうをチラッと見る。もっと何か言いたげに唇を少しだけ尖らせていたが、黙ったまま椅子の背もたれに身を預けた。

「ほう。陸は、私が生きている間に世界一の夢を叶えられると思うか?」

 痛快と表現するのがふさわしい満面の笑みを浮かべ、白い歯を見せて会長は問う。

「知らねぇよ、そんなこと」

 陸は吐き捨てるように言った。K社を世界一の企業にすることには何の興味もなさそうだ。

 それでも会長は相好を崩したままだった。

「お前たちの働き次第なんだぞ?」

「は?」

「我が社はこの二十年で世界へと販路を拡大し、今ようやく日本のブランドとして認識されるようになったところだ。この功績はほぼ坂上一人のもの。その仕上げはお前たちがやるべきだと坂上も思っている」

「なるほど」

 答えたのは、しばらく口を閉ざしていた潤也だった。

 沙希はその神妙な口調から、潤也も会長の考えを全て知っているというわけではなさそうだと感じた。

 何気なく向かい側の佐和の姿を見る。今日の和服は涼しげで佐和の雰囲気によく似合っている。

 その姿にホッとし、少し気が緩んだところに、会長の声が聞こえてきた。



「陸、今日お前の案が採択された祝いとして、半年の時間をやろう。半年後には陸も沙希ちゃんも日本に戻ってこい」



(半年……)

 思ったよりも長い猶予期間だった。嬉しくなって陸を見る。だが隣では、近寄りがたい空気を纏った陸が、自分の祖父を睨みつけていた。

「半年ってなんだよ? 時間をやる? ……意味がわかんねぇ。どうせ戻ってきたら俺と沙希を引き離すつもりなんだろ?」

(え……!?)

 沙希は驚いて会長の顔を確認するが、陸の言葉を否定するような態度は見出せない。むしろ愉快そうに笑みを浮かべているのだ。自分の顔から血の気が引いていくのがわかる。

「お前たちの交際を反対しているわけではない。だが結婚となれば話は別だ。家同士の問題になってくる」

 会長が静かに言った。その横で心配そうな目をした佐和がこちらをじっと見つめている。

 隣で突然、陸がわざとらしく腕時計を見た。そしてガタッと音を立てて椅子を後ろに引いたかと思うと勢いよく立ち上がった。

「急用を思い出した。帰る」

「え!?」

「行くぞ」

 陸は沙希の手を掴んで立ち上がらせると、振り返りもせず出口へ向かう。沙希は慌てて会長らに会釈をし、陸とともに室外へ出た。

「急用って?」

 店内の通路を早足で歩く陸に、後ろから小声で聞いた。陸が肩越しに沙希を振り返る。

 そこで急に陸の足が止まった。

「お待ち」

 通路に凛とした声が響く。絨毯を踏みしめながら近づいてくる草履の柔らかい音がした。

「全くアンタたちときたら、食事の途中で『帰る』はないだろう」

 佐和が笑いながら追いついてきた。

「いいじゃん。どうせもう話は済んだだろ」

「そうかもしれないが、沙希ちゃんはデザートも食べたかっただろうに」

「あ、私は別にいいんです」

 大げさな手振りで否定すると、佐和は「嘘をついたらいかん」と沙希の腕を軽く叩いた。まだ緊張が解けていないせいか、笑いたいのに頬が強張って上手く笑えない。

「そんな泣きそうな顔をするんじゃないよ」

 佐和はそう言いながら沙希に可愛らしい薄桃色の包みを差し出した。 

「次にいつ会えるかわからないから、これを持って行きなさい」

 戸惑う沙希の手に、佐和はその包みを無理矢理掴ませる。そしてその上から沙希の手をしっかりと両手で握った。

「アンタはもう陸のいい先生でいる必要はないんだよ」

 思わず佐和の顔を食い入るように見つめた。

「周りのことなんか気にしなくていい。若いうちはわがままの一つや二つ、押し通したっていいんだ。それに、何もかもがジイさんの思い通りに進むわけがない」

「……だといいけどな」

 陸がため息混じりに言う。すると佐和は即座に陸の背中を叩いた。

「何を言う。陸、お前がしっかりしなきゃならん」

「わかってる」

 力強い一言だった。心の奥がじわりと熱くなる。やっと沙希は顔をほころばせた。

「引きとめて悪かったね。さあ、もう行きなさい」

 佐和に見送られて、沙希と陸は店を出た。玄関前で待機していたタクシーに乗りこみながら、陸が運転手に行き先を告げた。

「どこに行くの?」

 陸は自宅マンションとは正反対の方向にある駅の名前を口にしたのだ。

「空港」

「……え!?」

 まじまじと陸の顔を見つめる。陸は悪戯っ子のように笑っていた。

「いや、急にお前の父さん、母さんに会いたくなってさ」

「……そりゃまた、急だね」

「ついでに俺の実家にも行っておこうかなと思って」

「ついで、っていうのはいい表現じゃないなぁ」

 沙希は口を尖らせた。陸がわざととぼけているのは見え見えだった。こういうときはしつこく訊いても結局はぐらかされる。

 仕方がないので違う方向から攻めることにする。

「今から行ったら向こうで泊まりになるよ?」

「俺の家に泊まればいいじゃん」

 そう言いながら陸は沙希の手を握った。

「急にお邪魔したら迷惑だよ」

「気にすんな。周りのことは気にしなくていいって、ばあちゃんも言ってただろ?」

「そういう意味じゃないって」

 もう、と更に口を尖らせるが、陸は全く気にかける様子もなく降車準備をした。まもなくタクシーは駅の前に到着する。

 陸の言う「急用」に首を傾げつつ、沙希は久しぶりに故郷の地へ飛んだ。


     


 もう夕方だが辺りはまだ明るい。天気が良く、カラッとした爽やかな微風が時折沙希の頬にあたる。久々に着たスーツのジャケットは、東京では少し暑いくらいだったが、ここではちょうどいい。もし上着がなかったら風邪を引いたかもしれないと思う。

 隣を歩く陸が、さすがに少し息を切らせて言った。

「この坂、急な上にどこまで続いてるんだ?」

 陸と同じように肩で息をしながら、沙希は笑った。

 沙希の実家は高台にある。もっと正確に言えば山の麓に位置し、地下鉄が走る地区からはかなり急な坂道を登らなければならない。

 二人は今、その坂道の途中にいた。

「ウチより上にもたくさん家が建ってるよ」

「それは知ってる。更に上には幼稚園があるんだよな?」

「そう! 自然がいっぱいの広い敷地にポニーがいて、幼稚園もかわいくて素敵なんだけど、その近くに風車があるの。これもかわいいの」

 沙希は説明しながら少し興奮気味になっている自分が可笑しかった。何しろ家庭教師をしていた頃は、陸が沙希の家を訪れるようなことはなかったのだ。慣れ親しんだ実家の風景を陸と共有できるのが嬉しい。

「風車?」

「そう。夜になるとライトアップされるの。ちょっと神秘的なんだよ」

「へぇ。見てみたいな。運動不足解消に上のほうまで登ってみるか」

 陸がそう言うので、沙希の実家を横目にしながら二人は果てしなく続いていそうな坂道を登っていった。沙希の家より二区画上に行くと、坂道は突然山道へと様変わりする。

 更に少し進むと幼稚園が見えてきた。向かい側には真っ白な寺院がある。陸は感心しながら辺りを眺めた。

「景色は抜群にいいな」

 苦労して登ってきた道を振り返り、眼下に広がる市街地を一望した。沙希にとっては見慣れた風景だが、こうして陸と一緒に見るとまた格別だと思う。

「風車はもうちょっとで見えるよ」

「へぇ。しかしこの道、冬は大変そうだな」

「うん。タクシーの運転手さんに嫌がられる」

「だって沙希の家の少し手前でロードヒーティング終わってるじゃん」

「だからウチがぎりぎりセーフだよね」

 他愛のない会話をしていると、また大きな建物が見えてきた。老人ホームと付属のリハビリテーション施設だ。

「あ、あれか!?」

 陸が山のほうを指差す。

「そう!」

 真っ白な小ぶりの風車が山の途中にポツンと見えた。羽の一部が赤く塗装され、白と赤のコントラストが風車をますますかわいらしく見せていた。

「ホント、かわいいじゃん」

 沙希と陸は立ち止まって風車を見つめた。辺りには人影が見当たらず、虫たちのざわめく声と鳥のさえずりが心地よく二人を包み込む。

「でも、なんで風車?」

「わかんない。しかもあまり知られてない」

「だよな。けど、見に来てよかった」

 そう言って陸は沙希の肩に腕を回した。何気なく陸の顔を見上げると、思ったよりも至近距離にある。あっ、と思った瞬間、二人の唇が触れた。



「あのさ、お前、名字変わっても平気?」



「え……?」



 沙希はその言葉の意味を考えながら、陸の目をじっと見つめた。

 すると陸はジャケットの内側に手を入れて白い封筒を取り出し、沙希の手に握らせる。少し首を傾げると、陸は優しい笑顔で頷いた。

 封筒から中身を取り出す手が少し震える。

 中からは綺麗に折り畳まれた一通の書類が出てきた。 

「……これ」

「よくご確認の上、こちらにサインをお願いいたします」

 沙希は思わず吹き出してしまった。

 婚姻届と書かれたその書類には既に陸の名前が書き込まれている。陸が指差した部分は「妻になる人」と印字されていた。

「でも、……いいの? 会長が……」

「いいよ。お前は何も気にしなくていい」

 目を細めて微笑んでいる陸を瞬きもせずに見つめた。その姿を確かめるように、そして脳裏に焼き付けるように……。



「これまでいろいろあったし、これからもいろいろあると思うけど、どんなときも俺が沙希の心を護りたいんだ」



 言葉にならない想いが次々にこみあげてきて、大粒の涙がぽろぽろとこぼれた。

「嬉しいよ」

 それを言うのがやっとだった。おいで、というように広げられた腕の中に勢いよく飛び込み、ぎゅっと陸に抱きつく。目を閉じて大きく息を吸い込むと、いつもと変わらない陸の匂いがして心が安らいだ。

「昔はこんな紙切れが何の役に立つんだ? って思ってた。沙希を愛する気持ちは誰にも負けないって自信があったし、その気持ちだけで何でもできる気がしてた」

 陸の声が聞こえてきた。小さな声だが、これだけぴったりとくっついていれば十分聞き取れる。

「それに、迷いもあった」

(……迷い?)

 沙希がドキッとして身を硬くすると、陸の手が背中を優しく撫でた。

「入籍するのは簡単なことだけど、俺は社会人になったと言ってもまだ何の実績もない。そんな男が沙希に釣り合うのかって」

「そんなこと……」

 気にする必要などないのに、と思いながら頭を横に振る。陸が頭上で力なく笑った。

「あと、この紙切れで沙希を束縛することになったら嫌だし」

「束縛?」

「沙希を誰にも渡したくないと思う。だけどその気持ちが行き過ぎたら、お前の元彼みたいに違う方向に行きそうで怖い」

 陸は深い嘆息を漏らす。まさかそんなことを思っていたとは知らず、沙希は陸に見えないように苦笑した。

「陸は違うよ」

 すぐさまきっぱりと否定した。

「私にはわかる。私が言うんだから間違いない」

「ありがとう。じゃあ……」

 陸が沙希の両肩を掴み、二人の間に陸の腕の長さの分だけ距離ができた。身体が離れてしまって寂しく思っていると、陸が背中を丸めて顔を近づけてくる。



「結婚しよう。俺と本当の家族になろう」

「……はい」



 お互い微笑んでしばらく見つめ合い、それからどちらからともなく口付けた。

「待たせてごめんな」

 ポツリと言ったその声が、あまりにもか細くて陸の何もかもが愛おしくなる。それに婚姻届を密かに準備していてくれたことが嬉しい驚きだった。

 今度は屈んだ陸の首に腕を回して抱きついた。

(夢みたい。こんな瞬間が来るなんて……)

 陸も元彼もどちらも選ばず、もう誰かを愛する資格などないと思った日、沙希は絶望しながら自分にこんな瞬間が訪れることは永遠にないと覚悟したのだ。

 辛い辛い覚悟だった。

 独りで生きていくことの重みに耐え切れず、涙が枯れるまで泣き、いつの間にか心まで渇ききってしまっていた。そのうち誰も愛さないことは楽だとさえ思うようになった。

 愛さなければ悩まなくていい。心を動かさなければ悲しくなることもない。



 だが、沙希は再び出会ってしまった。世界の誰より愛しい人に――。



 陸の前ではどんな強固な覚悟も全て吹っ飛んでしまうな、と沙希は自分に呆れる。それも仕方がない。自分の一番大事な気持ちを預けてしまった人だ。

 すっかり乾ききっていた心が、今はもう陸を想う気持ちでこんなに満たされている。与えられるだけでなく、沙希も陸の傍にいてその愛に応えたいと思う。   

 そう思う一方で、会長の言葉を思い出すと心に暗い影が差した。不安な気持ちを打ち消すために、陸を思い切りぎゅっと抱き締めた。

「お前を不安にさせているのはわかっていたけど、大事なことだからけじめをつけてからにしたかった。俺の力を試したかったんだ」

 何かを感じたのか、陸が口を開いた。沙希は腕の力を緩めて陸の顔を見る。

「うん。頑張ったよね。いいプレゼンだった。すごいよ、たくさんの人に認められたんだもの」

「俺はお前のその一言が一番嬉しい」

 短いキスが沙希の心を甘い幸せな気分でいっぱいにした。

 陸と一緒にいればどんな不安な気持ちも一瞬で吹き飛んでしまうな、と思う。東京からずっと離れた故郷の慣れ親しんだ風景の中にいる今は尚更だ。

 この大好きな場所で、大好きな人にプロポーズされたことは、どんなことがあっても一生忘れないだろう。まるで夢みたいな出来事なのに、どんな現実よりもリアルに陸の気持ちが胸に迫ってくる。

 風車を背にした二人は坂道を下り始めた。

 

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1st:2010/12/29
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