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第二部 20

 役員会議のプレゼンから一週間後、陸の元に社長から電話が入った。

 そろそろT事業所の命運が決まる頃だろうと思っていたので、陸は受話器を片手に姿勢を正して社長の言葉を待つ。しかし、意外な言葉が耳に飛び込んできた。

「お前、来月の代表者会議でプレゼンしないか?」

「は!? 代表者会議って全国規模のヤツ?」

 隣のデスクに座っている沙希が驚いてこちらを見た。陸は咄嗟に愛想笑いを浮かべる。

「……って、存続することに決まったのかよ?」

「そうではない。お前と潤也くんがそれぞれ代表者会議で再度プレゼンし、多数決で決定することになった」

 陸は机に頬杖をついた。

 代表者会議とは年に一度、K社の社内は勿論、グループ会社及び関連会社の課長クラス以上の役職に就く者が一堂に会する場だ。話には聞いたことがあったが、通常なら入社して二年目の陸が参加できるような会議ではない。

「それ、会長の意向?」

「そうだ。会長がお前たちのプレゼンを見たいと希望されている」

(あのジイさんは余計なことを……)

 受話器の向こうにも聞こえるような大きなため息をつく。

「いい機会だ。頑張りなさい」

 それだけ言うと社長は一方的に電話を切った。

 受話器を戻してメールをチェックする。長谷川の名前で会議の日程等が記載されたメールが送られてきた。

 内容にざっと目を通してから、沙希のほうへ向き直った。心配そうな目をした沙希が、問うように少し首を傾げる。

「代表者会議に出るの?」

「もう一回プレゼンしろって言われた。潤也とプレゼン対決して、多数決で決めるらしい」

 沙希の目が大きく見開かれた。

「対決……」

「ま、多数決はフェアじゃね? 上のヤツらも決めかねてるのか、それとも他の意図があるのか、俺にはわかんないけど」

 先日の社長や島田の口ぶりだとT事業所の件は早々に決着したいようだったが、会長が横槍を入れてきたのだろう。あの怪腕の祖父のことだ。退院したらもっと精力的に動き始めるはずだ。

(これは負けるわけにはいかねぇな)

 陸は沙希の顔を覗きこんだ。考え事をしていたようだが、陸の視線に気がつくとニッコリと笑顔を見せる。

「頑張ってね」

 ありきたりの言葉だが、沙希が言うと他の誰よりも心がこもっているような気がする。陸は沙希の手を取り、ありったけの想いを込めてしっかりと握った。細い指と柔らかい肌の感触、そして沙希の優しいぬくもり。触れるだけでホッとした。

「俺はお前がいるから頑張れるよ」

 沙希はクスッと笑って恥らうように目を伏せるが、もう一度陸の視線を正面からとらえると少し真面目な顔をした。

「私も陸がいるから笑っていられるよ」

「お前……」

 照れ隠しなのか、沙希は笑いながら肩をすくめて見せた。陸もつられて笑い出す。

「でもこれは本当のことだよ」

「わかってる。……ていうか、当然?」

 茶化しながらも陸は内心嬉しくて仕方がなかった。

 この先に越えねばならぬハードルがいくつあるのかなど陸には想像もつかないが、沙希が今こうして隣にいてくれることは紛れもなく陸の大きな自信になっていた。どんな困難なことでも、諦めなければきっと道は開けるはずだ。

 陸は繋いだ沙希の手を握り直した。それから沙希を椅子ごと引き寄せて、素早く頬にキスする。沙希が声にならない声を上げた。

「ここがパリでよかったよな。日本の社内じゃ許されないだろ」

 顔を真っ赤に染めた沙希が「もうっ!」と陸の膝を思い切り叩いた。それをわざとらしく痛がって見せながら、頭の中ではプレゼンに向けての思索を開始した。


     


 夏の暑さは耐えがたく、苦手なものの一つに挙げているのだが、小さな頃からなぜか夏のにおいは好きだった。

 沙希の故郷では夏は短く、冬が長い。屋外は雪に閉ざされ、空は厚い雲に覆われる冬の毎日は、そこに住む人々の気持ちまで暗くする。だから沙希は明るく開放的な夏のにおいを好んだ。

 高台に建つ沙希の実家からは海が見える。よく晴れた日に、よく目を凝らさなければ肉眼で確認するのは難しいが、そのぶん見えたときの感動は大きい。

(海は好きだな)

 車窓から見える海を眺めながら沙希は思った。さざ波が陽光を反射し、水面がきらきらと輝いて見える。眩しくて目を細めた。

「ここ、前に来たことあるよね?」

 日本に帰国した沙希と陸は、空港からレンタカーで都心に向かっていた。この辺りの道路事情に詳しくない沙希でも、これが遠回りの道だということはわかる。

 運転席の陸は沙希をチラッと見た。ニヤニヤ笑っている。

「よく覚えてるな」

「まぁね。この辺って、何かあるの?」

 前回帰国したとき、佐和もわざわざこの道を通ったが、空き地を真剣に観察していただけで、沙希にはこの地がなんなのかはわからずじまいだった。

「何にもない」

 陸は笑いながらそう言った。確かに、辺りには目ぼしいものは何もない。

「じゃあどうしてここを通るの?」

 更に沙希は食い下がるが、陸は愉快そうに目を細くしただけだった。何気なく窓の外を見ると、先日は古いアスファルトの空き地だったところが、アスファルトは剥ぎ取られ綺麗に整地されていた。

「さっき大きな公園を通り過ぎただろ?」

 不思議に思いながら空き地を見つめていると、陸がようやく口を開いた。沙希は通り過ぎてきた臨海公園の光景を思い出しながら頷く。

「昔、父さんと母さんとよく遊びに来たんだ」

 思わず陸の横顔を見つめた。陸は穏やかな表情のまま静かに続けた。

「その頃はウチもまだ普通の家庭だったと思う。休みの日にはいろいろなところに連れて行ってもらった。中でも俺はあの海のそばの公園が大好きで、しつこく連れてきてもらったな。何度もこの道を通った記憶がある」

 信号で止まると、陸はドアの窓枠に肘を載せて頬杖をつく。

「だけど、父親が昇進して海外勤務になると公園には行かなくなった。公園どころかどこにも連れて行ってもらえない。たまに出かけると言われて母さんと一緒に電車に乗って、目が覚めたらあの山奥のジイさんの屋敷に無事到着。それでもどこにも連れて行ってもらえないよりはマシだったけどな」

 車が走り出すと沙希は前を見た。自嘲気味に笑う陸の顔を見ていられなかったのだ。

「ま、今は仕方ないって思う。俺も仕事をするようになって、おっさんのことも少しは理解できるようになった気がするし」

 沙希は頷きながら、大人になることは悲しいことばかりじゃないなと思う。何かを憎まなければ耐えられなかった辛く悲しい出来事も、今の陸は少しずつ許せるようになったのだろう。

 陸のひねくれたところのない真っ直ぐな気持ちが愛しい。沙希は心が温かくなるのを感じた。

 だが、運転席からは「でも」と硬い声が聞こえてくる。



「俺なら絶対に仕事より家族を取る」



 車内の空気がピンと張りつめた。沙希は前を走る車のナンバープレートをじっと見つめていた。胸がドキドキし始める。

 運転席の陸は沙希の様子を確認して、それから姿勢を正した。



「言うまでもないことだけど、俺は沙希以外の女と結婚する気はないから。……何しろ生まれて初めて結婚したいって思った人だから」



(陸……)

 沙希は返事に困り、下を向いた。

「世界中でお前だけなんだぞ?」

 更に念を押されて、たまらず吹き出してしまった。こういう場面では最高に幸せな気持ちになるが、同時に顔から火が出そうになる。

「こういうとき、なんて返事をしたらいいの?」

「『陸、大好き! 愛してる!』……そしてチュウ?」

 陸は前を見たまま、沙希を真似たつもりか一オクターブくらい高い声を出した。さすがに自分の言葉に照れているのか、テンションが高めだ。

「運転中だからやめとく」

「遠慮しなくていいのに」

 残念そうに言うのがおかしくて沙希は大げさに笑った。

 パリを出てから、二人とも無意識に普段より明るくふるまっている。代表者会議が目前に迫り、お互いナーバスになるのを回避したいのだろう。

(大丈夫、きっと上手くいくよ)

 沙希は祈るような気持ちで何度もそう自分に言い聞かせていた。


     


 代表者会議は本社ビルから歩いて10分ほどの場所にある文化ホールを全館貸し切って行われる。今はインターネットの普及によりネット会議なども導入されつつあるが、K社では全国の管理職が直接顔を合わせる機会を作ることで、組織の一体化を図ろうとしていた。

 その日は朝から空気がさらりとしていて、時折心地よい風が吹く爽やかな天気だった。

 沙希は久しぶりにベージュのパンツスーツを着て、パンプスを履き、黒いビジネス用のバッグを持った。この格好で外に出ると、就職活動をしていたときのように自然と背筋が伸びる。陸はライトグレーの夏物のスーツに白系のストライプのネクタイだ。

「緊張してる?」

 マンションを出てしばらく無言で歩いていた二人だったが、沙希がいつもより早足の陸に声を掛けた。

「まぁな」

 陸はフッと笑って見せる。

「でも少しワクワクしてる。俺、目立つの好きだから」

 沙希もおかしくて笑った。陸が続ける。

「言ってなかったけど、会議が終わった後、会長夫妻と潤也と俺たちで飯食うらしい」

「え!?」

 急に沙希の胸の中には暗雲が広がり始める。

「ばあちゃんもいるから大丈夫」

 陸が沙希の手を握った。勇気付けなければならないのは沙希のほうなのに、逆に心配されているのがふがいない。

 沙希は返事の代わりに、陸の大きな手をぎゅっと握り返した。


     


 オーケストラのコンサートも開かれる大ホールは二千人を収容できるのだが、壇上から座席を眺めてみると三分の一は空席のようだ。

 それでも千人を超す聴衆を前に話をするのは、いくらステージに立つのが夢だった陸でも勇気のいることだ。自分を鼓舞するように膝の上に置いた拳に力を込める。

 二階の真正面の目立つ席に祖父母の姿が見えた。会長である祖父は病の影など少しも見せず、相変わらず堂々とした態度でひときわ異彩を放っている。

 対する祖母は涼しげな水色の和服姿でひっそりと座っていた。会社のことには一切関知しないという姿勢を貫いてきた人だ。こうして会議に姿を見せるのも祖父が病み上がりだからである。

「彼女はどこで見ているんだろうな?」

 隣の席に座る潤也が気安く話しかけてきた。陸は潤也を一瞥し、それからまた客席のほうへ視線を放った。

「一番後ろの列だと思います」

「なるほど、彼女らしいな。いいところを見せられるように、せいぜい頑張れ」

(そりゃどうも)

 潤也の嫌味な笑いを心の中で一蹴すると、椅子に深く座り直した。

 潤也は自らプレゼンの順序を陸より先にしてほしいと願い出たらしい。それを陸は舞台の袖で長谷川から聞かされた。対決するにあたって、陸が潤也のプレゼンを見ていないことを不公平だと思ったらしい。

(変なところが真面目。まるでどっかの誰かみたいだな)

 たぶん一番高いところから見ている沙希の姿を探して目を凝らす。

 その間、司会によって会議は粛々と進められていた。

 演壇では今期の目標について、社長が淀みない口調で演説をしている。手元の原稿を見ることはほとんどない。浮沈の激しい世界で十年近く社長を務めているのだから、これくらいは当然かもしれないが、陸は鋭い目つきで社長の背中を見つめていた。

 他の役員からの今期事業内容の説明が一通り終わり、いよいよT事業所に関するプレゼン対決が始まった。

 潤也は見ていて腹が立つほど優雅な物腰で演壇へ向かう。この男もこういう場に慣れている、と潤也の後ろ姿を見て陸は実感した。

「私は無駄なことが嫌いです」

 潤也の第一声はそれだった。

(だから、いきなりそういうことを言わないほうがいいのにな)

 苦笑しながら陸は潤也の声に聞き入った。本人が言うように無駄な部分は一切ないプレゼンだ。大スクリーンに映し出された数字たちは潤也の主張を力強く裏打ちし、T事業所は廃止するしかないような気分にさせられる。

 更に「会社にとってプラスではない人材は早めに切り捨てるべきだ」と潤也は言った。

(まぁ、中には本当にやる気が全くないヤツもいるからな)

 陸は営業部のフロアを苦々しく思い出していた。フロアの片隅にはどんなに簡単な仕事も任せられない社員がいる。陸も彼に数回話しかけたことがあるが、そもそも意思の疎通をはかれないのだ。

(あれはやる気以前の問題か。何しに会社に来てるのかわかんねぇな)

 そういう社員を指して「無駄」だと言いたくなる気持ちはわからないこともない。自分が雇用主であれば、やはり使えない社員は辞めてもらいたいと思うだろう。

(しかし現実は逆だ。優秀な社員が先に辞めていく)

 陸は名前を呼ばれて立ち上がった。

 胸の内は緊張に押し潰されそうだったが、懸命に自分の気持ちを奮い立たせながら演壇へと向かった。





 二階の座席の一番後ろの列に座っていた沙希は、陸が演壇の前に来ると少し身を乗り出した。陸の姿は豆粒ほどにしか見えないが、この聴衆を目の前にしても動じている様子はない。少し安心した。

 こうして人前で話す陸を見るのは初めてのことだ。

 マイクを通して聞く陸の声はいつもより低く聞こえるが、聞き取りやすい声質だと思う。

 プレゼンの冒頭部分では、陸が独自に行ったと思われるここ数年のヘッドハンティングの調査結果が大スクリーンに表示された。

(そんなこと調べてたんだ。でもよく調べられたな……)

 正直なところ驚いた。ヘッドハンティングで辞めていく社員が少なくないことは沙希も知っていた。だが、人数や行き先まで調べたデータを目の当たりにするとショックは大きい。

 社内では同業他社へ転職の場合、送別会も行わない慣習だ。そして辞めていった人のことは誰もが意識的に口にしなかった。だからこれを聞き出すのは至難の業だったはずだ。

 優秀な人材の流出を食い止めるにはリストラは逆効果だと陸は主張した。そして会社が変わる必要があると説く。

(会社が変わる……)

 沙希は潤也との会話を思い出していた。

(社長が変われば会社が今よりもっとよくなるかもしれない、って……)

 潤也の話と陸の主張が頭の中でオーバーラップする。

 沙希はステージの上の陸を確かめるように見つめた。スクリーンを振り返り、熱心に製品の説明をする彼の姿がずいぶん遠くに見える。つい先程まで緊張しながら自分の隣を歩いていた人と同一人物とは信じがたい。

 もしこのプレゼンが成功したら陸はどうなるのだろう?

 沙希が知らないだけで、そのシナリオは既にできているはずだ。

 ステージと客席に隔たれている二人の距離が遠すぎて急に心細くなる。この場所からいくら手を伸ばしても陸に届くはずはなく、ステージの陸は沙希の姿を判別することもできないだろう。

 だが、すぐにその不安な気持ちを胸の内から追い払った。

(陸の成功を誰よりも喜んであげたい。もしその結果、どうなっても……)

 陸が新たな夢を追いかけるための大きな一歩になることは間違いない。沙希はそう確信した。

 きっと潤也の言葉を真に受けすぎているのだと思う。些細なことで心が曇りがちな自分を恥じた。



「俺のことだけ信じて」

「俺は沙希以外の女と結婚する気はないから」



 切実な響きを帯びた陸の声を思い出す。

(そうだよね。陸を信じていればいいんだよね)

 潤也の根拠のないつまらぬ言葉に惑わされて、陸の成功を素直に喜ぶことのできないわがままな自分にはなりたくない。

 そう思いながらステージを見下ろすと、理路整然と語る陸の姿は、これまで見たどんな陸より大きく頼もしく見えた。 

 無事にプレゼンを終えた陸がステージ上で礼をした。沙希もホッとして椅子に身を預ける。

 質疑応答が終わると、ついに採決の時が訪れた。

 司会の声で潤也のプレゼンを評価する人が、あらかじめ配られていた札を掲げる。

 沙希が見た限りでは前列のほうで札が多く上がっているが、それでも全体の三分の一には届いていないようだ。

 自分のことのようにドキドキしながら、司会の声を待つ。

「それでは浅野さんのプレゼンを支持する方の挙手をお願いいたします」

 沙希は祈るような気持ちで客席を見渡した。パラパラと掲げられる札の数は数えるほどだ。

(えっ……!?)

 見ていられなくなった沙希は、悲痛な面持ちで客席から目を背けた。

 そのときだった。



 パチパチパチ……



 沙希の3列前に座っていた男性が立ち上がって頭上で手を叩き始めた。

(部長――!?)

 本社営業部で上司だった部長がただ一人立ち上がり、静まり返ったホールに拍手の音を響かせた。

 それを見た二階席の聴衆が次々と起立し、部長にならって手を叩き始める。一階席でも部長と同じように頭の上で盛んに拍手を送る人の姿が見られ、つられるように多くの人が立ち上がり、拍手はにわかに大きくなった。



 スタンディングオベーションだ。


 
 沙希の全身に鳥肌が立つ。

 ほとんど非の打ち所のない潤也のプレゼンの後だというのに、陸のプレゼンが多くの人の支持を得ることができたのだ。沙希もおずおずと立ち上がって、信じられないものを見るような気持ちで陸に喝采を送る人々の姿を眺める。

 一通り場内を見渡すと、沙希自身も力いっぱい拍手を送った。

(おめでとう。やったね)

 笑顔でステージ上の陸の姿を見つめながら、心の中で何度も何度も祝福した。

 壇上では潤也が陸に握手を求め、その横で司会が改めて客席を見渡す。

「浅野さんのプレゼンへの支持が圧倒的多数のようですので、T事業所は新製品の開発、生産拠点として存続することに決定しました」

 その宣言とともに陸は深々と頭を下げた。拍手は一段と大きくなり、沙希も周囲に負けじと目いっぱい手を叩いた。

 会議が無事に閉会すると、沙希は座席に深く腰掛けたまま大きく深呼吸した。まだ夢の中にいるような高揚感があり、すぐに立ち上がる気になれなかったのだ。

「川島さん」

 先程、率先して陸に拍手を送ってくれた本社営業部長が、沙希の姿を見つけて声を掛けてきた。沙希は慌てて立ち上がる。

「部長、どうもありがとうございました」

 頭が床に届くのではないかと思うくらい深く礼をした。部長は「いやいや」と言いながら沙希の肩を叩く。

「私はただ拍手を送っただけで、頑張ったのは浅野くん本人だからね。それにすごくよかったよ」

 頭を上げると部長が笑顔を見せた。退場する人の列に押される形で部長と沙希は防音扉の外側へ出た。

「これで浅野くんも営業部は卒業だな」

 ロビーへと続く階段を下りながら部長は言った。沙希が返事をためらっていると、更に隣を歩く部長の声が聞こえてくる。

「昨年は過労を心配するくらい頑張っていたからなぁ。女性と恋愛をしている暇なんかないんじゃないかと思っていたけど、まぁ、それは余計な心配だった」

 沙希は苦笑した。

 陸が仕事で忙殺されている合間に自分との時間を作ってくれていたことが、今更だが心に滲みる。初めて二人で一緒に迎えた朝、夜のドライブ、突然家に押しかけてきた日、倒れた沙希を見舞ってくれた真夜中……。

(陸……)

 忘れられないいくつかの場面が沙希の脳裏によみがえった。どの瞬間も沙希にとっては何ものにも代えがたい宝物だった。

(不安になったりしてバカだな、私)

 どうして目先のことにとらわれすぎてしまうのだろう、と思う。

(一番大事にしなきゃいけないのは心が感じること、だね)

 最後にもう一度部長に感謝の言葉を述べて、会社へ戻るその背中を見送った。

 ロビーの片隅でそのまま待っていると、左右に視線を配りながら歩いてくる陸の姿が見えた。沙希が気がつくのとほぼ同時に陸も沙希を見つける。

「お待たせ」

「おめでとう!」

 沙希は陸に駆け寄り、抱きつきたい衝動をこらえてスーツの袖をぎゅっと握り締めた。まだロビーにはK社の関係者が多数残っていて、さすがに人目を気にしないわけにはいかなかったのだ。

 陸はホッとしたような、喜びを噛み締めるような柔らかい笑顔で、沙希の頭の上に手を載せる。とてもいい笑顔だ。

「ありがとう」

 囁くような小さな声だった。

 しばらくの間、二人は言葉を交わすこともなく、ただ笑顔で互いの顔を見つめ合う。陸が沙希の頭を優しい手つきで撫でていた。それだけで十分だった。

 陸は腕時計をチラッと見て、沙希の肩に手を回す。

「じゃ、行くか」

 今度はぎこちない笑みを浮かべて頷いた。そして覚悟を決めるように大きく息を吐く。

 沙希にとってはここからが正念場だ。

 そう思った瞬間、沙希の身体が陸の腕の中にぐいと引き寄せられる。背中の右半分が陸の身体と密着して心臓がドキッと鳴った。

 周囲からの視線を痛いほど感じながら、ホールの玄関を出た。玄関前に待機しているタクシーに乗り込むと、陸は運転手に短く行き先を告げる。

 ふう、と息をついてシートに身を任せると、投げ出した手が陸につかまった。陸は前を見たまま、いつも沙希がするように親指で沙希の手を撫でてくる。それがくすぐったくてたまらず、沙希はクスッと小さく笑いを漏らした。

 

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1st:2010/11/25
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