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第二部 9

 一方、陸も外出先で久しぶりに沙希以外の日本人と相対していた。

 電話の声で相手が若いようだと感づいてはいたが、実際現場に到着して相手の姿を認めた陸は軽い驚きに包まれていた。おそらく同年代だ。スーツ姿の陸に対して、相手はカジュアルなシャツにジーンズで、差し出した名刺を受け取る手の形を見て、物を作る職人だなと思う。

「あれ、……アンタ、もしかしてリクじゃない? 昔、RENDEZVOUS(ランデヴー)っていうバンドやってた……」

 望月(もちづき)と名乗った男は名刺と陸の顔を見比べて言った。陸は一瞬戸惑う。

「そう……ですけど、それをどうして?」

 ニヤリと笑った望月はジーンズのポケットに手を突っ込んで天井を仰ぐ。

「昔付き合ってた彼女がアンタのこと好きでさ。俺もライブに行ったことあるよ」

 ますます陸は反応に困った。昔のことを知っている人間にこんなところで会うとは思い掛けないことだ。正直に言えばあまり嬉しくない。もう音楽の世界からは訣別して何年も経つ。

「それはどうも」

「アンタの作った曲、結構良かったのにな。なんで辞めたの? トオルはメジャーデビューしたんだし、アンタだって続けていれば……」

「別に俺はメジャーになりたかったわけじゃないんで」

 望月の言葉を遮るために大きな声を出した。目を見開いてこちらを見た望月はもう一度名刺に視線を落とす。

「まぁ、それが賢いかもね。実際、売れたって持てはやされるのは一時期だけで、ずっと音楽で食っていけるヤツなんてほんの一握りだし。それよりは地味でもサラリーマンのほうが現実的だな」

(サラリーマン? 現実的?)

 一応、毎月会社から給料を貰っているが、それだけで自分がサラリーマンと呼べるのかと陸は訝しく思う。

(つーか、俺って……)

 仕事で来ていることを忘れて自省モードに入っていると、いつの間にか少し移動した望月が陸を呼んだ。

「これなんだけど、最近コイツ、調子悪くてさ。今日は全然ダメなんだよな」

 陸は音響機材が所狭しと置いてある埃っぽいスペースに近づき、裏側を覗き込む。

「ずいぶん昔のものを長い間使っていただいてありがとうございます」

 製造年は陸でなくともそう言いたくなる年の数字を刻んでいた。記号を見ると製造工場は閉鎖の議論が持ち上がっているT事業所だ。

「この手の新しいヤツって作ってるの?」

 望月の声で陸は顔を上げて手帳に型番をメモする。

「作っていますよ。たぶんこれ自体は修理で対応するのは難しいと思いますので、とりあえず今晩の使用に間に合うように別機種を手配させますが、宜しいですか?」

「それって新品を買えってこと?」

 あからさまに不満げな顔を見せた望月はまたジーンズのポケットに手を突っ込んだ。

「いいえ。ご対応をすぐに決めるのは難しいと思いますので、それまでの間代替品をお貸しします」

 陸は既に頭の中で支社の倉庫にあったはずの在庫品を思い浮かべていた。新製品ではないが、ここにあるものよりはずっと新しい。

「へぇ。さすがに大きな会社は太っ腹だね。ずっと返さなかったらどうする?」

「その際はお買取いただきますよ」

 望月の一存では決められないらしく、陸にその場で待つように告げるとフロアを出て行った。

 取り残された陸は改めてコンサートホール内を見回した。

 ここはオーケストラからジャズ、場合によってはロックなどの幅広い公演が催されているホールだと聞いてきたが、確かに小さなライブハウスとは規模が違う。

(あのまま続けていたら……?)

 ステージの上で眩い光を浴びることができたのだろうか。

 陸は視線を足元に落として考えるのをやめた。

(つーか、「もし」とか考えるだけ時間の無駄)

 自分が選んだ道に後悔はない。

 だが、それでも「もし」という迷いは捨てきれずにいる。特に同じバンドメンバーだったトオルがメジャーデビューすることが決まったと聞いてから、陸の心のどこかがざわざわとして落ち着かない。

 それを意識するたび、やらなければならない目前の仕事に打ち込むことで気を紛らわせてきたが、沙希のエッセイが好評だと聞いてからますますわけのわからない焦燥にかられていた。

 近づいてくる足音で望月が戻ってきたのを知り、陸は顔を上げた。

「それじゃあとりあえず代替品を手配してもらえる? それを使ってみてどうするか考えるってさ」

「わかりました。ではすぐにこちらへ運ばせます。設置は……」

「俺がやるからいいよ。それが俺の仕事だから」

 言い方はぶっきらぼうだが、その裏には自信が透けて見えた。

「望月さんは音響担当ですか?」

「うん、まぁ何でも屋だけど。俺の親父が日本で音響設計の会社やってて、このホールも設計をやらせてもらったんだよね。その関係で俺が修行させてもらってる」

「へぇ」

 望月も将来的に父の会社を継ぐのだとわかり、急に陸は彼に親近感を抱いた。

「浅野さんはいつまでこっちにいるの?」

 望月のほうも陸への態度を少し改めたようだ。それをくすぐったく思いながら、笑顔で答える。

「まだ来たばかりですが、会社のほうも大変なんで、案外早く戻らなければならないかもしれないですね」

「今はどこも大変だよな。俺もいつ連れ戻されるかわかんないし。まぁ、また何か頼むかもしれないから、そのときはよろしく」

「こちらこそ宜しくお願いします」

 軽く手を上げて見送る望月に、陸は日本人らしく礼をしてホールを後にした。

 外に出てジャンに電話で事情を説明し、在庫品をホールへ運ぶように指示をする。電話を切ろうとするとジャンが言いにくそうに切り出した。

「今、日本から来客があって……」

「誰?」

「亀貝潤也。沙希と二人で話をしている」

「……!」

 即座に電話を切って急いで車に飛び乗った。頭の中にいろいろな疑問が浮かんでは消える。とにかく一刻も早く戻らなくてはならない。

 慣れない道を慣れない左ハンドルで運転しながら、気持ちだけがやけに急くのを何とかこらえて帰路をたどった。





「川島さんはいろいろな才能のある人だと聞いてます。なのに、もったいないね」

 潤也は沙希と向かい合って腰を下ろすとそう言った。

 沙希は身を縮めて首を横に振る。

「エッセイ、日本ですごく話題になってるの知ってた?」

「いいえ」

「俺の知り合いで大手の出版社で編集やってるのがいるんだけど、川島さんを紹介してほしいって言われた。でも川島さんのことを社外に漏らすのはNGだから断ったけど……、ねぇ、キミにどんな秘密があるの?」

 潤也の自分を見る目に好奇心の色を見て、沙希は彼への嫌悪感を増した。

 社内には、一社員のプライバシーを護るために沙希の情報をなるべく口外しないようにとの通達があったらしく、逆にそれが人の好奇心を煽る結果になってしまったようだ。

「秘密なんて何もないです。私よりも浅野くんのことがありますから……そういう話題は世間の人も好きでしょうし……」

 何とか濁してこの話題を避けようとする。会社が業績以外のことで話題になるのは、社員にとってあまり好ましいことではない。潤也もそれくらいは承知しているはずだ。

 潤也は一瞬険しい顔をして腕を組む。

「確かに、亀貝家はワイドショー的に取り上げれば面白い家かもしれない。K社を興したのは陸のジイさんだけど、もともとその資金は本家のものだったからね」

「本家?」

「そう。陸のジイさんは三男なんだよ。だから今はもう亀貝の本家の人間じゃない」

 沙希は馴染みの薄い言葉に戸惑いを感じていた。沙希が生まれ育った地方は明治時代に開拓者が集まってできた街が多く歴史も浅い。そこには他の地方のような代々受け継がれてきたものは存在せず、家に縛られることはほとんどない。

 だが、日本にはまだ家筋を大事にする歴史が連綿と続いているのだと潤也の言葉を聞いて改めて思う。

「でも亀貝の本家っていうのは、今はもうないんだ」

「え?」

 潤也は少し苦しそうな表情をした。

「俺のジイさんが本家を継いだけど、あまり才覚のない人で、おまけに酒と賭け事が好きでそれで身を滅ぼした。それとは対照的に、陸のジイさんは早いうちに本家から金を借りて会社を興して、結果的には成功した。その後本家を継いだ俺の親父は……」

 淡々とした口調がそこで一旦途切れる。

「陸のジイさんに張り合うつもりか、事業を興したんだ。それなりに上手く行っていたけど、ある日突然、交通事故で死んだ。俺が小学生のときだった。そこでおしまいってわけだ」

 自嘲気味に口の端を歪める潤也を、沙希はただ黙って見ていた。

「俺の母親は家事以外何も出来ない人で、結局親父の会社の後始末は陸のジイさんにやってもらった。その後もあらゆる面で援助してもらって、俺はあの人に一生頭が上がらない」

 潤也はとても感謝の言葉を口にしているとは思えない苦い表情で言う。

 小学生のときに父を亡くし、その頃から陸の祖父の援助を受けていたとすれば、幼い頃によく会っていたという陸の話と辻褄が合う。当時から潤也が陸に対して友好的でなかったのは、子どもながらに複雑な事情を抱えていたためかもしれない。

「あるとき、陸のジイさんに言われたんだ」

 沙希が陸と目の前の潤也との関係に思いを巡らしていると、その言葉が耳に飛び込んできた。

 見ると、潤也はうっすらと笑みを浮かべている。

 怖いと思いながらも視線を外せずに、そのまま次の言葉を聞いた。



「『もしお前にやる気があるなら、本家から借りた金を返す代わりにお前にこの会社をやろう。ただそれには一つ条件がある』と」

(……条件?)

「『会社を継ぐのにふさわしい人間として、お前が陸より優れていることを証明してみせろ』……そう言われたんだ」



 沙希は目を見開いて向かい側に座る男を見た。

「俺は呪縛にかかったような錯覚を起こしたよ。今でもあの人の前に出ると、息をするのも命懸け、そんな気分になる。キミにもわかるだろ?」

 それには小さく頷いた。確かに陸の祖父の前に出ると緊張で身体が硬くなる。怖いというわけではないが、他のものに有無を言わせぬ威圧感のようなものが常に感じられるのだ。

「あの人に面と向かって横柄な口を利くことができるのは、アイツくらいなもんだよ。俺は昔から陸のそういうところが気に入らなかった。そもそもアイツは何も出来ないくせに、あの人の孫だというだけでこの会社を継ぐ権利があるわけだ」

「そんな……」

 沙希が反論しようと口を開きかけたのを、潤也は軽く手を上げて止めた。

「俺が死に物狂いで努力している頃に、アイツはバンドと女遊びにかまけていた。好き勝手やれるアイツのことを口では馬鹿にしながらも、どこか羨ましく思っていたさ。でもこれでこの会社は楽勝で俺のものになるとも思っていた。……キミがアイツの前に現れるまでは」

 初めて沙希は潤也から視線を逸らした。

 だが、追い撃ちをかけるように潤也は続ける。

「俺はとにかく必死だった。学生時代は成績を上位で維持することは当然で、それ以外にも会社を経営するために必要な知識やスキルを得るために、睡眠時間さえ削ったくらいだ。大学時代に会社を興して、それがある程度の成果を出した頃、あの人は初めて俺を褒めてくれたよ」

 珍しく表情を柔らげた潤也は、沙希を少しの間じっと見つめていた。

「他の奴らが青春を謳歌している頃、俺は友達と遊ぶ時間も惜しみ、当然彼女なんて作る暇もなかった。だけど俺にはやるべきことがある。だから他人を羨むこともなく、ひたすら目的を成し遂げるために前進することができた。それが……」

 語調が変化したのに気がついて、沙希は顔を上げる。吸い込まれるように潤也の目に視線が固定された。



「どうしてだろう? アイツは何の努力もしないくせに、俺の持っていないものを全て持っていやがる」



 ただ悲しい気持ちが沙希の胸の中に充満した。いつかもこんな気持ちになったことがあると思い、それがいつだっただろうとぼんやり考える。

(ああ、そうだ。昔、元彼が両親にとって望まれない子どもだったと聞いたときだ……)

 それを思い出し、沙希は一層暗い気分になった。

 どうして潤也は自分にこんなことを話し始めたのだろう。話を聞いたところで沙希にできることは何もない。むしろ沙希にとっては負担になるだけだ。

 自然に沙希の表情は沈痛なものになり、昂った感情を落ち着けたらしい潤也が気遣うような声で言った。

「キミを責めているわけじゃないんだ」

 沙希はただうつむく以外に何もできない。ここから早く脱出したいとそれだけを考えていた。

 だが潤也は沙希の気持ちなど知る由もない。沙希の機嫌を取るような声音が妙に耳障りだったが、耳を塞ぐこともできず、ひたすらじっとしているところにまた潤也の声が聞こえてくる。



「ただ、キミにアイツはふさわしくないと思う」



 突然、バンっと異質な音が割り込んできて、沙希はドアのほうを振り向いた。

 乱暴にドアを開け放って陸が室内へ踏み込んでくる。表情のない陸の顔を見て、一瞬だけ沙希の気が緩んだ。

「何しに来た?」

 陸は沙希の顔を見ず、潤也に鋭い視線を投げかけた。潤也の表情から柔らかいものは消え失せ、仮面を被ったように冷たい顔をしている。

「部下の面談に。川島さんとはゆっくり二人で話をしたいと思っていたからね」

「それは仕事熱心なことで。でも上司が部下のプライベートに口を出すのはやりすぎだろ。仕事に関係ねぇし」

 他に邪魔する者がいないせいか、陸の言葉遣いは喧嘩腰だ。

 それを聞いて潤也はフッと笑った。

「お前だって仕事に関係なく彼女をこっちに連れてきただろ。向こうじゃみんな迷惑してるんだよ。彼女の後に来た子は全然使えなくて、しかも会社を辞めたいと騒いでいるんだ」

「そんなこと知るかよ。アンタ、優秀な上司なんだろ? 何とかしてやれよ」

「無能な人間に費やす時間ほど無駄なものはない」

 機械のような感情のない声がそう断言すると、陸はわざとらしい大きなため息をついた。

「アンタと話すのも時間の無駄だ。帰れよ」

「お前に指図される筋合いはない。それに俺は親切に忠告しに来たんだ。お前と一緒にいると川島さんのためにならない、とね」

 そう言って潤也は沙希を見つめる。沙希はあからさまに顔を背けた。

 一瞬、陸は黙った。

「……何が言いたいんだよ?」

 重苦しい空気が沙希の全身にまとわりついてきた。



「お前といると彼女は消費されるだけ。本来、彼女の価値は彼女にふさわしい人間の元で発揮されるものなんだよ。お前は彼女の価値を奪って下げることしかできない」



「ふさわしい人間? ……まさか、それが自分だって言いたいのか?」

「少なくともお前よりはマシだと思うが、そうじゃない。具体的に言ってほしいなら言ってやるよ」

 沙希はゆっくりと陸の顔を見上げる。険しい表情の陸に潤也は笑みを浮かべて言い放った。



「坂上のおじさんだよ。お前の親父」



 嫌な沈黙が訪れ、沙希は呼吸困難になった。潤也は沙希に視線を戻し、優しい目をしてみせる。

「キミはもっと自分の価値を知るべきだ。そして自分に投資してくれる男を選ぶべきだ。こんな何も持たないヤツと一緒にいたらキミが苦労するだけだ。今のコイツにはおじさんの後ろ盾があるから何の不自由もなく暮らしていられるだろうが、それ以外にコイツ自身には何の魅力もない。……恋人としてはいいかもしれないが、結婚は辞めたほうがいいだろうね」

 親切ぶって言う潤也の言葉に沙希は首を横に振った。

「私はそういう考え方は嫌いです」

 だが、潤也は同情するように言う。

「今はわからないかもしれないけど、いつか気がつくよ。キミは賢い女性だ。これまでもきちんと自分で選択してきたように、ね」

 沙希はハッとした。潤也が自分の過去のことをある程度知っていてそう言ったことに気がついたからだ。 

 おそらく陸もそれに気がついたのだろう。また大きな嘆息を漏らすと沙希の腕を無造作に掴んだ。

「行くぞ」

「うん。……失礼します」

 引き摺られるように立ち上がり、形だけは潤也に挨拶をして会議室を後にした。





 席に戻っても陸はしばらく無言だった。

 沙希は外出先でのことが気になったが、話しかけることも許されないようなピリピリとした空気が伝わってくる。

 しばらくして潤也が支社を後にしたことがわかり、沙希はホッとしながら陸に思い切って声を掛けた。

「あの……」

 こちらを向く首の動きがいつもと違って自分を拒絶する感じがあった。一瞬言葉をためらう。

 その様子を観察していた陸が先に口を開いた。

「それ、返して」

 陸の視線の先には新製品の企画書案があった。

「……え、でも」

 まだ全部に目を通していなかったので沙希は戸惑い、陸の目を窺うように見る。冷たい視線が急かすように沙希の瞳を直に射る。口の中が渇いて言葉が出てこなかった。



「後は俺一人でやるから、もう手伝ってくれなくていい」



 沙希は震える手で書類を陸のほうへ差し出した。それを無言で受け取ると、陸はもう沙希が隣にいることなど忘れたかのように、こちらを見もしない。

 隣の席に座っていることが、この微妙な距離が、辛くていたたまれなくなり席を立った。逃げるようにトイレに駆け込む。ドアを閉めるとようやく普通に呼吸ができるようになった。

(どうしよう……)

 まるで自分の存在自体を否定されたような気持ちだった。

 ここにいる意味がわからなくなる。

 沙希の頭の中では陸が自分一人でやると言い出したことに理解を示すが、心がそれについてこない。陸に必要とされなければ、自分はここで何をしたらいいのだろう。

 しばらく頭が空っぽになったように茫然としていた。

 そして、沙希は決めた。

 トイレを出ると何かに突き動かされるように、だが、そうしなければならないのだと確信して歩き出す。時計を見て急がなければならないと思い、沙希は駆け出した。





 いつまでも沙希が戻ってこないことに気がついたのは、沙希が席を立ってから優に一時間が過ぎた頃だった。

 陸は改めて沙希の席を見た。

 妙に片付いた机の上は、いつもと変わらないように見えるが、陸にはなぜか嫌な胸騒ぎがした。

 トイレに立ったのだと思っていたので、まず他の女性社員に頼んでトイレを窺ってみるが沙希の姿はない。ロッカー室でもない。

(どこに行った?)

 支社の中にはこの一時間ほどの間、沙希の姿を見た者はいないようだ。陸はさすがに焦りを感じ、沙希の携帯に電話をすると近くで着信音が鳴る。沙希のデスクの引き出しを開けるとポーチの中に携帯が入ったままだ。

 心の中で舌打ちして、今度はアパルトマンに電話をする。ナタリーがいるはずだ。

 だが、電話に出たのは男の声だった。

「陸、今頃何の用?」

 皮肉っぽい声でテオは言った。

「テオ、お前沙希を見なかったか?」

「だから今頃、遅すぎるよ、陸。僕が今、沙希を空港まで送って行ったところ」

 陸は絶句した。呆れたようにテオは続ける。

「一応、僕は止めたんだよ。だけど沙希は僕の言うことなんか全然聞こえてないみたいだった。それに若い日本人の男を見つけた途端、沙希は僕にもう帰っていいって言ったんだ」

(ウソ……だろ)

 その若い日本人の男は間違いなく潤也だ。陸は今すぐにでも空港へ行きたい気持ちだったが、おそらく今から向かっても二人には会うことはできない。

 絶望が陸の心を支配して、目を閉じる。後悔しても遅すぎた。

 そこにテオのため息混じりの声が聞こえてきた。

「フランスに来たばかりの沙希が言ってたよ。ここに来たのは陸が好きだからだって。それなのにどういうこと?」

(クソッ!)

 陸は自分自身に腹が立った。だが、潤也の言葉は悔しいが認めざるを得ない部分があった。それであんなふうに沙希に当たってしまったのかもしれない。

 テオに短く礼を言って電話を切ると、今度は別のところに電話を掛けた。

(今は手段を選んでる場合じゃねぇな)

 ふと少し前に見た夢が思い出され、陸はまた激しい焦燥感にかられる。電話はすぐに繋がり、用件を伝えると相手は詳しい内容も聞かずに了承してくれた。

 少し安堵して携帯をポケットにしまおうとすると、突然手の中で震えだした。慌てて出ると耳には意外な、だが懐かしい人の声が響いて、陸は思わず気弱な声を出す。

「……母さん」

 僅かに遠く小さく聞こえる母親の声に耳を傾けながら、陸は胸にこみ上げてくる熱いものと、惨めな気持ちとのせめぎ合いに、ただひたすらじっと耐えていた。

 

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1st:2010/04/25
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