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第二部 10

 飛行機は搭乗してしばらくすると離陸体制に入り、轟音とともに滑走路を助走し始めた。

 窓からその様子をぼんやりと眺めていたが、機体が宙に浮いた途端、沙希の中に後ろ髪を引かれる気持ちが湧き上がってくる。

(今頃、陸はどうしてるだろう……)

 さすがにもう沙希がいないことに気がついているだろうと思う。怒っているだろうか。

 借りた毛布に包まり、顔だけ出して窓の外を見る。上昇中のため雲しか見えないが、それでも沙希は窓に凭れ掛かるようにして、なるべくそれ以外を視界に入れないようにした。

(なんでこんなことしたんだろう)

 陸が沙希の援助を断ったのは仕事上の話だ。それを勝手に自分の存在を否定されたように感じて飛び出してきたが、いきなり飛行機に乗るようなことだろうか、と自問する。

(ホント、私ってダメだな……)

 不満があるなら陸に直接言うべきだと頭では理解しているが、実際にそういう場面に出くわすとやはり自分の殻に閉じこもってしまう。

(日本に帰って……どうしようか)

 飛び出してきた直後は激しい興奮状態にあったが、こうして飛行機の座席にじっと座っていると嫌でも頭が冷える。冷静になって考えてみると、こんな些細なことで飛び出してくるなんて自分はどれだけ短慮なのかと悔やまれた。

「アイツ、今頃キレてるだろうな」

 沙希の心を読んだかのように潤也がこちらを向いて言った。

(キレるってタイプじゃないけど……)

 陸の性格を考えると激昂するよりも、呆れて愛想を尽かしているのではないかと沙希は思う。

 だが、そのほうが辛い。陸にいつ切り捨てられるかわからない恐怖心は、沙希の中に未だ根強く残っていた。

(入籍していなくてよかったのかもね)

 自嘲気味にそう思っていると、返事をしないのに潤也がまた話しかけてきた。

「それにしてもキミがこんな大胆なことをするとは思わなかった」

 どういう意味で言っているのかわからず、沙希は首を最小限に動かし潤也の顔を確かめる。

「課長についてきたわけじゃありません」

「でも結果としてはそういうことだろう。アイツを置いて俺と日本に帰る」

 沙希が返事をしたのが嬉しかったのか、潤也は嫌味なセリフを明るい声で言った。

 この人も陸のことになるとむきになるようだ、と沙希は顔をしかめた。子ども同士の喧嘩のようにお互いにいがみ合っているのが滑稽に感じる。特に潤也のような周囲からも認められている人間が、陸に嫉妬するのはおかしな話だと思う。

「本当は何のためにパリまでやって来たんですか?」

 まさか本気で沙希と面談をするためだけにやって来たわけではなかろう。

 潤也はフッと笑った。

「何のため? キミと話をしたいと思ったからさ。キミに興味があるんだ。陸を変えたのがキミだから」

 キミと連発されるのが不快だったが、視線を外してやり過ごした。

「私は何も……」

「キミに出会わなければ、アイツは今も会社の後継者どころか遺産相続まで、全ての権利を放棄したままだったと思う」

「放棄?」

 さすがに聞き捨てることができず、沙希は問い返した。

「そうさ。陸は自分のジイさんと坂上のおじさんが築いたものを継ぐ気がまるでなかった。むしろいつもそれから逃げようとしていた。勉強をしないのも、母親が離婚するのに賛成したのも、自分が重責を負うのが嫌だったからさ」

(そうだったんだ……)

 沙希は高校生の陸を思い出した。

 確かにあの頃、陸は繰り返し祖父の期待が重過ぎると不満を漏らしていた。裕福な家系だと聞いていたが、陸がまさかこんな大きな、しかも後に自分が入社する会社の跡取りとは想像できるはずもない。

(それは逃げ出したくもなるかな)

 また窓の外へ視線を戻す。

 潤也が膝の上に置いていた新聞を開く音がした。

「たぶん明日にはウチの会社とS社間の買収交渉が破談になったと報道される」

 周囲を気遣ってか、潤也は静かに言った。

 S社と聞いて沙希はドキッとする。個人的な怨恨が原因だと思うのは、いくらなんでも考えすぎだろう。自分のことと直接関係あるとは思えないが、それでも気になって仕方がない。

(倉田さん……今、どうしているんだろう?)

 倉田由紀の沙希に対する言動を陸が重く受け止めてくれたのは嬉しいが、万が一そのことが会社同士の関係に波及するなら素直に喜ぶことができなくなってしまう。

 沙希は一つ空席を挟んで通路側に座っている潤也を見た。

「それは会社にとってかなりのダメージになりますか?」

「これでウチが倒産するようなことはないけれども、今後S社との取引に支障は出るだろうね。キミも知っている通りS社はウチの大口の顧客だから、もし取引が一切なくなるようなことになればマズいだろうな。ウチの会社はS社のように手広くやっているわけじゃないから、こっちがだめならあっちで稼ぐみたいな器用な真似はできない。だから……」

 潤也は改めて沙希を正面から見る。

「他の企業を買収して自社を大きくするのも一つの手だけど、もっと手っ取り早く政略結婚というのも有効な手段さ」

(政略……結婚?)

 沙希の驚いた顔を確かめて潤也はさも愉快そうに笑った。

「大企業の後ろ盾があるというだけで社会的信用にも大きく影響する。悪い話じゃないだろう?」

(今時そんな……時代錯誤じゃない?)

 返事をする気にもなれず潤也から顔を背ける。それでも沙希の胸の中に不安の色が広がっていくのはどうしようもなかった。

「陸が後継者になると決まったわけじゃないから、それほど心配する必要はないよ。アイツは相変わらずやる気がなさそうだし、これからも俺は俺のやり方でやらせてもらう」

 潤也の意向はあくまでもK社を手に入れることで、もし彼がその権利を得たなら自分自身は政略結婚も厭わないということなのだろうか。

(そんな考え方、私には信じられない)

 会社のために自らの婚姻すら利用して、それで本当に潤也は幸せなのだろうかと沙希は疑問に思う。

「……亀貝本家の再興が目的ですか?」

 話を続けたいわけではないが、自分自身の幸せを犠牲にしてまで彼が手に入れたいものは何なのかが気になった。

「それも叶えたいことの一つだけど、俺は単に陸が何の苦労もなく幸せな人生を送るのが許せない。苦労して努力した人間が報われることを証明したいんだ」



「何の苦労もないなんて、簡単に言わないでください」



 毅然とした口調で言い返す。潤也の一方的なきめつけが癪に障ったのだ。

「アイツの肩を持つなんてけなげだな。陸が羨ましいよ」

(羨ましがっているくらいなら彼女でも作ればいいのに。その容姿ならすぐできるだろうし)

 隣に座る人間を改めて観察する。

(顔のパーツも髪質も肌も……やっぱり似てないな)

 だが体格が似ているせいか、潤也の動作に時折ビクッと沙希の脳が反応した。元彼に少しでも似ている影に対する反応スピードは、無意識とはいえ自分自身でも驚くほど早い。

 この人の傍にいるのは精神的によくない、と自分の突発的な行動をつくづく後悔していると隣からまた声がした。



「キミは不思議な人だな」



「……え?」

「キミを悪く言う人間がいない。……いや、個人的な妬みを持つ女性なんかはいるかもしれないが、それでも男女問わず、具体的にキミの悪いところをあげつらって嫌いだと言う人がいない。そんなキミの噂を聞いたとき、俺は『そんな女がどこにいるんだ』と思った」

 穏やかな話し声は、意外にも沙希の耳に心地よく響く。その変化に驚きながら潤也の話を聞いていると、普段の神経質な声音が彼の鎧のように思えてきた。

「実際キミに会ってみて、それでもまだ半信半疑だった。愛想がいいわけでもないし、飛び抜けて明るい性格というわけでもなさそうだし、ただ綺麗なだけの女性にしか見えなかったから」

 沙希は思わず苦笑した。

「だけど、キミの仕事を引き継いだ子が『皆が無言で川島さんと比較するのが耐えられない』と言ってきた。引き継いで一ヶ月くらいは前任者より仕事ができないのは当然だろうと慰めてみたが、どうもそうじゃない。他の管理職に聞くとはっきりとこう言う人もいた」

 一呼吸置いた潤也は笑みを浮かべる。



「『川島さんのような人がいい』とね。そこまで言わせるキミの魅力は何なのかが、どうしても気になった。あの陸を動かした運命の女性だから尚更……」



 沙希は小さく首を横に振った。

「私にはそんな魅力なんかないです」

「それ!」

 潤也が突然身を乗り出した。同時に沙希の身体が強張る。

「それがキミの人徳さ。簡単なようだが誰にでも真似できることじゃない」

(人徳?)

「キミと直接話す機会が作れてよかったと思っている。予定外にこうして話す機会を与えてくれたアイツにも感謝しなくてはいけないな」

 そう言って笑いかけてくる潤也の顔を真っ直ぐに見るのはためらわれた。

 うつむいて小声で反論する。

「私はただ、陸の重荷になりたくないから少し離れたほうがいいと思ったんです。陸も課長のことになるとむきになってしまうみたいだから……」

 潤也はフッと笑ったが、何も言わずに膝の上の新聞へ目を戻した。

 毛布を肩まで引き上げて被りなおす。それから身を縮めてまた窓に頭をくっつけた。

(運命の女性なんて大げさな……)

 しばらくの間、沙希は自分と陸がたどった軌跡に思いを馳せていた。陸の人生に自分はどんなふうに影響しているのか、沙希にはよくわからない。

(でも私の人生にはもう……陸がいないことなんて考えられないよ)

 本気で陸の元から去ろうと思ったわけではない。もっと言えば、今潤也に言ったことは嘘だ。



(本当はただちょっと心配を掛けて困らせたかっただけ)



 自分の本心を認めた途端、涙がこみ上げてくる。

(こんな子どもみたいなことしちゃって……陸、ごめんね)

 雲の上に広がる天上の青空が眩しくて目を細めた。深呼吸をして気を静めると涙がすうっと引いていく。

 それから飛行機が着陸するまでの間、潤也はほとんど話しかけてこなかった。沙希もただ静かにひたすら窓の外を眺めて機上の時間をやり過ごした。











「くーっ! うめぇ!」

 空のグラスを少し乱暴にテーブルに置く。この店のワイングラスは割と丈夫そうだ。

 沙希がいない部屋に真っ直ぐひとりで帰るのは気が引けた。それで以前実父である社長が渡仏した際に、一緒に食事をしたレストランへやって来たのだ。

 席に案内されてしばらくすると、厨房から日本人シェフの小寺がわざわざテーブルまで挨拶しに来た。知り合いがいるというのは心強いことだ、と陸は少しだけ実父に感謝する。

 ワインの本場に来て、ワインを飲まないなんてもったいない話だ。陸は普段軽めのワインを好んでいたが、今日は肉料理に合うものを店のソムリエに選んでもらい、あまり口にしたことのない重いものを飲んでいる。

(渋くて飲みにくいものだと勝手に思っていたけど、これはこれで美味いな)

 ローストビーフを口いっぱいに頬張りながら、沈みがちな気分を盛り上げるために楽しいことを考えようとする。

(こんなに肉ばかり食べてたらアイツに怒られるな)

 ほくそ笑みながら口の中のものを無理矢理飲み込んだ。だが、今夜くらいは羽目を外してもいいだろうと思う。どうせひとりなのだから。

 さすがに喉が詰まり、グラスに手を掛ける。そのとき陸のテーブルの脇に一人の男性が立った。

「ずいぶんいい飲みっぷりだね」

 慣れた手つきでグラスにワインを注ぎながら、その初老の紳士は話しかけてきた。

 怪訝な顔で男性を見上げた陸は、身なりを一瞥して彼が社会ではそれなりの地位のある人間だと判別する。どこか親しみやすい愛嬌のある顔つきと、前に迫り出した腹が印象的だ。長身なのに腹が出ているのが勿体無いと思う。

 礼を言うと男性は後ろを振り返りながら言った。

「ウチの奥さんが君とご一緒したいと図々しくも言っているんだが、どうだろうか?」

 彼の目線の先には、にこやかに笑いながらこちらに向かって小さく手を振る女性が見えた。

「かまいませんよ」

 陸が承諾するとすぐにテーブルがセッティングされ、急遽初対面の夫婦と一緒に食事をすることになった。夫婦は見るからに仲が良さそうで、妻も夫と同年代のようだ。

 まず夫のほうが改まって折戸(おりと)と名乗った。陸も名乗って挨拶する。

「こちらには旅行で?」

「そうなの。年に一度は二人で海外旅行に行きたいと思っていて、毎年かなり早いうちからスケジュールを調整して準備しているのよ。しばらくイタリアが続いたので、今年は久々にフランスで美味しいワインを飲みたいなって思って……。そしたらイケメンくんが一人で豪快に飲んでるから一緒にどうかしらって思ったの」

 折戸の妻は既にワインをかなり摂取しているのか、気持ちよく酔っているようだ。もともと明るい雰囲気の女性のようだが、酔いのせいか声も身振りも大きい。

「彼女はとにかくイケメンには目がなくってね」

 折戸が呆れたように言うと、妻が不満そうに言い返した。

「あら、どうせ見るなら美しいものを見るほうがいいに決まってるじゃない」

「すまないね、美しくなくて」

「あなたのそのお腹が醜くって、それ、どうにかならないのかしら」

「これは奥さんの手料理が美味しすぎるのが原因だからな」

「嘘ばっかり。この人ね、会合とか言って、飲み会ばかりで夕食を家で取ったことなんか数えるほどしかないのよ」

 陸は笑顔で折戸の妻に同情するように頷いた。

 なぜか離婚する前の父親と母親の姿が二人に重なる。今は社長と呼ぶ陸の実父も夕食を家で取ることは稀で、それを母がいつも嘆いていた。

「仲がいいんですね」

 嫌味な響きが出ないよう気を遣いながら言う。

「浅野くんもパートナーがいるんでしょ? もしかして単身赴任?」

 妻のほうが左の薬指を指差した。陸は苦笑して首を横に振る。

「今は……実家に戻ってます」

(話がややこしくなるから、そういうことにしとけ)

 自分の胸の中のもやもやしたものを抑え付けながら、さらりと言った。

「そうなの。寂しいわね。……それで彼女はどんな人?」

 折戸は「こらこら」と妻をたしなめたが、妻は興味津々の顔で陸の返事を待っている。

 グラスを弄びながら陸は答えを迷っていた。

「そうですね……。難しい人、かな」

「なるほどね。どんなところが難しいのかしら?」

「考え方とかはすごくしっかりしていて大人なんですけど、突然子どもみたいなことをやらかしたりするんですよね。そのスイッチが微妙で……」

 黙っていた折戸が理解を示すように頷いた。

「ウチの奥さんもそう。女性っていうのは本当に難しい」

「何よ、あなたまで。単純な男性と違って女性は難しいんです」

 折戸が苦笑いして肩をすくめる姿を見て、陸もつられて笑った。

 その後、折戸夫妻の旅行の話題になり、主に妻が様々なエピソードを面白おかしく語ってくれた。イタリアには芸能人と同行したこともあるらしく、その話を聞きながら陸は折戸の顔の広さに驚く。

 ワインを三人で三本空け、歓談に時を忘れて寛いだ。夫妻は切り上げるタイミングも心得たもので、陸はそれに感心しながら二人と別れた。

(楽しかったな)

 予想外に楽しい時間を過ごすことができて、陸は軽い足取りでアパルトマンへ戻る道をたどる。折戸夫妻の仲の良さが陸の心を温かくしていた。あの年齢になっても仲睦まじく旅行できることを羨ましく思う。

 自分と沙希はそうなれるだろうか。

 陸は深いため息をついた。

(これじゃあ、昔のおっさんと同じだな。でももっと頑張らないとマジでヤベぇ)

 沙希のことをないがしろにするわけじゃないが、今が正念場だという気持ちが陸の心を占めていた。社会に出てそれなりに頑張っても、それなりでは周囲は認めてはくれない。それが社会人として当然のことだからだ。

(つーか、あれだけ言われて悔しくないヤツがどこにいるんだよ。それに俺だって何もないわけじゃねぇっつーの!)

 潤也の言葉を思い出して、また腹を立てる。

 だが、すぐに気持ちを切り替えた。とにかくやるしかない。潤也の鼻を明かすにはそれしか方法がないのだ。

(こうなったら徹底的にやってやる)

 陸は夜空を見上げた。控えめに瞬く星を見ながら、今頃沙希はどの辺りにいるのだろうかと思う。

 傍にいるのが当たり前になっていただけに喪失感が大きく、広大な空の下にひとりで突っ立っている自分の存在が儚く感じられた。



(だけどお前がどこに行こうと、誰といようと、何度だって振り向かせてみせるから。お前が身をもって俺に教えてくれること、絶対無駄にはしない)



 ここまで来たのは何のためだったかと自問する。やらなければならないことは山ほどある。それも自分一人の力で成し遂げなくては意味がないのだ。

 祖父がこのタイミングで潤也を呼び戻したのは、間違いなく陸を試すためだ。もし陸がこれで簡単に潰れるようであれば、祖父は本気で潤也に会社を譲るかもしれない。

(あの人たちにとって、俺たちはゲームの駒みたいなもんだろうな)

 祖父と実父の顔を交互に思い出し、フンと鼻で笑う。そうだとしても、陸には関係のないことだ。



(俺は俺の信じる道を行くのみ)



 そしてその先に折戸夫妻のような揺るぎない信頼関係で結ばれた愛する人との日々が続いていればいい。

 陸は足早に夜の街を後にした。











 案外早く帰ってきてしまったな、というのが飛行機を降りた沙希の感想だった。

 期待に胸を膨らませて出発した日の記憶がまだ新しいうちに、到着ロビーにいる自分が惨めだ。先に歩く潤也とは少し距離を置く。

 預けた荷物はないので潤也より先にゲートを出た。もうこの先は一緒に行動する必然性はない。

 一応、機内の座席を立つときに礼は述べたので、荷物を待つ列に並ぶ潤也を振り返ると軽く会釈をして前を向いた。次の瞬間、見知った顔が視界の真正面に入ってきて、沙希は驚いて立ち止まる。

「飛行機は疲れただろう。何か飲み物でも買おうか?」

「……いいえ」

 沙希はそう返事をするのがやっとだった。目の前にいるのは紛れもなく社長だ。

(まさか陸が連絡したの?)

「あの……どうしてここに?」

 おずおずと質問する。社長は特に普段と変わった様子もなく、上質な生地のスーツを着こなしていた。

「どうしてか、不思議だろう? それよりも私は沙希ちゃんが潤也くんと一緒なのが不思議で仕方ないんだが」

「それは……」

 社長は穏やかな表情のまま、眼鏡の奥の目を細めた。そして沙希の背後へと視線を移動させる。後ろから荷物を受け取った潤也がやってきたのだ。

「社長自ら川島さんのお出迎えですか。陸は本当に何を考えているんだ」

 明らかに嫌味のこもった言葉が背後から聞こえてきて、沙希はぶるっと身震いした。潤也が陸に投げつけた言葉が意識される。

 だが、対する社長は温厚な態度のまま否定した。

「残念だが違うよ。私はこれから旅立つところで、たまたま空港に用事があるという方とご一緒させてもらったのさ。ああ、ほら、沙希ちゃんのお迎えに見えたのはあの方だ」

 社長は沙希と潤也を促すように、優雅な手つきで二人の更に後方を指し示した。

 沙希が振り返ると、両手に紙袋を提げ、しゃんと背筋を伸ばし、のんびりとした足取りでこちらに向かってくる年配の着物の女性が目に入った。



(あれは陸の……)



「大おばさん」

 潤也が慌てて深々と頭を下げた。沙希もつられて礼をする。

「おや、潤也くんじゃないか。ずいぶん立派になったこと」

「お久しぶりです。お元気そうで何よりです」

 着物の女性は沙希のほうへ向き直ると、じっと沙希の顔を見つめた。居心地の悪い沙希は思い切って挨拶する。

「初めまして。川島沙希と申します」

「以前にお会いしたことがありますね」

 沙希は頷いた。まだ沙希が陸の家庭教師をしていた頃、陸の実家のマンションで一度だけ顔を合わせたことがある。

 すると目の前の女性はゆっくりと腰を折り、深く一礼した。



「陸の祖母です。これからどうぞ宜しくお願いします」

 

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1st:2010/05/13
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