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第二部 8

 翌日から沙希は陸とともにフランスの支社へと出社し始めた。

 会話がほとんど聞き取れないことに強い焦りと不安を感じたが、半日ほど経過してようやく、こればかりは仕方のないことと開き直る。

 沙希は大学で第二外国語としてフランス語を学んだ。だが英語と違い、沙希にとってフランス語はかなりの難物だった。

 幼い頃から接する機会が多かった英語は読み書き発音にそれほど苦労しなかったのに対し、フランス語はまず発音が難しいと感じてしまい、最初に苦手意識が根付いてしまったようだ。

 教科書には先生が音読したとおりにカタカナで発音を記入して音読の練習をしたが、週一回の講義ではなかなか上達しない。少人数の講義も受けてみたが、宿題をこなすのが精一杯で苦手意識を増幅させただけだった。

(英語なら出てくる単語で何となく意味は理解できるのに、仏語じゃ単語すらわからない……)

 目の前の雑誌をパラパラとめくりながら、沙希は小さくため息をついた。

 だが、部屋で留守番をしていることにも飽きていたのは事実だ。

 それよりもこの状況をもっと楽しもうと思い、陸の様子を密かに観察する。彼は沙希よりも数日早く仕事を開始したこともあり、既に自分なりにコミュニケーションの取り方を身につけたらしい。

(意外だな)

 一年前の再会後、陸の仕事ぶりや会社でのふるまいを見て沙希は何度もそう思った。

 思えば高校生の陸とは外でご飯を食べたり、カラオケに行くなど遊びに出るとき以外は、ほとんどが二人きりの密室で過ごしていたのだ。陸が集団や組織の中でどんなふうに行動するのかを沙希は知らなかった。

 家庭教師という立場やその仕事の性質上、それは当然のことではあるのだが、そのことに思い至って沙希は急に顔が紅く染まるのを感じる。

(私は仕事中に何を考えているんだ?)

 深呼吸をして椅子に座り直し、今開いていた雑誌を一旦閉じて、もう一度最初から、今度は真剣に読み始める。

(それにしてもデザイン関係の雑誌ってこんなにたくさん発行されているんだ)

 沙希のデスクの上に積まれている雑誌の山をチラリと見た。ここに積み上げられているのは日本の雑誌のみであり、陸には他国で発行されている雑誌等にも目を通してほしいと頼まれている。

 ところどころに付箋が貼り付けてあるので、陸が目を通した後のもののようだ。

 今までの庶務の仕事も他人の補助的な仕事だったが、ここでの最初の仕事は陸の企画書作りの手伝いなのだ。まずは新製品のデザインを依頼するデザイナーを探すために、沙希は朝からずっと雑誌に目を通していた。

 昨日聞いた社長の話ではエッセイもこの新製品に繋がっている。

 社長との会食中には具体的な製品名こそ出てこなかったが、後で陸からそれがスピーカーだということを聞いて、沙希は社長の言葉の意味をようやく理解したのだった。

(『ウチの会社が何の会社か忘れたわけじゃないだろうな』か……)

 K社が一番最初に商品として世の中に送り出したのがスピーカーを含む音響機器なのだ。今でもこの分野でのK社の技術力は評価が高い。

 陸が音楽の世界に傾倒していたのも、これがルーツなのかもしれないと密かに思う。

(何だか変な気分だな……)

 意識の大半を雑誌に集中させながらも、頭の片隅ではそう思う。沙希は頭の中で器用に二つくらいのことは同時に考えることができた。

(出会ったのも陸の家庭教師として……だったし、陸の人生の中で私はお手伝いみたいな役割なのかも)

 この思いつきが少し面白くて、沙希は愉快な気分になった。

 もとより自分は何かの先頭に立ってリーダーを務める器ではないと悟っている。何より行動力がない。それよりはリーダーを補佐する務めのほうが向いている気がした。

 沙希は自分自身が何かを成し遂げることより、他人から必要とされる自分というものに価値を見出す傾向がある。

 その一見控えめで無欲な様子が、ある種の男性の気を引く仕掛けになるとわかってからは、自分自身が偽善の塊のように思えて仕方なかった。だからそこを引け目に感じて、自分を利用する人間に対して強い態度が取れなかったのかもしれない。

 だが、もしこの性質が陸の力になるのなら嬉しい、と思う。陸なら自分を利用しないと信じることができるからだ。

(悪いところはできるだけ直したいとは思うけど、短所と長所は紙一重の部分もあるし……)

 それに沙希は良いところもあれば悪いところもあるのが人間だと感じていた。完璧な人間がこの世に存在したとしても、その完璧さが善と悪を併せ持つような気がするのだ。 

 ふと隣の席から視線を感じて沙希は目を上げた。

 陸がじっとこちらを見ていた。

「どうしたの?」

 いつの間に席に戻っていたのだろうと驚きながらも、沙希は笑顔で話しかける。

「見とれてた」

「え?」

 冗談とも本気ともつかぬ微笑を浮かべた陸がランチに行こうと誘ってきたので、沙希はすぐにデスクの上を片付け席を立った。





 会社の近くのレストランでランチを済ませ、店を出た。

 陸は沙希に歩調を合わせ、浮かない顔で沙希を見ては視線を外す。何かを切り出そうとして躊躇している様子にも見えた。

「どうかした?」

 嫌な感じがして沙希はたまらず訊いた。

「うん……」

 やはり陸は困ったようにため息をついて下を向く。しばらく何かを考えていたようだが、意を決したように顔を上げて言った。

「こっちに来て、沙希も少し気分が開放的になってきたのかと昨日の夜は嬉しかった」

 沙希は昨晩のことを思い出し、恥ずかしさから顔を下に向けて陸の視界から逃れようとした。

「でも、昨日のおっさんの話で察しがつくと思うけど、俺は頻繁に日本に帰らなきゃならなくて……、お前はどうする?」

 歯切れの悪い陸の言葉に、沙希は戸惑った。

「どうするって……どうすればいいの?」

「毎回一緒に行ったり来たりしてもいいけど、それだとお前の体が持たない気がする。お前、もう少し体力あればいいのにな」

「ごめん……」

 それ以外に言える言葉がない。沙希はうなだれた。

「いや、ごめん。沙希がそういう身体なのはわかってるんだけど……あーもう! 俺、何言ってるんだろう」

「どうしたの?」

 陸が言い淀んでいることはもっと別のことだと察して、沙希は穏やかな表情で陸の顔を覗き込んだ。

「なんだろうな。よくわかんねぇ。……うわっ、沙希みたいなこと言っちゃった」

 茶化すように言って笑ったが、表情が硬い。

 もしかして、と思い沙希は言った。

「昨日、変な夢見たって……?」

「うん」

 陸は浮かない声で返事をする。

「沙希が俺じゃなくて他の男と結婚してる夢」

「えっ?」

 思わず大きな声で聞き返した。

「やべっ、思い出したら吐き気してきた」

 陸は口元を手で覆って顔を背ける。その切なげな表情を見て沙希も胸が痛んだ。

「そんなことあるわけないじゃない」

「お前が……変なこと言うから」

(変なこと?)

 眉をひそめると陸がふうっと大きく息を吐いた。



「お前も『普通の女』だって。だからってジュンちゃんは……ないだろ」



「それは、ない!」

 沙希は首を何度も横に振り、それだけはありえないということを伝えようとするが、陸の表情は変わらない。

「……子どもまでいて、やたらとリアルでさ。俺はそれを少し離れたところから見てるけど、お前は俺のことなんか気がつかない。まさに悪夢だろ?」

 ただ首を横に振り続けたが、陸の意識はもっと別のところに囚われたままのようだった。

 沙希は陸の腕に自分の腕を絡ませてみる。

「それはただの夢でしょ」

 だが陸は苦い表情で沙希に視線を合わせると、その目をしばらくじっと見つめ続けた。



「ただの夢でも、そんなの見たくねぇ」



(そんなこと私に言われても……)

 困り果てて陸の袖をぎゅっと握ると、不意に陸が腕を引き、よろけた沙希は陸の胸にぶつかった。頭の上に陸が顎を乗せてくる。

「……って言ったら少しスッキリした」

 明るい声が上から降ってきた。ようやく沙希もホッとして頭を陸に預ける。

 同時に沙希は、陸が他の男性に対して嫉妬心をあらわにするのは、たぶんこれが初めてだと気がついた。

(社長にも嫉妬は多少あるみたいだけど……それとは明らかに違う)

 それにまだ高校生だった陸は、沙希の元彼への嫉妬のようなことをはっきりとは口にしなかった。おそらくそれが陸なりの心遣いだったのだろう。

 そのために陸がどれだけ我慢していたのか、沙希には想像もつかない。胸が痛んで、涙腺が緩みそうになるのをグッとこらえた。

「私、あの人は苦手。はっきり言えば近寄りたくない」

 きっぱりとした口調で言うと、陸は笑う。

「お前にそこまで言われるとは……。今、ジュンちゃんに同情しちまった」

「だって仕方ないでしょ。生理的に受け付けないっていうか……」

「ひでぇな。ますますかわいそう」

 陸はすっかり機嫌が直ったらしく、沙希の鼻先に自分の鼻を押し当てると、手を握って会社へ戻る道を歩き始めた。

「話が逸れたけど、なるべく沙希を一人にしたくないんだ。俺が寂しいから」

 恥ずかしいことをさらりと言う。照れ隠しに沙希は顔を背けてクスッと笑う。

「ずっと一緒にいたら飽きちゃうかもよ」

「大丈夫。俺、お前のことかなり好きだから」

 その言い方がおかしくて沙希は吹き出した。陸もつられて笑う。

 手をぶらぶらと振りながら歩いていると、急に辺りの景色が目に入ってきた。

 沙希は今になって白い雲の塊の間から水色の空が申し訳なさそうに顔を出していることに気がついた。風はまだ冷たいが、もうすぐ街路樹も芽吹き始めるだろうと思う。

 ふと故郷の春の匂いがしたような気がして振り返ってみたが、沙希の目に映るのはどこまでも続く異国の街並みと肌や髪、瞳の色が違う人々の姿だけだった。











 それからあっという間に三週間あまりが過ぎ、沙希がパリに来て最初に書いたエッセイが雑誌の広告として、まずは週刊誌に掲載された。

 沙希が実物の雑誌を手にする前に、家族や友人からメールで「見た」という報告が寄せられくすぐったいような気分になっていたが、その後会社経由で沙希が想像していたよりも大きな反響があることを知った。

 読者個人からの感想も少なくはないが、一番多いのは「この文章を書いたのは誰だ」という問い合わせのようだった。

 だが、沙希が一番心配していた知人らしき人物からの問い合わせは今のところないようだ。そのことに胸を撫で下ろし、ようやく届いた現物の雑誌を陸に手渡した。

「なんかドキドキするな」

「うん。私もまだ見てないし」

「え? なんで?」

「だって……一人で見るのが怖くて」

 陸は雑誌をめくりながらニヤニヤ笑う。

「どれどれ」

 しばらくすると、紙をめくる音がやんだ。

 沙希は思わずその一面に目を奪われる。

「あった」

 目が悪いわけでもないのに、陸は雑誌に顔を近づけた。そして「うーん」と唸る。

「これ、沙希だとわかるヤツにはわかるんじゃね?」

 文章の横に添えられている写真のことだ。モノクロームの自分の横顔を見て、沙希は首を傾げる。

「どうかな……。髪が短いし、それに私と似てる人が世の中には十人くらいはいるらしいし」

 陸はまじまじと沙希の顔を見る。

「十人……」

「何か変なこと考えてない?」

「いや、俺は別に沙希の顔だけが好きなわけじゃないから」

「……何を考えていたんだか」

 沙希の嫌味な視線に、クッと笑い返すと再び視線を紙面に戻した。

「読んでいい?」

「いいけど、恥ずかしいから私はあっちにいるね」

 慌てて沙希はキッチンへと逃げ出した。

 おかしなことを書いたわけではない。パリに来て、新しい生活に対する期待に胸をふくらませる一方で、ふと故郷に思いを馳せて郷愁を募らせる自分の気持ちを、新製品と過去の古き良き名品とにかけてみたのだった。

 それほど長くはない文章なので、そろそろ読み終わっただろうと思い、こわごわ陸の様子を窺う。

 だが、陸はまだ真剣な眼差しで文章を読んでいて、それを見た途端、沙希は緊張で身体がガチガチになるのを感じた。

(恥ずかしい!)

 静かにキッチンの奥まで移動して、熱くなった頬を両手で押さえる。

「読んだよ」

 数秒後に聞こえてきた陸の声に、思わずしゃがんで耳を塞ぐ。

「何してんだよ?」

 沙希が戻ってこないのを不審に思った陸はキッチンまでやってきた。沙希は困った顔でチラッと陸を見上げると、また顔を背けた。

「感想とか言わなくていいから」

「俺、感想文とか苦手だから上手く言えないけど」

「あーーーーー!」

 聞きたくないのでじたばたと悪あがきをする。



「お前ってやっぱすごいなって思った」



 沙希はピタリと動きを止め、陸を見上げた。陸はあまり普段見ない表情で沙希を見下ろしている。

「ずっと忘れてたけど、沙希を先生って呼んでいた頃の気持ちを思い出したよ。あの時はよくわかってなかったけど……」

「何を?」

「お前のすごさ」

 意味がわからないので黙って目で問う。

「文章の上手い人はたくさんいるだろうけど、お前のすごいところはたぶん他人に何かを感じさせる力があるところだなって思う」

「そんな力は……ないよ」

 沙希は苦笑しながら否定した。いくら親しい人間のこととはいえ褒めすぎだ。

 だが、陸は意外にも真面目な顔で首を横に振る。

「お前が経験してきた全てのことが、お前をつくってるんだなって思う。いいことも悪いことも、楽しいことも悲しいことも辛いことも、お前は全部受け容れてきて、そこがすげぇなって」

「そんなことはないよ」

 沙希は強い口調で否定する。頭の中に、自分が放り出してきたものの姿が一瞬よみがえった。



「受け容れられなかったものもある」



 自分の膝をぎゅっと抱き締め、背を丸めて小さくなる。頭上で陸が嘆息を漏らした。

 隣にしゃがむ気配を感じ、頭にポンと大きくて温かい手が置かれる。

「ホント、お前は優しいね」

「私は冷たい人間なの」

「俺は沙希のそういうところが好き」

 その言葉を聞いた途端こらえきれなくなり、沙希は陸の肩に抱きついた。



「でも、もう自分を責めなくてもいいんじゃね?」



 抱きつかれた勢いで腰をついた陸は、沙希を自分の胸の中でしっかりと抱き止めて言った。

「それは……無理」

 フンと鼻で笑われたので、沙希は顔を上げて上目遣いをする。

「だって……」

「そう言うと思った」

「…………!」

「お前のことだから、素直に『うん』なんて言うわけない」

「ひどっ!」

 軽く陸の胸を叩くと、もう一度きつく抱き締められた。

 心の中に巣食う暗い闇が、意識の上から急速に遠ざかっていくのがわかる。



(ずっとこうしていられないなら、時なんか止まってしまえばいいのに)



 いつでも沙希より陸の身体は熱い。自分はどこまで冷え切っているのだろうか。
 
 だが、抱き合っているとお互いの体温で触れている部分が溶け合い、まるで二人が元は一つのものだったような気がしてくる。

 単なる錯覚であっても、こうしている今だけはそれが二人の間の真実になればいいと、静かに呼吸を繰り返しながら沙希は思った。











 陸に頼まれていたデザイナーの選定作業は、積み上げられていた雑誌に全て目を通し、他の資料やネット上での情報収集を終え、最終的にはフランス在住の二十代の若手インダストリアルデザイナーを数名に絞るところまできた。

 次は企画書作りだ。

 沙希は陸から下書きをプリントアウトしたものをもらい、目を通していた。

 陸が書き込んだ鉛筆の、あまり丁寧ではないが丸くて柔らかい小さな文字に自然と笑みがこぼれてしまう。なるべく人目につかないように顔を下げた。

 この企画書が通らなければ、今、自分たちがやっていることが全て水の泡になる。更には多くの社員を路頭に迷わせることになるかもしれない。

 それゆえ完璧に近い状態に仕上げたいというのが陸と沙希の共通の思いだが、不謹慎にも沙希は束の間その重責を忘れ、陸の直筆の文字に見入っていた。

 だから、次の瞬間に起こった出来事を理解するまでにかなりの時間を要した。

 久しぶりに陸以外のネイティブの日本語を聞いた。



「こんにちは、川島さん。こっちにはすっかり馴染んだようですね」



 沙希は顔を上げて自分の横に立つ人物を見た。驚きのあまり、目はこれ以上ないほど大きく開かれる。

「亀貝課長……どうして?」

 立ち上がって後退りしたいのをかろうじてこらえた。

 心臓が激しく鳴り出す。緊急事態に沙希はパニックになりそうだった。

「アイツは?」

 対する潤也は余裕の笑みすら浮かべている。それを茫然と見ながらセリフを棒読みするように答えた。

「先ほど電話があり、コンサートホールの機器のトラブルで、至急代替のものを手配できるかどうかと問い合わせがあり、対応に外出しています」

「なぜアイツが?」

「問い合わせの電話を下さったのが日本人の方だったからです」

「なるほど。それじゃあちょうどいい。今、少し時間ある?」

 言葉は疑問系だったが、有無を言わせぬ威圧的な雰囲気だ。姿形は小柄でほっそりとしているのに、潤也の放つ気は他人を萎縮させるほどの凄まじさがあると思う。

 沙希は、種類は違うがやはり異様な気を纏った、同じくらいの背格好の人間を知っていた。

 二人きりで何を話すことがあるのだろう。

 そう思うが沙希には拒絶する理由がない。

 潤也は返事どころか身動き一つしない沙希をじっと見ていたが、フランス人の社員が傍を通りかかると声を掛けた。その口から出たのは滑らかなフランス語だった。

 会話する二人を見て、沙希は潤也が会議室の場所と使用状況を聞いたのだと気がついた。

「向こうの会議室で面談しよう」

 沙希を振り返ると潤也は上司の顔をして言った。

 考えてみれば、フランスに来たとは言え、沙希の所属部署は昨年度と変わっていない。つまり本来彼は沙希の直属の上司なのだ。

 仕方なく沙希は席から立ち上がる。それを見て潤也は満足したのか、すぐさま会議室のほうへと歩き出した。

 

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1st:2010/03/24
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