玄関のドアが大きな音を立てて閉まった。
「はぁ……」
陸はその場にしゃがみこんだ。
(まったく……なんなの? あの人)
二週間ぶりに会ったのに、沙希の自分を避けるような様子に陸はがっかりした。
(でもその原因って……元カノのこと?)
(だとしたら、もしかして……ヤキモチ?)
そう思うとひとりでに顔がニヤける。
(ホント、あの人は難しいわ)
岡本の言う難しさとは違うが、今まで好きな人のことでこんなに頭を使ったことがないと陸は改めて思う。
立ち上がってキッチンへ向かう。冷蔵庫を物色してチョコレートを発見した。それを口に放り込みながら、これからどうしようかと考える。
告白するつもりはなかった。
(だってはっきりコクったら絶対断られるもん)
断られたらそれ以上も以下も望めない。それは嫌だ。
それくらいなら今のままのほうがマシだし、もしかしたら徐々に沙希の気持ちが自分のほうへ向くかもしれないという淡い期待もできる。
(ま、もう俺の気持ちはわかってるだろうし)
わざと鼻先にちらつかせて、ちぎられる前に引き揚げる。
(そしたらだんだん欲しくなるかもしれないじゃん?)
ずるいとは思うが、沙希には自分を否定されたくない。だから返事をさせないのだ。
(あー、でもあんな顔されるとどうしていいのかわかんねぇ!)
帰り際、沙希が一瞬見せた表情が脳裏に焼きついて、思い出すと胸が苦しくなる。
それは何かをこらえるような、今にも泣き出しそうな表情の笑顔だった。
北国にも短い夏がやってきた。
陸は最近特に家庭教師の日が楽しみで仕方がない。暑くなるにつれて人は薄着になる。沙希も例外ではない。
「先生、服着てたときはわかんなかったけど、細いね。いや、細すぎ?」
足が細くて形がきれいなのは知っていたが、腕も首も細い。だが骨と皮というわけではなく、華奢だが不健康な感じではない。
「服は今でも着てます」
沙希は笑いながらそう言った。今日は機嫌が良さそうだ。陸はホッとする。
「それで、今日は先生に相談」
「ん?」
「小論文の課題」
陸は課題の書かれたプリントと作文用紙を鞄から引っ張り出した。沙希はすぐに手を伸ばしてプリントに目を通す。
ふんわりと沙希の香水の匂いが漂った。
(これ、なんだろな?)
女性用の香水はあまり詳しくないが、ずっと気になっていた香りだった。
「先生の香水、何?」
「シャネルの19番」
知らないな、と思った。今まであまり経験のない匂いだと思う。
「へぇ、いい匂い」
爽やかで上品な感じがして沙希に合っていると思った。
「ちなみに俺はアレ」
陸はベッドのヘッドボードを指差した。知ってるという顔で沙希はクスッと笑った。
「あれは人気あるよね。使ってる人、多い」
「いいじゃん。好きなの!」
また沙希がクスッと笑った。個性がないと言われているようで少し落ち込む。
そんな陸にかわまず沙希は小論文のプリントに目を戻した。いつものことながら切り替えが早い。それについていけないと平気で置いていくようなところが沙希にはある。陸もすぐに頭を切り替えた。
「で、どう? 先生、わかる?」
真面目な顔でプリントを読む沙希にそう問いかけると、沙希は口元に笑みを浮かべて陸に視線を移した。
それから机の上にあったシャープペンシルを握ってプリントに点を三つ打つ。
「小論文にしろレポートにしろ、論点を二つから三つ挙げて最後に自分の意見を書けばいいと思うけど、例えばこの課題なら……」
と、言いながらさらさらと三つの論点を箇条書きにする。
それを見た陸は驚いた。
「先生、この本読んだ?」
慌てて鞄から参考図書に挙げられている本を引っ張り出す。
「読んでないけど、読まなくても書いてあることはだいたいわかるよ」
(はぁ?)
驚愕したまま沙希を見つめた。課題を見ただけでは何をどう書いたらいいのか、陸には全くわからなかったのだ。
「だって……それ、全部この本に書いてあった」
沙希は陸の言葉に目を大きく見開いた。
「浅野くん、この本読んだの?」
頷くと沙希は感心したような表情をした。
「あ、先生、俺が本なんか読まないだろうと思ってたでしょ? 実は俺、結構本読むの好きなんだ。父さん……今のじゃなくて、ホントの? ……が読書家で、昔の家にはすげーいっぱい本があったからね」
「へぇ、意外。じゃあこんな小論文くらいスラスラ書けるでしょ」
「いや、それは無理。先生こそなんで何も読んでないのにわかるわけ?」
「そんなの新聞とかニュース見ていれば自然とわかるでしょ」
沙希は平然と言った。
(はぁ!?)
テレビニュースは目にするが、新聞はそれこそテレビ番組欄しか見たことがない。それがこの差なのかと陸は思う。
「なんかカッコいいね」
素直に思ったことを言った。新聞は大人が読むものだと思っていたし、難しいことを考えるのも大人の役割だと思っていた。それが自分の隣にいるそれほど大人にも見えない沙希が当たり前のようにやってのけるのを見て、陸はただもうレベルが違うと感じた。
「そんなにすごいことじゃないよ。浅野くんだってできるようになるよ」
沙希にそう言われると本当にできそうな気がしてくるから不思議だ。だが明日から新聞を読もうとは思わないから、やはり自分には無理そうだと陸はすぐに諦める。それに自分の将来の夢はミュージシャンだから難しいことを考えるよりはギターの腕を磨くほうが有意義なのだ。
本来ならもっとバイトをしてお金を貯めて買いたいものがある。家庭教師は母親が勝手に雇うと決めたのであって、陸としては迷惑な話だったのだ。
(今は感謝してるけど)
隣に座っている沙希を見て陸は少し目を細めた。家庭教師以外で沙希と出会う可能性など限りなくゼロに近いだろう。
それでもやはり沙希は遠い人だ。自分とは属している世界が違う気がする。つりあっているのはせいぜい容姿くらいだと陸は自惚れ気味に思う。
(こんなに近くにいるのにな)
手を伸ばせば届くところにいるはずなのに、二人の間にある距離は途方もなく遠い。
(どうしたらもっと近くへ行けるんだろう?)
できるなら沙希の一番近くに行きたい。何も、誰も二人の間に入り込むことができないほどぴったりと沙希に寄り添いたいのだ。
(そうしたらもう悲しい顔なんかさせないのに)
その晩、陸は風呂上りに母親に呼び止められた。珍しく真面目な顔をした母親に陸は面食らう。
「陸、バイトは辞めなさい」
突然命令口調で言われて陸は当然だが反発した。
「何、勝手なこと言ってんの?」
「だって全然勉強してないでしょ」
「してるだろ? 家庭教師だって……」
そう言いかけた陸の言葉を母親の冷たい視線がさえぎった。
「今日電話があって、川島先生があなたの家庭教師を辞めたいっておっしゃってるのよ」
「……え?」
聞き違いだと思いたかった。今日だって沙希はいつもと変わらなかったのに……。
陸のショックを受けた様子を見て、母親は小さくため息をついた。
「もし一学期の期末試験の結果が悪かったら辞めさせてください、と言われたわ。去年の岡本先生だって結局陸が全然勉強しないから交代したんでしょ? バイトもバンドもいい加減やめてちょうだい」
「ちょっと待って。勉強すればいいんでしょ」
慌てて陸は母親にそういい募ったが、母親は態度を変えなかった。
「とにかくバイトは辞めてもらいます。その分少しお小遣い増やすから」
そこまで言われるとさすがに首を縦に振るほかなかった。
部屋に戻った陸はベッドの上に倒れこんだ。
信じられない。沙希が自分の家庭教師を辞めたいと思っていたなんて、信じたくない。
このままでは近づくどころか、もう永遠に手の届かない人になってしまいそうだ。沙希が自分の家庭教師を辞めてしまえば何の接点もなくなってしまう。
机の上のプリントが目に入った。起き上がってそれを手に取る。
プリントの端のほうに小さく女性らしいきれいな文字が並んでいた。
(嘘だ……。嘘だって言ってよ!)
沙希の気持ちが少しは自分に向いてきたのではないかと思っていただけに、ショックは大きかった。自惚れた心に突然冷水を浴びせられたような気持ちだ。
(なんで? 俺のこと嫌いなの?)
心の中がざわついて不安ばかりが増大する。もし沙希が自分の家庭教師を辞めてしまったら、と考えると身体中の気力が失せた。またベッドに転がって、ぼんやりと壁に貼ってある好きなバンドのポスターを眺めた。
(俺は何のために音楽をやっているんだろう?)
今までそんなことを考えたことはなかった。ただ何かに突き動かされるようにのめりこんでいたのだ。目指す場所は眩い光が溢れるステージの上、そして多くの人々から拍手喝采を浴び……
(それで?)
陸は頭の後ろで手を組んで考えた。
もしそこへ到達したとして、そこには一体何があるのだろう?
突然わからなくなった。
(俺はどこへ行こうとしているんだろう?)
陸は目を閉じた。目蓋の裏には果てしなく広がる砂漠が見える。地平線は天と地を明確に分けることができなかったのか曖昧に滲む。荒涼としたその不毛の地に吹く砂混じりの風は暖かくも冷たくもない。
色もなく熱も感じないその地にただ一人佇む陸は、自分がどこから来たのか、どこへ向かっているのかもわからなくなってしまった。ただわかることは一つ。立ち尽くしているだけではいつか自分もこの砂の地獄に埋もれてしまう。
何でもいい。目印がほしい。どんなに遠くてもいい。歩き出すための理由がほしいのだ。
心が少し落ち着いてきたところで、陸はふとあることを思いついた。目を開けて天井を見るとだんだん笑いがこみ上げてくる。
(なんだ、簡単なことじゃん!)
ニヤニヤしながら布団にもぐりこんだ。どうやってこの思い付きを実現させようかと考える。そのうちあっという間に睡魔に誘われて眠りにおちていた。
次の家庭教師の日、陸は仏頂面を意識して沙希を迎えた。沙希は陸の機嫌を窺うような視線を送ってくる。内心くすぐったくて仕方がないが、とにかくこらえた。
二人が定位置につくと沈黙が訪れた。陸はちらりと沙希を一瞥してから、視線を机の正面に据えた。
「先生、俺から逃げる気?」
「え?」
沙希の問い返す声は弱々しく、陸は自分が優位な立場にいることを確かめて満足する。
「俺の成績が悪かったら辞めるって?」
「うん」
「それって結局俺から逃げるってことでしょ」
沙希は何か考えているのかすぐには返事をしなかった。ゆっくり沙希に視線を向けると、沙希は少し口を尖らせて首を傾げた。
「だって私はお金をもらってキミを教えているんだから、結果が出せなければお金はもらえないもの。辞めるしかないでしょ」
あれ? と陸は沙希の予想外の答えに内心慌てた。まさかお金がどうこう言われると思っていなかったのだ。だが気を取り直してあらかじめ考えていた方向へ軌道修正しようと試みる。
「じゃあ、俺がテストでいい点数取ればいいわけ?」
「うーん、結果という点ではそうだけど」
また、あれ? と陸は心の中でコケる。どうも沙希の考えていることは陸の想像とは違うようだった。
「何? どうすればいいの?」
「いや、キミがもう少し真面目に勉強して、やる気を出してくれれば……」
(なんだ、そんなこと?)
陸は安堵して大きく息をついた。不思議そうな目で自分を見る沙希を意地悪い目で見返す。
「辞めるとか突然言われたから何かと思ったじゃん」
沙希はようやく笑顔を見せた。
「でも今回のテストが悪かったら本当に辞めさせてもらうから」
その言葉は陸の胸にグサッと刺さった。一瞬息が止まる。
(笑顔で言うな!)
また大きく一つ呼吸をして、陸は体勢を立て直した。
「じゃあテスト頑張ればいいんでしょ? でもテストは来週だから、ぶっちゃけ全教科頑張るのは無理」
「ま、そうだろうね」
(なんだよ、わかっててこのタイミングかよ。ホントに辞めたいのか……)
ガッカリしながらも陸は続けた。
「だから今回は一教科で勘弁してよ」
今度は沙希が小さく嘆息をもらした。少し考えるように視線を宙に彷徨わせて、それから陸を見た。
「いいよ。何を頑張ってくれるのかな?」
「英語」
「OK。何点を目指すの?」
「70点」
「うーん、70点か……」
沙希は不満そうに言った。陸は心の中でチッと舌打ちして
「じゃあ80」
と言った。だが全く自信がない。心臓がドキドキし始めた。
「90って言ってほしかったな」
(90点!? そんなの無理に決まってる!)
陸は叫びそうになるのを何とか押しとどめて、腹を決めた。
「わかった。じゃあ90点取ったら、辞めるってもう二度と言わないと約束してよ」
「それは無理。さっきも言ったけど、私はお金もらってる立場だからそんな約束はできない」
沙希ははっきりと言い切った。彼女がこういう言い方をするときは梃子(てこ)でも動かないのだ。
「でも90点取ったら辞めないよね?」
「……そうだなぁ」
その頼りない返事にイライラして陸は頭を掻いた。沙希がクスッと笑う。
「頑張ってね」
優しい声で沙希がそう言った。それだけで天にも昇れそうなほどテンションが上がる。きっと辞めたいわけじゃないんだ、と沙希の笑顔を見て思った。
(見てろよ! 英語はまだ得意なほうだし、辞めるなんて言ったこと、後悔させてやるからな)
その晩から睡眠時間を削って英語のテスト範囲を今までにない熱心さで勉強し始めた。学校でも英語の授業だけは真面目に聞く。普段は寝ているか、友達とトランプをしていたというのに、陸のあまりの豹変振りに先生が「どうした?」と声をかけてきたくらいだ。
(これなら90点も夢じゃないかも?)
陸は確かな手ごたえを感じた。そしてついに期末試験の日がやってきた。