沙希はその日、靴屋に来ていた。
普段沙希が靴を買うのはこのような店ではない。入りたくないので入り口で躊躇する。
「何やってんだよ」
手を引っ張られて仕方なく店内に足を踏み入れた。どんどん奥のほうへ連れて行かれる。
「このあたりのがいいんじゃないか?」
指差されたものを見てすぐに顔を背けた。
「やっぱり……」
(私には無理!)
沙希はつかまれていた手を振りほどいて小走りで店の外へ出る。外に出てからは本気で駆け出して少しでも遠くへ行こうとした。
だがその日は暑く、長い時間走るのは無理だった。
スピードダウンして息を整えていると車が横付けされ窓が開いた。
「突然いなくなるってどういうこと? 乗れよ」
沙希は運転席の男を厳しい目で見つめた。
ドン!
肩が震えた。運転席の男がドアの内側を拳で殴った音だ。衝撃で車がわずかに揺れた。
「乗れって言ってんだろ!」
そう言いながら今度はステアリングに怒りをぶつける。
沙希は覚悟を決めて助手席のドアを開けた。
「82点か……」
その日の夜は陸の家庭教師の日だった。採点されて戻ってきた英語の解答用紙を手にして沙希はつぶやいた。陸は殊勝な顔つきで沙希をじっと見ていた。
「よく頑張ったよね。ほとんどがケアレスミスだから惜しい」
そう言いながら机の上の問題用紙に手をのばす。陸は珍しく黙ったままだ。沙希は調子が狂ってやりにくいが、仕方なく続ける。
「テストで点数を取るには技術が必要だからね」
「…………」
「今日はおとなしいね」
「…………」
「なんか、私一人でしゃべってる」
「…………」
「えっと、じゃあどうしようか? そういえば小論文は書いたの? もうすぐ提出じゃなかった?」
ようやく陸がうん、と頷いた。
「どう? 上手く書けた?」
黙ったまま陸が引き出しを開けて作文用紙を取り出し、沙希へ差し出した。
「読んでもいい?」
陸はこくんと首を縦に振った。
渡された作文用紙を広げて目を通す。あまり丁寧ではないが柔らかい字だ。沙希の母はよく字に人柄が表れると言うが、沙希も同感だった。
(へぇ……意外)
一読した沙希は感心した。予想以上に陸の小論文はよく書けていた。まとまっているし、ところどころに陸の深い洞察力がうかがえる文章だった。
「これは……なかなかいい小論文だね」
沙希がそう話しかけると、陸は少し顔の表情を緩めた。
「先生さ……」
そう言って陸は沙希の顔を真っ直ぐ見つめる。真正面から視線を受け止めると心の中を見透かされそうで怖かった。
「いや、いいわ。なんでもない」
沙希は少し首を傾げて笑顔を作った。
「どうか……した?」
陸も笑顔を作って首を横に振った。
「なんでもない。俺、もっと勉強頑張るわ」
(どうしたんだろう?)
陸はいつもと違う顔つきでただじっと沙希を見ていた。
「ね、私、何か変かな?」
「いや……」
いつもと変わらないように沙希は努力していた。黙っていると気分がずぶずぶと底なし沼の中に沈んでいくような感覚だ。意識を自分の内面に向けたくなかった。とにかく何か当たり障りのないことを考えてしゃべっていたかった。
「じゃあ次、何やろうか? いつもやってる問題集の続きをやろう」
また陸は黙って頷いた。沙希は硬い表情の陸に微笑みかける。だが陸は終始その表情を崩さず、ただじっと沙希を見つめていた。
家に帰ると沙希はすぐに二階の自室に駆け上がりベッドの上に身を投げ出した。
(……はぁ)
目を瞑る。気持ちの整理をしたかったが、あまりにもかき乱れていてどこから手をつけていいのかわからない。できるならどこかに放り投げてしまいたかった。
そのとき携帯電話が鳴った。
出たくなかった。おそらく相手は彼氏だろう。また昼間のことを蒸し返して問い詰められるのだ。だが出なければ出ないでもっと厄介なことになる。
仕方なく手をのばして鞄から携帯電話を取り出した。
「……はい」
「……先生。俺、浅野です」
「え?」
沙希は驚いて携帯を落としそうになった。どうせ彼氏だろうと思い、着信が誰からなのかも確かめず出てしまったのだ。
「どうしたの?」
「……俺からの電話には出ないって言ったのに」
思わずクスッと笑った。番号を教えたときに沙希は陸にそう言っておいたのだ。
『携帯に電話しても出ないからね』
『どうして?』
『私、携帯嫌いなの。普段あまり近くに置いてないし。だから電話くれてもたぶん出ないから』
『それ、携帯の意味なくね?』
『いいの!』
「そういえばそんなこと言ったね」
間違って出てしまったとは言えなかった。だが相手が陸でホッとしている自分に嫌でも気がつく。
「やっぱり今日、変だよ」
最初は小さかった陸の声が少し力強く耳に響く。
「そうかな?」
「いつも変だけど、今日は特に変」
「……ひどいなぁ」
変だと連発されて沙希は苦笑した。陸が自分にとても気を遣っているのがわかる。
「……何か、あった?」
遠慮がちな声だった。
「……ないよ」
「ウソだ。俺が気がつかないとでも思ってんの?」
普段と変わらないようにふるまったつもりだったが、演技だと完全にバレていたようだ。沙希はベッドから身を起こして机の前に座った。
「……あのね、靴を買えって言われたの」
「? ……靴?」
誰に、とは聞かないんだな、と沙希は思う。おそらく陸は言わずともわかっているのだろう。
「うん。ハイヒール」
「先生、そんなの履くの?」
「履かないよ。……何に使うんだろ?」
「…………」
わざとおどけて言ってみたが、陸は黙ったままだった。
(こんなこと言われても困るよね)
やはり言わなければよかったと思い、沙希は小さくため息をついた。
「でも買いたくないからお店を勝手に出てきたら、怒っちゃって……」
「何かされた?」
「いや……」
沙希に対して暴力を振るったわけではない。高校生のときに「今度やったら別れる」と沙希が宣言して以来、沙希に対しての暴力はなくなった。
だが、その代わりに壁や近くにあるものを殴ったり、壊したりするようになった。
「約束したから、私を殴ったりはしないんだけど……他のものを……」
「ああ……」
陸はすぐに理解したようだった。
「嫌なんだよね、私、そういうことされるの。公共物とかも平気で壊すし……」
「怖いな」
「怖いって言うより、嫌なの。私、ルールは守りたいほうだから」
「俺だってそうだよ?」
「でもあの人は怒ると見境なくなって何するかわからないから……」
(だから最後は絶対私が言うことを聞くと思ってる)
そんな危険な人間を放っておけないと思う自分もいる。もし今、自分が彼から離れたらどうなるのか想像するのも恐ろしい。家族やもしかしたら全然関係のない人が被害に遭うかもしれない。
(それくらいなら私が少し我慢すればいい)
結局、最後はそこに行き着く。沙希はその環から永遠に逃れられないような気がして暗く沈んだ気分になった。
電話の向こうで陸がため息をついた。
「先生、ラーメン食べに行こう」
「え?」
「俺、奢るからさ。今度……夏休みが終わったら」
夏休みは彼氏がこっちに帰省しているのを知っていて陸はそう言っているのだろうか。すぐには返事ができなかった。
「別にいいじゃん、一緒にラーメン食べるくらいは。先生は何が好き?」
「私は味噌しか食べないよ」
「俺も、俺も!」
また思わずクスッと笑ってしまう。陸はいくつか店の名前を挙げてどこがいいかと聞いてきた。
「どこでもいいよ」
沙希はそう答えていた。ラーメンを食べるだけのこと。そんなに罪悪感を感じるようなことではないはずだ。
「いいの? ホントに? 俺、めちゃくちゃ嬉しいんだけど!」
不思議と沙希も嬉しくなった。陸があまりにも真っ直ぐで、電話越しでもその気持ちが痛いくらい伝わってくる。
「約束だからね! 絶対すっぽかしたりしないでよ。先生にそんなことされたら俺、マジで生きていけないから」
「大げさだなぁ」
「あーもう、今から楽しみで眠れなくなりそう!」
もう陸の家庭教師は辞めようというあの決心は一体どこへ行ってしまったのだろう。今まで誰に誘われても断ることができたのに、どうして断れなかったんだろう。
(こんなことはたぶんよくないこと……だよね)
だが、彼氏の要求が沙希の本心とはかけ離れたところでエスカレートしていて、そろそろ限界に近いとも感じていた。
(でも私はあの人が好き。今だって……たぶん)
沙希は自分に言い聞かせる。ただあの人を遠くから見るだけでよかった幸せな日々を思い出す。
(見ているだけでよかったのに。見ているだけにしておけばよかったのに)
一瞬、昼間の出来事が脳裏によみがえる。
(どうしてこんなことになってしまったのだろう?)
「ねぇ、先生。寝るとき何着て寝るの?」
沙希はいきなり現実に引き戻された。まだ陸と電話の最中だった。
「は? パジャマですが何か?」
「へぇ。どんなのかなぁ?」
声からも陸がニヤニヤしている様子が思い浮かぶ。沙希はこめかみを押さえた。
「キミはどこのオヤジだ!?」
「想像するくらいいいじゃん」
「その想像力をもっと別な方向に使えばいいのにね」
「すぐそういう真面目なこと言う」
「私はいつも真面目なんです」
陸は笑いながら「たまにだろ?」とからかった。
「携帯嫌いなのにたくさん話してくれたね」
陸が突然真面目な声でそう言った。
「先生と話するの、すごく楽しいよ。……先生は俺と話するの、楽しい?」
あまりにもストレートな質問に沙希は一瞬答えをためらった。
「……うん」
「よかった。じゃあ、おやすみ」
「うん、おやすみ」
「いい夢見ろよ!」
「……ナニソレ?」
「……一度言ってみたかっただけ」
電話を切った後も沙希はおかしくて笑っていた。気がつけば一時間近く話していた。
(さっきまで会っていたのにな)
携帯を机の上に置いた。
その瞬間、携帯が再び鳴った。沙希はビクッと肩を震わせた。少しの間、鳴り続ける携帯をじっと見つめる。
(どうしよう……)
今度こそ間違いなく彼氏だ。
沙希はおそるおそる携帯を手に取る。ゆっくり深呼吸してボタンを押す。
「もしもし? あ、ごめんね。友達から電話が来て少し長くなっちゃって……」
その日初めて沙希は彼氏に嘘をついた。