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第一部 26

「このあとどうする? 帰りたい?」

 そう言って陸は意地悪な笑顔を見せた。

 沙希は返事に困った。帰りたくはないが、自分からそう言い出すのはためらわれたし、実際明日には東京へ戻ることを考えたら、ここで帰ったほうがいいのかもしれない。

「帰るなよ。寂しいから」

 最初からそう言ってくれればいいのに、と思いながら沙希は頷いた。陸が満足そうな顔をする。

「じゃあ、最後に一杯頼んでから移動するぞ」

 陸が頼んでくれたカクテルはキールロワイヤルだった。初めて飲んだ沙希は、その飲みやすさと口当たりのよさに、思わず顔をほころばせた。甘くて飲みやすい。この味は自分の好みだと思った。

「キールロワイヤルってホントは食前酒で飲むことが多いんだけど、今日はおっさんが余計なことをしてくれたから最後になっちまったな。でもいつかお前に飲ませたいなって思ってたんだ」

「どうして?」

「好きそうだな、と思ったから。好きでしょ? こういう甘いカクテル」

 素直に嬉しくて「うん」と頷いた。アルコールの勢いもあってか、続けてすぐに思ったことが口から出てしまった。

「でも、それって……いつ?」

「ん?」

「会社で再会する前のこと? だったら、その間も私のことを思い出すことがあったのかなって……思ったの」

 陸は小さくため息をついた。すうっと笑顔が消えて表情が読めなくなる。沙希は機嫌を損ねたかと心配になった。

「お前さ、ホント、わかってないよな」

 首を少し傾げ、陸の次の言葉を待つ。

「俺がどれだけお前のこと好きだったか……。それを『忘れて』の一言で『はい、わかりました』って忘れられると思う?」

「……でもすぐに彼女できたでしょ?」

 沙希はわざと拗ねたような口調で言った。

「それは……」

 一瞬言葉に詰まった陸は、乱暴にグラスをつかみ、残りを一気に飲み干した。

「いいの、別に。浅野くんってそういう人だって知ってるから」

 あまり困らせるのもかわいそうだと思うが、こんな機会はめったにない。沙希はここぞとばかりにからかった。

「よくねぇよ。そういう人ってどういう人だよ?」

「彼女いないとき、ないでしょ」

「今、いねぇし」

 陸は吐き捨てるように言った。これ以上責めると本当に怒らせてしまうなと思い、沙希は追及するのをやめて、グラスに手を伸ばす。

 向かい側で陸が大きなため息を漏らした。

「ダメだ。どうせ沙希と言い合いしたところで勝てるわけないからな。あとで嫌というほど教えてやるよ、お前の身体に」

「は?」

 ニタッと笑う陸の顔を見て、負けたのは自分のほうだと沙希は悟った。

 心の底からじわじわと、これは夢ではないのだという実感が湧いてくる。陸が自分のことをずっと特別に思っていてくれたことが、なにより嬉しかった。

 これまでふたりの間にあった見えない壁のようなものが、完全ではないにしろ崩壊して、陸との距離がぐっと近くなったように感じた。


     


 キールロワイヤルを飲み終えると、陸と沙希は個室を後にした。会計では最初に案内してくれた店のマネージャーらしい男性が「こちらへどうぞ」とふたりを先導し、すでに待機していたエレベーターに乗り込むように促した。

 まだわけがわからない沙希はこっそり陸の顔を盗み見たが、沙希の不安げな様子を気にとめることなく平然としていた。仕方なく沙希も陸の後ろについてエレベーターに乗った。

 ロビーまでおりるのかと思いきや、エレベーターは26階で止まり、扉が開いた。陸は先に降りて振り返る。その顔は穏やかな笑みを浮かべていたので、沙希は少し安心した。

(あの夢とは違う……)

 会社で倒れた後に見た悲しい夢を思い出した。

(あれは夢で、これが現実……なんだよね?)

 だが、もしこれが夢でも、悲しい夢を見るよりはいい。

 エレベーターを降りた沙希は、ふわふわと雲の上を歩いているような感覚の中、こみ上げてくる幸せな気持ちと、ドキドキと暴れる心臓の高鳴りを抑え込むのに苦労した。

「こちらでございます」

 と、通された部屋に足を踏み入れた沙希は、思わず「わぁ」と声を上げた。

 先ほど食事をした店より9階下だが、部屋のコーナーがガラス張りになっていて三方向の景色が眺められる。沙希はすぐに窓際へ駆け寄った。この部屋からの夜景は、地上との距離がいくぶん縮まったため、街並みが下から迫ってくるようで、怖いくらいリアルに見える。

「ごゆっくりおくつろぎください」

 案内してくれた男性が静かにドアを閉めると、陸はスーツの上着を脱いでネクタイを緩めた。

 窓際に張りついていた沙希はかたわらの椅子に腰かけた。あらためて部屋を見渡し、その設備の豪華さに驚かされる。

「あの……ここって……?」

 沙希はようやく疑問を口にした。先刻「移動しよう」と陸から言われたときは、ラブホに行くものとばかり思っていたのだ。

「ああ、心配しなくても大丈夫」

 含みのある笑みを浮かべた陸は、クローゼットを開いてハンガーを手に取った。沙希は首を少し傾げたまま、陸の姿を目で追い、さらに驚いた。バスルームはガラス張りで、部屋から丸見えだった。

「すごいね!」

 沙希もパウダールームやバスルームをうろうろと見学する。中でもひときわ存在感があるのは、夜景に向かい合うダブルベッドだった。おそらくキングサイズだろう。

「こんな部屋、初めて」

「俺だって初めてだよ」

 そう言う陸の声が自分の耳元でしたので、沙希はびっくりして身をすくめた。すぐに後ろから抱きしめられる。

「やっぱり俺って情けないな。ま、でも沙希が楽しそうだからいいか」

「ねぇ、どういうことなの? その……お金とか大丈夫なの?」

 急に心配になってもう一度問いただした。この部屋ならば室料も相当なものだろうと沙希にも想像がつく。

「それは大丈夫。癪だけどおっさんのおごりだって。……ったく余計なことばっかりしやがって」

「『おっさん』って……」

「帰ったらわかるから。……もうアイツの話はヤメ」

 まだ腑に落ちないことばかりだったが、陸の頬が自分の頬に重ねられて、沙希の全神経は陸と触れ合っている部分に集中した。もう他のことを考える余裕はない。

「ひとつ聞きたいことがあるんだけど」

 陸の声音が少し硬くなったように感じて、沙希はびくっとした。

「お前、俺といると……つらい?」

「え?」

 思いがけない陸の問いに沙希は戸惑った。

「昔の嫌なこと思い出す……とか」

「そんなことないよ」

「倒れたのは俺のせいなのかと思った」

 沙希は会社で倒れた夜、見舞いに来た陸が突然不機嫌になったのを思い出した。

「あれは浅野くんのせいじゃないよ」

「でも俺といると、忘れたくても忘れられないんじゃね?」

 陸が自分を心配する気持ちが伝わってきて嬉しかった。沙希は陸の手に自分の手をそっと重ねる。そしてゆっくりと撫でた。

「一緒にいないほうがつらいよ」

 こういうセリフは言い慣れないせいか、恥ずかしさで顔がほてった。頬が触れているので陸にもバレているだろう。

 身を縮めようとする沙希を、陸は逃がすまいとしっかりと抱きしめて頬をわざと擦り合わせる。



「じゃあ……俺のところに来る?」



 もうためらうことは何もない。沙希がゆっくりと頷くと、陸はすばやく頬にキスをした。

「やっと……だな」

 陸の身体の重みが増した。沙希は顔をゆがめる。

「……重いよ」

「いいじゃん、お前の心は少し軽くなっただろ?」

 沙希はその言葉にハッとした。

「もう自分を責めるなよ。そりゃ、最初は俺もお前に裏切られたって思ったけど、悪いのはお前じゃないんだし」

「……私が悪いんだよ。それが私の選んだ道だから」

「ホントにお前はバカだな……」

 陸はようやく沙希を解放して、沙希の頭をポンポンと軽く叩いた。同時に沙希の目から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。

 ただ誰かにそう言ってほしくて、今までひとりでがんばってきたのかもしれない。だが、いつだってほしい言葉をくれるのは、陸しかいないのだと沙希は思う。

「どうせ、私はバカですよ」

 そう言って鼻をすすりながら笑顔を作ったが、涙はますます溢れてきた。

「でもお前は……」

 陸は一瞬視線をはずした。夜景が陸の目に映る。



「俺の尊敬する人だからね」



 沙希は自分の鼓動が耳の中で響くように激しくなるのを感じた。

「……え?」

 聞き返したのは聞き逃したからではなくて、もう一度その言葉を聞きたかったからだ。

「二度と言わない」

 珍しく照れたように陸が顔をそむけた。涙が知らないうちに止まっていた。沙希は頬に残る涙を拭った。

「なぁ、もういい?」

 沙希に向き直った陸はそれまでとはまったく別の笑みを浮かべて、両手で沙希の頬を包んだ。目じりが下がっている。

「もういいって……なにが?」

 答えの代わりに目を閉じた陸の顔が近づき、唇が触れた。沙希も目を閉じる。すぐに陸の舌が侵入してきた。

 頬に添えられていた陸の手はゆっくりと首筋を撫でて、沙希の身体を滑り降りてきた。

「これ、触り心地いいな」

 陸の手は沙希の背中から腰にかけてドレスの上を往復する。身体のラインがはっきりとわかるデザインのワンピースだから、直接肌を触られている感覚に近い。

 沙希は自分の身体の奥からぞくぞくと這い上がってくる快感に身を委ねた。それは理性のベールを剥し、沙希の本能を目覚めさせる。

「ねぇ、沙希も俺と会わないあいだに、俺のこと思い出したりした?」

 陸は器用に脇のジッパーを下げて、下着のホックを外した。長い指がじかに素肌に触れると沙希はびくっと震える。ぎこちなく頷くと、陸はニヤリと笑い、胸の突起に軽くふれた。

「じゃあ、俺と『したいなぁ』って思うことは?」

「な……、なんてこと……聞くのよ」

 沙希が荒くなる呼吸を隠すようにそう答えると、陸は空いている片手を太腿の内側へ滑らせた。

「正直に言えよ」

「……ヤダ」

 太腿を這っていた手が沙希の快楽の中心を探り始めた。沙希はたまらず喘ぐ。

「へぇ、そういうこと言う?」

 陸はドレスの裾をまくり、ストッキングを少しだけ引き下げ、布地の内側へ直接指を滑り込ませた。その性急な手つきは、沙希の次なる刺激への期待を否応なしに高める。開きかけている蕾を押し開くように、陸の指が襞を丁寧にめくり、その中心に触れた。

「やぁっ、ん……あぁ……」

 すぐに沙希の意識は現実から切り離され、ただその刺激を感受するためだけに研ぎ澄まされていく。

「待って。……これ、脱いだ方がいい?」

 沙希が見上げると、陸の真剣な顔つきがふと和らいだ。

「できれば。ちょっとやりにくい」

 沙希がドレスを脱ぐあいだ、陸は手早くシャツとズボンを脱ぎ捨て、広いベッドの端に腰かけていた。

 下着だけになった沙希は陸を振り返った。無言でどうしたらいいかを問う。

「ここに来いよ」

 おずおずとベッドへ近寄ると、陸は沙希の腕をつかみ、広げた足のあいだに座らせた。正面には大きなガラス窓。そしてその窓いっぱいに広がるのは、沙希と陸が恋をした街の夜景……

「初めて沙希とデートしたのは、今くらいの季節だよな」

「よく覚えてるね」

 陸は後ろから沙希の髪をもてあそんでいる。くすぐったくて沙希は身震いした。

「そりゃね。イケナイことをしているみたいでドキドキしたし。あの時、手を繋がなかったら……俺、諦めようと思ってたんだ」

「え?」

「だって彼氏のいる女に本気になっても仕方ないじゃん。だから言うだけ言ってみて、ダメなら諦めようと……。まぁ、デートも断られると思っていたんだけど」

「浅野くんにしては弱気な発言だね」

「年上なんて初めてだったし、沙希はそんな簡単に浮気とかしそうにないタイプだから自信なかった」

 沙希は思わずうつむいてしまった。沙希自身、自分は簡単に浮気などしないと思っていたのだ。それなのに陸からの誘いを簡単に受け入れ、最初のデートで請われるままに手を繋いだ。どうしてなのかは、いまだにわからない。

「だから手を繋いだときはもう舞い上がっちゃってさ。もうどうなっても知らねぇ、絶対沙希を落としてやるって思ったね」

 陸は沙希の後ろ髪を持ち上げてうなじに口づけた。くすぐったいようなぞくぞくするような感覚に沙希は肩をすくめる。そのころのことを思い出そうとしたが、思考が散漫になりうまくいかなかった。

「沙希はいつから俺のこと好きだった?」

 耳のそばで囁くように陸がそう尋ねた。それと同時に、陸の指が先ほどの続きを再開するために、沙希の身体をゆっくりと這う。

「……やっ、……はぁ……ん」

「最初のデートのときにはもう俺に惚れてたんじゃね?」

「あぁ……ん!」

 答えることなどできないほどに陸の指は沙希を激しく攻めたてた。これがさっき陸をからかった報復なのだろう。沙希の全神経は陸の指の動きを貪欲に求めるだけで、別のことを考えようとすればするほど意識は拡散し、思考がまとまらなかった。

「俺はお前に最初に会ったときから気になって、話をしてるうちにいいなって思って……気がついたらもう好きになってた」

 初めて聞く陸の自分に対する想いに、沙希は胸が熱くなった。大きな波に揺られながら沙希は徐々に高みへと昇りつめていく。

「私も……、はぁ……っ、……たぶん最初から」

「マジで?」

 陸は胸を愛撫していた左手を下腹部へ移動させた。その指で襞を大きく開き、蜜を絡めた右手は芯にやさしく触れる。

「あぁん!」

 沙希の反応を確かめると陸の右手はゆっくりと花芯を擦り始めた。そのスピードがどんどん速くなり、沙希の意識もどこまで続いているのかわからない階段を同じスピードで駆け上がっていった。



 ゆっくりと深呼吸を繰り返す。額には汗がにじみ、前髪が張り付いていた。その髪を隣に座っている陸が取り払ってくれた。

「大丈夫? もういい?」

 横たわったままの沙希を見おろす陸の表情は切羽詰ってとても綺麗だと思った。夜景の明かりでほんのりと明るい室内は彼の細くて長い手足をさらに美しく見せた。

 十分に潤っているとはいえ、陸が侵入し始めると沙希は少し顔を歪めた。間髪入れずに上から「痛い?」という声が降ってくる。「ちょっと痛い」と正直に答えると陸は動きを止めた。

「お前のナカ、温かくて気持ちいいな」

 自分の上に覆い被さった陸の顔をじっと見つめた。陸は沙希の目を見つめたまま、ゆっくりと動き始める。だんだんと切なげな表情に変わるのが、沙希には愛しく感じられた。

「あんまり見るなって」

 陸は恥ずかしそうに顔をそむけた。沙希が陸の後ろ髪を撫でると怒ったような顔でキスしてきた。



「愛してる」



 陳腐な言葉だと思う。けれども彼がその言葉を言うと、それは沙希にとってかけがえのない宝物になる。

「今度の魔法は解けない魔法にしてね」

「なんだよ、それ」

 沙希は息を弾ませる陸の下で目を閉じた。頭の中に昔ふたりでよく聞いた曲が流れてくる。いつもは陸の起こす律動に必死でしがみついているだけの時間だが、今はもっと自分の中の陸の存在を感じていたいと思った。

「……っ、もう……!」

 陸がうめくのと同時に律動が止んだ。繋がっていられる時間は案外短い。陸を知る前には苦痛でしかなく、あんなに長く感じた時間が……。


     


「さっき『二度ふられるのは怖いか?』って言われてキレそうになったけど、実際図星だったかもな」

 久しぶりの腕枕にドキドキしながら沙希は、陸のシニカルな笑みを間近で見つめた。高校生の陸にはなかった表情だ。その大人っぽい表情に最初は戸惑い、陸との距離を感じずにはいられなかったが、今の沙希にはそれが魅惑的にさえ感じられるから不思議だ。

「ふられるって……私に?」

「まぁね。一度ふられているのに、しつこいのも嫌でしょ」

 陸の言いたいことはよくわかる。沙希も陸を選ばなかったくせに今も好きだなんて言えるわけがないと思っていたのだ。

「しつこいのは私も同じかも」

「いや」

 沙希の言葉は即座に否定された。

「沙希はズルイよな。いつも自分からはなにもしないだろ。……しかも全然素直じゃねぇし」

(よくわかってるじゃない)

 思わず苦笑してしまう。

 そんな自分でも受け止めてくれる陸の存在に、どれだけ助けられてきたのだろうか。こうしてそばにいるときはもちろん、離れているときでさえも、ただ陸がこの世に存在しているというだけで沙希は、自分のなにかが救われるように思うのだった。

「私……ここにいていいんだよね?」

 上目遣いで陸の顔色をうかがう。陸は沙希をじっと見つめていたが、不意に腕の力を抜いて仰向けになった。

「……ずっと迷っていたけど、決めた」

 天井を見つめていた陸が、小さいけれども力強い声で言った。

「明日、沙希の家に一緒に行くわ」

 

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