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第一部 27

 すがすがしい秋晴れの日に、沙希は実家のリビングで胸が痛くなるような緊張感に身を硬くしていた。隣には陸が、向かい側には両親が座っている。こんな状況で両親と向き合うことがあるとは思いもしなかった。外の晴天とは裏腹に、リビングに充満する重い空気が肩にのしかかってくるような気さえする。

 昨晩、突然陸が「明日、沙希の家に一緒に行くわ」と言い出したので、沙希は驚いてとりあえず引きとめようとした。

「えっと……たぶんお父さんもいるよ?」

「うん、そのほうが都合がいいし」

「えっと……ウチに行ってどうするの?」

「どうって、挨拶したいんだけど」

「挨拶……。なんの?」

「なにって、……なにか都合悪いことあんの? すげー嫌そうだけど」

「いや、あの……」

「俺を紹介するの、恥ずかしい?」

 沙希はとんでもないというように首を激しく横に振った。陸がまだ高校生ならば両親に紹介することは難しいと思うが、今は社会人になり、しかも同じ会社の社員なのだ。世間的にはなんの問題もないと思う。それでも沙希にはためらいがあった。

「えっと……紹介って……なんて紹介すればいいの?」

 陸は呆れたように大きく息を吐いた。

「俺って、お前のなに?」

「と……友達?」

「あ、そう」

 それまで腕枕をしていた腕を引っ込めて陸は完全に後ろを向いてしまった。

「嘘です、ごめんなさい。許して……」

 沙希は陸の背中を突っつきながら慌ててあやまった。

(でも先に友達って言ったのは浅野くんじゃない?)

 心の中でひそかに反論してみる。あのときから沙希はその線を越えてはいけないのだと自分に言い聞かせてきたのだ。いきなりそれを踏み越えてなれなれしくできるほど、沙希には自信がない。

(友達じゃなく……ということは?)

 両親に彼氏だと紹介していいのだろうか。今日、互いの気持ちを確かめることはできたが、それでこの先どうするのかという話はなにもしていない。

「えっと、じゃあ浅野くんは他の人に私のことをなんて紹介するの?」

 ゆっくり身体の向きを沙希の方へ戻すと、肘をついて少し考えるような目つきをした。



「……大切な人?」



 沙希は自分の身体がまるで瞬間湯沸器のように突然熱くなるのを感じた。「彼女」と言われるよりたぶん嬉しいと思う。

「一緒にこっちに来れる機会ってそんなにないからさ。別にもうコソコソする必要ないだろ?」

「で、でも……」

 自分の心の準備ができてない、と沙希は思った。ましてや両親はなんて言うだろう。

「東京に戻ったら、俺んちに住まない?」

「え?」

 ここで陸に会ってからいろいろなことがありすぎて、冷静に思考できる容量をすでに超えてしまっていた。考えることを放棄した沙希は、ぼんやりと陸を見つめた。

「……沙希、聞いてる?」

「あ、うん。えっと、それで挨拶に?」

「そのほうがお前にはいいかなって思って。親に秘密とか、俺は平気だけど沙希は気に病むほうでしょ」

 確かに陸の言うとおりだった。最初はそれでよくても、しばらくすると秘密にしていることが心の重荷になってしまうのだ。言わなければバレないと簡単に割り切れることができれば沙希の人生はもう少し違っていたのだろう。だが、それができない不器用な自分を決して嫌いではなかった。





(そういえば昨日「ずっと迷ってた」って言ってたけど……一緒に住むのを前から考えてたってこと?)

 淡々と自己紹介をする陸の言葉を聞きながら、沙希は昨晩のことを思い返していた。気持ちを確かめ合ったとはいえ、やはりいまだに陸の考えていることがよくわからない。彼が高校生のときにはこんな気持ちになったことはなかったな、と隣をちらっと横目で見て沙希は思った。

「それで、……これはまだ沙希さんにも言ってなかったのですが」

 陸は急に沙希のほうを見た。思いがけず視線が合って沙希はドキッとした。なにを言い出すのだろう。沙希の両親も固唾を呑んで次の言葉を待っているようだった。

 陸は正面の沙希の父を見据えて一息に言った。

「僕は来年4月から海外の勤務になるので、できれば沙希さんに一緒に来てもらいたいと思ってます」

「は? 海外って……まだ入社したばかりでそんなことあるの? それに私だって仕事があるし……」

 沙希は意外に冷静な顔の陸を見て、昂ぶりかけた感情にブレーキをかけた。その様子を見て沙希の父は苦笑する。

「赴任先はもうわかっているのかな? それに沙希の待遇はどうなるのだろう?」

 人当たりの良い沙希の父はやんわりとした口調で陸に尋ねた。

「おそらくヨーロッパになると思いますが、まだ確定ではありません。期間はおそらく長くても3年くらいだと思います。それで沙希さんには……」

 沙希は陸の視線を感じたが、目の前の母親を黙って見つめていた。沙希の母は心配そうな目で陸と沙希を見比べ、それから沙希に微笑みかける。痩せてしまったせいか、以前よりも顔の皺が深く刻みこまれたようで、沙希は少し悲しくなった。

「仕事を続けてもらいたいと思ってます。もちろん本人の希望を優先しますが」

「ということは、沙希は会社を辞めなくてもいいのかしら?」

 沙希の母がこの場を代表するように聞いた。陸は大きく頷いた。

「とてもよいお話だと思うけど、沙希は……どうする?」

「あの……」

 沙希の頭の中には世界地図が広げられていた。半年後に、3年間。目の前の母親の顔をもう一度見た。母は屈託のない笑みを見せてはいる。

(でも……)

 沙希は目の前に置かれた湯飲み茶碗に視線を落とした。母が淹れてくれたお茶はもう冷めてしまったようだ。

「少し考える時間がほしい。突然すぎて、すぐには答えられない……」

 陸の気分を害しただろうと思い、沙希は顔を上げることができなかった。気を遣ったのか、父が「そろそろ準備をしたら?」と沙希を促した。時計を見ると飛行機の時間が刻々と近づいている。沙希は慌てて立ち上がった。


     


 結局、沙希は両親ともあまり口を利かないまま、陸とともに実家を後にした。駅まで父が車で送ってくれた。母も見送りたいからと同乗していた。

 駅に到着すると、父は車に残り、母が改札口まで見送ってくれることになった。

 沙希の荷物のひとつを母が持つ。

「よく来てくれたわね。とても大人っぽくなって……」

 母の言葉に驚いた沙希は、弾かれたように顔を上げた。歩きながら母は陸に話しかけていた。すぐに隣の陸を見る。

「会うつもりはなかったんですが」

 陸が申し訳なさそうに目を伏せた。母は「あの後……」と言いかけて、沙希に微笑みかけた。

「ずっと後悔していたの。私が口を出すべきことではなかった……と」

「どういうこと? お母さん、浅野くんに会ったことあるの?」

「前に一度、来てくれたのよ、ね? ……大学に合格したとき、だったかしら?」

 すでに3人は改札口前に到着していた。陸が短く「はい」とだけ答える。

「さあ、時間よ。沙希、私たちのことは心配しなくても大丈夫だからね」

 母は沙希の心の中を見透かしていたのだろう。笑顔で沙希の背中を押すように言った。沙希はまたしばらく母に会えないと思うと目頭が熱くなった。

 そして母は持っていた沙希の荷物を陸に手渡した。

「この子は頑固なところがあって自分の意見を曲げないところがあるけれど、そういうときは必ず理由があるんです。……よく話を聞いてやってください」

「はい、……よくわかってますから」

 陸はそう言って恨めしそうな目で沙希を見た。沙希はバツが悪くてそっぽを向いたが、不思議と鬱屈した気分はどこかへいってしまったようだ。最後の最後でようやく明るい気持ちで母の顔を見ることができた。改札の前で手を振る母を、見えなくなるまで何度も振り返りながらホームへ降りた。


     


「悪かったな」

 飛行場行きの電車が動き出した。陸は沙希の顔色を窺うような視線を向けた。

「なにが?」

 沙希はわざと口を尖らせて言った。自分の実家にいたというのに、ずっと自分だけが蚊帳の外のような気分だった。

「沙希の母さん、痩せたんじゃね?」

 質問に答えていないと心の中で文句を言いながら、母が倒れたことを父から聞いたとおりに告げた。陸はそれを黙って聞いていたが、沙希の言葉が終わると苦い表情を浮かべた。

「……予感って当たるもんだよな」

 ひとりごとを呟くような陸の言葉に沙希は眉をしかめる。

「予感ってなに?」

「お前、会社辞めて実家に戻ろうかって考えただろ。……違う?」

(当たってる)

 沙希は否定しないことで、暗にそれを認めた。

「まぁ、辞めたいなら辞めてもいいけど」

 陸はあっさりと言った。その口ぶりに沙希は少し腹が立った。

「辞めるとは言ってない」

「じゃあ一緒に行くか?」



(どうしよう……)



 返事を待つ陸の顔は真剣だった。いつかもこんな顔をしていたな、と沙希は思った。

(そうだ、昔「俺のところに来る?」って言ってくれたとき……)

 あのときも陸は真剣だったのだ。沙希もそれは痛いほどわかっていた。だがその想いに応えることはできなかった。できるはずもない。陸はまだ高校生だったし、自分にはまだなにもかも捨てるだけの勇気がなかったから……

(でも、もういいんだよね?)

 沙希はゆっくり頷いた。おそらく陸の問いから1分以上経っていただろう。陸は小さくため息を漏らした。

「昨日の『ずっと迷ってた』って、このことだったのね」

 フンと鼻で笑うと陸は腕を組んで、座席に深々と身を沈める。

「ここから出れば少しは昔のことを忘れて、お前の気が晴れるのかと思ってたけど、東京でも毎日つまんなそうな顔してるからさ。……それなら日本から出たらどうかって思っただけ」

 すぐには言葉が出てこなかった。他人が自分のことをそこまで考えてくれるとは思ってもみなかったのだ。

(それに4年前にウチに来てくれたのは……もしかしてこの傷に気がついて?)

 陸の目を盗み、まぶたを指でなぞる。

 沙希は窓の外を見た。不意に涙が出た。たぶん嬉しいのだと思う。のどかな景色がぼやけて震えた。

「……ありがと」

 ありがとうは漢字で「有り難う」と書くが、本当にこんなことはめったにない有り難いことだと沙希は思う。陸と出会った運命を恨めしく思った日もあったが、今は心からこの出会いに感謝したいと思った。

「でも、飛行機も同じ便なんて奇遇だね」

 沙希は涙がひっこむようにと話題を変えた。陸は目を閉じて首を横に振った。

「……偶然じゃねぇから」

 意味がわからず沙希は首を傾げた。それを横目で見た陸はため息混じりに言った。

「だから、帰ればわかるって」

 そう苦々しく言った陸はまた目を閉じた。しばらくすると規則正しい寝息が聞こえてきた。その無防備な寝顔を見るとつい笑みがこぼれる。

 本当は4年前に陸が実家を訪れたときの話をもっと聞きたかった。だが、陸はあまり詳しく話してくれないだろうと思う。母が陸に言ったことは何となく沙希にも想像がついた。

(お母さん……心配させてばかりでごめんなさい。でも私……)

 あまり広くない座席のおかげで陸と足が触れ合っている。服の上からでも体温が伝わってきて彼のぬくもりを感じた。



 何度も忘れようと思い、忘れたつもりでいたのに。

 何度も諦めようと思い、諦めたつもりでいたのに。



(……やっぱり彼を好きだったよ)



 こんなに近くに陸がいる。

 それを当然と感じていた、あの遠く懐かしい日々。キラキラと輝くダイヤモンドのように美しく、いつ覚めるともしれぬ夢のように儚く短い恋。その愛しい日々はどんなに望んでも、もう二度と戻ってはこない。

 けれどもふたりの間に確かにあったはずの「なにか」が、移りゆく時に流されることなく今もふたりを繋いでくれているのだと沙希は思う。

 陸を好きになってよかったと純粋に思った。たぶん陸とだからこそふたりの間に消えることのない「なにか」が生まれたのだと思う。こんなにかけがえのないものを自ら手放してしまった過去を思うと、胸の中にほろ苦い想いが広がった。どんなことがあっても今度はもう手放さないようにしよう、と思いながら沙希も目を閉じた。


     


 翌日、1週間ぶりに出社した沙希は、部署で挨拶を済ませると足早にフロアを後にした。

 もう二度と来ることもないだろうと思っていた社長室のドアをノックする。

 ドアが開く。いつもは社長室付きの長谷川の顔が見えるのに、今日は違った。

「来たな。おはよう」

 陸の声はいつもより低かった。眠そうな顔をしている。

 部屋の奥から社長が顔を覗かせた。沙希はたちまち緊張で声が震える。

「あ、あの、社長。先日は申し訳……」

「気にしなくていいんだ。……最初にそう言っておいたからね」

 いつもと変わらぬ柔和な表情で社長はふたりを部屋の奥へと手招きした。沙希は陸の後をおそるおそるついていく。社長室の奥へと入るのは初めてだった。

 社長室は案外質素な造りで、社長のデスクと応接セット、他には書棚が壁際に置かれているだけだ。応接用のテーブルには新聞が広げられていたが、社長がそれを丁寧にたたんでデスクの上へと放った。

「さてと、まずはなにから報告してもらおうかな」

 社長はソファに身を乗り出すような姿勢で座った。

「その前に、どういうつもりでこんな手の込んだことを仕組んだのか、説明してもらいたいね」

 大きく足を開き、ソファに埋もれるように腰かけた陸は、態度と同様、横柄な口調で社長に言い返す。隣で聞いている沙希はハラハラした。

「それは電話で言っただろう」

「アンタにお膳立てしてもらう義理はない」

「ちょっと……社長に失礼だよ」

 沙希はたまらず陸を肘で突っついた。横目で沙希を見た陸は、唇に薄く笑みを浮かべて言った。

「いいんだよ」

 なにが? と無言で問い返す。助けを求めるように社長を見ると、先ほどと変わらぬ穏やかな表情だった。

「沙希もいい加減気がつけよ」

(……え?)



「コイツ、俺の血の繋がったオヤジ。……信じたくねぇけど」



(ああ……)

 沙希は目を大きく見開いたまま、陸と社長を交互に見比べた。社長を見て懐かしい気がしたのは、眼鏡の奥から自分を見つめる目が陸に似ていたからだと今になって知る。

「隠すつもりはなかったんだけど、まだ社内には知られたくなくてさ。いずれバレるだろうけど……ま、『敵を欺くには先ず味方から』って言うからな」

 陸は驚きを隠せない沙希を面白そうに見ながらそう言った。なにか言おうにも言葉が出てこない。沙希はただまばたきを繰り返すだけだった。

「けど、ホントに悪趣味なのはコイツのほうだから」

 突然厳しい表情で陸は社長を睨んだ。相変わらず社長は笑みを浮かべているが、少し目を細めて陸の視線を受け止めた。

「アンタ、沙希のこと、調べさせただろ?」

(私の……こと?)

 社長室にピンとした空気が張り詰める。社長は同じ姿勢のまま陸をまっすぐ見ていた。陸も微動だにしない。

 沙希は息を潜めてふたりを交互に見た。親子だと思えば、ふたりは確かに似ている。

 やがて社長が口を開いた。

 

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