沙希と陸はしばらく互いに見つめあっていたが、沙希が急に目を伏せた。それ以後、自分の前に並ぶグラスをじっと見ているだけで、陸と目を合わせる気はないらしい。
拒絶されたとわかり、陸はひどく落胆した。だがそれも仕方のないことだと思う。陸の投げつけた言葉が、沙希を侮辱したのだ。あれから数日経ったとはいえ、沙希の傷はまだ新しい。それに不器用な沙希が、なにもなかったようにふるまえるはずがない。
この状況をどうすべきか考えていると、陸の携帯が鳴った。
『無事に着いたようだな』
電話の向こう側からのんびりした声が聞こえてきた。沙希が顔を上げてチラッと陸を見る。
「……アンタ謀ったな。いったいどういうつもりだよ? なんなんだ、これ」
『この前の借りを返そうと思っただけだ』
相手がなにを言っているのか理解できず、陸は一瞬考え込む。もしかすると倉田由紀の父の前で強引に約束させられたライブの件かと思い当たるが、ライブは結局ドタキャンしたのだ。
「あれは結局行かなかったぞ?」
『そうだったかな』
「もはや耄碌(もうろく)してきたか」
『言っただろう? 親は子どもに甘いものだと……』
陸は顔をしかめた。相手の言葉の意味が理解できない。そもそもなんのためにこんなことを仕組んだのか、意図がまったくわからない。
「わけわかんねぇこと言うな。そうじゃなくて、俺と沙希をこんなところに呼び出して、どういうつもりなのか、答えろよ」
相手が電話の向こうで笑った。陸のイライラは加速する。
『二度ふられるのは怖いか?』
頭に血がのぼっていくのがわかった。
「……ざけんなっ!」
沙希が俯いたまま肩をピクッと震わせた。大きな目で心配そうに陸を見つめる。
『大切なものを……大切にしなさい。私にできるのはここまでだ』
電話は切れた。
(誰もアンタに頼んでねぇよ!)
陸は心の中で毒づいたが、携帯をポケットにしまったところで真正面から視線を感じ、ハッとする。もの言いたげな沙希の目に、陸の視線は吸い込まれてしまう。無言で見つめ合うふたりの間に、また気まずい雰囲気が流れるのを感じた。
沙希は最初、陸の電話の相手が誰なのか見当もつかなかったが、会話の断片を聞いているうちに、どうやらふたりをここへ呼び出した人物のようだと気がつく。
(もしかして……社長?)
「お前も『披露宴』って言われて来たの?」
気まずい沈黙を破ったのは陸だった。沙希はぎこちなく頷き、顎を引いたまま上目遣いで陸を見た。
昨夜、突然実家に会社から電話がかかってきた。披露宴に出席する予定になっていた者が急に出られなくなったので、代わりに出席してほしいと言われたのだ。K社と深い繋がりのある家の婚儀だから、欠席するわけにはいかないと説得された。
「誰から頼まれた?」
「長谷川くん」
陸は大きなため息をついた。そして上着の内ポケットから祝儀袋を取り出し、躊躇せずに開封した。
「……なんだよ、これ」
その声で沙希は陸が手にしたものに注目する。祝儀袋の中に入っていたのは、紙幣ではなく、丁寧に折りたたまれた便箋だった。
「手紙?」
「…………」
目を通した陸は、眉根に皺を寄せ、黙ってしまった。沙希はいたたまれない気持ちになり、もう余計なことは言わないと心に決める。
しばらくすると、陸は乱暴な手つきで便箋を祝儀袋に戻し、再度上着の内ポケットにしまいこんだ。
そこにワインが運ばれてきた。先ほどのマネージャーらしき男性がテーブルの脇に立ち、ラベルを見せてくれた。
「こちらは坂上譲一様よりお二方へのプレゼントでございます」
坂上譲一とは社長の名前だ。やはり陸の電話の相手は社長だ、と沙希は確信した。
陸を見ると、憮然とした表情でワインが注がれるのを見つめている。なにを考えているのかわからないが、不機嫌なのは間違いない。
(でもどうして社長が……? それに社長と浅野くんって……?)
社長に対する陸の言葉遣いは、とても1社員のものとは思えない。沙希はひっかかるものを感じたが、それは曖昧としてはっきりとした像を結ばなかった。
ふたつのグラスにワインが注がれた。グラスの中で小さな泡がひっきりなしに弾ける。早く飲んでほしいと、スパークリングワインが飲み手を急かしているかのようだ。
「乾杯する?」
陸は硬い表情のまま、乾いた声で言った。ことわる理由もないので、沙希は無言でグラスを手に取る。
「乾杯」
ワインの芳醇な香りが沙希の気持ちを揺らした。口をつけると想像していたより甘くて飲みやすかった。
グラスを置いて向かい側を見る。陸は1杯目をほとんどひと息で飲んだらしく、ふたたびグラスをワインで満たしていた。それをまた一気に飲み干す。
「そんなにいきなり飲んだら、すぐに酔っちゃうよ」
さすがに沙希は心配になって止めた。だが陸は瓶を手に取ると、空のグラスに3杯目をなみなみと注ぎ、沙希を一瞥した。
「酔うために飲んでるんだよ」
すぐにグラスを口に運び、液体を最後の1滴までのどに流し込んだ。続けざまにワインをあおったせいで、陸の頬が上気し始めた。
「この前は……ごめん」
テーブルの上で組んだ自分の手を見ながら、陸はぼそっと言った。そして小さな声で続ける。
「素面(シラフ)じゃとても言えねぇ……」
沙希は慌てて首を横に振った。
「私のほうこそごめんなさい」
「あやまらなくてもいいよ。ひどいことを言ったのは俺だから」
陸があまりにも落ち込んだ様子なので、沙希の胸もヒリヒリと痛んだ。もう陸に言われたことなどどうでもよかった。気にしていないことを伝えたかったが、沙希にはただ笑顔で首を横に振るくらいしかできなかった。
ドアをノックする音で、ふたりの会話は途切れた。前菜が各々の前に並べられる。料理は特定のジャンルに属さない創作料理らしい。
「食わねぇの?」
そう陸に促されたので、沙希はとりあえずフォークを手にした。陸はまたグラスにワインを満たし、今度は少しだけ口をつけて、静かにグラスを置いた。完全に酔いが回ったようだ。
「……俺って情けないよな」
ひとりごとのようにつぶやく。うっすらと笑みを浮かべているが、目は笑っていなかった。
「お前も呆れているだろ?」
「そんなことないよ」
「でも沙希も損な性格だよな。頼まれると断れなくてさ。あのおっさんのたわごとに付き合わされて、な……」
いきなり矛先が自分に向いたので沙希は困惑した。言われたことは確かに当たっているが、なぜだか無性に腹が立つ。
「そんなこと言われても急に性格を変えるなんて無理だし。それに『おっさん』って……社長のことでしょ? 失礼だよ」
フンと陸は鼻で笑った。
「あんなヤツ、おっさんで十分なんだよ」
「どうして?」
「どこからどう見てもおっさんだろ。それとも、なに? ホントにアイツのこと好きになっちゃった?」
挑発するような言いかたをされて、思わず沙希は大きな声を出した。
「違うって言ってるでしょ!」
陸がまっすぐに沙希を見る。酔いのせいか、目が据わっていて少し怖い。
「アイツ……いつからお前の前に現れるようになった?」
「……入社して1年くらい経ってからだと思う」
陸は頬杖をついて考えごとをするポーズを取った。しばらくして目だけを沙希に向ける。
「なぁ、アイツ見て、なにか思わなかった?」
沙希は少し首を傾げた。
「別に。……でもなんだか懐かしい気がしたかも。父親と同じ世代だからかな」
「ふーん」
沙希の答えを聞いた陸は嬉しそうに笑った。変なことを言っただろうかと心配になる。
「やっぱりお前もアイツのこと、おっさんだと思ってるじゃん」
「そういうつもりじゃ……」
クックッと笑い始めた陸は止まらなくなったらしく、声を上げてひとりで大ウケしている。案外、酔うと笑い上戸になる性質なのだろうかと、沙希は少し冷めた目で陸を見た。
それからふたりはしばらく食事に専念した。気がつくと最初の気まずい雰囲気はどこかへ消えていた。陸といるといつもそうだと思う。たいていは沙希が自分の殻に閉じこもってしまうのだが、陸がそばにいるといつの間にか普段の自分に戻ることができる。
まるで魔法のようだと思う。知らないうちに自分の心の中にまっすぐ入ってきて、自分が一番望んでいるものをくれる。そんな相手を沙希は陸以外に知らなかった。
だから今でも好きで諦められないのだろうと思う。
デザートまで食べ終わり、沙希はぼんやりと夜景を眺めた。
「ここ35階だったよな? 俺の実家も11階で結構眺めがいいと思っていたけど、こことは比べ物にならないな」
陸の実家はどの辺りだろう、と沙希は目をこらした。
「あの辺?」
沙希が指さした方角を陸も目で追った。陸の席からは見えにくいのか、立ち上がって窓辺に近づく。
「こうやって窓の近くに立つとさすがに怖いな。沙希もここに来いよ」
手招きされたので沙希も陸の隣に立ってみた。遠くを見ているぶんにはそれほど怖さを感じないが、真下を見るとあらためて自分のいる高さがわかって足がすくんでしまう。
「怖い……」
陸は沙希のほうを向いて複雑な表情をした。そして沙希の頭の上に手をのせた。その手が髪を撫でてゆっくりと降りてくる。沙希は陸を見つめた。
「俺は……お前を傷つけたのか?」
小さな声だったが、陸の言葉は沙希の心に響いた。
「俺が、お前を傷つけたんだな……」
そう自分に言い聞かせるように陸がつぶやくのを、沙希は陸の腕の中で聞いた。ワインと陸の匂いがする。心臓がドキドキと耳の近くで鳴っているようだ。
息を吸い込むたび、胸が苦しくなる。陸のぬくもりに溺れてしまいそうだった。助けを求めるように上を向くと、陸と目が合った。
次の瞬間、優しいキスが降ってくる。沙希はまぶたを閉じた。
「好きでもないヤツにキスなんかしないんだよ」
少し怒ったように陸は言った。沙希は瞬きをするのも忘れて陸を見つめた。これは夢じゃないかと思う。
(それって……私を好き……だということ?)
「酔ってる?」
「酔ってねぇよ」
それでもまだ信じるのは怖かった。いつか解けてしまう魔法ならかけないでほしい。沙希はもっと確かなものを求めて、陸をすがるように見た。
陸も真剣なまなざしで沙希を見つめ返していたが、ふとその表情が緩む。
「ホント、お前は……。しょうがないな」
そう言いながらいじわるな笑みを浮かべ、いきなり人差し指で沙希の鼻の頭を押した。
「なに……?」
「リセットボタン。押してやるよ」
「……え?」
「でもこれはやり直しじゃないぞ。前にも言ったけど、俺はこの人生をやり直す気はないから」
沙希は狐につままれたような気分だった。ワインをそれほど飲んだ記憶はないが、もしかすると自分も相当酔っているのだろうか、と疑う。
「だって、浅野くんは、もう私のことなんか……」
「そうじゃなくて、もっと他に俺に言うことあるだろ?」
陸は両手を沙希の首の後ろへ回し、フッと微笑む。三日月のように細くなった陸の目は、沙希を優しく見つめていた。
(今なら自分の気持ちに素直になれるかもしれない……)
不思議な気分だった。今まで懸命に鍵をかけ、閉じておいた扉を開けるときが、ついにやって来たのだと思う。ドキドキしているが、それでもどこか静かな気持ちだった。
「好き……だよ。大好き」
「よくできました」
ぎゅっと抱きしめられると、全身から力が抜けた。すべてを陸に預ける。もう我慢しなくてもいいとわかった途端、心に羽が生えたように気持ちが軽くなるのを感じた。
「好きなの。ずっと前から……今でも」
一度言ってしまうと「好き」と口にするのは苦でなくなった。むしろ今まで言えなかったぶん、何度でも言いたくなる。
陸はしっかりと頷いてみせた。目が少し潤んでいるらしく、夜景の明かりが陸の瞳にきらきらと反射した。
「大丈夫。今なら俺、ちゃんとお前の気持ち、受け止められるから」
いきなり涙があふれてきた。陸の顔がぼやけて見えなくなる。その後のキスは涙の味がした。