飛行機に乗るのは昔から好きだった。離陸する際に感じるちょっとした感傷や、着陸した瞬間のえもいわれぬ安堵感。どれも普段の生活では味わえない非日常的な体験だから、強い興奮を呼び起こすのかもしれない。
沙希は窓側の席を確保できたので、離陸前から飽きもせず窓の外を眺めていた。雲の上はどこまでも青い空が広がっている。雲の下の慌しい日常が嘘のようだと思った。
搭乗する前に携帯電話の電源を切った。昨夜から携帯を見ないようにしていたが、電源を切るので仕方なく見てみると、1通だけメールが届いていた。房代からだった。
すぐに画面をかえたものの「あやまりたいことがあるので電話で話したい」という短い文面は、沙希の脳裏に焼きついている。
社長から誘われたことを陸に知らせたのは房代だろうと想像はしていた。それを責める気持ちはない。ただ、今は誰とも会話する気分になれなかった。
昨日は会社を出てまっすぐ家に帰った。神経の昂りが少し落ち着くと、なげやりな気分が沙希の中に充満した。なにもかもがどうでもいい――そんな荒れた心を持て余しながら、帰省のための荷造りをした。
だがこうして機上で黙っているうちに、感情の起伏も凪いだ。東京で起こったことは、東京に置いていこう、と思った。
どこまでも続く空の青が、沙希の心までも青色に染めていくようだった。
しばらくすると沙希は抗いがたい睡魔に襲われ、眠ってしまった。
故郷はすでに冷たい秋風が吹いていた。
一緒に搭乗していた旅行客の多くは「寒い」と上着を羽織った。沙希も機内に持ち込んでいた上着に袖をとおした。預けていた手荷物を受け取り、電車に乗る。外気は冷たいのに、沙希の心は故郷の懐かしい景色によって、だんだんと温まり、ほぐれていった。
だが、駅まで迎えに来た母親の顔を見て、沙希は一瞬目を疑う。
GWに帰省してから4ヶ月も経っていないのに、母親は突然老け込んでしまったように見えたのだ。それでも母親は普段と変わらない調子で沙希を出迎えた。
いくら母親であっても、本人に「老けた?」と聞くことはできない。沙希は驚いた様子をおくびにも出さず、なにも気づかないふりをした。
夜、帰宅した父親が、沙希にしんみりした口調で話しかけてきた。ちょうど母親が風呂に入っているときだった。
「実は母さん、この前、倒れて入院したんだ」
「入院?」
「まぁ、入院といっても検査入院で、3日間だけのことだから、沙希には連絡するなと言われてな……」
「……そんな」
「結局、今すぐどうこうというわけではないんだが、もともと不整脈があったからなぁ」
沙希はあらためて父の顔を見つめた。父親もこうして見るとずいぶん白髪が増えた。急になんとも言えない寂しい気持ちが沙希の中に込み上げてきた。
思えばただでさえ両親に心配ばかりかけている自分だ。こんなときに余計な心配を増やすこともない。先週、会社で倒れたことを両親には言わないでおこうと決めた。
ふと思いつく。
「私……こっちに戻ってこようかな」
父親は驚いた顔をしたが、穏やかな口調で尋ねてきた。
「会社の仕事はどうなんだい?」
沙希は苦笑しながら正直に答えた。
「仕事は可もなく不可もなく、かな。嫌ではないけど、ずっと続けたい仕事というわけでもないし。それに東京は……私には合わないのかも」
向こうに置いてきたはずのできごとが、ズシリと音を立てて、沙希の心にのしかかってくる。
「こっちに戻ってきても、仕事はなかなか見つからないかもしれないぞ」
父親は険しい表情で言った。沙希も、故郷の経済がかなり厳しい状態であることを知っていた。いわゆる大手企業に勤務する娘に、本心はどうあれ「会社を辞めて戻っておいで」とは言えないだろう。
それがわかるから沙希は言葉につまった。痛恨のミスだ。弱音を吐くタイミングを間違えたのだ。
だが、励ますような温かい声が沙希を包む。
「父さんと母さんのことは心配しなくてもいい。お前の人生なのだから、自分の納得する道を行きなさい」
母親が風呂から上がる気配がしたので、父親はそう言って沙希に目配せした。おそらく母親も同じことを言うだろうと沙希は思った。
自室に戻った沙希は、しばらく携帯を手の中でもてあそんでいたが、決心して房代に電話をかけた。
『沙希ちゃん? ホント、余計なことしてごめんね!』
繋がった途端、房代は畳みかけるように言った。
「気にしないで」
沙希はなるべく優しい声で答えた。昨晩から丸1日、房代はどんな気持ちで過ごしていたのだろう。それを慮ると胸が痛んだ。
『浅野くんと……なにかあった?』
「……あったと言えばあったような……。でも房代ちゃんのせいじゃないよ」
(そう、結局全部、自分でまいた種なんだ)
それを認めるのに丸1日を要したのだ。房代のメールを無視したのは八つ当たりでしかない。わかっていても、こういうふうにしかできない自分が嫌になる。
『だけどやっぱり責任感じるよ』
「ううん、気にしないで。私、浅野くんとはこういう運命なのかも」
『……どんな運命?』
「結局……上手くいかない」
(それならいっそ再会したりせず、他人のままでいたほうがお互いよかったのに……)
沙希はそう思う一方で、陸にもう一度会わせてくれた運命にこの上なく感謝していた。
もうこれ以上なにかを望むことなどできない。たとえ陸とすれ違ったまま、ふたりの関係が終わるとしても――。
『昨日はそれで……食事に行ったの?』
房代が遠慮がちに尋ねてきた。
「いや、行かなかったよ」
陸にあんなふうに言われて行けるはずがない。
『浅野くん、止めてくれたんでしょ?』
「そう……だね」
耳の奥に残る、陸の「行くなよ」という声。
『それは沙希ちゃんのことが好きだからでしょ?』
「そういうわけじゃない、と思う」
房代がため息をついた。そして『うーん』と唸った。
『押してだめなら引いてみろって言うけど、どっちも引いていたんじゃどうにもならないね』
「そうだね……」
『ねぇ、どうせ上手くいかない運命なら、思い切って一度沙希ちゃんの本心をぶつけてみたら?』
「それは……」
すぐには同意できなかった。危うい綱渡りをしている沙希にとってそれは、自ら志願して転落する結末を選ぶのとなんら変わりない。いずれ転落する運命だとしても、沙希は最後の最後まで綱にしがみついていたいのだ。
『浅野くんはきっと、沙希ちゃんの気持ちを受け止めてくれると思うけどなぁ』
房代の言うとおりになるかもしれない。しかし沙希は、絶対的な確信がなければそんなことはできない、と思った。
『私は沙希ちゃんを応援してるよ。だけどもう余計なことはしないようにするね』
沙希は房代の気持ちに心から感謝し「ありがとう」と答えた。
(どうせ上手くいかない運命なら……か)
電話を切った後もしばらく同じ姿勢でぼんやりと考えていた。
あんなふうに陸の頬を張ってしまって、次はいったいどんな顔で会えばいいのだろう。自分の気持ちをぶつけるどころの話ではない。沙希は突然不安になった。今、陸はどんな気持ちでいるのだろうか。
(よくこの部屋で浅野くんと電話で話したな)
昔のことを思い出した。言い争うこともあったし、責められて泣くこともあった。だがふたりの距離が遠ざかることはなかった。
(それに比べて今は……)
沙希と陸を繋いでいるものはなんだろう?
同情? 感傷? それとも――?
(友情じゃないことは間違いないな)
少なくとも沙希の陸に対する気持ちは友情ではない。なにかもっと本能的な部分で陸にとらわれる自分がいた。それはどこかに捨ててしまいたくても、捨てきれるようなものではなかった。
沙希は大きく深呼吸した。
今ここで考えても答えなど出ないだろう。それなら……
(次に浅野くんに会ったときに考えよう)
いつまでもまとまらない思考を断ち切って、気持ちを切り替えた。こうして物理的な距離が離れているのも、沙希にとってはありがたい。
長年愛用していたベッドにもぐりこみ、目を閉じる。すぐに心地よい疲労感が沙希を眠りの国へと連れ去った。
沙希のいない1週間が始まった。
陸は空いたままの沙希の席を見るたび、心にぽっかりと穴が開いたような気持ちになった。ただいつもいる人がいないというだけで、こんなふうに感じるものかと思う。
メールをチェックしながら、先週末、沙希の代わりに行った食事での会話を思い出す。
「アンタでも後悔することってある?」
陸はぶしつけに尋ねた。社長は日本酒を片手にゆっくりと瞬きした。
「そりゃ、あるさ。後悔してばかりの人生だと言っても過言ではないな」
「へぇ。意外な答え」
陸はビールを飲んでいた。日本酒はあまり得意ではない。相手に合わせて同じ物を飲むなどということもしない主義だ。
「なにか後悔するようなことでもあったのか?」
「まぁね」
沙希を傷つけることだけはしないと思ってきたのに、くだらないことを言って取り返しのつかないことをした、と後悔していた。だが、あれが自分の本音だったと陸も言ってから気がついたのだ。
(このおっさんに嫉妬するとはね……)
「そうだな、私が一番後悔しているのは……」
社長は窓の外へ視線を移し、言葉を選んでいるようだった。しばらくして陸を正面から見つめる。
「失った後に、それが自分にとって一番大切なものだと気がついたこと、かな」
フンと陸は鼻で笑った。
「アンタもそんなふうに考えることがあるとは思わなかった」
「お前は私をどう思っているのか知らんが、私にも一応人間の心があるんだがね」
社長は自嘲気味に言った。
「ただ若いころは焦りや功名心が強くて、周りが見えなくなっていた」
空になったガラスの猪口(ちょこ)に手酌しながら、社長はしみじみと昔を思い出しているようだった。
「お前も大切なものを失わんようにな」
「俺はアンタとは違う」
(……とは言ったものの、あんまり変わらねぇかもな)
陸はもう一度空いている沙希の席を見た。
もしかすると二度と戻ってこないかもしれない。突然そんな考えが陸の脳裏に浮かんだ。それは不安となって急速に陸の胸を侵食し始めた。
(まさか……な)
だが否定すればするほど、不安は反比例して大きくなる。
「浅野くん」
突然、至近距離で声がした。
陸は背後に人がいることに気がつかなかった。驚いて振り返ると、そこには倉田由紀がいつもとは違う真剣な顔をして立っていた。