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第一部 22

 沙希が次週よりリフレッシュ休暇を取ることを決めてから、日々はあっという間に過ぎていった。

 陸とは挨拶を交わす程度だが、沙希としてはずいぶん気が楽になった。早めにあやまっておいてよかった、と思う。

 だが、矢野とは挨拶をするだけでも心にわだかまるものがあって気を遣った。矢野の反応もぎこちない。やはり以前と同じようにはいかないが、それでも互いに表面的には以前と変わらない態度を装っていた。

 そのため、特に誰からもなにも言われずにすんだ。このまま休みに入ってしまえば、本当にリフレッシュできそうな気がした。

 休暇前の最後の出勤日は、同期の房代がまた外でのランチに誘ってくれた。

「そういえば、あの倉田さん、ずっと休んでるみたいね」

 房代が声をひそめて言った。

「え? いつから?」

 陸とライブに行ける、とはしゃいでいた倉田由紀の姿を思い出した沙希は、驚いて目を見開いた。

「沙希ちゃんが倒れた翌日からじゃないかな。うわさでは浅野くんと約束してたライブをドタキャンされたショックらしいよ」

 うきうきした気分に冷水を浴びせられたような感覚だった。房代は沙希の顔色が変わるのを見て慌てた。

「別に沙希ちゃんのせいじゃないから気にしないほうがいいよ、って私がこんなこと言うからいけないんだよね……ごめん!」

「いや、彼女のことはすっかり忘れていたからびっくりしたの」

 考えてみれば、あれ以来由紀の姿を見ていない。だがまさか欠勤しているとは思わなかった。

「でもそれが理由で1週間近くも休むのはちょっと……って思わない?」

 房代は険しい顔でそう言った。確かに、もしそれだけの理由で休んでいるとしたら、由紀の社会人としての責任感を疑ってしまう。新人は特に周囲の期待も大きく、注目される存在だ。欠勤が長期に渡れば、彼女の評価は落ちるだろう。納得のいく理由がなければなおさらだ。

 だが沙希としては、陸がライブをドタキャンしたことが原因で、由紀が仕事を休んでいるのなら、自分にも多少なりとも責任があるような気がした。

「本当にそれだけの理由なの?」

「うーん、でもみんなそう言っているんだ。うちの課の新人が言うには、彼女、いいところのお嬢様らしいね。親もすごく甘くて、彼女の思いどおりにならないことが、今まであまりなかったんじゃないかって」

「それはうらやましいな」

 素直な感想だったが、決して沙希自身がそうなりたいというわけではなかった。他人から甘やかされることは、最終的に自分のためにならないことが多い。だが、それに気がつかずに生きていけるなら、それはそれで幸せなことかもしれないとも思う。

「なんだかまるで別世界の話だね」

 沙希がそう言うと、房代も「ホント、ホント」と大きく頷いた。

「こっちはこのご時世だから、必死で職にぶら下がってるっていうのにね」

 房代はため息混じりに言った。

「だから、沙希ちゃんも自分のせいだとか思わないで。せっかく明日からお休みだしさ。ひとりで思い詰めちゃだめだよ。……ってこの話を振ったのは私なんだけど」

 苦笑する房代に沙希は「うん、ありがとう」と短く答えた。それを合図にふたりは席を立った。

 会社の通用門の手前で、背後から「川島さん」と呼ばれた。

「長谷川くん?」

 答えたのは沙希ではなく房代だった。房代は同期の長谷川があまり好きではないらしく、彼の姿を認めると表情を硬くした。

「お久しぶり、宮川さん」

「沙希ちゃんになんの用?」

 房代は沙希をかばうようにして一歩前に出た。

「まるで僕が川島さんに危害を加えるかのような警戒の仕方ですね」

 皮肉を言う長谷川は、落ち着いた物腰で、どこにも隙が見当たらない。同じ歳なのにやけに老成している、と沙希は思う。上品な笑顔は、嫌味なほど板についていた。

「ここでお会いしたので、今日も前回と同じようにお願いします、と伝えたかっただけです。それでは、僕はこれにて失礼」

 言いたいことだけ言うと、長谷川は一礼して先に社屋へ向かった。

「なんだか気に入らないわ、あの態度!」

 房代はすっかり憤慨している。沙希も最近の長谷川の態度には首を傾げたくなるが、房代の怒った様子につい笑ってしまう。

「ごめん。房代ちゃんがおもしろくて笑っちゃった」

「笑ってる場合じゃないでしょ! どうするの? さっきのアレって……お誘い、でしょ?」

 房代は怒った口調のまま声をひそめて沙希を睨んだ。

「どう……と言われても、あんなふうに一方的だと断る術がないんだよね」

 沙希は他人事のように言った。実際長谷川の態度は、断るという選択肢が想定されていない。断ったらどんな反応をするのか見てみたい気もするが、それ以上に社長からの誘いは逃すのが惜しまれる、というのが沙希の本心だった。

「それに、直接職場に来られるよりはいいか、と思うし」

「職場に来るほうがマシでしょ!」

 沙希と房代は会社前に着いた。房代は沙希の腕を引っ張り、ランチから戻ってくる社員の列から離脱する。

「とにかく今日はやめたほうがいいって。ブッチしちゃえばいいじゃない。なにかあったらどうするのよ」

「…………」

 沙希は無言のまま、視線だけ地面に落とした。社長との会話や食事はそれほど嫌ではなかった。むしろ楽しくて心惹かれるものがある。

 だがそれを房代には言えなかった。

「もう! 知らないんだから」

 言葉を発しない沙希にたまりかね、房代は肩を怒らせて去った。取り残された沙希は、房代の後ろ姿が見えなくなるまで、その場にじっとたたずんでいた。


     


 その日の午後はリフレッシュ休暇の前日ということもあり、慌しく過ぎた。

 休暇中の仕事は同じ課の課長以下全員が分担してくれることになったので、沙希はそれぞれに挨拶と引き継ぎをして回った。それから口頭で説明しただけではわかりにくい業務についてメモを残し、未使用の申請書類を多めに補充しておいた。

 腰を落ち着ける暇もないほど、てきぱきと動き回った。それでも沙希の脳裏には常に房代の怒った顔がちらついていた。心の中で振り子が大きく揺れたが、結局社長室へ電話をする勇気が出ないまま退勤時間を迎えた。

 仕事を終わらせ、帰り支度をする。部長と課長に挨拶をし、振り返ったついでにフロアを見渡した。陸は離席中のようだった。少しがっかりしながら部署を後にした。



 更衣室から出て、社員通用口ではなく別棟へ向かう。まだ仕事中の社員とすれ違うたび、沙希は軽く頭を下げた。

 総務部や経理部のフロアを過ぎ、角を曲がると、急に人影がなくなった。廊下の両脇は会議室が並び、その奥に社長室がある。照明が落とされた暗く静かな廊下に、カツン、カツンと沙希の靴音だけが響いた。

 その靴音を10数えたあたりで、沙希は突然立ち止まった。

 誰もいないと思った長い廊下の先に人影を見つけたからだ。長身のその人は廊下の壁にもたれて立っていた。廊下は薄暗く、ほとんど影のようにしか見えない。

 それでも沙希は人影が目に入った瞬間、その人が誰だかわかってしまった。途端に心臓が激しく動き出す。もう視線を他に移すことはできなかった。

 沙希が近くまで来てもその人は微動だにしない。また沙希は立ち止まった。

「浅野くん、こんなところで……なにしてるの?」

 自分の発した声が思ったより小さく、しかも震えていることに驚いた。

 陸はようやく沙希を見た。冷たい視線が胸に刺さる。

「それはこっちが聞きたいけど」

 しばらく無言で向き合っていたが、陸は沙希の腕を掴み、すぐ隣の会議室のドアを開けた。否応なしに引き込まれる。陸はドアを後ろ手で閉めた。

「それで?」

 陸の乾いた声が会議室の静寂を破った。沙希はなにを言えばいいのかわからず、ただ表情のない陸の顔を見つめていた。

「なにか言えよ」

 陸の声にだんだん苛立ちがこもるのがわかる。だが言葉が出てこない。

 陸がゆっくりと沙希に近づいた。反射的に沙希は後退りする。会議室のテーブルにぶつかり沙希はそこで止まった。陸も目の前で立ち止まる。

「なんで逃げる?」

 傷ついたような言い方だった。

「別に……逃げてない」

 ようやく出てきた言葉はそれだった。陸が視線をそらすのと同時に、沙希も陸の顔からネクタイの辺りへ視線を落とす。薄い藤色のネクタイを見るともなしに見ていた。

「お前、いつからあんなおっさんがよくなったわけ?」

「ちがっ……!」

 陸の顔を見たが、彼は沙希を見ようとはしなかった。どんなに否定しても受け入れる気はないようだった。それでも沙希は否定しなくてはいけないと思った。

「そんなんじゃないよ」

「じゃあ、どんなだよ」

 まるで売り言葉に買い言葉だ。沙希は陸とこんなやり取りがしたいわけではなかった。だが今はなにを言っても無駄なのかもしれない。

「ただ食事に誘われてるだけよ」

「今日が初めてじゃないだろ?」

「……そう、だけど……」

 陸は沙希の両脇に手をついた。顔が近くなる。沙希はこれ以上身動きできない。



「……行くなよ」



 沙希の心臓が大きく脈打った。ドクン、ドクンと自分の中でこだましているようだ。

「なんで……」

 もう自分の中から本音がこぼれ出るのを、抑えることができなかった。

「好きでもないのにそんなこと言うの?」

 陸は一瞬目を見開いた。そして沙希から一歩離れて両手をズボンのポケットに突っ込む。

 沙希は陸の口が自嘲気味に歪むのを見た。



「アイツとはもうヤった?」



 パン! と乾いた音が会議室に響いた。

 沙希は唇を噛んで陸を一瞥した。すぐにその陸の像が歪む。涙腺が緩んだのだ。

 陸を押しのけて急いで会議室を出た。わざと大きな音を立ててドアを閉める。涙があふれて止まらない。沙希は社長室とは反対の方向へ走った。





「い……ってぇ」

 陸は張られた頬を触った。そしてテーブルに腰かけて深呼吸する。

 自分でもバカなことを言ったと思う。あんな沙希の顔を見たのは初めてだった。

 ひとつため息をついて会議室を後にした。

 社長室のドアをノックもせずに開ける。中にいた長谷川は一瞬驚いた表情をしたが、すぐに一礼して近づいてきた。

「下?」

 陸はエレベーターの前で長谷川に尋ねる。「はい」という返事が返ってくる前に陸はエレベーターに乗り込んでいた。

 エレベーターから降りて外に出る。目の前に停まっている黒塗りの車の後部の窓を軽く叩いた。

 ドアはすぐに自動で開いた。陸は無言で乗り込む。

「アンタも意外と暇なんだな」

 顔を見ることもせずに、最初から車内にいた男へ話しかけた。

「まぁな」

 社長は読んでいた本から目を上げ、陸を見た。無表情の陸の横顔を見て、少し目を細める。車がゆっくりと走り出した。

「珍しいな。一緒に食事をする気になったか」

「……今日はなに?」

「和食」

 社長の答えを聞いて、陸は呆れたようにため息をついた。

「アンタ、毎回和食じゃねぇだろうな?」

「洋食はもう食べ飽きたからな」

 社長はまた本に目を戻した。陸はその様子を横目で見る。

「そんなんだからふられるんだよ」

 フンと社長は鼻で笑った。

「そういうお前もふられたような顔をしているぞ」

「……るせぇ」

 陸はシートに身を預けて姿勢を崩した。食えないおっさんだ、と心の中で悪態をつく。

「アンタにいいこと教えてやるよ」

 社長は「ほう」と楽しそうに返事をした。

「アンタが待ってた女は、和食よりイタリアンが好きなんだよ」

 また「ほう」という返事が聞こえた後、音を立てて本が閉じられる。

「ずいぶん詳しいな。フレンチじゃないのか?」

「そりゃフレンチも好きだろうけど、アンタと違って、普通はそんなもんめったに食いに行けないんだ。つーか高級店は苦手じゃねぇの? アイツ……」

 陸はため息混じりに言った。

「なるほど。次回の参考にさせてもらうよ」

「もういい歳なんだし、いいかげん懲りろ」

 社長は陸の言葉に「ハハハ」と心底愉快そうに笑った。

 誰のせいでこんなことになったと思ってるんだ、と苦々しく思う。だがすぐにその考えが間違っていることに気がついた。

(俺は……本当にバカだ……)

 窓に肘をかけて頬を触る。痛いのは張られた頬ではなかった。

 隣で悠然と構えて本を読む社長をもう一度盗み見た。この男は沙希が来なくても、まして隣にいるのが自分でも表情ひとつ変えない。コイツはいつだってそうだ、と陸は思った。

(それにしても、俺はなにをやってるんだか……)

 社長から顔をそむけて車窓の外へ視線を移し、今日何度目かわからないため息をつく。それからゆっくりと目を閉じた。

 

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