「なに?」
陸は少し苛立たしげに言った。倉田由紀が背後に立っていたことに気がつかなかったのは不覚だった。
「なに、って……心配してくれないの?」
由紀は硬い表情でつぶやくように言った。いつもの甲高い声ではなかった。様子はいつもと違うが、他に変わったところは見当たらない。
陸は怪訝な表情を浮かべた。なにを心配すればいいのかわからない。由紀の発言の意味がつかめなかった。
「なにか俺が心配しなきゃいけないようなことでも?」
言いながら、自分はなにを言っているのだろう、と内心で自問する。まったく噛み合っていないおかしな会話だ。
「私、ずっと休んでいたんだけど」
なぜか由紀は怒ったように言い放った。
「それで?」
「『それで?』じゃないでしょ! 誰のせいだと思っているのよ」
陸は持っていたボールペンを親指と人差し指でくるくると回した。由紀の言いたいことはなんとなくわかってきたが、今度はバカバカしくてまともに返事をするのが嫌になったのだ。
「俺、なにかした?」
仕方なく尋ねた。由紀はたまりかねたように陸を睨んで低い声で言った。
「約束破ったでしょ! ひどいわ。私、それで熱が出て寝込んだのよ」
陸は小さくため息をついて、机に頬杖をついた。子どもでもあるまいしそれくらいで熱を出すヤツがいるのか、と思いながら目の前の人物を見る。
(面倒くさいな……)
周囲の社員たちが聞き耳を立てているように思われ、気がめいった。たいてい、こういう話は尾ひれがついて広まる。うわさをする側は楽しいだろうが、される側はいい気分ではない。
「それは災難だったな」
「『ごめん』とか『大丈夫?』とか、もう少し優しい言葉をかけてくれてもいいじゃない」
「悪いけど、俺はそんな優しい人間じゃないから」
陸は返事をするのも面倒になってきた。どうやって由紀を追い返そうかと考える。
「でも約束を破っておいて、あやまらないなんて……」
「ごめん。だけど仕事が入ったら行けないって言ったよな?」
陸がそう言うと、由紀は一瞬目をそらした。だが、すぐに陸を非難するような目つきで突っかかってくる。
「パパとの約束はそうじゃなかったでしょ?」
今度は陸のほうが言葉につまった。それを敏感に察した由紀は、畳みかけるように言葉を続けた。
「パパの顔に泥を塗ったのは誰よ。もちろん埋め合わせしてくれるんでしょうね?」
「は? 埋め合わせ?」
由紀の目的がそれだということに、陸はようやく気がついた。
だが、由紀がなぜここまで自分に固執するのか、陸にはよくわからない。そもそも陸は追いかけられると逃げたくなる性質なのだ。由紀のやっていることは、陸に対してはまるで逆効果だった。
「行けなかったのは悪いと思ってる。だけど、そこまではできないな」
「ふーん」
由紀は陸を見下すように顎を上げた。口にはうっすら笑みがこぼれる。陸は眉間に皺を寄せた。
「私、知ってるのよ。あなたが……」
その先は陸の耳元に顔を寄せて囁く。聞いていた陸の顔が次第に険しくなった。
「それ……誰かに言ったか?」
「まだ誰にも言ってないわ。今ここで、大声で叫んだらどうなるかしら?」
陸はこめかみを押した。たぶん由紀は彼女の父親からその情報を入手したのだろう。それが社内に広まったら、社員全員の陸を見る目が変わってしまう。今はまだそのときではない。それにこんな不本意な形での暴露は、絶対に避けたかった。
ひとつ大きなため息をつく。
「わかった。それで俺はどうすれば?」
由紀の顔に、ぱーっと笑顔が広がった。そして今までとは違う甘い声で言った。
「デートしてよ」
「…………」
ふたたび陸はこめかみを押した。頭が痛い。だが、断るという選択肢はないのだ。
「今週の土曜日はどう?」
「……それ、1回でいいんだな?」
「とりあえず、それでいいわ」
「……わかった」
もう半ばヤケクソだった。これ以上話をしたくないので由紀に背を向けた。由紀はデートの約束を取りつけたことに満足して帰っていった。
(卑怯な手を使いやがる)
またため息が出た。
そこに藤沢がニヤニヤしながらやってきた。陸の歓迎会の幹事だった藤沢とは、同じプロジェクト担当ということもあり、部署内では親しい間柄だ。彼の気さくな話しぶりを、陸は好ましく思っている。
「浅野、ちょっと打ち合わせしよう」
これは息抜きへの誘い文句だ。陸は軽く頷いて、藤沢の後について打ち合わせスペースへ移動した。
「しかし、由紀ちゃんは積極的だねー!」
藤沢は小声だが興奮気味に言った。やはり周囲に筒抜けだったか、と陸は心の中で舌打ちする。
「で、浅野は彼女作らないの?」
「今はそういう気分じゃないんで……」
藤沢はぴくりと眉を動かした。
「ほう。なにかあった? 好きな人になにか言われたとか?」
藤沢の鋭い洞察にドキッとした。しかし陸は好きな人がいると言った覚えはない。そもそも好きな人と呼ぶのが妥当かどうかもわからないのだ。
(「なんで、好きでもないのにそんなこと言うの?」って言われちゃうような俺だし)
その沙希のひとことに、陸はひどく打ちのめされていた。あの場面を思い出すと、陸の思考は止まってしまう。
「まぁ、そんなところですね。でも俺、好きな人がいるなんて言いましたか?」
「いいや。でも由紀ちゃんへの態度を見ていると、浅野は他にいるなってピンと来たね」
「他に? ……いませんよ」
「いるでしょ、本命」
本命という言葉は、陸にとって意外な響きがあった。隣にいる女性を本命かどうかと意識することがなかったので、一瞬考え込んでしまう。
(本命……ね)
「ほら、やっぱり」
陸の様子を観察していた藤沢は満足そうに言った。
陸は慌てて「いえ、そうじゃなくて」と否定する。
「今まで『本命かどうか』という基準で考えたことがなかった、と思っていたんです」
「いやいや、浅野くん、よく聞きたまえ。そういうことは考える以前のことだからさ。『考えるな、感じろ』……って言うだろ?」
それは違うだろ、と内心突っ込みながらも笑ってしまった。藤沢は場を和ませるのが上手い。陸は彼のそういうところがいいと感じていた。
「ま、浅野は口が堅そうだから、これ以上尋問しても無駄か」
藤沢はおどけて見せる。陸もニヤリと笑って肯定した。
「そういえば矢野さん、ついにふられちゃったらしい」
矢野の名前が出て、陸は先週のことを思い出した。
(あの後、沙希と話をしたんだ)
矢野には悪いが、沙希が無事に返事をしたことがわかって少しホッとした。
「それで『やっぱり川島さんの本命は社長か』ってうわさが出てるんだよな」
興味本位で愉快そうに話す藤沢から視線をそらす。陸は「へぇ」と返事をするのが精一杯だった。
「見たってヤツもいるんだ」
「見た?」
途端に胸の中がざわつくのを感じた。藤沢は身を乗り出して小声で言った。
「社長と川島さんがホテルから出てくるところ」
(…………!!)
「川島さんもやるなぁ。そりゃ、やっぱり1営業マンよりは財力も地位もある男の方がいいよな。……って、浅野?」
「なんでもないです」
無意識のうちに陸は、沙希に張られた左の頬を触っていた。藤沢はそんな陸を不思議そうに眺めた。
「もしかして……」
藤沢はそこで言葉を止めて、視線を宙にさまよわせる。
「いや、なんでもない。ま、うわさってヤツは勝手にひとり歩きするからな。浅野も気をつけろよ」
陸は黙って頷いたが、なにに気をつけたらいいのかわからない。それにうわさなんてどうでもよかった。
「しかし川島さんがいないと寂しいな」
陸は「そうですね」と相槌を打ちながら、沙希の席に視線をやった。
(もし、あれが最後の会話になったら……最悪だな)
何度これが最後の会話かと覚悟しただろう。陸は沙希との出会いと別れを思う。まるで薄く張った氷の上をおそるおそる歩いているようなふたりの関係は、いつもすぐに行き詰ってしまう。
(なぁ、早く帰って来いよ)
会いたいと思うのは自分だけなのか――?
陸は今でも沙希の気持ちがよくわからない。陸が会いたいと願わなくなれば、それが本当の最後になるのかもしれないのだ。
(お前はそれでもいいのかよ? ……俺は)
「そろそろ戻るか」
藤沢の声で陸は我に返った。
沙希のいないデスクの横を通り過ぎる。長い1週間になりそうだと思った。
約束の土曜日がやってきた。
倉田由紀は早起きし、前夜から迷いに迷って絞り込んだ3着のワンピースを、交互に着ては鏡の前を何往復もした。
陸の私服姿を見たことがないので、とびきりガーリーにすべきか、それともシックな大人の装いにすべきか、ここは思い切ってカジュアルにしたほうが無難か、とさんざん悩んだ末、やはり自分らしいものにしようと決める。
メイクはいつもよりナチュラルにして、髪の毛はどうしよう……。
鏡を覗き込むと、キラキラと輝くような笑顔の由紀がいた。こんなにドキドキして幸せな気分を、どうやって自分の中だけに閉じ込めておけばいいのだろう。
(これが恋なのかな?)
由紀はピンクのグロスを唇に塗りながら、鏡の中のもうひとりの自分に問いかけた。今まで幾人かの男性と付き合ったけれども、デートの準備中から宙に舞い上がりそうなほどのふわふわした気分を味わったことはない。
(よし、完璧!)
時計を見ると約束した時間が迫っていた。慌てて家を出る。いつも外出する際は父に車で送ってもらうが、今日は少し広い通りまで出てタクシーを拾った。
約束の10分前、無事待ち合わせ場所に到着した。まだ陸の姿はなかった。大きなガラス窓を見つけて歩み寄る。自らの姿を映し出し、上から下まで入念にチェックした。
(うん、大丈夫!)
ようやく落ち着き、街を行き交う人や車の流れを目で追った。おもむろにバッグから携帯電話を取り出して、陸から連絡が入っていないか確認する。
周りを見ると自分と同じように待ち合わせと思われる人たちがいた。待っているのは女性が多い。しかし、ひとり、またひとり……おのおの約束の相手と落ち合って、楽しそうに街へ消えていく。
由紀は時計をチラッと見た。すでに約束の時間から15分が過ぎていた。念のため携帯ももう一度確認する。
そのとき携帯が鳴った。陸からだ。慌てて出る。
「もしもし?」
『悪い。……行けなくなった』
とっさに頭をどこかにぶつけたような鈍い痛みが、由紀を襲う。
「どういうこと? 今どこにいるのよ?」
『今、空港。緊急の仕事なんだ。もう搭乗するから切るわ。行けなくてごめん」
「ちょっと……!」
非情にも電話は切れていた。
「信じられない! ひどい!!」
ドタキャンは2回目だ。前回も同じようなやり取りで、あっさりと約束は破られた。今まで他人からこんな仕打ちをされたことはない。怒りが由紀の中を突き抜けた。
握りしめていた携帯を地面に叩きつけたい衝動をこらえ、電話をかける。
「パパ? 迎えに来てほしいの」
(このままで済むと思わないでよ)
ひどい屈辱を受けた由紀は唇を噛んで、父が迎えに来るまでのしばらくの間、人の波をがむしゃらに睨みつけていた。
一方、機上の陸はもはや由紀との約束のことなどきれいに忘れて、これから行ってしなければならない仕事について考えていた。
頼まれた祝儀袋が上着の内ポケットにきちんと入っていることを、何度も手を突っ込んで確認する。
「披露宴に出席して、これを渡してほしい」
休日にあたる土曜の早朝、陸は会社から呼び出しを受け、どんよりした曇り空の下を黄色いシャツ1枚を羽織って出かけた。時折、シャツの間を生暖かい風が抜けていくのが心地よかった。そして手渡されたのが、その祝儀袋と飛行機のチケットだった。
「なんで俺が?」
陸はさすがに首を傾げた。
「私は行けない」
目の前の男は短く言い放った。陸は感情の読めないその相手を凝視し、それからあらためて飛行機のチケットを確認した。
「それはこの行き先に関係ある?」
「お前の想像に任せる。だが恩人なので、どうしても直接届けたくてね」
なるほど、と陸は思った。確かに、この男の複雑な事情を嫌というほど知っていて、かつ身代わりになれる人間は陸しかいない。
由紀との約束が一瞬脳裏を掠めた。ことわる口実ができたとわかった途端、笑みがこみ上げる。
「俺、行ってくるわ」
「頼む。たぶん料理はおいしいと思うぞ」
男はそう言ってニヤリと笑い、眼鏡を外し、窓の外に目をやった。陸はその様子をチラッと見て会社を後にしたのだった。
(あのおっさんの考えることはホントわかんねぇ)
腕を組んでシートに身を預けた。ポンと着陸が近づいたことを知らせる音が機内に響く。
機体は高度を下げ、順調に飛行場へ向かっているようだった。しかし、かなり高度を下げたと思った瞬間、機首が上がり飛行機はまた上空へ戻った。
陸はにわかに騒がしくなった機内を眺めた。そこにアナウンスが入った。
「ただいま当機は着陸態勢に入っておりますが、気象の影響により、定時より10分ほど遅れて着陸する見込みです」
10分――。陸は時計を見た。これ以上の遅れが出なければ、なんとか開始時刻ギリギリに到着できそうだ。
機体はゆっくりと旋回し、もう一度着陸態勢に入ったらしい。今度は無事に着陸した。機内には安堵した乗客の声が広がった。
陸は急いで飛行機を降り、電車に乗り継ぐ。これで40分後には目的地の駅に着くが、披露宴開始時刻まで1時間を切っていた。
(間に合うか……?)
すでに日は地平線すれすれまで落ちている。陸は電車に揺られながらその夕陽を眺め、じわじわと湧いてくる焦燥感と戦い続けた。
電車が目的地へ到着すると急いで改札へ向かう。場所は駅に直結したホテルだった。時計を見ると5分前。小走りで駅の構内を抜け、人通りの少ないホテルへの通路は全力で駆けた。
ロビーに入るとドアマンに話しかけられた。事情を話すとすぐにエレベーターへ案内される。ドアマンに続いてエレベーターに乗り込むと、陸はそこでようやくひと息ついた。
35階でドアが開いた。
(…………?)
陸が案内されたのはレストラン&バーだった。レストランウェディングということもあるが、店の前には「今月のおすすめコース」の看板が出ていて、どう見ても貸し切りではなく通常営業中だ。
「あの、これはどういう……?」
たまらず陸はドアマンに声をかけた。すると店のマネージャーらしい年輩の男性が、すっと陸の前に出て「浅野様、お待ちしておりました」と一礼した。
「こちらでございます」
マネージャーは隙のない慇懃な態度で、陸を店内へと促した。なにもかも知り尽くしている顔つきだ。
しかし陸にとっては、わけのわからないことばかりだ。困惑した表情のまま、マネージャーに続いて店内へ入った。
レストラン&バーというだけあり、フロア全体の照明を抑え、大きな窓ガラスの向こうにきらめく夜景を美しく演出していた。
陸を先導していたマネージャーは、店内の片隅にあるドアのひとつをノックした。どうやら個室のようだ。状況がまったくつかめないものの、陸はドアが開くのをドキドキしながら待った。
「お連れさまをご案内いたしました」
ドアを開けた男性はそう言って、手を優雅に翻し、陸をいざなった。
「…………!!」
1歩足を踏み入れた陸は、すでに着席している人物に驚いて、言葉を飲み込んだ。相手もこぼれんばかりに目を見開いている。
「ただいま、ワインをお持ちいたしますので、少々お待ちください」
マネージャーは椅子を引き、陸が着席するのを見届けて部屋を出た。
「どうして?」
「それはこっちが聞きてぇよ」
みごとな夜景を背にして陸を待っていたのは、ワインレッドのドレスを着た沙希だった。