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第一部 21

 その日のランチは同期の房代に会社の近くのカフェに誘われた。

「しっかし大変だったね! 昨日は携帯も繋がらなくて心配したけど……」

 房代は沙希に気を遣っているのか、明るい調子で言った。沙希は携帯の電池切れを指摘されて失笑する。

「それ……浅野くんにも言われた」

「ということは、もしかして昨日?」

 うん、と沙希は頷いた。

「わざわざ部屋まで来てくれたんだよね」

「うわ! 優しいじゃん」

 首を傾げて苦笑する沙希を、房代は照れていると勘違いしたようだ。沙希は慌てて否定する。

「来てくれたのは嬉しかったんだけど、いろいろあって……」

「いろいろ?」

 昨日からのできごとを房代にひととおり話して聞かせた。話しながら沙希は、陸と矢野が対峙する姿を思い浮かべて気を揉んだ。あれからふたりとも部署に戻ってきていない。悪い想像ばかりが脳裏をよぎる。

 房代は考え込むような表情をしていたが、しばらくして遠慮がちに口を開いた。

「あのさ、沙希ちゃん……妊娠とかしてないよね?」

 思いがけない問いかけに沙希は目を丸くした。「ない、ない」と大げさに手を振って否定する。

「そっか。体調悪いのはもしかして……と思ったけど、違うのか」

 房代はがっかりしたように肩を落とした。

「なに? その『残念』って感じの言いかた」

「だってそういうことでもなければ、沙希ちゃんも浅野くんも一筋縄ではいかない感じがするもん」

 頬杖をついて口を尖らせた房代が、向かい側からじっと見つめてくる。応援してくれるのは嬉しいのだが、妊娠が陸との関係を好転させるとは考えにくい。しかしそれを房代に説明するのも難しいことだった。

 沙希は慎重に言葉を選ぶ。

「そういうことを望んだも時期もあったけど、それは昔のことで、今は……困るよ。それにちゃんとした避妊をしたことないけど、ずっとできないから、私ってできにくい身体なのかも」

 今度は房代が目を丸くした。普段人のよさそうな細い目が、驚きで大きく見開かれる。

「沙希ちゃんって案外そういうことを平気で言うのね」

「うん。だって本当のことだし」

「……負けた。私はまだお子ちゃまだわ……」

 ふたりは顔を見合わせて笑った。笑うことで沈んだ気持ちが少しだけ軽くなった気がした。周囲の人々の優しさには本当に救われる。

「リフレッシュ休暇、来週からだね。いいなぁ。実家に帰省するのもいいけど、1週間あればちょっとした海外旅行もできそうじゃない。私も取ろうかな」

 房代はうっとりした表情で言った。

「房代ちゃんは一緒に行ってくれる人がいるからいいよ。海外へ一人旅なんて考えただけで泣けてくる。それに……今はそんな元気もないし」

「じゃあ10年目には一緒に休暇取って、ふたりで海外旅行しようよ」

 なにげない調子で房代が誘ってくる。約束のように聞こえるそれは、友達同士によくある会話で、おそらく実現する可能性は低い。けれどもこの約束は、意味のないところに意味があるのだと沙希は思う。

 ほんの少しせつない気分で「うん」と頷くと、房代はまるで大輪の花が咲いたような笑顔を見せた。


     


 カフェを出て会社に戻ると、更衣室から少し離れた場所に矢野が立っていた。

「ほんの少し、時間もらえる?」

 神妙な面持ちで矢野はそう言った。腕時計を見たら、昼休みがまだ15分以上残っている。沙希は「はい」と小さく返事をした。

 それを聞くなり矢野は背を向けて歩き出した。沙希は少し遅れてついていく。大きな青いドアを通り抜け、階段を上がった。ここは陸と再会した初日に案内した場所だったと、たった半年前のことを懐かしく思い出した。

 沙希の想像どおり矢野は食堂へ向かった。昼休みも終わる時間なので社員の姿もほとんどない。調理室から1番遠い窓際の席へ誘われた。

「あの……、ごめんなさい」

 沙希は矢野が口を開く前に頭を下げた。ずっと先延ばしにしていた告白に対する返事だった。

「断られるのはわかっていたんだ。たぶん最初から」

 矢野は窓の外を見ていた。

「でも花火のときに確信したよ。川島さんには誰か好きな人がいる、と」

 そう言ってようやく沙希のほうを見た。いつもと変わらない優しい笑顔が今は寂しく沙希の目に映る。胸に鈍い痛みを覚えるが、視線をそらすことはできない。

 その温和な表情が一変する。

「まさか、アイツとは思わなかった……」

 矢野は苦い顔をして吐き捨てるように言った。人当たりのよい矢野の激しい一面を知り驚くのと同時に、矛先が陸に向いていることに沙希はひどく慌てた。

「浅野くんは……友達……です」

「川島さんもそう言うんだ。でもアイツとは、俺と川島さんみたいに単純な友達同士じゃないでしょう。そんな関係でもいいの?」

 矢野の言わんとしていることはわかるが、陸がどこまで話したのかわからないので返事に詰まった。

「昔のことも聞きましたか?」

「聞いたよ。川島さんがつらい思いをしたことも……」

 沙希は足元に視線を落とした。過去のひきだしを開けると、なぜかいつもつま先を見てしまう。痛みも悲しみも苦しみもすべて終わったことで、今さら沙希の身に迫ってきやしないというのに、だ。

 うつむいた沙希の顔を覗き込むように矢野は首を傾ける。

「だから恋をするのは怖い?」

「そう思う部分はあります。でも新しく好きな人ができたら、昔のことを忘れられるかもしれない、と期待する気持ちがないわけでもなくて……」

「そんなふうに考えるようになったのは最近じゃない?」

 矢野の言葉に、沙希はハッとして顔を上げる。

「考えてみれば、アイツが来てから川島さんは変わったよね。前はいつも淡々としていて俺が告白する隙なんか全然なかった。でも今の川島さんを見ていると、本当は違うんだと感じる。くやしいけどそれは、アイツの影響だよね?」

「…………」

 答えられるはずもなかった。「新しく好きな人ができたら」という仮定に意味がないのは、誰より沙希自身がよくわかっていることだった。諦めたつもりでいた人をまた好きになり、彼に惹かれていくのをどうしても止められない。

 そのとき午後の始業を知らせるベルが鳴った。

「はじめから俺が入り込む余地なんてなかったんだよね。それでも俺の気持ちを知ってほしかったんだ。だけどそれが川島さんにとって迷惑だったのなら……」

 沙希は慌てて首を横に振る。

「迷惑だなんてことはありません。こんな私を、そんなふうに想ってくださって、ありがとうございました」

 そう言いながら矢野に向かって頭を下げた。沙希にできることはこれくらいしかなかった。矢野はなにかを吹っ切ったように大きく息を吐く。

「仕事に戻ろうか」

 沙希はようやく頭を上げた。矢野はいつもと同じように笑顔を作って、通りすがりに沙希の肩をポンと叩いていった。

(こんな私を好きになってくれて、本当にありがとうございました)

 心の奥でもう一度矢野の背中に頭を下げた。少し鼻の奥がツンとしたが、なんとかこらえて部署へ戻った。矢野に訪れる次の恋が幸せなものであるように、と祈りながら……。


     


 午後はさほど忙しくなかったこともあり、沙希は気がつけば考えごとにふけっていた。仕事に身が入らない自分自身に嫌気がさすが、心の動揺はなかなかやまない。

 そんな沙希の様子を、隣の席の太田はリフレッシュ休暇前でそわそわしていると勘違いしたようだ。

「来週のこと、考えているんでしょう? いいなぁ。私も休み取りたいけど、休んだら子どもの世話をしないといけないから、それはそれで大変なのよね。独身時代に戻りたいわ」

 太田は横目で沙希を見た。彼女も今日は急ぎの仕事がないらしい。デスクの上でコーヒーが湯気を立てている。

 しかし沙希からすれば、太田のぼやきは幸せな吐息にしか感じられない。結婚を考えていないと公言していてもやはり家庭を持ち、子どもを育てることは、一種の夢であり理想だった。

「私は先輩が羨ましいですよ。優しい旦那さんとかわいい子どもさんがいて、なかよし家族じゃないですか」

「あら、私なんか勢いで結婚しちゃったようなものよ。それに子どもができたら、もう走り続けなきゃいけないわけ。自分のことはいつも後回しになっちゃう。沙希ちゃんも今のうちに遊んでおきなさいよ」

 太田はニッと笑ってから「あなたの場合、突然『結婚しました』なーんて言い出しそうだから」と付け足した。

「その前に相手がいません」

「そう?」

 苦笑しながら軽口に応酬すると、疑い深いまなざしを真横から向けられた。

「『川島さんのファン』はいっぱいいるみたいだけどなぁ」

 沙希は思わず睨むように太田を見たが、彼女はもう仕事に戻って目前のパソコンの画面に集中している。

 その様子を見て小さくため息を漏らし、沙希も机の上で待機している書類たちに向き合うことにした。

 手にした郵便物や書類の束をより分けていくと、陸宛の書類のところで手が止まる。先ほどから同じことを2回繰り返し、これが3度目だった。迷いを振り切るように顔を上げ、陸の席に目をやった。

 午前はまったく姿が見えなかった陸だが、午後は珍しく自席で仕事をしている。矢野との一件が業務に支障を与えたのかもしれない。無表情でパソコンに向かう陸の姿は、どことなく他人を寄せつけない雰囲気がある。

 この紙切れをただ陸の机の上に置いてくるだけのこと――。そう思っても沙希はなかなか席を立てずにいた。



「それでも俺の気持ちを知ってほしかったんだ」



 ふいに矢野の言葉がよみがえり、沙希の胸を締めつける。無垢な想いほど残酷なものはない。もっとほかに言うべき言葉があったのではないか、と沙希は急に後悔の念にとらわれた。

 同時に「相手の気持ちを考えすぎるのは、逆に相手のためにならないときもあるぞ」という陸の言葉が思い出された。

(私がグズグズしていたせいで、結局最悪のパターンになってしまった。浅野くんが忠告してくれたのに、私は……)

 まさか矢野に陸との関係を知られるとは思いもしなかったのだ。しかもそれを矢野が陸に問いただすことになろうとは――。

 昨日の失態から今朝の事件までが走馬灯のように脳裏を駆けた。

 これではもう陸に顔向けできない。そう思った途端、早く謝ってしまいたい衝動が心の奥から沙希を貫いた。

(そうだ。早く謝ってしまおう)

 意を決して沙希は立ち上がった。

 一度そう思うと、なにがなんでも謝ってしまわないと気が済まないようなところが、沙希にはあった。自分に非があるときは特にその気持ちが強くなる。きびきびと、だが陸の席から遠いところから机の間を歩き回った。

 そしてついに陸のところへたどりついてしまった。不自然なほど遠くから陸の机の上に書類を置く。腕を引っ込めるのと同時に、陸が沙希を振り返った。

「川島さん」

「あ、あの、今日もいろいろと迷惑をかけてごめんなさい」

 沙希は陸を牽制するように慌ててあやまり、深く頭を下げた。

「どうしてそんなに離れているわけ?」

 顔を上げると、陸は呆れた顔をしていたが、目が笑っていた。ホッとして沙希も少し表情を緩める。

「怒っているかな……と思って」

 幸いなことに周囲は空席ばかりだったので、素直に返事をした。

「俺が?」

 沙希は小さく頷いた。

「別に、怒ってないけど」

 沙希の心配をよそに、陸はなにもなかったような顔であっさり答える。そっけない返事だが、内心とても安堵した。

 だが沙希には言わなければならないことがもうひとつあった。

「あの……古賀さんの誓約書作ってくれたの……浅野くんでしょ?」

「ああ、あれ」

「ライブ……行けなかったんでしょ?」

 ほとんど消え入りそうな声で、沙希はようやくそのことを口にした。陸はその言葉を聞いて少し目を細めた。

「そのせいで行けなかったわけじゃないから気にすんな」

「でも……」

 気にしないほうが無理だと沙希は思った。

「これからあの手の仕事をプロジェクト外の人に頼むときは、必ず上司を通すことになったから、もう直接頼まれることはないはず」

「……え?」

 陸の言葉が意外すぎて理解するまでに少し時間がかかった。つまり古賀が沙希に直接仕事を依頼してくることはなくなったのだ。

 沙希がきょとんとしていると、陸は椅子を回して沙希と正面から向き合った。

「たまには『できない』とか『嫌だ』とかはっきり言ってもいいのに」

「そんなこと……できない」

 陸はフンと鼻で笑った。

「だろうね。変なところだけ真面目だからな」

「変なところだけって!」

 沙希は思わず大きな声を出してしまった。

 クスクス笑いながら肩をすくめる陸を見て、本当に怒っていないのだとわかる。沙希の心から不安は消え失せ、嬉しさがじわりと広がった。嫌われても仕方がないと覚悟していても、やはり嫌われたくはなかった。

「帰省すんの?」

「うん。来週から」

「じゃあ、お土産よろしく」

 口の端だけ上げて笑みを見せると、陸はパソコンに向かった。それだけで沙希の心臓はドキッと跳ね上がる。

 笑みを見たくらいでドキドキするなんて、どうかしていると自分でも思う。だが、陸の態度に一喜一憂するのは、まぎれもなく彼を好きだからだ。「もうやめた」といってすぐに陸を忘れてしまえるほど簡単なものではない。

 陸の席を離れた後もしばらくドキドキする心臓は静まらなかった。

(これじゃあ、どっちが先輩で、どっちが後輩だか……)

 沙希は離席中の多いデスクの上に丁寧に郵便物や書類を配布しながら、陸との会話を思い出し、ひそかに苦笑した。

 そしてもう古賀から直接仕事を頼まれることはない、と思うだけで急に晴れやかな気分になった。古賀の仕事を沙希が負担に感じていた証拠だ。

 しかし今日になって新たなルールができたのは、ずいぶん唐突な話に感じられた。昨日の卒倒事件は、古賀から仕事を依頼されたこととなんの関係ないのに、新しくできたルールは、沙希が倒れたことがきっかけで作られたとしか考えられないのだ。

(部長が気を遣ってくれたのかな? それとも浅野くんが……?)

 沙希は陸の背中を盗み見る。

 古賀の仕事を肩代わりしてくれたのは陸だった。確かな根拠はないけれども、部長からはリフレッシュ休暇の話題しか出なかったのだし、新ルールを発案したのは陸だと考えるのが自然ではないだろうか。

 思えば陸にはいつも助けられている。この春に再会したときには予想もしなかったことだ。それまでは沙希ひとりでもなんとかやっていたのに。

 不思議な気持ちだった。いつの間にか陸が自分を追い越して大人になってしまったような感覚。

 沙希は急に自分だけが取り残されたような気持ちになった。

(まるで昨日見た夢みたい。追いかけても追いつけず、追いかけることをやめてしまった私……)

 だが今の沙希には、昨日の夢のような悲しさはなかった。それよりもはるかに驚きと喜びが大きい。

 高校生の陸とともに過ごした日々、叶わぬことと知りながら、それでも沙希は陸のそばを片時も離れずに、大人になっていく彼を見ていたいと切実に思っていた。だからこそ数年の空白を越え、今こうして陸が大人になった姿を近くで見ることができるのは、奇跡としかいいようがない。

 これも運命の悪戯なのだろうか。

(誰の仕業でもいい。浅野くんにもう一度会わせてくれてありがとう)

 沙希は素直にそう思った。

(もうこれ以上は望まないから、今のままでいられたら……)

 わがままだろうかと思いながらも、そう願わずにはいられなかった。

 

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