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第一部 20

「東京で沙希に会ったそうね」

 沙希の母親は彼女に雰囲気がよく似た小柄な女性だった。陸はリビングに通されて、すすめられるままに腰をおろした。沙希の実家は高台にあり、リビングの大きな窓からは市街が一望できる。陸はしばしその景色にみとれてしまった。

「あの子、ようやく以前のことを終わらせたみたいで、あなたにとても感謝していたわ」

 陸は沙希の母親の言ったことがよく理解できず、聞き返した。

「終わらせる……?」

「あなたと会った後、自分から元カレに電話して『もう連絡されても迷惑だ』と伝えて、相手も了承したみたいなの」

「そうですか」

 沙希の母親は嬉しそうに微笑んでいたが、陸は複雑な気持ちだった。





 2月下旬、大学入試の2次試験が終わった後、陸は思い切って沙希に電話をかけた。約1年ぶりの電話だった。

 待ち合わせた場所へ早足で向かう。期待と不安、そして緊張がごちゃまぜになり、胸がパンと破裂しそうになっていたことは、いまだに忘れられない。

 ようやく約束した駅に着き、急いで辺りを見回した。すぐに陸の視線がある場所で止まる。レンガの壁を背にして、ショートカットの見慣れない沙希がそこにいた。伏し目がちに佇むその姿は、遠目に見ても沙希に間違いなかった。

 しかし彼女の目の前まで進むと、張り裂けそうだった陸の胸は落胆でぺちゃんこになった。沙希はもとから痩せていたが、頬はふっくらしていたはずだ。それがナイフでそぎ落としたかのようにやつれて見える。顔色も悪い。これは悪い夢ではないかと、陸は一瞬、自分の目を疑った。

 その日着ていたスーツが黒だったこともあり、冗談で「葬式へ行ってきたのか?」と言ってみたが、沙希の反応はただ儚げな笑みを浮かべるだけだった。

 妙ないらだちが陸の中で次第に大きくなっていく。なぜかはわからない。記憶の中の沙希と、目の前の沙希が、あまりにもかけ離れていたせいだろうか。



 一緒に食事をし、陸と別れた直後に元カレとも別れたこと、そしてつい最近になって元カレが「よりを戻したい」と言ってきたことまでをなんとか聞き出した。

 沙希は自分の話になると口数が少なくなる。それが陸からすれば、もったいぶっているように感じられて不愉快極まりない。陸は責めるような口調で「元カレのことは早くケリをつけるべきだ」と忠告したが、沙希は叱られた子どものようにただ小さくなるだけだった。

 そんな沙希を見ていると、陸の胸の内にひとつの疑念がわいてきた。――もしかして、沙希は元カレにまだ断ち切れない想いを抱いているのではないか? それが自分に対して心を開かない理由なのかと――。

 陸はそのいらだちを無意識に沙希へぶつけていた。

 だが後々、それがまったくの見当違いであることに気がつき、陸は後悔してもしきれぬ想いを抱くことになるのだ。





「あの、沙希さんになにがあったんですか?」

 陸が沙希の実家を訪れたのはそれを知るためだった。

 沙希の母親は陸の顔をまじまじと見つめた。

「私もなにがあったのか、わからないの。ほとんどなにも話してくれないから」

 やはりそうか、と失望が陸の胸を埋め尽くす。しかし元カレとの間でなにかが起きたことは明白なのだ。陸が唇を噛みしめていると、沙希の母親が言いにくそうに口を開いた。

「ただ、なにかの拍子に沙希がひどく取り乱すことがあって、そういうとき、断片的に口にする言葉からわかるのが……元カレと別れたときに暴力を受けたこと。ずいぶんひどいことも言われたようね」

 陸は深いため息をついた。それは簡単に予想できたことだった。

 だが陸は自分が裏切られたと沙希を恨むばかりで、彼女が選んだ本当の答えに気がつかなかった。そればかりか先日は冷たい態度でさらに彼女を傷つけたのだ。沙希の憔悴した表情が脳裏によみがえる。

「まぶたの上の傷もそのときに……?」

「そうなの。よく気がついたわね」

 陸は自分の顔が赤くなったのではないかと思った。その傷に気がついたのはベッドの上だったからだ。傷自体は小さいが、周囲の皮膚が少し盛り上がっていて、硬く鋭利なもので削り取られた跡に見えた。

 それに気がついた瞬間のまるで自分の胸もナイフで抉られるような感覚が、再度陸を襲った。

「沙希はね、あなたのことが本当に好きだったみたい」

 沙希の母親の言葉に陸はドキッとした。

「あなたに別れを告げた次の日、1日中泣いていたわ。あんな沙希を見たのは初めて。そしてあなたの気持ちに応えられない自分を責め続けてた……」

 そこで一旦言葉を区切って、沙希の母親は視線を落とした。

「でも自分の気持ちを偽れなくて彼氏と別れようと思ったんでしょうね。いや、もっと前からそう決めていたのかもしれない。ただ別れるのは簡単じゃないこともわかっていて、たぶん沙希は私たち家族とあなたに迷惑がかからない方法を選んだのね」

 このとき陸は、自分の考えがどれだけ浅はかだったかを思い知った。沙希に別れを告げられたその日以降も、表面的には裏切られたことを恨みながら、心の奥では沙希が自分を裏切るはずがないと盲目的に信じていたのだ。

 それなのに、まさか沙希が自らを犠牲にしてすべてを捨てる道を選ぶとは、思いも寄らなかった。

 だが考えてみれば、それこそがもっとも沙希らしい結論だった。沙希はたぶん誰かの犠牲の上に自らの幸せが成り立つとは信じていない。知っていたはずなのに、どうして気がつかなかったのか――。

(俺はまるっきりガキだな)

 東京で会ったあのとき、沙希が陸に心を開かなかったのは、陸を頼ることができないからなのだろう。そんな自分が情けなかった。

 陸は沙希の母親に丁寧に礼を言い、リビングを後にした。玄関で靴を履いていると、沙希の母親はなにげなく「東京に行ったのは入試で?」と尋ねてきた。

「そうです」

「どうだったの?」

「おかげさまで合格しました」

「そう。それは沙希も喜ぶわね。あなたは最後の生徒さんだから。……でも」

 立ち上がった陸を沙希の母親は真正面から見据えた。



「しばらく沙希には会わないで欲しいの」



 陸は頭を鈍器で殴られたような感覚に陥った。

「今やっと過去のことを本当の過去にできたところだけど、精神的に回復するにはもっと時間がかかると思うの。正直なところ、時間が経っても忘れられるかどうか……。私はもう結婚なんかしなくていいから、ずっと家にいてくれればいいと思っているの」

 言葉が出てこなかった。

「きっと沙希は今でもあなたのことが好きだと思うわ。でもあなたといると、どうしても過去のことを思い出してしまう」

 沙希の母親は姿勢を正してあらたまる。

「勝手なお願いですが、しばらく沙希をそっとしておいてやってください」

 そう言って深々と頭を下げた。

「……わかりました」

 陸はそう答えるのがやっとだった。声が掠れた。玄関を出ると目頭が熱くなった。



『もう会えないんだね』



 沙希の声が聞こえた気がした。

 過ぎ去った時間を取り返すことはできないのだ。陸は初めて人生にリセットボタンがあるなら、それを押してもう一度やり直したいと思った。涙が頬を伝ったが、拭いもせずただ前だけを見て歩き続けた。


     


 矢野は陸の言葉を黙って待っていた。

「……俺じゃダメなんですよ」

 陸はようやく吐き捨てるように言った。

「俺が入社するまで、突然倒れたりするようなことはなかったんですよね? つまり俺のせいでアイツは心の均衡を崩してしまったんです」

 沙希の母親の言ったことは正しかったと陸は思い始めていた。昨日沙希の部屋を訪れたのもそれを確かめるためだった。認めたくはなかったが、確実に陸の存在が沙希に悪影響を及ぼしている。

(俺は結局、ただ沙希を困らせるだけの存在なのかも……)

 気づかないふりをしていたが、陸はずっと自分自身にいらだっていたのだ。

 昔とは違って少しは大人になったつもりだった。近くにいれば彼女のためにできることもあるのではないかと思っていた。

 しかしそれはただの思い上がりなのかもしれない。

「それなら引けよ」

 無機質な声が会議室に響いた。

「今は無理ですね」

 陸は反射的に答えていた。矢野の言い方が気に入らなかったのもある。

「なんだよ、それ。おかしいだろ」

「だから俺たちはもっと別の関係のほうがよかったんです。好きとか嫌いとか、そんな簡単じゃないんですよ」

「じゃあ、なんだって言うんだよ?」

 言葉に詰まった。

(説明なんかできねぇよ)

 自分でもよくわからなかった。沙希が自分を拒絶するなら、いつでもそれを受け入れるつもりだった。沙希が他の誰かを愛するなら、それをも受け入れるつもりだった。それでも陸はおそらく沙希を嫌いにはなれないのだ。

 だが今は引くわけにはいかない。陸の脳裏にひとりの男の顔が浮かんだ。

「とにかく、今は無理ですね」

 陸は先ほどと同じ答えを繰り返した。矢野の冷たい視線を受け止める。

「お前がライバルだったとは……」

 矢野はそう言って陸に背を向けた。その背中を見て陸は小さくため息をついた。


     


 沙希は自分のデスクに戻ってからも陸と矢野のことが気になってぼんやりとしていた。

 なにげなくメールを見ていると、古賀からのものがあった。

 沙希はそこでハッとした。「昨日中に」と頼まれた書類があったのに、昨日は早退してしまったので、手をつけていないことに気がつく。すっかり忘れていた。書類を探すが見つからない。そもそも昨日、山になっていたはずの書類たちは今朝までにすべて処理されていたのだ。

 慌ててメールを開いて読む。



 > お疲れ様です。ファイル確認しました。遅い時間にありがとう。助かりました。



(え? どういうこと?)

 沙希はメーラーの送信済みフォルダを開けた。確かに昨日の20時半に古賀宛にメールが送信されている。添付ファイルを開くと、作成済みの誓約書には丁寧に社印が押してあり、和訳まで添付されていた。

(部長が? でもそれなら私のふりをしてメールを送信する必要ないよね)

「あの、これって……」

 隣の席の太田に声をかけた。太田は「ん?」と沙希のほうを向いて、沙希が指差す画面を覗き込む。

「昨日、誰か私のパソコンを使いましたか?」

「そういえば誰か持っていったかも。薫ちゃん! 昨日沙希ちゃんのパソコン使ってたのは誰?」

 少し離れた席の早坂薫がにっこりと笑って「浅野くんですよ」と答えた。

(……ウソ! だって20時半ってことは、その時間に会社にいたってこと? じゃあライブは?)

 薫はわざわざ仕事の手を止めて沙希のところまでやってきた。

「古賀さんから頼まれたあの厄介なお仕事、浅野くんがやってくれたんですね。他にもいくつか書類作成してたけど、彼、仕事早くてびっくりしました」

 沙希は顔から血の気が引いていくのを感じた。

「先輩、また顔色悪いですよ」

「ううん、なんでもないの。教えてくれてありがとう」

 笑顔を作って薫に礼を言った。急に給湯室での陸の不機嫌な態度と「眠いんだよ」の言葉に合点がいく。

(どうしよう……。完全に私のせいだ……)

 その上、昨夜は心配して部屋に寄ってくれたことを思うと、いろいろな気持ちがごちゃ混ぜになって泣きたくなった。しかも今ごろはおそらく矢野の尋問を受けているはずだ。

(昨日、私が倒れなければ、こんなことにはならなかったのに)

 沙希は自分のなにもかもが嫌になってきた。1番迷惑をかけたくない人に迷惑をかけてしまったことが悔やまれた。陸が怒るのも当然だと思う。

(もういい加減、嫌われただろうな……)

 この期に及んで思うことがこれか、と沙希は自身を嘲笑った。

 でも、そのほうがいいのかもしれない。どうせこんな不確かな関係は長く続くはずもなかったのだ。そう思えば少しだけすっきりとした気分になった。

(できるだけ早いうちにリフレッシュ休暇を取ろう)

 なぜだか無性に母親の顔が見たくなってきた。沙希は卓上カレンダーを手元に引き寄せ、休暇の計画を練り始めた。

 

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