ピンポーン!
ピンポーン!
ピンポーン! ピンポーン! …………
沙希は夢の中にいた。遠くでなにかが鳴っている。
(うるさいなぁ……なんの音だろう?)
音を認識した途端、急速に夢の世界が遠ざかる。それと同時に沙希の意識が覚醒した。
(チャイムの音? ……誰? こんな時間に)
ベッドサイドの時計に目をやると、もうすぐ23時になるところだ。
ピンポーン!
チャイムはまだしつこく鳴っている。こんな時間に、これほど執拗にチャイムを鳴らすくらいだから、もしかすると近隣で異常事態が発生したのかもしれない。
そう思うと心が急いた。慌てて起き上がろうとするが、眠っている間に足がつったか、痺れていたらしい。自分でも驚くほどの大きな音を立ててベッドから落ちた。
一瞬、チャイムが止まる。
足をさすりながら慎重に起き上がった。それから静かに玄関へ向かうと、覗き窓に顔を寄せ、外の様子を窺う。
ドアの向こう側にいる人物を確認した沙希は、驚いて息を呑んだ。
「どうしたの?」
慌てて鍵を開けると、そこには憮然とした表情の陸が突っ立っていた。
「それはこっちのセリフだって。すごい音がしたけど大丈夫か? それに携帯は繋がらねぇし、どうなってんだよ」
「あ! そういえば電池切れてた」
「お前……」
呆れ顔の陸はため息混じりに言った。そして手に提げていたコンビニの袋を沙希の目の前にかざす。
「ほら、飯」
袋を沙希に押しつけると、陸は当然のように靴を脱ぐ。袋の中を覗いてみると弁当と飲み物がふたつずつ入っていた。
「それ、俺の分も入ってるから」
「あ、そうなんだ」
ということは、陸もまだ夕食を摂っていなかったのだろう。今日がライブの日だと思い出した沙希は、複雑な気持ちで弁当を見つめる。それでこんな時間にやって来たのだろうか、と思う。
「今日、ライブだったんでしょ? どうだった?」
平静を装ったつもりだが、少し声が上ずった。
陸は驚いて目を見開いた。
「よく知ってるな。アイツ、宣伝して歩いていたのか」
「ま、そんなところ」
沙希は苦い気持ちを抑えて無理に笑顔を作った。「どうだった?」と尋ねたものの、本当は感想など聞きたくなかったのだ。
「よかったよ」
陸は沙希の顔を見ずに、まるで他人事のようにそう言った。
「それよりお前、大丈夫なのか?」
コンビニ弁当を食べながら、陸は沙希の顔をじろじろと観察する。
「うん。病院行ったらストレスじゃないかって」
薫に言われたとおり沙希はタクシーで病院へ行った。問診を終えた医師は「気になる症状があるなら精密検査をしてみるか」と提案してきた。倒れたのは事実だが、考えてみればこれまで貧血と言われたこともないし、痛む場所があるわけでもない。返答に詰まった沙希をかわいそうに思ったのか、医師は「おそらくストレスでしょう」と結論づけ、診察があっさり終了した。
(まぁ、今はそんなに気分悪くないし、病気ではないよね、たぶん)
「……お前、こういうこと、よくあるの?」
ストレスという言葉が出た後、陸の表情が険しくなった。
「倒れたのは人生で2回目かな」
1回目は大学時代に学部コンパの席で倒れた。高名な教授の隣で正座をし、ガチガチに緊張していたせいなのか、立ち上がった途端、急に意識が遠のいたのだ。気がつくとすぐ近くの長椅子に寝かされていて、沙希はそのときようやく卒倒した事実を知った。
「それ、1回目は飲み会で倒れたってヤツだろ?」
昔、話したことを陸は覚えていたようだ。沙希は小さく頷く。
「今日は浅野くんが医務室まで運んでくれたんだってね。ありがとう」
陸は黙ったままじっと沙希の顔を見つめている。なんだか居心地が悪い。だが沙希も視線を外すことができなかった。
「……重かったよね? ごめんね」
間がもたないので、沙希はひとりごとのようにつぶやく。
「あの……」
なにも言わずにいきなり陸が立ち上がった。弁当はもう空になっている。
「帰るわ。ちゃんと休めよ」
そう言い残すとあっけなく帰っていった。沙希は玄関のドアが閉まった後も、その場に茫然と突っ立っていた。
(機嫌悪い? ……私、なにか変なこと、言ったかな?)
もやもやした気分が残る。
沙希は食べかけの弁当をつつきながら、空になった陸の弁当を眺めた。心配してわざわざ立ち寄ってくれたことは嬉しいが、やはり最後のそっけない態度が気になった。
(倉田さんとライブ……楽しかったのかな)
そのことを考えると、どうしようもなく胸が痛んだ。
陸には幸せになってほしい。
だが他の女性を好きになっていく姿を見せつけられるのはたまらない。
そんな陸を黙って見ていることしかできないのなら、いっそ自分自身を消してしまいたい。
わがままで醜い想いが沙希の中でむくりと頭をもたげた。
翌日、出社した沙希は自分のデスクを見て驚いた。
山になっていたはずの書類がひとつも見当たらない。
隣の席の太田先輩が目ざとく沙希の気持ちを読んで教えてくれた。
「薫ちゃんと私でできる分はやっておいたよ。あとは……部長が持っていっちゃった」
「部長が?」
昨日のトラブル発生後、慌ただしい様子で外出準備をする部長の姿が脳裏によみがえる。あれから沙希が倒れたことで、さらに面倒を増やしてしまったのだ。申し訳なくて胸がふさがる。
とりあえず部長席へ向かった。
「昨日は大変ご迷惑をおかけしまして、申し訳ありません」
「体調はどう? 今日は無理しなくてもよかったのに」
部長は柔和な表情を沙希に向けた。
「もう大丈夫です。ご心配をおけしました」
「そう、それはよかった。それで川島さんにひとつ提案があるんだけど」
沙希が部長席へやって来ることを見越してあらかじめ準備されていたらしい。部長は1枚の紙を手に取り、沙希へ差し出す。
「川島さんも入社5年目だし、この機会にリフレッシュ休暇を取ったらどうかな、と思ってね」
沙希は書類に目を走らせる。5年目で取得できる休暇は連続5日間と書いてあった。
「川島さんの業務は毎日のことだから休暇を取りにくいでしょう。お盆も帰らなかったんだって? 少し実家に帰ってのんびりしてきたらいいんじゃない」
部長は優しい口調でそう言った。
「でも……」
「時期は川島さんのほうで決めていいから、考えてみて。業務は心配しなくても大丈夫。こちらで分担してなんとかするから、ね?」
「はぁ……」
そこまで言われると沙希も頷くしかなかった。
(リフレッシュ休暇か……)
朝の仕事をひととおり終えると、沙希は給湯室へ向かった。コーヒーを淹れながら、部長に言われたことをぼんやりと考えてみる。
マグカップを手にしてひと口飲もうかと思った瞬間、背後に人の気配を感じた。
振り返る間もなく、マグカップは沙希の手から奪い取られ、シンクの上で逆さになっている。
ジャーッと音を立て、コーヒーは勢いよく排水溝に消えた。
慌てて振り返ると、陸が怒った顔でマグカップを持っている。
「コーヒーはやめとけ。胃が弱いんだから」
「な……っ! もったいない。マグカップ、返してよ」
「イヤだね。俺がいなくなったら飲む気だろ」
陸はマグカップを沙希からわざと遠ざけた。その意地悪な仕草に沙希はカッとなる。
「なによ? なにか怒ってる?」
「別に怒ってねぇよ」
言葉とは裏腹に陸の表情は冷たかった。
「じゃあ、なんで意地悪するの」
「眠いんだよ」
乱暴に言い捨てられた言葉に、沙希はハッとした。陸の顔をよく見ると、確かに疲労の色が濃い。
昨夜もあんな遅い時間に沙希の部屋へ立ち寄ったのだ。陸が帰宅したのは日付が変わった後に違いない。若い陸であっても、仕事明けにライブへ行き、それから他人の家まで足をのばして疲れないわけがない。
「ごめん。私のせいで……」
沙希はうなだれた。陸はなにも言わずにマグカップをシンクの横に置いて立ち去ろうとしたが、そこで足を止めた。
今までとは違う気配を感じ、沙希も顔を上げる。次の瞬間、心臓が止まるほど驚愕した。
給湯室の入口に、複雑な表情でふたりを見ている矢野がいた。
「勤務時間中にこういう話は不謹慎だと思うけど、話を聞かなければ仕事が手につかないから」
そう前置きして矢野は単刀直入に「どういう関係?」と陸に尋ねた。
空いている会議室に矢野は陸だけを呼んだ。沙希は不安げな視線を陸によこしたが、矢野に気づかれないよう手で追い払う仕草をした。
「川島さんは、俺の高校時代の家庭教師ですよ」
窓際に立っている矢野は表情を変えず、陸に鋭い視線を向けた。
「今は?」
陸は会議テーブルに寄りかかった。
「……友達です」
矢野は腑に落ちない様子で顔を歪めた。それはそうだろうと思う。給湯室での沙希はすっかり油断していて、陸とふたりきりのときにしか見せない態度をとった。だから「友達」などという言い逃れが通用するとは、陸も最初から思っていない。
「友達にしては、ずいぶん親しそうだったな。川島さんが男性に対してあんなふうに口を利くのを聞いたことがない」
「長い付き合いですからね」
陸はわざと面倒くさそうに言った。察しているならあえて言う必要もないと思うが、今の矢野はそういう曖昧さも許容できないらしい。
「それはただの友達じゃない、ってことだろ?」
「セフレか? と訊けばいいじゃないですか」
矢野は黙った。陸は小さくため息をつく。
「もしそうだったら?」
「お前を殴る」
矢野は間髪入れずに断言した。沙希を憐れんでいるのだろう。矢野の立場なら当然の反応だ。
だが陸のほうも、ただ殴られるわけにはいかない。
「俺はセフレだとは思っていませんけどね」
「川島さんのことが好きなのか?」
直球が飛んできた。回りくどい表現もうっとうしいが、直接的な質問も困るものだな、と陸は思った。
「……さぁ?」
「なんだよ、それ」
「俺の気持ちなんか聞いてどうするんですか? それにもし俺がアイツを好きだとしても、アイツは俺の気持ちを受け入れるわけないんです」
「……どういうことだ?」
矢野は低い声で言った。
「5年前に俺を捨てたのはアイツですからね」
「……5年前」
陸は当時のことを思い出し、苦い笑みを浮かべた。
「俺とアイツはいわゆる恋人の関係でしたけど」
矢野は眉間に皺を寄せる。
「アイツには高校時代から付き合っている彼氏がいて、結局俺はふられたんです」
「それはうちの会社に入る前のことだろ?」
5年前と聞き、矢野は計算しているようだった。
「入社して以来、川島さんに彼氏がいたと聞いたことないが……」
「そうでしょうね。アイツは結局、俺も彼氏も選ばなかったから」
陸は唇を噛んだ。
(なぜすぐに気がつかなかったんだろう)
まさか彼氏より先に別れを告げられると思っていなかった陸は、裏切られたショックでずいぶん沙希を恨んだ。最後は彼氏を選んで、結局自分は遊びだったのだ、と。
だから携帯を変えたと連絡がきても返事はしなかった。なにを今さら、と思ったのだ。だが、結局そのメールは消すことができなかった。
そして陸が沙希の選んだ本当の答えを知ったのは、それから約1年後の自分の誕生日だった。
「川島さんが恋愛をしない理由は、それか?」
そんなことは本人に聞かなければわからないが、陸もおそらくそうなのだろうと思う。
「そうじゃないですか? アイツは人を好きにならないよう、自分に一生懸命呪いをかけてるんですよ」
「どうして……」
矢野はまだ納得がいかないようだった。
陸は沙希の不安げな顔を思い出し、後頭部に手を当てた。沙希本人から矢野にすべてを話すことは、おそらくできないだろう。覚悟を決めて、口を開く。
「矢野さん、DVって知っていますか?」
「言葉の意味は知ってる」
「アイツ、その被害者なんです」
「え?」
それは矢野にとって思いがけない言葉だったらしく、口をだらしなく開いたまま固まった。
「アイツはまだそれを引きずっていて、昨日倒れたのもおそらくフラッシュバックが起きたんだと思います」
「そんな……」
「本人は相当つらいだろうと思いますよ。見ているだけで、なにもしてやれないこっちもつらいけど」
幼稚な考えにとらわれていた過去の自分に嫌気が差す。沙希は陸を選ばなかったのではなく、選べなかったのだ。しかし沙希から別れの言葉を告げられたその瞬間、陸の中に激しい嵐が吹き荒れ、思わず目を覆ってしまった――。
だから嵐がようやく収まったころ、おそるおそる目を開け、そこで真実のかけらを見つけた陸は愕然としたのだ。そして、なにもかもが手遅れだった。
陸はまっすぐに矢野を見た。
「もしアイツが矢野さんを心から好きになれるなら、それが1番いいと俺は思っています」
「浅野がここにいたら、それは無理じゃないのか? だって川島さんは浅野のことを……」
その先を言わせるわけにはいかない。陸は慌てて矢野の言葉をさえぎった。
「俺は……いや、俺とアイツはもっと別の関係であればよかったんです。親子とか兄弟とか」
矢野は腕を組んだ。そしてひとこと「わからない」とつぶやいた。
「好きなんだろ? なぜそんなに複雑にするんだ?」
陸は遠い目をした。ある晴れた日のことを思い出す。
大学の合格発表の日、陸は思い切って沙希の実家に電話をかけた。電話を取り次いでもらうために何度か話をしたことがあったので、沙希の母親は陸のことを覚えていてくれた。
そしてその日、陸は初めて沙希の実家を訪れた。