車窓に寄りかかって、陸はあくびをした。
盆明け1日目の早朝から電話で呼び出され、常務と一緒に取引先へ出向いた帰りの車中だった。普段は矢野と行動を共にしている陸だが、こんなだらしない態度を取ることはまずない。
「浅野くんも顔が利くもんだな」
常務が新聞を読みながら話しかけてきた。
うんざりした表情で陸は常務を横目に見る。
「いいことじゃないか。人脈というのは貴重な宝だよ」
(人脈ね……)
窓の外に視線を移した。だが、陸が見ているのは景色ではない。頭の中には先程の取引先でのやり取りが再現されていた。
「君が浅野くん?」
このガラス張りの巨大なビルを、遠くから眺めたことはあったが、その内部へ入るのは初めてだ。威圧的な建物をガラスが覆うことによって、見るものを釘づけにする美しさを纏っている。それはまさにこの建物を所有する企業のイメージそのものだと陸は思った。
国内最大手電機メーカーS社は、K社の主要取引先でもある。そのS社の本社ビルを訪れた陸に、相手方の恰幅のよい男性が開口一番、言ったセリフがそれだった。
名刺交換して、陸はその男性がS社の取締役だと知った。
「実は、私の娘が今年からそちらの会社でお世話になっていまして」
陸は名刺をもう一度見た。『倉田 正治』とある。
(……倉田?)
すぐに倉田由紀を思い出した。よく見ると目の前の男性と由紀は似ているような気がしないでもない。
「なるほど。君に来てもらってよかったよ」
倉田取締役は穏やかな笑みを浮かべて言った。
「娘に頼まれて、あるチケットを手に入れたんだが……」
途端に陸の表情が険しくなる。「チケット」という言葉で、すぐに話が見えた。今日はそのライブの日なのだ。
「浅野くん、今日の都合はどうかな? 娘と一緒に行くつもりでいてくれたのだろうか」
(これは一種の脅しだな)
眉間に皺を寄せたまま、陸は言葉を選ぶために視線を外した。
「もちろん、ご一緒させていただくつもりだろう?」
今まで空気のような存在だった常務が突然口を挟んだ。
「仕事が早く終われば……」
「今日は残業などしなくてもいいだろう。せっかくのご好意なのだから」
陸の言葉をさえぎって、常務は強い口調で言った。
(これが取引だって言うのか? 冗談だろ!?)
一瞬目を伏せて、自分の感情をすべて抑えつける。
「ぜひ、ご一緒させてください」
そのセリフを言った声音が、陸には他人のもののように感じられる。くやしいが、初めから陸に拒否する権利はないのだ。
陸が常務とともにS社を訪れたのは、謝罪のためだった。
陸の会社は独自の家電製品でもそれなりに知名度のある会社だが、国内最大手のS社のブランド力には、当然だが到底敵わない。しかし多様な製品を扱うS社が、すべてを自社で開発、設計、生産することは、価格競争の厳しい昨今の業界事情に照らし合わせると不合理である。
そのためS社は、自社の製品と相性のよい企業と手を結び、さらに自社のブランド力を高める戦略をとってきた。それにより高い技術力が買われたK社は、S社製品の内部電子機器をS社専用に生産、納品している。
今日、陸が常務とともにS社を訪れたのは、その納入機器にトラブルが発生したためだ。製品内部より使用禁止物質の鉛が検出されたのだ。
日本での認知度はそれほど高くないが、環境汚染物質に対する欧米の対応は厳しい。
もし鉛を含有したままその製品を輸出したことが発覚した場合、S社は多大な損害を被ることになる。
今回検出された鉛は、K社が他のメーカーから購入した部品に含有されていたようだ。
当然、K社でも環境汚染物質への取り組みはおこなっているが、ほとんどの場合がメーカー提出の使用含有物質リストのチェックだけで、部品内部まで精密に検査することはない。
今回のトラブルの直接的な責任は本来この部品メーカーにあるのだが、完成品として納入している以上、S社に対して責任を負うのはK社なのだった。
「しかし、君もずいぶん大物に好かれたものだね」
常務の冷やかしを聞いて、陸は目をつぶった。
早朝、電話で呼び出されたときは、S社担当でもない新人の自分が、なぜ呼ばれたのかわからなかった。
(まさかこんな理由だとは……)
これがビジネスの世界の話とは思いたくなかった。
小さな会社同士の話ならまだしも、相手は世界にそのブランド名を知られている会社なのだ。そんな大会社が自分の娘とのデートを取引材料にしてくるとは思ってもみなかった。
「どうせ、すぐに俺のことなんか忘れますよ」
車窓にもたれて頬杖をつく。
「半年後にはここからいなくなるんだし」
つぶやくように言う陸を、常務はチラッと見ただけで、それ以上なにも言わなかった。
タイミングを見計らったかのように、陸の携帯電話が鳴った。着信の名前を見て、陸は険しい顔をする。
『上手くいったようじゃないか』
電話の相手は機嫌がよさそうだ。苛立ちが急激に増殖するのを感じるが、陸は感情を殺して静かに返事をする。
「……アンタ、あの倉田って取締役と大学同じだったって?」
『別に仲がよかったわけでもないがね』
「でもアンタが行けば話が早かったんじゃね?」
電話の相手はフンと鼻で笑った。
『あちらがお前をご指名してきたんだ』
「アンタ、知ってたんだろ」
『なにを、だね?』
「とぼけるな。全部だよ」
陸は少し声を荒げる。
隣にいる常務は素知らぬ顔で新聞を開いているが、間違いなく陸の電話を聞いている。話を聞かれるのはよい気分ではないが、事の顛末はすべて知られているのだから仕方がない。
電話の相手は珍しく返答までに少し間があった。
『……親は子どもに甘いものだ』
「だからって!」
『お前に借りができたな』
相手の声にはどこか優しい響きがあった。陸は少し戸惑う。
(どういうつもりなんだ)
いつもそうだが、この相手の真意が陸にはいまいち掴めない。もともと苦手な相手だから、なおさらそう感じるのかもしれない。
「……そんなこと、どうでもいい」
相手は電話の向こうで笑ったようだ。
『今日は早く上がるといい』
そう言って電話は切れた。
陸はまた窓の外に目をやった。陸の気持ちと同様、空はどんよりと曇っていた。
ここは灰色が似合う街だ、と思う。
すっきりしない気分のまま会社に戻らなければならないことが憂鬱だった。
古賀から余計な仕事を押しつけられて、沙希は机の前でしばらく茫然としていたが、まずは山になっている書類を振り分けて処理しなくてはいけないことに気がついた。
その中に東北地方の工場宛て書類フォルダーがあった。
東北地方の工場への定期便は日に1便のみで、午前11時までに所定の場所へ提出しなければ翌日の便になってしまう。まずい、と絶叫に似た声が頭の中に響いた。
時計を見るとすでに10時55分になっていた。
沙希は書類フォルダーを持つと小走りでフロアを抜けた。階段をおりる足がもつれそうになってもどかしい。
玄関を駆け出ると、東北工場行きの車は貨物置場の前に到着し、荷物を積み込む作業員の姿が目に入った。
空はぶ厚い雲に覆われているが、真夏の屋外の熱気は息苦しいほどだった。それが容赦なく沙希を襲う。一瞬、めまいのようなものを感じたが、とにかく走る。
「これもお願いします」
なんとか間に合って、沙希は安堵した。しかしこれで仕事がすべて終わったわけではない。イレギュラーな仕事をねじ込むには、今ここでぼうっとしている暇などないことに気がつき、慌てて踵を返す。
沙希の所属する営業部がある建物は、1階が商談フロアになっている。
少し凝ったデザインのガラス張りのエントランスから入ると、受付とロビーがある。続いて商談スペースがあり、最奥部には個室の商談室が5部屋あった。
沙希は来客用のエントランスではなく、その脇にある社員通用口から出入りしている。商談スペースと廊下とは壁とドアで仕切られていて、通常は廊下から中の様子はわからない。
だが、廊下を急いでいた沙希の足にブレーキがかかる。商談スペースの壁が終わり、個室のドアが並ぶ通路の前だ。社員が商談フロアへ向かう際に通る場所で、沙希が立ち止まる理由はないはずだった。
それなのに沙希は立ち止まっていた。個室のドアのひとつがわずかに開いている。しかし誰かが出てくる気配はない。
そのドアの隙間から突然、聞き覚えのある声が沙希の耳に届いた。それは怒号だった。
「ふざけるな! 謝ったくらいで済む問題か!? なに考えてるんだ、バカヤロー!」
「死んでしまえ!」
怒鳴り声が沙希の頭の中を支配し、硬直した身体を違和感が襲う。
腹痛のような、頭痛のような、沙希自身も判別できない気持ち悪いものが足元から這い上がってきた。
急に視界が霞む。
(ここから引き返さなければ……)
回れ右をしたつもりだったが、実際は廊下に置いてあるキャビネットに手をついて自分の身体を支えるので精一杯だった。
視界だけでなく、自分の五感すべてが急速に意識から遠のく。
もう立っているのは困難だった。
しゃがみこんでかろうじて身体を支える。
「沙希?」
そのとき、玄関のほうから声がした。
視界はかなり狭いが、力を振り絞って顔を上げ、声の主を探す。
「おい、沙希! 大丈夫か?」
(……だから、会社で名前を呼んじゃダメ……だっ……て……)
朦朧とする意識の中で、最後にただそれだけを思った。
誰かが自分の肩をつかむ感触に安堵し、沙希は完全に意識を手放した。
長い長い夢を見ていた。
なんだか悲しい夢だった。けれども怖くはない。
沙希は誰かを探していた。
(あ……!)
沙希がよく知っている人物の背中が見えた。
(待って! 行かないで!!)
……ここはどこだろう?
沙希は夢の中で考える。
全体は白い印象だ。会社に似た建物の中にいるようだが、全体がよく見えない。よく見ようとすればするほど、輪郭がぼんやりしてわからなくなる。
(とにかくあの人を追いかけなきゃ)
……あの人? あの人は誰なんだろう?
なにかに駆り立てられるように沙希はその人物を探した。
(あの人に会いたい)
それが自分の心の奥底からの欲求だと沙希は気がつく。
……私が会いたい人……
通路を奥まで進むと曲がり角があった。その角を曲がる。
長い廊下の向こうに、その人がいた。
「ついてこいよ」
ただひとことそう言って、壁の中へ消える。エレベーターに乗ったようだ。
(待って!)
沙希はそのエレベーターに駆け寄る。だがすでにドアは閉まっていて、沙希は乗れなかった。
追いかけたかったが、それ以上は追いかけられない。行き先がわからないのだ。
(置いて行かないで……)
とても悲しかった。沙希は子どもに返ったように声を上げて泣いた。
「それでね、浅野くんに冷たくされる夢を見たの」
夢は次の場面に変わり、沙希は自分の部屋で電話をしていた。
(これは……5年前の私だ)
沙希はすぐに思い出した。珍しく甘えるようなことを陸に言った。
その前夜、内容は忘れてしまったが、陸が冷たくふるまう夢を見たのだった。別れのときがふたりのすぐ側まで近づいていた。
『俺がお前に冷たくするわけないだろ?』
いつもと変わらない優しい声に沙希は安心する。ただその言葉を聞きたかったのだと思う。
胸の中に甘い気持ちが広がっていくのを感じた。
今度は見覚えのある部屋の場面に変わった。沙希の部屋ではない。
(これは浅野くんの部屋だ)
陸の実家の部屋らしき風景がぼんやりと見える。
そこにかつてのふたりが見えた。
(あれ……?)
沙希は不思議に思った。今までの夢とは違い、沙希は離れた場所からふたりを見ていた。つまり録画された映像を見るように、5年前の自分の姿を観察していた。
陸が沙希に寄り添い、歌を口ずさんでいた。
「I love you」のフレーズが何度も繰り返される。
(……この曲……)
沙希は胸が締めつけられる感覚に耐えられず、思わず鎖骨の間を手で押さえた。
その後のやり取りを沙希は知っているのだ。
「この曲、知ってる?」
5年前の沙希が少し首を傾げている。陸は目を細めて微笑んだ。
「これ、カップリングだから、知らないか」
「でもカップリングでいい曲って結構あるよね」
うん、と陸も嬉しそうに頷いた。
「この歌はさ、すごく好きな人がいて、その人は手の届かない人なんだけど、他のヤツから『苦しそう』とか『狂ってる』って笑われても……それでもその人を好きで好きで、自分はすごく幸せ、って歌」
「ふーん」
沙希は内心、困ったような照れるような複雑な気持ちだった。
「まるで俺のことみたいだよな」
そう言った陸は目を閉じて、自嘲するように口元を歪める。
どうしていいかわからず、5年前の沙希はただその陸の横顔を見つめていた。
その視線に気がついた陸は、沙希の頬にキスをした。
「好き」
先程とは違う、はにかむような笑顔でそれだけ短く言うと、また初めから歌い出した。
涙が顔を濡らす冷たさで、目が覚めた。見たことのない天井と硬いベッド。どうやらここは医務室のようだ。
「先輩」
同じ課の早坂薫が、心配そうに沙希の顔を覗き込んでいた。
「……あの、私?」
「倒れちゃったんですよ。だから少し休まなきゃだめだって言ったのに」
薫は起き上がろうとした沙希を「まだ休んでてください」とベッドに押し戻した。
「ここまで浅野くんが運んできてくれたんですよ。商談スペース前の廊下で、先輩が倒れたところに通りかかったって言ってました」
「……そう」
意識がなくなる直前のことをぼんやりと思い出した。
やはりあれは陸だったのか、と思う。
意識が遠のいていたので、陸が自分を呼ぶ声しか覚えていない。他に人がいたのかどうかもわからない。
(どうして倒れたんだろう……)
北国で生まれ育ったため、夏の暑さに弱いことは沙希も自覚していた。だから夏バテで体調を崩すことのないよう気をつけていたのだ。
(そういえば……)
具合が悪くなる直前、営業3課の古賀の声を聞いた気がした。
(確か……「死んでしまえ」……だったかな)
記憶の底から嫌な思い出がよみがえりそうになったので、考えるのを止めた。なぜ商談中にそんな汚い言葉を遣う必要があるのか、沙希にはわからない。
だが、古賀は自分より格下だと思う相手には尊大な態度を取る人間だった。おそらく部長の言っていた「ちょっとしたトラブル」が原因なのだろう。いずれにしろ、古賀の下品な行いに落胆したことは間違いなかった。
(やっぱりあの人は苦手だな)
白い天井を眺めながらそう思っていると、薫がコップに水を汲んできてくれた。
「今、ここの看護師さんはちょうど不在なんですよ」
「それでずっと付いていてくれたの?」
沙希は起き上がって渡された水を飲んだ。薫も仕事が忙しいはずなのに、自分のために時間を割いてくれたことを申し訳なく思った。
「先輩、仕事……辛いですか?」
薫は沙希の顔を心配そうに見つめながら言った。
「そんなことはないよ」
「でも、泣いてました」
沙希は慌てて目の下をこする。もう涙は乾いていたが、薫に見られていたことが恥ずかしかった。
「悲しい夢を見ちゃって……。夢で泣くなんて子どもみたいだよね。恥ずかしい」
薫の顔をまともに見ることができなかった。そもそも勤務時間中に医務室のベッドで夢を見ていたという告白自体が恥ずかしい。
「疲れているんですよ。今日は早退して病院に行ってくださいね。これからタクシー呼びますから」
電話をかけるジェスチャーをして、薫はすぐにベッドを離れる。
「待って! 私は大丈夫だよ」
沙希は慌てて薫を止めようとした。だがカーテンの向こうから顔だけ出した薫は、キリリとした表情で沙希を睨む。
「これは部長からの命令です」
「だって部長は外出したんじゃ……」
「とにかく、タクシーで病院に行くこと!」
薫は有無を言わせぬ口調でそう指示すると、すぐに電話をかけた。
しぶしぶ沙希は靴を履いて立ち上がった。身体が重い。やはりこんな状態では仕事にならないと認めざるを得なかった。
薫は沙希がタクシーに乗るまで付き添ってくれた。彼女は本当に優しくて気配りの行き届いた素敵な女性だと思う。
(薫ちゃんみたいな人をお嫁さんにする男性は幸せだろうな)
こちらに手を振る薫に、手を振り返しながら沙希はそう思った。
(……私は、ダメだな。大切な人を裏切った人間が、誰かを幸せにすることなどできるわけないもの。その上自分も幸せになろうなんておこがましくて、とても……)
身体だけでなく気分も重い。曇った空が沙希の心をも翳らせる。
どうしてこんなことになったのだろう。半年前ならここまで不安定になることはなかったのに。過去を思い出して取り乱すこともなかったのに。恋していた頃の記憶が現在の沙希を混乱させて、陸への想いを脅威的に増幅している気がしてならない。
懐かしさが溢れて悪酔いしたためにこれほど胸が痛むのか、それとも喉から手が出るほどに切望するから苦しいのか、タクシーに揺られながら沙希は考えてみる。
なにも望んではいないというのはいつもポーズだけで、本当の自分はいつだって貪欲になにもかもすべてを手に入れたいと望んでいるのではないか――?
(私はどこまで欲深い人間なんだろう)
沙希は身震いした。自分の浅ましさにゾッとする。しかしそこから目をそむけてはいけないのだと思う。
自宅近くの病院前にタクシーが滑り込む。気を利かせて沙希の自宅付近の病院を探してくれた薫に感謝しながら、灰色のアスファルトの上に足をおろした。