ついに矢野と約束させられた花火の日が来た。
花火を見に行くのは何年ぶりだろうか、と沙希は記憶をたどる。
確か東京に出てきた年。仕事帰りに友達と食事をして、店を出たところで高層ビルの隙間から鮮やかな花火を見た。
都会の花火だな、と思った。
空ではなく、ビルの窓ガラスに大輪の花が咲いた。花火は夜空に見えるものと思っていたから、それはとても不思議な感覚だった。
(そういえば元カレとは、花火なんか見たことないな)
沙希は苦々しい過去を振り返る。
(そりゃ私もあまりイベント好きではないけれど……)
それでも好きな人とイベントを一緒に楽しみたい気持ちはある。
もし次に誰かと付き合うなら、普通の人がいいと沙希は思った。
普通に花火を一緒に見たい。
普通にクリスマスや正月やバレンタインデーを一緒に過ごしたい。
(普通……というのも変かな)
矢野と待ち合わせた駅で人の波を眺めながら思った。
その基準なら矢野は十分当てはまるだろう。だが条件に当てはまるからといって、必ずしもその人を好きになれるとは限らない。
そもそも人を好きになるのに努力など必要ないのだ、と沙希は思う。
気がつけば好きになっていて、もう後戻りはできない。
(そう……私には引き返す道なんかないんだ)
ただじっとこの場で立ち尽くしているだけの自分が惨めに感じられる。かつてはうきうきした気分で、恋する人を待っていたことも確かにあったのに――。
駅には浴衣のカップルや家族連れが溢れている。
矢野は時間どおりにやってきた。Tシャツにジーンズ姿だったので、沙希は少し安心した。なにしろ浴衣など小学生のときに着たのが最後なのだ。
「ごめんなさい。私、浴衣とか持っていなくて」
つい言い訳するような口調になる。
「川島さんは浴衣も似合うと思うけど、俺は来てくれただけで満足だから」
矢野はいつも優しい。ただの友達だと思っていたころは、それが心地よかった。
今はそれが逆につらい。
「もういい場所は空いていないだろうな」
時計を見ながら矢野はつぶやいた。
「とりあえずぶらぶらしようか」
ふたりは駅から花火大会の会場へと向かって歩き始めた。
「それにしてもカップル多いな」
矢野は行列をきょろきょろと見回して感心する。
ぶらぶらと矢野は言ったが、実際は行列に飲み込まれてただ流されるように会場へと向かっていた。後ろのカップル達の会話が聞こえてきて、黙って歩いている沙希は彼らのやりとりを羨ましく思う。
他人から見れば沙希と矢野もカップルなのだろう。だが会話が続かない。
ぎこちないふたりの距離は沙希をいたたまれない気持ちにさせた。
駅からずいぶん歩いてきたが、開始時間前には花火が見える場所へたどり着いた。
ドン、と花火が打ち上げられる低い音が聞こえた。まるで遠くで鳴る雷のような音だ。
すぐに花火が空を目指して一直線に駆け上っていくヒューッという高い音がした。
ドォーン!
見上げると夜空に牡丹のような大きな花が咲いた。
「おお!」
がやがやと騒がしかった観覧席から一斉に感嘆の声が上がった。
すぐに続いて今度は赤い菊のような花火が暗い空を彩り、そして散った。
沙希はその花火が光を消し散っていく様子に心惹かれた。
一瞬の美しさ。そして一瞬で消える儚さ。
(あっという間に消えてしまうから、その美しさが人の心に残るのだろうか)
まるで夢のようだと思う。
現れたかと思うとすぐに消えてしまい、跡形もない。残るのは人の脳裏に焼きついた残像だけ。
(いつも見る夢が花火のように美しかったらいいのに)
四方八方に散りながらパラパラと乾いた音を立てて消える花火。
明るく大輪の花を咲かせて流星のように落ちてくる花火。
さまざまな美しい色の光が頭上に広がった。
矢野もたまに声を上げながら花火に見入っている。
「あ! 今の! スマイルマークだね!!」
オーソドックスな菊や牡丹のような花火の合間に、変わった形の花火も上がる。ユーモアのある演出に思わず沙希の頬が緩んだ。
「あれはなんだろう?」
「たんぽぽ?」
沙希もよくわからないので見たままを答える。ぽつりぽつりでも会話が続くと、胸のつかえが少しだけ楽になる気がした。
沙希はここに来てようやく、こうして花火を見るのもいいものだな、と思い始めていた。
ドォーン! ドン! ドドーン!!
花火大会も終盤になり、次々と華やかな花火が打ち上げられた。
辺りが昼間のように明るくなる。
沙希はなにげなく花火に照らされた前方の観客のシルエットを見た。
(…………!!)
思わず目を疑った。
よく見ようと目を凝らすと辺りはまた暗闇に戻る。
次の花火が上がった。
(ああ、違う……)
浴衣を着た少し背の高い男性の横顔に、沙希の視線は釘付けになっていた。
(でも、よく似てる)
少し身体の線が細くて、長い手足。
少しシャープな顎のライン。
少し切れ上がったアーモンド形の目。
大好きだった陸の横顔にそっくりだった。どんなに眺めていても飽きることなどない整った顔立ち――。
そしてなにより全体の雰囲気が陸にとても似ていた。
(浅野くん……)
陸によく似た男性は、浴衣姿の小柄な女性を包み込むように後ろから抱きしめていた。
そこにふたりだけの世界があるような親密さが、その恋人たちには感じられた。
『お前に、会いたかったんだ』
感情を押し殺したような電話の声がよみがえる。
鼻の奥がツンと痛くなり、視界が霞んだ。
沙希は慌てて夜空を見上げる。閃光は眩しかったが瞬きすることができなかった。
(どうして……)
だって、涙がこぼれてしまうから。
(そんなこと言うの……?)
矢野がこちらを見る気配がした。
夜空に咲いた花は既に散り、上空に見るべきものはない。
それでもしばらく沙希は身動きすることができなかった。
帰りの電車は人がごった返してすぐに乗れそうにもなかった。
「目が赤いよ」
矢野は沙希の様子が少し違うことに気がついたようだった。
「コンタクトレンズがずれたみたいで、痛いんです」
目薬を点して涙を押し流した。うまくごまかせたとは思わないが、他の言い訳も見つからない。
「どこかに寄っていこうか?」
矢野は心配そうに沙希の目を覗き込みながら提案した。おそらくそれが無難な選択だろう。改札の向こう側は長蛇の列だ。
だが沙希は首を横に振った。
「私、帰ります」
矢野の瞳の色が揺らいだ。
「あの……どうかした?」
もう一度沙希は首を横に振る。
今はとにかくひとりになりたかった。
少し後退りして軽く頭を下げた。その後はもう振り返らずに改札を通った。
矢野が追いかけてきたらどうしようと不安がよぎったが、結局追いかけてくることはなかった。
(ああ、またやっちゃったなぁ……)
最寄駅から自宅までの間、沙希は文字通りふらふらと歩いていた。
機嫌が悪いと口を利かなくなるのは自分の欠点だと思う。
矢野も今頃呆れているだろう。誘ってもらったのにお礼も言わず、さっさと帰ってきてしまったのだ。
だがこれでよかったのかもしれない。
たぶん矢野は沙希の上辺しか知らないだろう。こんな自分には早く幻滅したほうがいいのだ。
『川島さんってきれいな人だけど冷たそう』
不意に倉田由紀の言葉を思い出した。
本当に自分は冷たい人間だと沙希は思う。
(うまくなんかできないよ)
とても惨めな気持ちになった。いつだってそうだ。人前で器用にふるまうことなどできやしない。
頑固でわがままで臆病で、困ったことや嫌なことが起きるとすぐに自分の殻に閉じ篭ろうとする。
まるでカタツムリのようだ、と思った。
そしてじっと時が過ぎるのを待つ。
そんな忍耐強さだけが自分の長所かもしれないと沙希は自嘲した。
(でも本当は……)
沙希は自分の本心を嫌というほど知っていた。
(この殻を破って、ここにいる私を見つけて欲しい……)
過去に一人だけいた。
殻に篭った自分の心を何度も諦めずにノックしてくれた人が。
沙希は夜空を見上げた。
夢の後に残るものはただ暗い闇の静けさだろうか。
先程見た陸に似た男性と小柄な女性のカップルの姿を思い出した。花火に照らされるふたりの姿が鮮やかに目に焼き付いていた。
バカなことだと思うが、かつての自分を重ねてしまう。
恋をしていた頃が懐かしい。なにかもがきらきらと輝いて見えた。きっと自分の青春はあの一瞬で終わってしまったのだろう。
まるで花火のように一瞬の恋だった。
もう決して戻ってはこない日々が、今はただ懐かしかった。
盆明けは、職場の雰囲気もリフレッシュされたようで活気に満ちていた。
花火の後、矢野とは連絡を取っていない。そのため彼と顔を合わせることが憂鬱でたまらなかった。しかし矢野は朝から会議で、その心配は杞憂に終わった。
沙希はいつものように淡々と仕事をこなす。
書類を持って経理部のある別棟へ行き、帰りに届いていた備品をもらう。
渡り廊下を備品を抱えて歩いていると、前方から倉田由紀が満面の笑みを浮かべて走ってきた。
「サオリ! やったよぉーーー!!」
沙希の横を通り過ぎて、後ろを歩いていた同僚に抱きついた。
「今日、浅野くんが一緒にライブに行ってくれるって」
(……え?)
沙希は足を止めて振り返りたい衝動を、すんでのところでこらえた。心臓がドクドクと音を立てる。背後のふたりの話は嫌でも耳に入ってきた。
(浅野くんの好きなバンドだ)
視線が自然と下に向く。
(そりゃ……そうだよね。そういうことだってあるよね)
沙希は必死で自分に言い聞かせる。
だが備品を持つ手がぶるぶると震えた。止めようとすればするほど、震えが強くなる。
(お願い。誰か嘘だと言って)
なぜそんなことを思うのだろう。
陸が誰とライブに行こうと、沙希にはなんの関係もないはずだ。
しかし沙希にとってそのバンドの曲は陸との想い出がありすぎた。それを陸は他の人とどんなふうに聴くのだろう。
なにも考えられなかった。……いや、考えたくなかった。
「先輩! 顔色悪いですよ」
部署に戻ると同じ課の早坂薫が険しい顔で近づいてきた。
「大丈夫だよ」
沙希は無理をして明るい笑顔を作った。
「全然大丈夫そうには見えませんよ。少し座って休んだ方がいいです」
だが盆休み明けのため、沙希の机の上は未処理の書類が積み上げられていた。
「大丈夫。薫ちゃんは心配しすぎだよ」
「でも、顔が真っ青です」
「川島さん」
沙希と薫が押し問答しているところへ、3課の古賀が割り込んできた。
古賀の姿を認めると、沙希も薫も渋い顔をする。
「そんなふうに嫌な顔をされると、頼みにくいんだけど……」
言葉では控えめにそう言いながら、古賀は沙希の机の上にかなり分厚い書類をポンと載せた。
「僕ね、明日出張で中国へ行かなきゃいけないんだ。それでこれを今日中に仕上げてもらえないかな? あ、そうそう、コレ、僕の故郷のお土産。よかったらどうぞ」
そう言って古賀は沙希に大きな紙袋を押しつけた。
仕方なく受け取ったところへ部長がやってきた。
「古賀くん、ちょっと」
部長は神妙な顔で古賀を手招きした。へらへらしながら古賀は部長に「なにか?」と近づいた。
部長から耳打ちされた古賀の顔色がみるみる変わっていくのを、沙希と薫は不安な面持ちで見つめる。
「彼らが下に来てるんですか?」
古賀は、部長が頷くのを見ると駆け出した。
沙希と薫の視線を受け止めた部長は、ため息をついて言った。
「ちょっとしたトラブルが起こってしまったんだ」
肩をすくめて見せると部長は席へ戻り、デスクの上を片付け、慌しく外出準備をし始めた。
「なんか、相当ヤバそうじゃないですか?」
薫は沙希に小さな声で言った。沙希もよくわからないが「ちょっとしたトラブル」どころではなさそうだと感じる。
「ま、とにかく先輩は無理しないでくださいね」
「わかったわ。ありがとうね」
沙希は机の上に無造作に置かれた古賀の書類を手に取る。添付資料がずしりと重い。少なくともすべてに目を通さなければ、仕上げることはできないだろう。
(「今日中」って、こりゃ残業確定だなぁ……)
書類をパラパラとめくりながら、次第に心が重くなっていくのを感じた。