8月に入ると暑さが一段と厳しくなり、北国に生まれ育った沙希には耐えがたい日々が続いていた。朝の通勤時から汗がにじみ、衣服が肌にはりついて気分が悪い。汗をかきにくい沙希だが、その体質がかえって内に熱をこもらせてしまい、余計に体力を消耗している気がした。
それでも、もうすぐお盆休みになる、と思うと少しだけ元気が出る。矢野にも話したように今年は帰省しないが、休みを取りにくい業務なので連休は素直に嬉しかった。
だが、その前に約束した花火の日がやってくる。
カレンダーのその日を見ると、ため息が出そうになる。沙希は自分の性格がこういう事態を招いたのだと思うとますます憂鬱になった。
その日、終業時間5分前に電話が鳴った。
電話は社長室の長谷川からだった。ふたたび呼び出されることを、心のどこかで確信していたのかもしれない。平然と受け答えする自分におそろしさを感じるが、沙希には断わる理由もなく、また言われるまま帰宅準備をして社長室へと向かう。
「沙希ちゃん?」
後ろから声を掛けられて、沙希はびくっとした。振り返ると同期の房代が不思議そうな顔で沙希を見ていた。
「どこに……行くの? その先は社長室しかないけど」
返事に詰まった。房代に過去のことはあらかた話したが、社長のことは話していなかった。
「もしかして?」
「あ、あの……」
「ここでは言えないこと?」
少し考えてから小さく頷いた。
房代は沙希を手招きした。近くの会議室を指さす。
沙希が会議室に入ると房代は念のため鍵をかけた。
「ねぇ、もしかして社長室に呼ばれたの?」
「……うん」
「社長に? こんな時間に何の用? 仕事じゃないでしょ? だってそれ、帰る準備……」
矢継ぎ早に房代は質問する。
沙希はもう隠しても無駄だと思った。努めて明るく言った。
「食事に誘われてるの」
「食事!?」
房代は複雑な顔をして腕を組んだ。
「行くの? ……って行くんだよね」
「うん」と沙希は小さな声で答えた。
「やめなよ」
房代は沙希の腕をつかんだ。目が真剣だった。
「でも……今さら『行かない』とは言えないよ。私から連絡する手段がないし」
「もしかして、今日が初めてじゃないの?」
「……2回目」
「どういうこと? 大丈夫なの?」
房代の心配がどこにあるのかは、なんとなく沙希にも伝わってきた。
「食事するだけで、その後は運転手付きで送ってもらったし……」
「でも今日もそうだとは限らないわけでしょ? ひとりで大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。もう行かなきゃ」
房代はようやく沙希の腕をはなした。それでもまだ苦い顔をしている。心配してくれるのは嬉しいが、沙希のほうには不安な気持ちなどほとんどなかった。
「心配してくれてありがとう。でも本当に大丈夫だから」
沙希は房代を残して会議室を後にした。
房代が心配するのは当然だと思う。沙希自身も身の危険をまったく念頭においていないわけではない。初めて誘われた夜、もし食事の後も付き合わされるようであれば、すぐに帰るつもりでいた。
だが、前回の社長の話やふるまいから、その心配は無用だと感じる。根拠は、と問われると答えようがないのだが、それでも大丈夫だと思った。
石橋を叩いて破壊してしまう性格の沙希だが、ときどき自分でも驚くほど大胆な行動を取ることがある。理由はわからない。だが本能に従って行動してハズレだったことはない。
思えば、陸とのこともそうだった。考える前にもう踏み出していたと思う。
社長室の前に来た。
今日は前回とは違って、ためらうことなくドアをノックした。
その夜、陸は同期の飲み会に参加していた。
仲のいい同期の友達に頼まれて、仕方なく付き合うことにしたのだ。
「お前が来ると女性陣の参加率が上がるからさ」
それが陸を飲み会に誘う一番の理由だった。
陸はそういうシチュエーションにはうんざりしていたが、温泉旅行をドタキャンした後ろめたさも多少はある。
(こんな機会もあと何回あるかわからないしな)
目の前のグラスを眺めて思った。
同年代の飲み会なので、部や課の飲み会とは違って学生時代のノリに似た勢いがあって、陸にとっては少しうるさく感じられる。
そもそも陸は、輪の中心にいるようで、実はほとんど話を聞いていない。聞いていても興味のない話だとすぐに耳に入ってこなくなった。
いつもそうだった。陸はこういったグループに馴染みきれないところがある。だからといって孤立するわけでもない。中途半端に知り合いが多い反面、深い付き合いは苦手なのだ。
(俺はなにをしに来ているんだろう)
ただひとりこの場で浮いていることを感じながら、酔い始めて陽気にふるまう同期の連中を眺めていた。
そこへ携帯が鳴った。
ポケットから携帯を取り出した陸は、一瞬自分の目を疑った。かかってくるはずのない名前が表示されている。
「もしもし?」
騒がしくて嫌がるだろうとは思ったが、切れる前に電話に出たかった。
『あ……ごめん』
「ちょっと待て、移動するわ」
『いいよ、また今度にするね』
(なんだよ、電話しておいて「また今度」?)
陸は急いで外に出る。店の外は暑かった。
「今日、同期の飲み会でさ」
『ごめんね、邪魔して』
「気にすんな。それより珍しいじゃん、お前から電話してくるなんて」
『あ、えっと……なにかあったのかなって、ちょっと気になってて。この前、ウチに突然来たのも、別にお風呂に入るためだけじゃないんでしょ?』
陸はひとり、苦笑いを浮かべた。
「へぇ……」
『なに、感心してるのよ』
「お前は優しい女だな」
相手は黙ってしまった。電話だから言える言葉というのがある。昔ならともかく、今は本人を目の前にしてはとても言えない。
だから次の言葉も思い切って言えたのだろう。
「お前に、会いたかったんだ」
結局、いつも救われるのは自分なのだと陸は思う。
ただ好きでいたときにはずっと彼女の気持ちを信じたかった。
別れを告げられて裏切られたことを知った。
そして……
時を隔てた今、わかることはただひとつ。
自分と同じように不器用に生きている彼女が、今もそこにいる……
『……私、少しは役に立ったのかな?』
「うん」
『それならよかった』
「うん」
『……戻らなくて、大丈夫なの?』
「……お前の声、聞いてると眠くなるな」
『それ、昔も言ってたね。私の声、低いからかな』
「さぁ? ……もう戻るわ」
『うん、ごめんね』
(だから、謝るなよ)
すでに切れている電話の相手に心の中で文句を言った。
(ホント、バカなヤツ)
彼女の困った顔を思い浮かべて、クスッと笑う。いつの間にか気分が少し軽くなっていた。
陸は空を仰いだ。ここから見える夜空は狭く、明るい。この街は真夜中も闇に優しく包まれることはない。
(ここは落ち着かない街だな)
隠しておきたいものまで光の下にさらされてしまうような気がする。
ビールが飲みたいと思いながら陸は店に戻った。
「でもさぁ、それって絶対なにかあるよね」
翌日の昼、沙希と房代は社外でランチをしていた。房代は当然社長の話を聞きたがった。
「なにか?」
「だって奢ってくれるわけでしょ? タダほど怖いものはないっていうし……」
沙希も奢ってもらうことには抵抗がある。だが社長は会計などせずに店を出るため、言い出すタイミングがないのだ。
「やっぱり……下心!」
「そんなのないって。立場だってあるわけだし、それに長谷川くんも知ってるんだよ」
房代は頬杖をついて「うーん」と唸った。
「立場を悪用する人間だって世の中にはたくさんいるんだよ。あの人はどうか知らないけど、沙希ちゃん、信用しすぎ! もっと警戒しないと」
社外とは言え、誰が聞いているかわからないので二人とも社長のことは『あの人』と呼んでいた。
「うん、房代ちゃんの言うとおりだと思う。でも……」
沙希は自分の気持ちを上手く説明できそうになかった。
「とにかく大丈夫だよ」
「そんなぁ……」
房代は納得できないというようにため息をついた。
「あの人、ちょっと得体が知れない感じがするよね。まぁ、見た目はダンディっていうの? 昔かなりモテてそうな……」
そこまで言うと房代はハッとして沙希を見つめた。
「沙希ちゃん、もしかして……ああいうオジ様が好きとか?」
沙希は思わず噴き出した。
「いや、オジ様はそれほど興味ないけど、あの人はなんていうか……話を聞いてるのも楽しいし、そうだなぁ、もし20歳か30歳くらい若かったら好きになっていたかもしれないな」
冗談半分で言ったつもりだったが、案外説明できない気持ちが伝わるような気がした。
「……それって危険! やっぱりダメだよ。絶対よくない」
房代はキッパリ言い切った。
「もしまた誘われたらすぐ教えて。心配だもの」
「うん」
迫力に負けて沙希は思わず頷いてしまった。
誘われたことを報告すれば、房代はまた「行くな」と言うだろう。
それでも沙希は、きっと自分は行くだろうと思う。
沙希にとっては職場に突然来られるより、食事に誘われる方が気持ちの上で楽だった。陰で他の社員にあれこれ言われるのは、精神的にかなりこたえる。
それに親ほど年上の社長からひとりの人間として認められることは、素直に嬉しかった。
こんな自分でもいいのか、と思う。
だから、陸に電話することができたのだと思う。社長に送ってもらった後、勢いで電話をかけてしまった。普段の沙希ならできないことだ。
『お前に、会いたかったんだ』
(……嬉しい。でも悲しい……)
どこかで今も自分を頼りに思ってくれることは嬉しい。
でも自分を愛しているわけではないと思うと悲しい。
彼のたったひと言で、沙希は今も陸に深く囚われてしまう。そんな自分を心の中で嘲笑うと、胸が痛くなって眩暈がした。