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第一部 15

 高校生になったばかりの頃、沙希はいわゆる一目惚れをした。隣のクラスの男子だった。

 彼のなにが好きかと聞かれたら、沙希はおそらく顔が好みだったと答えるだろう。身長はどちらかといえば低い。しかし小柄なため、女性的な印象が強く前面に現れていたとも言える。沙希は男性的な逞しさよりも、繊細な美しさに惹かれてしまう性質なのだ。

 そんな彼を毎日観察しているうちに、だんだんとわかってきたことがあった。

 少し変わっている――後にそれは少しどころではないことを思い知るのだが、当時は単純にそう感じた。

 そして周囲からなかなか理解されにくい部分があり、それが彼を孤立化させていた。

 沙希は彼を見ているとなんとなく放っておけないような気持ちが日に日に強くなり、ある日彼に手紙を書き、隣のクラスの友人を通して渡したのだった。

 しかし「付き合いたい」という気持ちはあまり強くなかったと思う。ただ、自分のような人間がいるのを知ってほしいだけだった。

 だが、結局付き合うことになった。

 最初はお互いに初めての男女の付き合いということもあり、どこにでもいる高校生のカップルと同じだったと思う。

 しかしある程度時間が経ち、相手が肉体的な結びつきを求めるようになってからふたりの関係は徐々におかしくなっていった。

 彼はわけのわからない不満を常に持っていた。そしてそのはけ口が沙希に向かうようになるのに時間はかからなかった。

 沙希は性格的に校内で彼と親密に接するのが苦手だった。それが彼の逆鱗に触れたことがある。

 生まれて初めてみぞおちを思い切り殴られた。2回。

 一瞬息が出来なくなり、倒れそうになった。「なぜ?」と思うが、言葉が出ない。

 それでも彼の怒りはおさまらず、鍵の束を投げつけられ、口の端が切れた。涙が出た。

 トイレに駆け込んだ。もう顔はぐしゃぐしゃだったと思う。友達が心配して来てくれたが、なにが起こったのかを話すことはできなかった。

 痛みがおさまっても涙が止まらなかった。

 ショックが大きすぎて、彼を責める気持ちが萎えていた。また殴られるのが怖かったのもある。頭の中はひどく混乱していた。

 怒りが冷めた彼は何度もあやまり、二度としないと言った。沙希も次に同じことをしたら別れると伝えた。

 彼は担任にも呼び出されたようだが、沙希が特に訴えるようなこともしなかったので、注意されただけで済んだようだ。

 そこで一旦、直接的な暴力は止んだ。

 だが、殴る蹴るがなくなっただけですぐにキレるのは変わらない。だんだんと沙希は心が冷えるのを感じた。

 それでも嫌いにはなっていなかったと思う。彼と別れようとは思わなかった。

 今思えばそれは単なる同情だった。むしろ蔑みかもしれない。

 彼には両親から愛されていないという不満が常にあったのだ。沙希から見れば彼の両親はごく普通に愛情を持って彼に接していると感じたが、それが肝心の彼には伝わっていなかった。

 沙希はそういう意味では恵まれた家庭に育ったので、彼を見ると「かわいそう」で放っておけなかったのかもしれない。

(でも彼と結婚することはないな)

 いつしか沙希はそう考えるようになっていた。そのうち自分たちは別の道を辿るだろうと。

 しかし彼はそうではなかった。大学に入り遠距離になる頃には、沙希を自分の理想化した女性像と同一視するようになった。

 ずるずると付き合いだけが長くなり、しかも彼の要求は日に日に沙希のリアルから離れていく。

 一度だけ「もう別れたい」と言ったことがあったが、結局彼に丸め込まれてそのままになってしまった。

(これは簡単には別れられないのかもしれない……)

 そういう漠然とした不安が大きくなっていた頃、沙希は人生の転換期を迎えた。





「えっ!? ……浅野くんと付き合ってたの?」

 房代はかなり驚いたようだ。

「ごめんね、隠してて」

「ううん。『好きだった人に似てる』って言ってたけど、まさか本人だとは思わなくてびっくりしたよ」

 陸との関係をなんと表現していいのかわからない。簡単に言えば二股になってしまったのだ。表面的な事実は決して沙希の本当の気持ちと一致してはいなかったが、他に当てはまる言葉がない。

「それにしても、その元カレって……酷いね」

 沙希は房代の言葉に自嘲気味に答える。

「でもね、自分でもわかってるの。最初に殴られたときにすぐに別れればよかったんだ、って」

 房代は少し考えるように斜め下方へ視線を落とした。

「付き合い始めたばかりなら、簡単に別れることができたかもしれないけど、情が移ると誰だって1回は許そうと思うんじゃない?」

「いいや……」

 沙希は思う。自分の気持ちは案外簡単に動いたのだ。

「浅野くんと出会って気がついたの」

 陸に出会って、陸を知り、陸に触れて、初めて知ったことがある。

「元カレに対する気持ちが、本当はただの同情と依存でしかなかった、と」

「依存?」

 ゆっくり頷いた。たぶん好きだったのは顔だけなのだ。

「『この人は私がいないとダメだ』ってずっと思い込んでたの」

 たぶんダメな男に嵌る原因のひとつは、相手ではなく自分の側にあるのだろう、と沙希は思う。そしてそういう男はそれを嗅ぎ分けることに長けている。つけ入る隙を見つけたら、とことんその弱みを利用するのだ。

「だけど性質(たち)が悪いのは私のほうかもしれない。自分よりかわいそうな人をそばに置いておくことで、優越感に浸ってたのかもね」

「え?」

 房代は困ったような顔をした。沙希の言葉が思いがけないものだったらしい。

「だって、私たちの関係はいつも優劣があったもの。暴力を振るうときは元カレが、『次は別れる』と言うときは私が優位でしょ? どんなときでも常にそういう関係だったんだよ。でも『愛する』ということがどういうことか、たぶんお互いに知らなかったんだね」

 元カレと別れた後、沙希はとある作家のエッセーを読んだ。そこには恋愛が上手くいかないと嘆く女性に対しての助言として、立場が対等でないと本当の恋愛はできないと明快に書いてあった。

 沙希には痛い言葉だったが、なにかがストンと胸の中に落ちてすっきりと収まるのを感じた。今までわからなかった恋愛における自分の欠点がひとつ見つかったのだ。

「うーん、私には難しいな。そこまで考えたことないや」

 苦笑しながら房代はビールをひと口飲んだ。

 こんな恋愛――いや擬似恋愛はすべきではない、と沙希は思う。できるなら最初から本当の恋愛をしたかった。

「相手が悪かったんだよ」

 房代の言葉に沙希は小さく何度も頷いた。それ以外に房代も言葉が見つからないだろうと思う。

「そうだね。私も『かわいそうな悲劇のヒロイン』が案外気に入ってたのかも」

 だから、他人にはもうこの話をしたくなかったのだ。結局自分が語ると『かわいそうな悲劇のヒロイン』の話になってしまうからだ。

「沙希ちゃん、そんなに自分を蔑むことないよ。浅野くんに出会って沙希ちゃん、気がついたんでしょ? なにに気がついたの?」

「……『恋愛ってこんなに楽チンなんだ』って。そんなことも知らなかったの」

 沙希は自分で言ったにも関わらず、バカバカしくて笑ってしまう。

 たぶん相手が相手ならあまりにも普通のことで気づきもしないようなことなのだ。

 房代は少し首をかしげた。

「浅野くんも別の意味で大変そうな人だけど、それでも?」

「今はちょっと微妙な関係だけど……昔は大変なことなんて、なにもなかったよ」

「今は……どういう関係なの?」

 沙希は「友達?」と消え入りそうな声で言った。

「友達……それまた微妙な……。でも会ってるんだ?」

「うん」

 恥ずかしさをまぎらわすのに缶チューハイを飲み干した。大きな声で言えないことだった。ましてや、昨夜からさっきまで一緒にいたとは房代にも言えなかった。

「浅野くんって彼女いないんでしょ? ……あ、ほら、倉田由紀ちゃんっているじゃない? あのコ、うちの課に来てよくしゃべってるんだよね。それであの声だしどうしても聞こえてきちゃって」

 苦笑しながら房代は言った。沙希も由紀を思い浮かべて同じように苦笑いする。

「誰か好きな人いるんじゃないかって心配してたよ。あのうわさの後、浅野くんからはっきり『迷惑』って言われたらしく、最初は落ち込んでたけど、今じゃそのクールなところがいいんだって」

「クール……ねぇ」

「違うの?」

「結構よくしゃべるし、わがままだし、ナルシストだし、でもすぐ落ち込むし……」

「へぇ。そういうところを、沙希ちゃんは好きなわけね」

「いや、あの……」

 自分に矛先が向いてドキッとした。房代はニヤニヤしている。

「きっと誰にでも見せる姿じゃないんだろうね。いいなぁ、そういうの。沙希ちゃんは愛されてるなぁ」

「違うよ、今はもうそういうのじゃないし……」

 言いながら胸が痛んだ。今はもう愛されてなどいない。

「でも、浅野くんは沙希ちゃんを嫌いじゃないでしょ。嫌いなら会ったりしないし、そういうところはすごくはっきりしてそう」

「どうかな。それこそ同情してるのかもね」

 その可能性が高いと、ずっと思っていた。だからこんな関係はよくないと沙希は思う。

 それでも自分から断ち切ることはできそうにない。かといって、好きだから恋人にしてくれと迫る勇気もない。

 だから沙希はこの関係が途切れないように、今いるこの場所で祈ることしかできないのだ。


     


 房代に昔のことを話したせいか、翌朝はすっきりした気分だった。

 沙希の話題が終わると、次は房代の彼氏の話で盛り上がった。やはり恋愛真っ最中の房代は幸せそうで、沙希もそういう姿を見ると嬉しくなった。

 そして房代が少し近い存在になったように思う。友達の少ない沙希には心強いことだった。



(私にこの先、明るい未来なんてあるのだろうか)

 房代を見ていると、ふと考えてしまう。

 少なくとも陸と今のままであれば、あまり明るい未来は期待できそうにない。

(別の人と出会って恋愛をすればいいのかな?)

 矢野のことを思い出したが、なんだかピンとこない。友達でいるうちはよかったが、矢野をひとりの男性として見ることが沙希には難しかった。彼と恋愛する自分を想像できないのだ。

 そのとき思いがけず社長の顔が浮かんだ。

(…………!?)

 慌ててそれを打ち消す。沙希は自分の脳の働きを疑った。なぜこんなときに……?

(でも私は、ここからどこか別の場所へ連れ出してくれる人を探しているのかも)

 ここではないどこかへ――。

 そんな場所がどこにあるのだろう?

 もし逃げることができたとしても、それが無駄だとわかり、すぐにがっかりするはずだ。沙希が存在するところに、アレはいつだって不意に現れるのだから。

(愛してくれた人を裏切ったのは私。自分自身を裏切ったのも私……)

 好きになった人をいつまでも一途に愛せると信じていた昔の自分が滑稽だった。そんなつまらない思い込みが、陸にたったひとこと「好き」と告げることさえ拒んだのだ。

 思えば思うほど自分の愚行を嘲笑いたくなる。



『でも、浅野くんは沙希ちゃんを嫌いじゃないでしょ』



 それでも陸は嫌わないでいてくれるのだろうか。沙希にはその自信がなかった。

 結局、今のふたりの間にあるものは「友達」という言葉と体の関係だけだ。

(残酷な復讐だな……でもこれくらいの罰は当然か)

 陸のことは考えてもわからない。なにを考えているのか、自分のことをどう思っているのか……。

 沙希は小さくため息をついた。考えても答えは出ないのだ。

 それでも家路を辿る道すがら、とりとめのない考えが沙希をとらえて離さなかった。


     


 陸はその日、朝早くから出勤していた。

 出社してからずっとパソコンに向かっていて、さすがに目が疲れた。目頭をおさえる。

 目を開けると同時に甘い匂いが鼻をかすめ、キーボードの上に見慣れぬ紙片を発見する。

「おっはよ〜。ねぇ、見て見て! これ!」

 振り向かなくても背後に誰がいるのか、すぐにわかった。この甘い匂いはあまり好きじゃないので、陸は一瞬顔を歪める。

 それから言われた通り、紙片を眺めた。

「……これ……!」

 陸は思わず驚きの声を上げて、振り返った。

「ね? すごいでしょ?」

 倉田由紀は得意げに手の中にあるもう一枚の同じ紙片をひらひらさせた。

「どうやって?」

「うふふー、ひみつ」

 陸はその答えに少しうんざりしながら、キーボードの上に置かれた紙片をもう一度見た。

 それは陸の好きなバンドのライブチケットだった。今やカリスマ的な人気があるバンドなので、通常の方法で入手するのは非常に困難だ。

 陸の反応に満足しながら由紀は甘い声を出す。

「ねぇ、一緒に行かない?」

 陸は机の上を見つめたまま眉間に皺を寄せた。

「…………」

 ライブには行きたいが由紀と一緒というのが即答をためらわせた。

「ライブ、行きたいでしょ?」

「まぁな。でもこの日に行けるかどうか、わからない」

「えー! 仕事?」

 由紀はつまらなさそうに言うと、陸の机からチケットを取り上げる。

「仕事とライブとどっちを取るの?」

「仕事」

 陸は間髪いれずに返答した。もちろん喉から手が出るほど、そのチケットは欲しい。だが由紀と行きたいとは思わなかった。

「じゃあさ、仕事のほうが大丈夫だったら行こうよ」

 由紀はしつこく食い下がった。陸は由紀がひらひらさせているチケットを見つめる。

「……ああ」

 投げやりに答えた。

 由紀はここが職場だということも忘れているのか、歓喜の声を上げて自分の部署へ帰っていく。

 その声を耳障りに思いながら大きく息を吐いた。

 そこへ後ろから肩を叩かれる。振り向くと矢野が「朝礼だぞ」と通りすがりに声を掛けていった。

(……もう8月か)

 陸は机の上のカレンダーに目をやって、仕方なく立ち上がった。



 矢野に追いつくと、カレは横目でニヤリと笑いかけてきた。

「浅野はモテるね」

 陸はうんざりという表情で「俺はああいうタイプは苦手です」と答える。

「へぇ、でも彼女かわいいじゃない」

 矢野は廊下を歩くペースを落とした。とても機嫌がいい。思えば数日前からずっと、いつでも鼻歌を歌い出しそうな雰囲気だ。

「そうですか?」

 反対に陸は気分が浮かない自分を持て余していた。

「ん? 何かあった?」

 矢野もさすがに陸の不機嫌な様子に気がついたらしい。

「なにもないですよ」

 ぶっきらぼうに言う。自分でもイライラする原因がよくわからない。考えるのも面倒だった。





 K社の本社では月の初めに必ず全職員を集めて朝礼を行っている。

 本社ビルには全職員を収容できるスペースが食堂くらいしかない。テーブルと椅子を片付け、全員起立した状態で朝礼は行われる。さすがに全職員が一堂に会すると、ぎゅうぎゅうで暑い。

 陸はかなり後方で社員たちの背中を眺めていた。

 にわか作りの壇上に社長が立つ。

 隣を見ると矢野がやはりどこか緩んだ表情で壇上を見つめていた。

(恋……か)

 ふと陸の頭の中に以前よく口ずさんだメロディが流れ、ある場面がよみがえる。途端に胸の一部がつままれたかのように痛んだ。



「この歌はさ、すごく好きな人がいて、その人は手の届かない人なんだけど、他のヤツから『苦しそう』とか『狂ってる』って笑われても……それでもその人を好きで好きで、自分はすごく幸せ、って歌」

「ふーん」

「まるで俺のことみたいだよな」



(俺もバカみたいにアイツのことだけ好きだったな)

 目を閉じると、長い睫毛に縁取られた栗色の大きな瞳が脳裏に浮かぶ。まだ陸は「少年」と呼ばれる歳で、夢ばかり見てる子どもだった。

「大人」と呼ばれる歳になって、自分はなにが変わっただろう、と考える。

(まぁ……のめりこまなくなったよな)

 仕事にしろ恋愛にしろ、どこか突き放していて、いつも冷めた自分がいる。セーブするのが上手くなったのかもしれない。

(この人は……)

 もう一度隣の矢野を横目で見た。

(俺と沙希のことを知ったらどんな顔するんだろ?)

 陸は脳裏で奏でられる曲を懐かしく思った。もう誰かのために歌を歌うことなどないだろう。あの頃の自分は本当に狂っていたと鼻で笑いたくなる。

(リセットボタンなんてないんだよ、沙希)

 社長の話が終わり、朝礼は解散となった。立ち去る社長を目で追いかける。

 なぜか妙にイライラした。すぐに陸も食堂を後にした。

 

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