沙希が社長と食事をした水曜から2日後の金曜、陸は午前中から外出していた。
昼の休憩時間に出先で携帯が鳴った。着信の名前を見てうんざりする。
「……なに?」
携帯を耳に当てていた陸の表情がどんどん険しくなった。
「それ、3年はないって言ってただろ?」
『早いほうがいいだろうということだ。取締役会の決定だから仕方ない。それにお前も3月の段階ではいつでもいいと言っていただろう?』
「……まぁな」
『なんだ? こっちに未練が残ることでもできたか?』
相手の声はからかうような笑いを含んだ声になった。
「……るせぇな」
陸はさらに不機嫌になった。
「話はそれだけ? ……なら切るぞ」
相手の返事も聞かずに終了ボタンを押す。
振り返ると矢野が興味津々な顔で陸を見ていた。
「すみません」
「彼女、というわけじゃなさそうだな」
「違いますよ。彼女なんていないし」
陸は食事に戻る。周りはサラリーマンの姿もあるが、中年の女性グループも多い。それぞれ自分たちの話に夢中だ。
「へぇ、まだ彼女できないの?」
「学生時代と違って、今はそんな余裕ないですね」
「そうか。お互い寂しいな」
矢野は陸を同士と認め、慰めるような視線をよこす。それが少しうっとうしい。恋をして、彼女ができれば、すべてが満たされるなんて思い込みは、愚かな幻想なのだ。
陸は矢野の話を適当に流しつつ、頭の中では先程の電話のことを考えていた。
(来年、か。3年あれば、と思っていたけど)
時間がない、と思った。
社会に出てからというもの、陸の時間はこれまでの倍のスピードで流れていくような感覚だ。
(タイムリミットまで半年ちょっとか……)
時計を見ると次の取引先との約束時間が迫ってきていた。陸は昼食の残りを急いでかきこんだ。
結局、その日は直帰することになった。
最後に訪問した取引先の担当者から一緒に食事でも、と誘われ、矢野と陸も付き合いでビールを飲んでしまった。
陸は1、2杯飲んだところで酔いはしないが、矢野がアルコールを摂取した後に会社へ戻るのはまずいだろうと判断したのだ。陸も今夜は早く帰りたい気分なので素直に従う。
なにげなく携帯を見ると21時になったところだった。
陸はいつもと違う駅で電車を降りた。
人通りの少ないところまで来てから電話をかける。
呼び出し音が鳴る間、妙に不安な気持ちになる。何度かけてもそれは変わらない。
『もしもし?』
相手は陸からの電話とわかっているはずだが、一応「……俺」と言ってみる。
『どうしたの?』
一瞬、言葉が出てこなくなった。
「あのさ……」
『うん』
「風呂貸して」
『はぁ?』
間髪入れず呆れたような大きな声が返ってきた。自分でもとっさに出た言葉に、なにを言っているんだか、と思ったが。
「ま、とにかく、もうお前ん家の近くだから」
『え? ちょっと待って』
慌てたような声だった。
「なに? 俺が行くと困るようなことでもあんの? ……男がいるとか」
『いるわけないでしょ!』
そりゃそうだろう、と陸は満足げに口の端を上げた。
『あんまり片付いてないよ』
「別に気にしねぇよ」
そう言いながらチャイムを押した。
(え!? もう着いたの?)
沙希は携帯を持ったまま玄関のドアを開けた。
電話を切って目を上げた陸は少し照れたような表情をした。
「どうしたの?」
陸はそれには答えず「上がっていい?」と言い終えないうちに靴を脱いだ。
それを黙って見ていると、突然陸に抱きしめられた。
「あ……の?」
「暑いな」
言葉とは裏腹に陸は、戸惑う沙希を身じろぎできないほどの強さで腕の中に閉じ込める。それからしばらくして、なにごともなかったように沙希は解放された。
「飯食った?」
「うん。浅野くんは? ……っていうか飲んでる?」
「付き合いで少し」
「それはお疲れさま」
沙希はあらためて陸の顔を見た。疲労の色が濃い。
「じゃあさ、一緒に風呂入んない?」
陸はネクタイを緩めながら言った。
冗談とも本気ともつかぬ表情の陸を見つめる。釈然としないが、沙希は風呂に湯を張りに行く。
陸は普通にふるまっているように見えるが、なにか様子が変だった。
「なにかあった?」
バスルームから戻ってきた沙希は、気になって尋ねた。
「……別に」
ぶっきらぼうな答えが返ってくる。陸は足を投げ出して自分の部屋のようにくつろいでいた。
「沙希は海外行ったことある?」
唐突に陸が訊いてきた。
「あるよ」
「ああ、オーストラリアだっけ?」
沙希が陸の家庭教師になったばかりのころ、海外旅行の話題で盛り上がったことがある。それを陸も思い出したらしい。
「浅野くんは……行ったことなかった?」
「ないね。家庭がごたごたしてたのもあるからな」
陸はため息混じりに言った。陸の母が離婚したのは彼が小学生の時分で、再婚は中学入学時だと沙希は聞いていた。
「どうしたの? 急に」
「ああ、今度行くことになるかもしれなくて、それ、今日初めて言われたから……」
陸にしては歯切れの悪い言い方だった。
「行き先は決まってるの? なんだか行きたくなさそうだけど」
「まだ決まってない。行きたくないわけじゃないけど、場所にもよるな……」
「ふーん。それ、いつごろなの?」
「ああ、……まぁ、まだ……決まったわけじゃないんだ」
沙希は首を傾げた。こんなふうに曖昧な話をするのは陸らしくない。沙希には詳細を話したくないのかもしれないが、それならばわざわざ話題にしないはずだ。普段の陸なら――。
「お湯止めてくるね」
と言って風呂場へ立った。後ろから陸もついてきた。無言で背後に立ち、沙希の服を脱がせようとしている。
「……なにをしているの?」
「脱がせてる。俺って親切でしょ?」
沙希は思わず吹き出してしまった。
本当なら抵抗すべき場面だが、なぜかできないでいる。拒めば陸が帰ってしまいそうな気がした。沙希がぼんやりしている隙に陸は着衣をすばやく脱ぎ捨てて、沙希の裸体を浴室へ押しやった。
「一緒に風呂入るの、久しぶりじゃね?」
「さぁ?」
沙希はわざととぼけた。陸の言いたいことはわかる。シャワーではなく、一緒に湯船に浸かることが久々なのだ。友達関係の男女がのんきに同じ湯に浸かっていること自体、ありえないと沙希は思う。
あまり大きな風呂ではないので浴槽に二人で入るときつい。それでも陸は気にせず沙希を自分の前に座らせた。
「ひゃあ!」
突然うなじを触られる。
「なんつー声だ」
陸の指はおもしろがって、ますますゆっくり首筋を這う。沙希は首を縮めて抵抗してみるが、その程度で諦める陸ではない。
「ちょっと……」
「なに?」
悪戯な指が鎖骨を通り過ぎ、胸のほうへ降りてきた。湯の中でも触られると沙希の身体はすぐに反応してしまう。
「……ダメ、だよ」
「なにがダメなの」
耳元で意地悪な笑いを含む声がそう囁いた。
「のぼせちゃう」
「じゃあ洗ってやるよ」
陸は後ろから沙希を抱き起こす。こういうとき男性は強引だな、とぼうっとした頭で沙希は思った。
沙希をバスチェアに座らせると、陸はボディソープを泡立てて背中に回った。実際、他人に洗ってもらうのは気持ちがいい。しばし沙希はうっとりする。
だがそれはつかの間で、またすぐに陸の悪戯が始まった。
背中を洗い終えると、後ろから大きな手が沙希の胸を包み、揉みしだく。
「あの……そこは、もういいです」
「そう? じゃあ……」
背後からなぜか嬉しそうな声が聞こえた。泡が肌の滑りをよくするせいで、陸の手によって沙希は今にも溶け出しそうになっている。本当にやめてほしいのか、もっとつづけてほしいのか、それすらもわからない。
沙希の胸を悪戯していた陸の手が、今度はするりと吸い込まれるように下腹部へ移動した。
「ちょっ……」
前かがみになって足を閉じようとしたが、それはポーズでしかなかった。弱々しい抵抗が、陸をますますあおる。中途半端に閉じた太腿が逆に陸の手首を固定する形になり、沙希の秘めた花びらを彼の指が丁寧になぞった。
「……やぁ……」
甘く痺れるような刺激に思わずのけぞった沙希の身体を、陸の胸が受け止めた。浴室に沙希の荒い息遣いが大きく響く。その合間に沙希から溶け出したものが、ぴちゃと音を立てている。陸は泡と蜜を絡めた指で、沙希の襞を擦りあげた。
「んん……」
快楽の波が一気に押し寄せたそのとき、陸の指が沙希のナカへ入ろうとした。
「やっ!」
沙希は顔を歪め、跳ね起きた。濃密な空気が一瞬にして消える。陸は凍りついたように身動きを止め、沙希の顔を心配そうに見つめた。
「痛い?」
首を横に振った。痛くはないが嫌だった。嫌悪感が胸いっぱいに充満し、言葉が喉につかえている。
陸はシャワーを手に取ると、沙希の身体につく泡をきれいに洗い流した。その手つきが優しく丁寧なので、沙希は泣きなくなる。
「ごめん」
シャワーを止めると陸は低い声であやまった。
沙希はぎこちない笑みを作り、もう一度首を横に振った。
その後は浴槽に入って、陸が身体を洗っているのをぼんやりと眺めていた。彼の身体は手足が長くてとてもきれいだと思う。嫌な気持ちは湯気とともに少しずつ消えていく。
バスルームを出ると陸がタオルで身体を拭いてくれた。タオルに包まったまま陸にもたれかかる。陸はなにも言わず、沙希を抱きとめた。
「ごめんな。……やっぱり今でも嫌?」
「うん……」
沙希はナカへ指を挿れられるのが嫌なのだ。
「なにか、思い出す?」
顔を上げずに、首を小さく横に振る。
思い出そうと努力しても、記憶の上に霞みがかかり思い出せない。もやもやしたなにかを振り払うように、沙希はもう一度首を振った。
頭上で小さなため息が聞こえる。陸は沙希の頭をぽんと軽く叩いた。
「忘れろ」
もう一度ぽんと叩かれると、目から涙がこぼれた。
「だんだん忘れていくって」
陸の胸に顔を埋めたまま首をこくこくと縦に振った。そんなに優しくしなくてもいいのに、と思う。優しくされるとつらいのは沙希自身だからだ。
陸にも全部を話したわけではなかった。ただ一度だけ「無理矢理されたことがあるか」と訊かれて、曖昧な返事をしただけだ。
陸はその返事で彼なりに納得したらしく、悲痛な顔をして沙希から視線をはずした。
そういう他人の反応を見ると沙希は、そこまでつらいことでもない、と弁解したいような気持ちになる。世の中には、もっとつらいことがいくらでもある。覚醒している間は完全に忘れていられる自分は幸せだ、と思うのだ。
しかしその記憶に繋がるもの、たとえば先程のようなことが起きると、沙希の全身がそれを拒絶した。
怖い、というのが一番近い感情だと思う。
「でもさ」
陸が明るい声を出す。
「できなくならなくてよかったよな」
沙希は思わず顔を上げて陸を睨んだ。
「それは浅野くんが、でしょ?」
陸は意外そうな顔をして「お前もだろ」と言う。
「俺とするの、嫌じゃないだろ」
疑問形ではなくどちらかというと断定的な口調だった。
沙希は答えずにふくれ面をした。
「大丈夫、俺が沙希をできなくなんかさせないから」
「……なにそれ?」
「知りたい? 教えてやろうか?」
陸は楽しそうに目尻を下げて笑っている。これが歳を取ったらただのスケベオヤジだな、と沙希は内心くすっと笑った。
その夜、陸は沙希の部屋に泊まった。
遅い朝食をとっていると、陸が矢野の話を振ってきた。
「花火、ね……」
陸は食パンをちぎりながらつぶやいた。
「すごく混むだろ。しかしあの人、そういうイベント好きだったのか」
意外そうな顔をする。
「男の人はみんなロマンティストでしょ」
沙希は呆れたように言った。
「ま、いいんじゃね?」
話題を振っておきながら、陸はどうでもいいような締めくくりをした。つい小さな嘆息が沙希の口から漏れる。
「それで、今日同期の友達の家に行くんだけど」
気を取り直して話題を変えた。房代のことを陸に話しておきたかったのだ。
「へぇ」
「昔のこと、話そうと思って」
「……俺のことも?」
「うん……だめかな?」
「別にいいけど」
陸は沙希の顔をじっと見つめた。
「……なに?」
「沙希の友達って、友達がいのないヤツばかりだったよな。お前の気持ち、全然考えてなくてさ」
返事に困った。それでも沙希にとって彼女らは友達だった。
「よかったな」
低い声が沙希の耳に届く。陸はホッとした表情をしていた。
(心配してくれてたんだ)
嬉しくて沙希は照れたように笑った。
昔の恋人の、その後を気にする人は、意外に多いのかもしれない。だが陸のような男にそれを期待するのは勘違いもいいところだ。沙希と別れた後に付き合った女性が何人いるのかなんて、知りたいとも思わない。
だからこそ嬉しくて、胸が苦しい。痛い。悲しい。
陸にとって自分はどういう存在なのだろう。
会えば考えずにはいられなくなる。考えたところで、答えなど見つかるわけもないのに……。
陸と一緒に家を出て、途中まで彼を送り、それから沙希は房代の家に向かった。
最寄の駅に房代の姿を見つける。ふたりはスーパーで買い物をした。長い夜を語り明かすために必要な酒とつまみを手に提げ、夕暮れの街を歩く。
初めて訪れた房代の部屋は、彼女の雰囲気をそのまま移し替えたような、明るいトーンで統一された華やかな空間だった。
「かわいいお部屋だね」
「『いい歳して』と思ったでしょ?」
「そんなことないよ。房代ちゃんらしい」
沙希は自室を思い出して、内心苦笑する。房代とは正反対で、部屋を機能的に整える以外に手をかけることはない。シンプルな空間が好きなのだ。しかし女性らしさが欠けている。昨晩訪れた陸はどう思っただろう、と急に不安になった。
「まーまー、座って」
促されるまま沙希はソファに腰をおろした。
「じゃあさっそく聞いちゃおうかな」
房代は買ってきたものをテーブルの上に並べながら言った。
「そうだね。……まず昔話でもしようかな」
テーブルを見つめながら、沙希は自分の手をぎゅっと握り締めた。それからおそるおそる脳の奥深くに眠る記憶の引出しを開けた。