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第一部 14

 沙希が社長と食事をした水曜から2日後の金曜、陸は午前中から外出していた。

 昼の休憩時間に出先で携帯が鳴った。着信の名前を見てうんざりする。

「……なに?」

 携帯を耳に当てていた陸の表情がどんどん険しくなった。

「それ、3年はないって言ってただろ?」

『早いほうがいいだろうということだ。取締役会の決定だから仕方ない。それにお前も3月の段階ではいつでもいいと言っていただろう?』

「……まぁな」

『なんだ? こっちに未練が残ることでもできたか?』

 相手の声はからかうような笑いを含んだ声になった。

「……るせぇな」

 陸はさらに不機嫌になった。

「話はそれだけ? ……なら切るぞ」

 相手の返事も聞かずに終了ボタンを押す。

 振り返ると矢野が興味津々な顔で陸を見ていた。

「すみません」

「彼女、というわけじゃなさそうだな」

「違いますよ。彼女なんていないし」

 陸は食事に戻る。周りはサラリーマンの姿もあるが、中年の女性グループも多い。それぞれ自分たちの話に夢中だ。

「へぇ、まだ彼女できないの?」

「学生時代と違って、今はそんな余裕ないですね」

「そうか。お互い寂しいな」

 矢野は陸を同士と認め、慰めるような視線をよこす。それが少しうっとうしい。恋をして、彼女ができれば、すべてが満たされるなんて思い込みは、愚かな幻想なのだ。

 陸は矢野の話を適当に流しつつ、頭の中では先程の電話のことを考えていた。

(来年、か。3年あれば、と思っていたけど)

 時間がない、と思った。

 社会に出てからというもの、陸の時間はこれまでの倍のスピードで流れていくような感覚だ。

(タイムリミットまで半年ちょっとか……)

 時計を見ると次の取引先との約束時間が迫ってきていた。陸は昼食の残りを急いでかきこんだ。


     


 結局、その日は直帰することになった。

 最後に訪問した取引先の担当者から一緒に食事でも、と誘われ、矢野と陸も付き合いでビールを飲んでしまった。

 陸は1、2杯飲んだところで酔いはしないが、矢野がアルコールを摂取した後に会社へ戻るのはまずいだろうと判断したのだ。陸も今夜は早く帰りたい気分なので素直に従う。

 なにげなく携帯を見ると21時になったところだった。

 陸はいつもと違う駅で電車を降りた。

 人通りの少ないところまで来てから電話をかける。

 呼び出し音が鳴る間、妙に不安な気持ちになる。何度かけてもそれは変わらない。

『もしもし?』

 相手は陸からの電話とわかっているはずだが、一応「……俺」と言ってみる。

『どうしたの?』

 一瞬、言葉が出てこなくなった。

「あのさ……」

『うん』

「風呂貸して」

『はぁ?』

 間髪入れず呆れたような大きな声が返ってきた。自分でもとっさに出た言葉に、なにを言っているんだか、と思ったが。

「ま、とにかく、もうお前ん家の近くだから」

『え? ちょっと待って』

 慌てたような声だった。

「なに? 俺が行くと困るようなことでもあんの? ……男がいるとか」

『いるわけないでしょ!』

 そりゃそうだろう、と陸は満足げに口の端を上げた。

『あんまり片付いてないよ』

「別に気にしねぇよ」

 そう言いながらチャイムを押した。





(え!? もう着いたの?)

 沙希は携帯を持ったまま玄関のドアを開けた。

 電話を切って目を上げた陸は少し照れたような表情をした。

「どうしたの?」

 陸はそれには答えず「上がっていい?」と言い終えないうちに靴を脱いだ。

 それを黙って見ていると、突然陸に抱きしめられた。

「あ……の?」

「暑いな」

 言葉とは裏腹に陸は、戸惑う沙希を身じろぎできないほどの強さで腕の中に閉じ込める。それからしばらくして、なにごともなかったように沙希は解放された。

「飯食った?」

「うん。浅野くんは? ……っていうか飲んでる?」

「付き合いで少し」

「それはお疲れさま」

 沙希はあらためて陸の顔を見た。疲労の色が濃い。

「じゃあさ、一緒に風呂入んない?」

 陸はネクタイを緩めながら言った。

 冗談とも本気ともつかぬ表情の陸を見つめる。釈然としないが、沙希は風呂に湯を張りに行く。

 陸は普通にふるまっているように見えるが、なにか様子が変だった。



「なにかあった?」

 バスルームから戻ってきた沙希は、気になって尋ねた。

「……別に」

 ぶっきらぼうな答えが返ってくる。陸は足を投げ出して自分の部屋のようにくつろいでいた。

「沙希は海外行ったことある?」

 唐突に陸が訊いてきた。

「あるよ」

「ああ、オーストラリアだっけ?」

 沙希が陸の家庭教師になったばかりのころ、海外旅行の話題で盛り上がったことがある。それを陸も思い出したらしい。

「浅野くんは……行ったことなかった?」

「ないね。家庭がごたごたしてたのもあるからな」

 陸はため息混じりに言った。陸の母が離婚したのは彼が小学生の時分で、再婚は中学入学時だと沙希は聞いていた。

「どうしたの? 急に」

「ああ、今度行くことになるかもしれなくて、それ、今日初めて言われたから……」

 陸にしては歯切れの悪い言い方だった。

「行き先は決まってるの? なんだか行きたくなさそうだけど」

「まだ決まってない。行きたくないわけじゃないけど、場所にもよるな……」

「ふーん。それ、いつごろなの?」

「ああ、……まぁ、まだ……決まったわけじゃないんだ」

 沙希は首を傾げた。こんなふうに曖昧な話をするのは陸らしくない。沙希には詳細を話したくないのかもしれないが、それならばわざわざ話題にしないはずだ。普段の陸なら――。

「お湯止めてくるね」

 と言って風呂場へ立った。後ろから陸もついてきた。無言で背後に立ち、沙希の服を脱がせようとしている。

「……なにをしているの?」

「脱がせてる。俺って親切でしょ?」

 沙希は思わず吹き出してしまった。

 本当なら抵抗すべき場面だが、なぜかできないでいる。拒めば陸が帰ってしまいそうな気がした。沙希がぼんやりしている隙に陸は着衣をすばやく脱ぎ捨てて、沙希の裸体を浴室へ押しやった。



「一緒に風呂入るの、久しぶりじゃね?」

「さぁ?」

 沙希はわざととぼけた。陸の言いたいことはわかる。シャワーではなく、一緒に湯船に浸かることが久々なのだ。友達関係の男女がのんきに同じ湯に浸かっていること自体、ありえないと沙希は思う。

 あまり大きな風呂ではないので浴槽に二人で入るときつい。それでも陸は気にせず沙希を自分の前に座らせた。

「ひゃあ!」

 突然うなじを触られる。

「なんつー声だ」

 陸の指はおもしろがって、ますますゆっくり首筋を這う。沙希は首を縮めて抵抗してみるが、その程度で諦める陸ではない。

「ちょっと……」

「なに?」

 悪戯な指が鎖骨を通り過ぎ、胸のほうへ降りてきた。湯の中でも触られると沙希の身体はすぐに反応してしまう。

「……ダメ、だよ」

「なにがダメなの」

 耳元で意地悪な笑いを含む声がそう囁いた。

「のぼせちゃう」

「じゃあ洗ってやるよ」

 陸は後ろから沙希を抱き起こす。こういうとき男性は強引だな、とぼうっとした頭で沙希は思った。

 沙希をバスチェアに座らせると、陸はボディソープを泡立てて背中に回った。実際、他人に洗ってもらうのは気持ちがいい。しばし沙希はうっとりする。

 だがそれはつかの間で、またすぐに陸の悪戯が始まった。

 背中を洗い終えると、後ろから大きな手が沙希の胸を包み、揉みしだく。

「あの……そこは、もういいです」

「そう? じゃあ……」

 背後からなぜか嬉しそうな声が聞こえた。泡が肌の滑りをよくするせいで、陸の手によって沙希は今にも溶け出しそうになっている。本当にやめてほしいのか、もっとつづけてほしいのか、それすらもわからない。

 沙希の胸を悪戯していた陸の手が、今度はするりと吸い込まれるように下腹部へ移動した。

「ちょっ……」

 前かがみになって足を閉じようとしたが、それはポーズでしかなかった。弱々しい抵抗が、陸をますますあおる。中途半端に閉じた太腿が逆に陸の手首を固定する形になり、沙希の秘めた花びらを彼の指が丁寧になぞった。

「……やぁ……」

 甘く痺れるような刺激に思わずのけぞった沙希の身体を、陸の胸が受け止めた。浴室に沙希の荒い息遣いが大きく響く。その合間に沙希から溶け出したものが、ぴちゃと音を立てている。陸は泡と蜜を絡めた指で、沙希の襞を擦りあげた。

「んん……」

 快楽の波が一気に押し寄せたそのとき、陸の指が沙希のナカへ入ろうとした。

「やっ!」

 沙希は顔を歪め、跳ね起きた。濃密な空気が一瞬にして消える。陸は凍りついたように身動きを止め、沙希の顔を心配そうに見つめた。

「痛い?」

 首を横に振った。痛くはないが嫌だった。嫌悪感が胸いっぱいに充満し、言葉が喉につかえている。

 陸はシャワーを手に取ると、沙希の身体につく泡をきれいに洗い流した。その手つきが優しく丁寧なので、沙希は泣きなくなる。

「ごめん」

 シャワーを止めると陸は低い声であやまった。

 沙希はぎこちない笑みを作り、もう一度首を横に振った。

 その後は浴槽に入って、陸が身体を洗っているのをぼんやりと眺めていた。彼の身体は手足が長くてとてもきれいだと思う。嫌な気持ちは湯気とともに少しずつ消えていく。

 バスルームを出ると陸がタオルで身体を拭いてくれた。タオルに包まったまま陸にもたれかかる。陸はなにも言わず、沙希を抱きとめた。

「ごめんな。……やっぱり今でも嫌?」

「うん……」

 沙希はナカへ指を挿れられるのが嫌なのだ。

「なにか、思い出す?」

 顔を上げずに、首を小さく横に振る。

 思い出そうと努力しても、記憶の上に霞みがかかり思い出せない。もやもやしたなにかを振り払うように、沙希はもう一度首を振った。

 頭上で小さなため息が聞こえる。陸は沙希の頭をぽんと軽く叩いた。

「忘れろ」

 もう一度ぽんと叩かれると、目から涙がこぼれた。

「だんだん忘れていくって」

 陸の胸に顔を埋めたまま首をこくこくと縦に振った。そんなに優しくしなくてもいいのに、と思う。優しくされるとつらいのは沙希自身だからだ。

 陸にも全部を話したわけではなかった。ただ一度だけ「無理矢理されたことがあるか」と訊かれて、曖昧な返事をしただけだ。

 陸はその返事で彼なりに納得したらしく、悲痛な顔をして沙希から視線をはずした。

 そういう他人の反応を見ると沙希は、そこまでつらいことでもない、と弁解したいような気持ちになる。世の中には、もっとつらいことがいくらでもある。覚醒している間は完全に忘れていられる自分は幸せだ、と思うのだ。

 しかしその記憶に繋がるもの、たとえば先程のようなことが起きると、沙希の全身がそれを拒絶した。

 怖い、というのが一番近い感情だと思う。

「でもさ」

 陸が明るい声を出す。

「できなくならなくてよかったよな」

 沙希は思わず顔を上げて陸を睨んだ。

「それは浅野くんが、でしょ?」

 陸は意外そうな顔をして「お前もだろ」と言う。

「俺とするの、嫌じゃないだろ」

 疑問形ではなくどちらかというと断定的な口調だった。

 沙希は答えずにふくれ面をした。

「大丈夫、俺が沙希をできなくなんかさせないから」

「……なにそれ?」

「知りたい? 教えてやろうか?」

 陸は楽しそうに目尻を下げて笑っている。これが歳を取ったらただのスケベオヤジだな、と沙希は内心くすっと笑った。


     


 その夜、陸は沙希の部屋に泊まった。

 遅い朝食をとっていると、陸が矢野の話を振ってきた。

「花火、ね……」

 陸は食パンをちぎりながらつぶやいた。

「すごく混むだろ。しかしあの人、そういうイベント好きだったのか」

 意外そうな顔をする。

「男の人はみんなロマンティストでしょ」

 沙希は呆れたように言った。

「ま、いいんじゃね?」

 話題を振っておきながら、陸はどうでもいいような締めくくりをした。つい小さな嘆息が沙希の口から漏れる。

「それで、今日同期の友達の家に行くんだけど」

 気を取り直して話題を変えた。房代のことを陸に話しておきたかったのだ。

「へぇ」

「昔のこと、話そうと思って」

「……俺のことも?」

「うん……だめかな?」

「別にいいけど」

 陸は沙希の顔をじっと見つめた。

「……なに?」

「沙希の友達って、友達がいのないヤツばかりだったよな。お前の気持ち、全然考えてなくてさ」

 返事に困った。それでも沙希にとって彼女らは友達だった。

「よかったな」

 低い声が沙希の耳に届く。陸はホッとした表情をしていた。

(心配してくれてたんだ)

 嬉しくて沙希は照れたように笑った。

 昔の恋人の、その後を気にする人は、意外に多いのかもしれない。だが陸のような男にそれを期待するのは勘違いもいいところだ。沙希と別れた後に付き合った女性が何人いるのかなんて、知りたいとも思わない。

 だからこそ嬉しくて、胸が苦しい。痛い。悲しい。

 陸にとって自分はどういう存在なのだろう。

 会えば考えずにはいられなくなる。考えたところで、答えなど見つかるわけもないのに……。


     


 陸と一緒に家を出て、途中まで彼を送り、それから沙希は房代の家に向かった。

 最寄の駅に房代の姿を見つける。ふたりはスーパーで買い物をした。長い夜を語り明かすために必要な酒とつまみを手に提げ、夕暮れの街を歩く。

 初めて訪れた房代の部屋は、彼女の雰囲気をそのまま移し替えたような、明るいトーンで統一された華やかな空間だった。

「かわいいお部屋だね」

「『いい歳して』と思ったでしょ?」

「そんなことないよ。房代ちゃんらしい」

 沙希は自室を思い出して、内心苦笑する。房代とは正反対で、部屋を機能的に整える以外に手をかけることはない。シンプルな空間が好きなのだ。しかし女性らしさが欠けている。昨晩訪れた陸はどう思っただろう、と急に不安になった。

「まーまー、座って」

 促されるまま沙希はソファに腰をおろした。

「じゃあさっそく聞いちゃおうかな」

 房代は買ってきたものをテーブルの上に並べながら言った。

「そうだね。……まず昔話でもしようかな」

 テーブルを見つめながら、沙希は自分の手をぎゅっと握り締めた。それからおそるおそる脳の奥深くに眠る記憶の引出しを開けた。

 

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