「浅野くん? ……寝たの?」
沙希は傍らで目を閉じている陸にそっと声をかけた。呼吸が深く一定だ。眠っている。
少し身体を起こしてその寝顔を覗き込んでみた。
(こうして見るとやっぱりかわいいな……)
かわいいと言うたびに陸は怒ったが、沙希としては「カッコいい」より「かわいい」のほうが愛着を表現していると思う。
(たぶんこういう顔が好きな人にはたまらないだろうな)
本当のところ、初めて会ったときにはタイプだと思わなかった。きれいな顔をした男の子だな、とは思ったが、沙希にとっての理想の顔は当時の彼氏だった。
だからまさか好きになるとは思わなかったのだ。
(いや、どうかな……。本当は出会ったときから好きだったのかも)
好きという気持ちは不思議なものだ。いつのまにか、どこからともなくやって来て、心の一番深いところに棲みついてしまう。
(好き、だよ。……たぶん一生言わないと思うけど)
冗談のようにふざけてそれらしいことを言ったことはある。だが、真面目な顔で本心を伝えることはできなかった。
好きだと言ってしまえば、その後の自分はきっと暴走列車になる。そして陸をも出口の見えないトンネルへ引きずり込んでしまうだろう。
せめて陸には、明るい未来を見ていてほしい、と沙希は願った。
(でも……一度くらいは言っておきたかったな)
どうせ最初からずっと一緒にいられないとわかっていたのだから――。
(もう寝よう)
沙希は陸に背を向けてベットの端のほうに横になる。
疲れていたが目が冴えて眠れる気がしなかった。それでも目を閉じた。
不意に陸が寝返りを打ってこちら側を向く気配がした。
(……え!?)
なぜか後ろから抱きしめられていた。
(起きてるの?)
胸がドキドキした。だが陸はそれ以上動かず、寝息を立てているようだった。
(なんだろ。……たまたま?)
ドキドキが収まるまでしばらくかかったが、そのうち陸の体温に安心して沙希は深い眠りについた。
目が覚めると隣に陸はいなかった。
身体を起こすと下着がベッドの上に置いてあった。陸が持ってきてくれたらしい。それを付けてシャツを探す。部屋を見回すとハンガーに掛けてあった。
シャツを羽織って寝室を出た。向かい側の部屋からキーボードを叩く音がした。部屋のドアは少し開いている。
「おはよう」
沙希は廊下から声をかけた。
「もうお昼だけどな」
陸が振り返る。パソコンの画面はチラッと見る限りデータの入力作業中のようだ。
「仕事?」
「まぁね。俺もいろいろあってね……」
「ふーん。えらいね」
「その格好はエロいな」
「あ、シャワー借りたいなと思って」
「ああ、こっち」
陸はすでにシャワーを済ませたようで、シャンプーの匂いがした。
案内された洗面所も浴室も高級ホテルのような豪華さだった。思わず声を上げてしまう。
「だから親のマンションなんだって。悪趣味だよな」
「いや、豪華で驚いちゃった」
「無駄に豪華なだけ」
陸はため息をつき「ごゆっくり」と言葉を残して出て行った。
シャワーを終えて浴室から出たところで沙希は困った。
バスタオルがない。
「浅野くーん」
返事がない。聞こえていないようだ。
「浅野くん!」
もう少し大きな声を出す。遠くでドアの開く音がした。
「……るせぇな、アンタに関係ないだろ。……あ? 用事ないなら切るぞ」
コードレスの電話を片手に陸が顔を出した。
「ごめん、電話中だった?」
「いや大丈夫。あ、バスタオルか」
バスタオルをもらって着替えを済ませ、ドライヤーで髪を乾かした。やっとすっきりした気がする。
リビングルームへ行くと、陸がカップラーメンにお湯を注いでいるところだった。
「これしか食べるものがなかった」
「いつもカップラーメン食べてるんじゃないでしょうね?」
「これか、コンビニ弁当だね」
沙希は呆れた。しかし考えてみれば、ひとり分の食事をわざわざ自炊するのは大変だろう。
「身体壊すよ」
「だよな。沙希、今日はまだ時間ある?」
「大丈夫だけど」
「土曜なのに、なにもないのも寂しいな」
「浅野くんはどうなのよ」
「俺は仕事があって遊んでる暇なんかないんだよ、ってそれは置いといて。前にメールで言ってたじゃん、飯作ってくれるって」
「ああ、そういえば」
ちょっとしたいたずら心で送ったメールのことを思い出す。
「晩飯作ってよ」
「いいけど、なにを?」
「カレーライス」
沙希は思わず噴き出した。相変わらず食べ物の好みがお子さまだ。ラーメンにカレーライスにハンバーグ……。
「まぁ、カレーなら作れるよ」
「じゃあよろしく。後で買い物だな」
そうして陸の作ってくれたカップラーメンを食べた。陸とふたりで朝を迎えたことなどなかったから、不思議な気分だった。
昼下がりに近所のスーパーへ買い物に行き、豚肉を多めに入れたカレーライスを作って、ふたりで食べた。
片付けまで終えて沙希は帰る準備をした。ここまでタクシーで来たから、沙希には帰り道がわからない。それを察して、陸は駅まで送ってくれるようだ。
「ありがとな」
「どういたしまして」
ふたりは夜道を微妙な距離で歩いた。
「あのさ……」
陸が神妙な顔で口を開いた。なにか嫌な感じがした。
「お前、俺のこと、友達と思えない?」
(とも……だち……?)
「それって……セフレってこと?」
思わず沙希は言った。
陸は少し大きな声で否定する。
「そうじゃない」
(じゃあなんなのよ)
そう問い返したかった。今の、この状態で「友達」と言えば、それ以外になにがあるというのか。
「……沙希がそう思いたければそれでもいいけど、そういうつもりで言ったんじゃない」
(わからない……)
陸がなにを考えているのか、全然わからなかった。
どういうつもりなのか知りたいと思ったが、結局なにも言えなかった。
ショックが大きすぎたのもある。陸の答えを聞いてさらにダメージを受けるくらいなら、聞かないほうがいいに決まっている。
沙希はそれきり口を閉ざした。
「だから、お前が俺に会いたければ電話をくれればいい」
そう言って陸は立ち止まった。いつの間にか駅に着いていた。
「じゃあ、またな」
沙希は頷いただけで改札へ急いだ。心がざわついてどうしようもない。どうすればいいのかわからなかった。どうすればこの気持ちをなだめることが出来るのか……。
線を引かれたのだ。
沙希の気持ちは行き場を失って、これ以上陸を思うことをやめようとしている。いや、やめなければいけないのだ。
(知ってて言っているんだ)
電車に揺られながら沙希は確信する。
沙希が今でも陸を好きなことも、だけど会いたくても沙希から電話をしないことも……。
(彼の家に行くのはこれが最初で最後だったな)
……悲しかった。
なにかを期待して、期待しすぎていた自分が。
そして滑稽だった。笑いたくなった。
これは、なに……?
私が陸を傷つけた罰――?
家にたどり着いてドアを閉めた瞬間、涙が出た。あふれて止まらなかった。
もう陸は自分を愛してなどいないのだ。
今になって沙希はその事実を思い知った。頭ではわかっているつもりだった。
……でもどこかでいつも信じていた。信じていたかった。
彼が今でも自分を想っていてくれることを――。
ゴールデンウィークが明け、重い足を引きずって出社するころ、東京は春から夏へと匂いを変えていた。電車が滑り込んできた駅のホームに熱気が立ち上り、沙希は一瞬くらっとする。
長い連休は北国の実家に帰省した。飛行機に乗れば移動時間を含めても数時間で帰宅できる。それでも東京で働く沙希にとっては遠い場所だ。
おみやげの入った紙袋を持ち、通勤ラッシュの海に飛び込む。人ごみにまぎれると、息苦しいけれども、心のどこかではホッとしていた。いつもの退屈な日常が始まるが、それが沙希には心地いい。
連休中に、揺れて乱れた気持ちはしっかりと整理したつもりだった。だからもう大丈夫、と自分に言い聞かせた。
出社すると既にデスクの上には誰かのおみやげが置いてある。沙希も持参した個包装の菓子を急いで配った。
休み中の新聞を整理していると、後ろから「おはよう」と声がした。
「おはようございます」
振り返ると矢野が出社してきたところだった。
「実家に帰ってたの?」
「はい」
「いいなぁ」
「矢野さんは?」
「それが……仕事」
「あらら、お疲れ様です」
「ホント参るよね。なんか俺、痩せちゃったし」
「確かにちょっとやつれてますね……」
「え? わかる?」
よく見ると顔の輪郭が少しシャープになった気がする。
沙希は思いつきで言ってみた。
「なにかおいしいものでも食べに行きませんか?」
「お! いいねぇ!」
途端に矢野の顔が明るくなった。
「なにがいいかな? ……考えておくよ」
そう言って矢野は自分のデスクへと向かった。
その背中を見ながら、沙希はふと考えてしまう。これまで自分が矢野に対してどんなふうに接してきただろうか、と。
友達でいてくれと頼んだわけではないが、沙希の態度は矢野を牽制していたに違いない。
たぶん矢野は友達以上の好意で接してくれていたのに――。
(友達……か)
知らないうちにどれだけ他人を傷つけているのだろう。これからもそうやって自分は生きていくのだろうか。
思わず深い嘆息が漏れる。
沙希は自分のデスクに戻り、書類の山を選り分けて整理した。休み明けは書類がとりわけ多い。
書類を持って席を立とうとしたところ、営業部のフロアに他部署の若い女性社員が派手な模様のスカートをひらひらさせながら、スキップしそうな足取りでやってきた。
(倉田……由紀、さんだったかな?)
小脇におみやげらしき包みを抱えている。彼女もゴールデンウィーク中はどこかに帰省していたのだろう。そうでなければどこかへ旅行したのかもしれない。
「浅野くん! おはよう。これね、前にいってたお菓子!」
聞きたくなくても聞こえてくる、耳につく甲高い声だ。周囲の社員たちも、なにごとかと由紀に注目する。
沙希は複雑な気持ちで陸のデスクを見た。彼はパソコンの画面から目を離さず、無表情のままだ。
それでも由紀は気にする様子もなく、陸に顔を近づけて話しかけている。
(すごいな……。私ならできないや)
そう思いながら書類を抱えて業務を再開した。てきぱきと書類を配布しながら、陸と由紀が話している横を素知らぬ顔で通り過ぎる。
「川島さん」
背後から陸の声がした。
沙希は振り返らずに立ち止まった。
「後で至急回してほしい購入伝票持っていきますので」
仕方なく首だけ振り返る。陸は座ったままだったが、沙希のほうをまっすぐに向いていた。
「机に上げておいてください」
それだけ短く言って足早に移動した。後ろから由紀の声が聞こえてくる。
「川島さんってきれいな人だけど冷たそう」
胸が痛い。だが本当のことだから仕方ないと思う。
(はぁ……。なにやっているんだろうな、私)
気がつけば視線はつま先に落ち、背は丸まっていた。顔を上げて気持ちを切り替える。
(仕事、仕事!)
それからはいつも以上にはりきって、きびきびと仕事をこなした。余計なことを考える暇がないように――。
午後、昼食から戻ってきた沙希はデスクの上に小さな袋を見つけた。誰かのおみやげらしい。
そしてその下には購入伝票が置いてある。
(……浅野くん?)
沙希は小さな袋の中をそっと覗いてみた。
(これ……ストロベリーチョコ!!)
ホワイトチョコレートの中にフリーズドライの苺が入っている地元の有名菓子店のお菓子だった。
沙希の大好きなお菓子なのだ。思わず頬が緩む。
(帰省してたんだ……)
陸の席を見たが、デスクの上はきれいに片付けてある。外出してしまったらしい。
(お礼言わなきゃな……)
沙希はパソコンに向かうと、陸に短いメールを書いた。
あんなに重かった気持ちが、急に軽くなったのを感じる。
(お菓子ひとつで浮上するなんて、私って現金だな……)
沙希は苦笑しながらそのお菓子を大事にしまった。