陸は有無を言わさぬ力で沙希の腕を引っ張り、非常階段を上った。
2次会の店は6階だが、ビル自体は8階まであるようだ。2階分を引っ張られながら上がる。
6階のフロアの照明が暗かったのと対照的に、この非常階段は狭いが蛍光灯の明かりが空間を白く照らしていた。
あまり飲んだつもりはなかったが、酔いが回っているのか足元がおぼつかない。
最上階らしい8階のフロアへの入り口は分厚い扉が閉じたままだった。
階段を上りきったところで、よろけた拍子に陸の胸にぶつかった。
頭もふらふらする。気がつくと陸に後ろ抱きにされていた。
「あの……」
沙希は陸を振り返ろうとした。
その瞬間、耳から全身にゾクリとした感触が走った。
「……やっ!」
耳を舐められていた。陸の吐息が耳をさらに熱くした。
「ヤじゃないだろ……」
陸はかすれた声で言った。
「なに? あれ」
(なにって……訊かれても……)
耳のふちをゆっくりと舐め上げられた。頭の中が白くなる。言葉にならなかった。
「お前……平気なの?」
(……なに……が?)
「……なんか言えよ」
考えようとすればするほど、思考が拡散していく。
「平気なわけ……ない……」
それだけをやっとの思いで口にした。
「すげぇ、ムカつくんだけど」
そう言うと陸はようやく耳元から離れる。
沙希は大きく息を吐いた。もう少し続いたら気が変になりそうだった。
「えっと……ごめん」
「お前が悪いのかよ」
無意識で口にした言葉が、陸をますます不機嫌にさせたようだ。こういうときはなにを言っても無駄なのかもしれない。
沙希は陸を怒らせてしまったことにしゅんとなっていたが、頭の中がはっきりしてくると、だんだん腹が立ってきた。
「見てたなら助けてよ」
「抵抗してなかっただろ」
陸は吐き捨てるように言った。
「したよ。したけど……」
「案外嫌じゃなかったんだろ?」
「違う!」
違うのに、と思った途端、ぽろっと涙がこぼれた。
頭上でため息が聞こえる。
「ごめん……言いすぎた」
その言葉で、涙が堰を切ったようにあふれて止まらなくなった。
陸は肩をつかんで沙希の身体を回転させる。やっと陸の顔が見えるようになったのに、沙希は恥ずかしさのあまり、うつむくことしかできない。
「ばーか。何泣いてんだよ」
先程とは違って優しい声だった。ますます涙がこみ上げる。
「化粧、落ちるぞ」
「……もう遅いよ」
バッグからティッシュを取り出して涙を拭いた。泣くと鼻水も出るからやっかいだ。
「ホントにお前はよく泣くな……」
「誰のせいよ」
鼻をすすりながら少し笑った。笑みの形になった頬が引きつってぎこちなく動く。
陸は悪びれもせず「お前が悪い」と言った。
(なんで私が悪いのよ)
沙希も気持ちが落ち着いてきて、普段の調子が戻ってくる。どうして自分が責められなければならないのか、と口を尖らせ、顔で抗議した。
それでも陸はしらっとした表情で言い募る。
「ああいうことされるお前が悪い」
「私、なにもしてないもん」
「わかってるよ。別に他のヤツならどうでもいいんだよ。お前だからムカつくの!」
「……なんで?」
「知らねぇよ、そんなこと」
(よくわからない……)
そう思いながらも、本心では素直に嬉しかった。陸の中でまだほんの少しでも沙希が特別な存在でいるのなら――。
突然、陸は両腕を沙希の首に回した。整った綺麗な顔が急接近し、沙希はドキッとする。
「このあと、オレんち来いよ」
「え?」
この状態でノーと答えられる人がいるのだろうか? もしいるのなら、その人に会ってみたいと沙希は思った。
「……来る?」
首を少しだけ縦に振った。顔が赤くなっていると思う。陸の目を見ることができなかった。
「じゃあ、さっきの続き、しような」
「……!」
思わず顔を上げると、にっこりと笑う陸の顔が思ったより近くて、途端に耳まで熱くなった。
それからはほとんど上の空だった。
店へ戻ると、意外にも陸がフォローしてくれた。酔いが回って気分が悪くなったところに遭遇したから、階段で休んでいた、と。
(一部事実と反するけどね)
ツッコミながらも沙希はとても感謝していた。
席も年齢層の高いグループのところへ連れて行かれた。年下の陸が自分の保護者のようで不思議な気持ちになる。
陸がいてくれてよかった、と思った。
普段は他人に甘えることが苦手な沙希も、不思議と陸にだけは甘えられる。歳の差を気にすることもほとんどない。
しかも今夜は社会人としてふるまう陸が、大人っぽくて頼もしい。以前とは違う面を見せつけられ、22歳の陸を好きになっていく自分を止めるのは難しいかもしれないと沙希は思った。
(「リセットボタンがあったら……」か)
昔、陸とそんな話をしたことがあった。
「私は……押すかな」
沙希がそう答えると、陸は悲しそうに言った。
「俺は押さないね。もしリセットしてお前に出会えない人生なら、俺はこの先どんなに残酷な終わりが来ようとお前に出会った人生を選ぶ」
なにも言えなかった。その残酷な終わりを選ぶのはたぶん沙希だから――。
(でも、もしリセットして100分の1か、1000分の1でもキミに先に出会える運命が待っているとしたら、私はその確率に賭けるのに……)
今もその気持ちは変わらない。
もしふたりの出会いが、ふたりとも社会人になった今だったら――?
(もし、なんて考えたところでなんの意味もないけどね)
どうしてあの頃、自分の気持ちに素直になれなかったんだろう。
沙希は唇を噛んだ。
もうなにもかもが遅すぎる。
それなのに、自分はこれからどうしようというのだろう。
陸はなにを考えているのだろう。
陸の様子をちらっと盗み見たが、そのポーカーフェイスには沙希をも拒絶するような冷たさが感じられて、すぐに視線をはずす。
2次会が解散し、三々五々に駅へ向かった。沙希は誰とも一緒に歩く気にならず、前を行く集団と一定の距離を保ちながら歩いていた。
そこへ後ろから矢野が声をかけてきた。
「気分悪くなったって?」
「ちょっと飲み過ぎちゃったみたいで」
「大丈夫?」
「もう大丈夫です」
追いついた矢野と並んで歩くことになってしまい、沙希は困惑した。愛想笑いを頬に貼りつけ、適当な会話をしながら、どうやって彼を撒(ま)こうかと考える。
(ひどい女だな、私……)
頭の片隅ではそう思うものの、沙希には矢野の存在がうっとうしくて仕方ない。
結局駅まで一緒に歩いたが、改札の前で薬局に寄りたいと言って別れた。陸と待ち合わせた出口のそばに薬局があるのだ。
急いで階段をおり、出口から一歩出たところで辺りをきょろきょろと見回す。
「行くぞ」
声がした方を見ると、壁にもたれて陸が待っていた。
タクシーに乗り込み、約5分後。沙希と陸は大きなマンションの前に到着した。
想像していたものよりはるかに高級な外観に、沙希の足がすくむ。
「どうした?」
「ずいぶん立派なマンションに住んでるんだね」
「親の持ち物なんだよ」
陸はぶっきらぼうに言った。
「本当は自分で家賃を払えるところに住むつもりだったんだけど」
エレベーターに乗ると陸は操作盤の数字を慣れた手つきで次々と押した。どうやら暗証番号を入力しなければ最上階へたどり着けないシステムのようだ。
思えば、北国にある陸の実家も街の中心部にそびえたつ高級マンションの最上階だった。
家庭教師として陸の家に通っていた頃、沙希はまだ世間の事情に疎い大学生で、そのことを特別に意識したことはなかったが、考えてみれば陸の実家では家具から生活雑貨にいたるまで、ほとんどが名品と呼ばれる部類の質の高いものを使用していた。
資産家の娘である陸の母親にとって、それは自然なことなのだろう。ついでに東京にマンションを持っていたところで、なんの不思議もない。
「うちとは大違い……」
「いや、お前のほうがえらいよ。俺だってできるなら親の世話にはなりたくねぇし」
最上階にはドアがひとつしかなかった。そのドアの鍵を開けると、陸は沙希の背中を押して中に入った。
部屋の内部もやはり沙希の住むアパートとは格段の違いだった。部屋数も多い。
「散らかってるけど」
「いや、思ったよりキレイだよ」
「どんな部屋を想像してたんだか……」
陸は苦笑しながらスーツを脱いだ。
「うわっ、タバコと飲み屋くせぇ……」
「私もだよ」
「お前はいい匂いするぞ。香水、昔と違うだろ」
よく覚えているな、と感心した。そして覚えていてくれたことが、嬉しくて、悲しくて、せつなくて、眩暈がしそうなほど幸せだった。
いつの間にか陸が隣にいた。ふわりと抱き寄せられる。
「これ、なんていう香水?」
沙希は答えずにフッと笑った。
「……相変わらず香水好きなんだね」
「うん」
陸は身体を沙希に預けるようにのしかかってきた。
「……疲れた」
やっと新人の1ヶ月が終わる。同時に沙希と陸が再会してから1ヶ月が経とうとしていた。
「お疲れさま」
沙希は陸の髪をなでた。さらさらしていて気持ちがいい。男性にしては細くて柔らかい髪質で、後ろ髪を指で梳(す)くとなぜか沙希の心も落ち着いてくる。
しばらくそうして陸の髪をなでていたが、突然陸が身体を起こした。
「……ダメだ。寝そうだ」
「疲れているんでしょ? 寝たら?」
「嫌だね」
陸はシャツを脱いだ。素肌がまぶしくて沙希は目を細める。高校生のときよりは肩周りがサイズアップし、二の腕にかけてバランスよくついた筋肉が美しい。その腕にふたたび抱きしめられることを想うと、胸が高鳴り、くらくらした。
「約束しただろ。さっきの続きするって」
陸の口の端が意地悪く上がった。
「疲れてるのに無理しなくても」
「無理?」
言いながら陸は沙希のシャツのボタンを外す。
「俺をいくつだと思ってんの?」
下着だけになった胸のふくらみに手を添えられた。心臓の音が陸にも伝わっているだろう。どうしようもないくらい動悸が激しくなっていた。
「ちっちゃいなぁ」
陸の率直な感想に、思わず沙希は苦笑する。
「悪かったわね、小さくて」
「俺はこれくらいが好きだけどね」
下着の中に直接陸の手が滑り込み、ゆっくりと柔らかな胸を揉み始める。
「……っ」
「敏感だな。アルコール入ってるせい?」
確かにいつもより敏感になっている気がする。沙希はしがみつくように陸の首に抱きついた。
陸は沙希の背中に手を回し下着を外す。一旦解放された胸はすぐに陸の両手によって包まれた。
ゆっくりとした動きが、沙希の理性を頭の中から追放していく。
「なぁ、お前立てる?」
こくんと頷いた。沙希の荒い呼吸だけが静かな部屋に響く。陸に腕を引っ張られてのろのろと立ち上がった。
陸の片手がスカートの裾をめくり太腿を這った。胸への刺激とは違う快感が脳に走る。
「……あぁ……んっ……」
さらに強い快楽を求めて、誘うように、沙希は喘いだ。
ストッキングが途中まで降ろされた。後は自分で脱ぐ。
下着の上から敏感な部分を優しくなぞられる。すでにしっとりと濡れているのが自分でもわかり、沙希は恥ずかしさで身を硬くした。
すると陸が意地悪く笑みを浮かべて沙希の目を覗き込んでくる。
心の奥まで見透かされそうな気がした。慌てて背伸びをして、自分からキスをする。
お互いの舌が絡み合うと、下着の中に陸の手が忍び込み、今度は直に沙希の秘所を探り始めた。彼の長い指はすぐに沙希の好きな場所を見つけ出し、最初は優しく触れ、ほんの少しだけ前後に揺する。
「……っん、……んんっ」
声にならない声が漏れた。立っているだけなのに、いつもより強い快感が襲ってくる。陸の指からもたらされる刺激は次第に強くなり、息が苦しい。
唇を離した陸は、いきなり胸の頂きに吸いついた。空いている片方の手はもう一つの突起をつまむ。
「やぁっ! ……あっ……あっ!」
急に攻め立てられ、感じるままに声を上げていた。アルコールが、いつもなら恥ずかしくて我慢しようとする気持ちをどこかに放ってしまったようだ。
「も、もう……ダメ……」
「なにがもうダメなの? ここだろ、お前の……」
敏感な部分を擦る指のタッチが早くなる。そのたびに、くちゅ、と卑猥な音が耳に届き、沙希は急速にのぼりつめた。
「あっ……あぁ……ああっ!」
足がガクガクして立っていられなくなり、陸の腕にすがりつきながら座り込む。
「イった?」
陸もしゃがんで頬に触れてきた。
床に手をついて呼吸が静まるのを待つ。自分の身体を支えているのがやっとだ。
「立ったまましてもいいけど、お前そういうの嫌いでしょ」
沙希は返事の代わりにうつむいた。
「しないって」
少しだけ顔を上げると、陸は困ったような表情で沙希を見つめていた。
「そんな目で見るなよ」
「だって……」
「立てるか? こっちに来いよ」
沁みこむような優しく甘い声音に心が震える。
沙希は陸に支えられて立ち上がり、誘われるまま彼の寝室に足を踏み入れた。