> おみやげありがとうね。
沙希からのメールを見て陸は少し安堵した。
あの日、沙希を送っていく途中で告げた言葉は単なる思い付きではなかった。陸なりにさんざん迷い、言葉を選んだ結果の「友達」だった。
しかし沙希はあの日以降、明らかに陸を避けていた。
予想していたとはいえ、思った以上につらい。
(ホント、アイツも困ったヤツだよな……)
そう内心ぼやきながらメールに返信する。
> あれ見たらお前を思い出したから。
こんなメールを送っても、沙希は絶対に電話をよこさないだろう、と思う。
だいたい沙希の行動パターンは把握しているつもりだ。
陸が冷たく突き放してしまえば、それきり沙希との交流は途絶えてしまうに違いない。いつだって陸が行動を起こさなければ、沙希はなにもしないのだ。
(……それってずるくね?)
もしこのままふたりの距離が遠くなっても、沙希は平気なのだろうか。
(平気……じゃなくても我慢するんだろうな)
メーラーを閉じて仕事の画面に戻る。
(だいたい我慢しすぎだろ。あの感じじゃ未だになんでも話せる友達もいなさそうだし)
だが、その原因を作ったのは陸でもある。そのことに気がついたとき、陸は初めて沙希の本心を知ったのだ。
「俺のところに来ればいいのに。そうすれば沙希に苦労なんかさせないのに」
(俺はなにもわかっていなかったな。えらそうなこと言ったけど、結局なにもしてやれないただのガキだった)
今さらだが、自らが言った過去の無責任なセリフが悔やまれる。
そのとき沙希は、返事をせずに、ただ寂しく笑っただけだった。
物思いにふけっていると、デスクの上の電話が鳴った。
「ああ、その資料ならできてますよ」
『じゃあ、悪いが届けてきてくれないか? 私はこれから予定があって行けない』
「……つまり俺は使いっ走りってことですか」
陸は電話の相手に低い声ですごむ。
『嫌なら別の者に頼むが』
相手は気にした様子でもなくさらりと言った。
「……行きますよ」
陸は渋々答えた。行けばいいんだろ、と付け足したかったが、社内なので我慢する。
『お前のためだ。いずれやらねばならないことなのだから』
相手は言いたいことを言い終えると電話を切った。
(はいはい)
陸は苦い顔のまま受話器を置く。
そして電話の指示通り資料をプリントアウトし、急いで外出の準備をした。
陸からのメールの返信を見た途端、心臓がうるさくなって、沙希はひどくうろたえた。
(こういうの、ずるい……)
心をもてあそばれているようで、どうしていいのかわからなくなる。
だが本当のところ、戸惑う気持ちよりも、喜びのほうが何倍も大きい。
(友達って……どういうつもりで言ったんだろう?)
そこがよくわからない。
もう会いたくないとか会わないほうがいいとか、それならわかりやすい。
(会いたければ電話すればいい……ってどういうこと? 電話しろってこと? でも私から会いたいなんて言えないよ……)
言えるはずがない。
そもそも会ってなにをするのだろう。
(やっぱりそれって……セフレと同じじゃない?)
「沙希ちゃん、さっきからひとりで百面相してる……」
向かいで定食を食べている同期の房代がおもしろそうに言った。
「え?」
知らないうちに、考えていることが顔に出てしまっていたようだ。急に恥ずかしくなった。
「なんかあったの?」
「なにもないよ」
「そう? ……ところで、ちょっと聞いてよ」
房代が沙希の様子をそれほど気に留めたわけではなかったので少し安心した。首を傾げて房代に続きを促す。
「4月からテニスに通ってるって言ったでしょ?」
「うん」
「それが……」
房代は上体を屈め、声を低くした。周りに聞かれたくない内容らしい。
「一緒のクラスの人に誘われてデートしたの」
「へぇ……」
「それで……付き合うことに……」
房代はそこまで言って真っ赤になった。
「よかったね! 房代ちゃん」
沙希も嬉しくなった。
「でもね、うまくいくかどうかはわからないよ。まだその人のことよく知らないし」
房代ははにかみながらもそう言った。
「でもいい人なんでしょ?」
「……どうかなぁ? でもちょっと『いいな』と思っていた人だったから」
「うわぁ、それは本当によかったね!」
照れながら恋の進展を報告する房代の笑顔はキラキラしていて、とてもかわいい。恋する女性だけがかけてもらえる特別な魔法だ。
(昔むかし、私にもそんな時期があったのに……ね)
思わず、沙希は言った。
「私も……付き合ってみようかな」
「……えっ、誰と?」
「あ、いや……そうだ、私には相手がいなかったんだ」
あははと茶化したが、沙希は房代のことが純粋にうらやましかった。なんのわだかまりもなく新しい恋に飛び込んでいける房代が、今の沙希にはまぶしく見える。
もし自分にもそんなチャンスが巡ってきたら、そのときは――。
(ムリ。……ムリ、ムリ。絶対、無理!)
よく知らない相手と付き合うなんて、臆病な沙希にはハードルが高すぎる。
房代は複雑な顔をしていたが、それ以上なにも言わなかった。
その日仕事帰りに、矢野と焼肉を食べに行った。
「いろいろ迷ったんだけど、結局焼肉が食いたいな、と」
沙希も焼肉は好きだから素直に喜んだ。
矢野はよほど空腹だったのか、三人前を一人で平らげた。
「男の人って、痩せている人でもよく食べますよね。特にお肉は……」
その食べっぷりを見て、沙希はつい本音を漏らした。そういえば陸も痩せているが、肉であればびっくりするくらい食べる。
「ちょっと食べ過ぎたかな?」
矢野は肩をすくめて笑った。
「いえ、今の矢野さんは少し食べ過ぎるくらいがちょうどいいと思います」
「でも気をつけないとすぐメタボだからね……」
沙希は思わず噴き出してしまった。そんな姿を想像するのは難しい。
「矢野さんは大丈夫でしょう?」
「そんなことないよ。そもそも食生活がヤバいからさ」
ふと、陸がコンビニ弁当やカップラーメンばかり食べていると言っていたのを思い出す。男性の一人暮らしはそれが普通なのだろうか。
沙希は自炊が苦ではないので、矢野に少しだけ同情する。
「そろそろ俺の食生活を豊かにしてくれる人を見つけないとな……」
なにげないひとことだったが、沙希は適当な返事を見つけられなかった。
焼肉屋を出て駅へ向かう間、なんとなく会話が途切れた。立ち並ぶ飲食店の看板やコンビニエンスストアの照明が沙希と矢野を照らす。
突然、矢野がまっすぐに沙希を見た。
「えっと……」
そこで矢野はためらうような素振りを見せる。
沙希はいたたまれなくなってうつむいた。次の言葉を聞くのが怖かった。
「俺と付き合ってくれませんか?」
ふたりは立ち止まっていた。
「あの……私……」
続きが出てこない。口を開いたまま、固まってしまう。
沙希の困った顔を見て、矢野は無理矢理笑みを作った。
「こんなこと、突然言われても困るよね」
思わず、うんと頷きたくなる。矢野の優しさは、沙希にとって重荷になりつつあった。イエスもノーもすぐには言えない。
「いや、いいんだ。すぐに返事が聞きたいわけじゃなくて、俺の気持ちを伝えたかっただけだし。もしよければ考えてみてほしいと思って」
どうしよう……。
そればかりが頭の中を回っていた。
「……今はお返事できません」
沙希は矢野から視線をそらしてやっとの思いでそう言った。
「うん」
矢野は優しく頷いた。
「返事はいつでもいいよ」
それから「帰ろう」と言って歩き出した。
沙希も遅れて歩き出す。どうしようもなく足が重かった。
いつでもいいとは言っても、いつかは返事をしなくてはいけないのだ。
矢野の背中を見て思う。……この人を好きになれるのだろうか?
(好きになれればいいのに。きっと幸せになれるよ)
自分の中の誰かがささやく。
一方で別の誰かが抗議する。
(そんなの無理。浅野くんが近くにいるのに、他の男なんか好きになれるわけないじゃない)
(幸せになりたくないの?)
(じゃあ私の幸せってなに?)
沙希の心の中でせめぎ合いが続く。
(私の幸せ……か)
考えなければいけないことがまた一つ増えた。
止まっていた自分の時間が急に動き始めているような気がした。いつからだろう。
(そうだ、たぶん浅野くんが来てから……だ)
陸は自分の人生を動かす力を持っている。彼との出会いはたぶん他の誰とも違うのだ。
どうしよう……。
ただそれだけが、沙希の頭の中をぐるぐるといつまでも回っていた。
梅雨の季節に入った。
じめじめとして気持ちも湿っぽくなる。陸は中学から高校を卒業するまで、梅雨のない地域で過ごしたので、この季節は憂鬱だ。
ただ春からずっと忙しかった仕事が少し落ち着いたのが救いだった。業務に慣れてきたものある。
陸の歓迎会の幹事だった藤沢が「新しいプロジェクトの説明するから」と陸を打ち合わせスペースに呼んだ。
この打ち合わせスペースは会議室などとは違って、ただパーテーションやファイル棚で仕切られている名前のとおり、ただの空間だった。そのためちょっとした打ち合わせなどにしか使えない。
しかし各々のデスク間の通路が狭いので、ふたり以上が話し合いをする場合は大抵この打ち合わせスペースが使われていた。
そしてここは沙希のデスクから数歩しか離れていない。
普段の陸は、他の社員のデスクをいくつか挟むものの、沙希のデスクと向きあった状態で仕事をしている。だから見ようと思えばいつでも沙希の顔を見ることができた。
しかしこの打ち合わせスペースは沙希と至近距離にあるくせに、後ろ姿しか見えない。それでも陸は沙希の姿をなにげなく観察していた。
見たところ、今はパソコンで文章を作成している最中だ。
そこへ3課の40代の社員がやってきた。営業3課は主に海外との取引を扱っている。その男は管理職1歩手前と言われているが、なかなか昇進できずにいるらしい。
口が達者で自分より上のものにはへつらい、下のものには態度が大きい。要領がいいので仕事はそれなりに評価されていたが、ボロが出ることも多いようだった。
沙希は仕事の手を止めて、その男を仰ぎ見た。男はなにかお菓子のようなものを彼女に渡す。
藤沢が陸の視線に気がつき、振り返って言った。
「あれ、たぶん賄賂だよ」
「賄賂?」
「川島さんに押しつけられた仕事、ほとんどがあの人の案件らしいよ」
「……なるほど」
陸はへらへらした男の態度に無性に腹が立った。
「あ! ……おい、来たぞ!!」
藤沢は小さく声を上げた。なぜか妙に興奮している。
陸も藤沢と同じ方向へ目をやった。
周りの社員とは明らかに雰囲気の違う男性が、こちらへ向かって悠然と歩いてくる。
(…………!)
陸は驚いて目を見張った。
(なにしに来やがった?)
藤沢は面白そうに口をゆがめた。
「見ろよ。あの人、急にペコペコし始めたぞ」
3課の男は途端に愛想笑いを浮かべ、すっかり恐縮したように態度を豹変させた。しかし後からやってきた紳士風の男性は彼にかまいもせず、沙希になにか言うと当然のように沙希の向かい側の席に座った。
「しっかし、川島さんも大変だよなー」
藤沢は一度陸のほうに向き直って言った。
「あ、浅野は初めて見るのか。驚くよな! 俺も最初は驚いたよ。噂には聞いてたけど、本当に社長が川島さんの席までわざわざ会いに来るんだからさ」
陸の驚いた顔を目にして、藤沢は大げさにうんうんと頷きながら言う。
「それで、社長は何をしにここへ来てるんですか?」
「まぁ、コーヒー飲んで、ただ雑談して帰る、ってところだな」
「……暇なんですね」
「どうかな? 浅野が今日初めて見るということは、2ヶ月以上はご無沙汰だったからね」
「……そんなに頻繁に来てるんですか?」
陸は内心呆れて言った。
「川島さんが営業に移ってすぐの頃はよく来てたな」
(しかし……あのおっさん、なに考えているんだ?)
「浅野、ずいぶん怖い顔してるぞ。あれ? もしかしてお前も川島さん狙い?」
陸はハッとして藤沢を見た。藤沢は冗談とも本気ともつかない表情だ。
無理矢理気持ちを落ち着けると、余裕の笑みを浮かべて言った。
「川島さんは俺の憧れの人ですから」
藤沢もニヤリと笑った。
「俺も、俺も。川島さんって仕事中はすごくビシッとしてて近寄りがたいオーラ出してるけど、あの人がニコッとするとさ、俺までほわ〜んってなっちゃうんだよね」
(ほわ〜ん……ね)
その表現は当たらずとも遠からずだと思う。
もともと沙希は今よりずっと表情が豊かでよく笑っていた。黙っていると大人っぽく見えるが、本当はもっと……。
(かわいいのに……)
「彼女に言いますよ」
陸はからかうように言う。
「ちょっ、それは勘弁してよ」
藤沢も参ったとばかりに手を上げて言った。
「でもさ、川島さんも大変だよな。お前、聞いた? ついに矢野さんがコクっちゃったみたいだし」
「へぇ……」
それは初耳だった。いずれそういう展開になるだろうとは思っていたが。
「それでふたりは付き合ってるんですか?」
「いいや、川島さんの返事は保留らしい。浅野はどう思う?」
「え?」
「OKすると思う?」
「……わからないですね」
陸は正直に答えた。
おそらく沙希は矢野と付き合わないだろうと思う。だが、それが客観的な意見なのか、自分の願望なのか、陸には判断がつかない。
(俺ってホント自分勝手だな……)
普段気がつかないふりをしている自分の本音に、心の中で苦笑する。
藤沢は言った。
「俺はね、たぶんノーだと思う」
陸は問い返すように藤沢を見る。
「飲み会のとき、川島さんに聞いたんだ。そしたら矢野さんのことは『友達』で『男として見てない』ってはっきり言ってたからさ」
「それは……矢野さん、厳しいかも」
「だな。男として見られていないのはつらいな」
藤沢は心底同情しているようだった。
陸も苦い表情を作る。心の片隅では、沙希と矢野なら似合いのカップルだと思っているのも事実だ。
(沙希にはそのほうがいいかもしれない。矢野さんは俺なんかよりもずっと大人だし)
『いつもキミの幸せを願っているよ』
いつだったか、沙希が言ってくれた言葉だ。
その大きすぎる愛情の本当の姿を知ったときにはもう、彼女は陸のそばにいなかった。
(今の俺にできることは……)
「藤沢さん、仕事の話に戻りましょう」
「そうだな」
顔を上げると、席を立った社長と目が合った気がした。
だが社長はなにごともなかったように、訪れたときと同様、悠々とした態度で帰っていく。
結局、陸には最後まで社長の表情を読むことができなかった。
「元気がないようだね」
社長の言葉が沙希の頭の中で反芻される。
コーヒーを出して、席に戻った途端、そう言われた。
(なんでわかったんだろう)
沙希は大きくため息をついた。ため息をつくと幸せが逃げるらしいが、それが本当なら今までどれほどの幸せが逃げていったことか――。
(ま、別にいいんだけどね。私は幸せとは縁が薄いみたいだし)
自嘲気味に頭の中でつぶやく。同時に両親の顔が浮かび、いたたまれない気持ちになった。
社長が沙希に鋭い視線を向けたのはほんの一瞬のことで、その後は政治や経済の話題から、最近読んだ本の感想まで、とりとめのない雑談が続いた。
いつもそうだが、沙希は相槌を打つだけで自分の意見を述べることはない。
それにしても、こうしてたまにやってくる社長の意図が、沙希にはよくわからなかった。
若い頃は文学青年だったと言うだけあって、社長は驚くほど文芸作品に明るい。一応、文学部出身の沙希にならその手の話が通じるからだろうか、とも考えた。しかし、この大きな会社には文学部出身の社員など他にもたくさんいるのだ。
そして社長がわざわざ沙希の席までやって来るたびに、社員の間で根も葉もないうわさ話がささやかれている。知りたくもないが、社員の誰もが周知のうわさとなれば、沙希本人の耳にもおのずと入ってきてしまう。
最初のうちはかなり動揺した。否定したくても、沙希にはその手立てがなにひとつなかった。黙って耐えるしかない、と覚悟した。
ところが、どうやらそのうわさのおかげで、長い間沙希は恋愛問題から解放されていたらしい。そのことに今日はじめて気がついた。
(だけど、なぜ私なんだろう……)
うわさが人の口の端にのぼるときには、多少のやっかみが含まれることも沙希は承知している。人から羨まれるような境遇ではないのに、おかしなことになってしまった、と思う。
(考えても仕方ないか……)
そのとき、ふと机の上に置かれたスナック菓子の箱が目に入った。
社長が来る前に営業3課の古賀という社員が置いていったものだ。
(このお菓子……昔の彼氏が好きだったな)
思い出すと気分が悪くなってきた。これは誰かにあげてしまおう。
沙希は席を立って振り向いた。
打ち合わせスペースが目に入る。
(……あ)
ちょうど顔を上げた陸と目が合った。びっくりして思わず目をそらす。
もしかして今までずっと見られていたのだろうか?
沙希は急に恥ずかしくなり、逃げるようにその場を離れた。