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第一部 7

 毎朝、出社後の1時間はとても忙しい。

 まず沙希はメールセンターへおもむき、新聞5紙、それに他部署や支社からの書類と荷物、さらには個人宛ての郵便物を、山のように抱えて戻ってきた。

 それらを整理すると部署内の各デスクへ配達、それから決裁済み書類の回収、勤怠届の提出――次々に手際よく片づける。

 大会社というのは不便なもので、上司の承認印がなければ書類が通らない。それを見落とすと沙希が何度も往復しなくてはいけないので、決裁済みの書類もすべて目を通し、不備があれば上司をつかまえて判を押させる。

 とにかくきびきびと動き回って、やっと自分の席に腰を下ろした。

 しかし沙希がホッとできるのは、PCが立ち上がるまでのわずかな時間で、その後はメールの処理が待っている。

 厄介なことに、沙希宛てのものは1日平均数件しかないのに、CC(カーボン・コピー)で送りつけられる社内メールの件数は下手をすると100件を越えた。ほとんどが業務に関係しない内容だが、それでも沙希は必ず目を通すことにしている。部署内の動きを把握しておくことも庶務の仕事である、とは尊敬する先輩の受け売りだ。

 次々とメールを開いて処理していると、こんなメールが目に飛び込んできた。



 > 食べてないな。お前が作ってくれてもいいぞ。



 思わずプッと吹き出しそうになる。陸からのメールだった。

(これって……誘ってる?)

 沙希はメールの短い文面を見ながら考える。

 昨日、ちょっとしたいたずら心で陸にメールしたのだ。



 > お疲れさま。ちゃんとご飯食べてる?



 その返信が来た。嬉しくて心が弾む。

 別に社内のメールでなくてもいいのだが、社内のメールだから楽しいのだ。

 早速、返信する。



 > 作ってもいいけど、いつ? どこで?



 ドキドキしながら送信ボタンを押した。

 その後すぐに陸からのメールと自分の送信メールは削除する。よほどのことがなければ社員のメールがチェックされることはないが、念のためだ。

 陸のデスクに目をやるが、もちろんそこに陸の姿はない。返信がもらえるとしても明日以降だろう。

 どんな顔して読むのだろう? どんなふうに思うだろう? どんな返信が来るだろう?

 気になって仕方がないが、その雑念を追い払うようにダンボール箱から書類を取り出した。

 英文の翻訳は1日にひとつ仕上がればいいほうで、ダンボールから書類はなかなか減っていかない。いつになったら終わるだろうか。長いトンネルの出口が見えるまで、気力を持続させるのは難しそうだ。

 沙希は小さくため息をついて、仕事に戻った。


     


 > 俺の家くる?



 翌日来たメールは短かったが、読んだ途端、沙希の顔は熱くなった。

 少し考えて返事を打ち込む。



 > 家しらないし。



(これはいい!)

 画面の文字を読み返し、ひとり満足する。

 誘われて嬉しかったことが簡単にバレるのは癪(しゃく)だ。

(だってそれじゃあ、まるで私が浅野くんに夢中みたいじゃない)

 自分が年上だということもあり、陸の気持ちがよくわからないうちに、心の内を見せるのは負けのような気がして嫌だった。

(でも、私の負けなんだろうけど……)

 マウスを動かして、陸への短いメールを送信する。

 途端に期待と不安が沙希の心臓をギュッと締めつけ、泣きたいような気分になった。

 沙希には、今の陸がなにを考えているのかよくわからない。

 だから他愛のないメールのやり取りで陸の心を探ろうとしているのだ。

(期待なんかしちゃいけない立場なのに……)

 急に浮かれていた自分が恥ずかしくなる。

 別れを切り出したのは沙希のほうだったから――。



『私のことはもう忘れて』



 陸はあの言葉をどんなふうに聞いたのだろう。

 針が刺さったように胸が痛んだ。


     


 しかしそれきり陸からの返信が途絶えてしまった。

 たまに社内で彼の姿を見かけることはあるが、かなり忙しいようだ。

 矢野が大きな案件を抱えていて、その契約のために陸も仕事の一部を任されたらしい。

 月末が近づき、沙希も内部監査の準備でファイル棚に張りつく毎日だった。年度初めはいつも慌しく時間が過ぎる。

 それでも沙希は、陸と同じ会社で働けることを幸せだと感じていた。この国は狭いとはいえ、故郷から遠く離れた大都市で、知人と同じ会社に就職する確率はかなり低いはずだ。

 それがかつて愛した人である確率となると、もう奇跡と言ってもいい。

(頑張ってね)

 たまに見かける陸の背に、心の中でエールを送った。

 今の沙希にできることはそれくらいしかなかった。


     


「乾杯!」

 部長の大きな声がざわざわする広い座敷に響いた。

 それに続いて50人ほどの「乾杯」の声が上がる。

「先輩、先輩」

 上がり口に近い末席に座る沙希の隣に、同じ課の早坂薫(はやさかかおる)がちょこんと座った。

 隣にいたはずの太田先輩は、いつのまにか別のテーブルへ移動している。

「薫ちゃん、仕事忙しそうね」

「もう、めちゃくちゃ忙しいですよぉ〜。K社もけっこうヤバいらしいじゃないですか」

 うんうん、と沙希は頷いた。

 薫の業務は営業1課全体のアシスタントで、外回りについていくこともあれば、会社で黙々と資料作りをしていることもある。仕事上の接点はないものの、1学年上の沙希を「先輩」と呼び、気さくに話しかけてきた。

「それより! 先輩、また痩せましたね? ちゃんと食べないとだめですよ」

 これは薫の口ぐせだ。

 母親が看護師なので健康に関しては「オタク」を自任する薫だが、その薫からすれば沙希はとにかく痩せすぎに映るらしい。

 実際、沙希はついているべきところについていない体型だ。そのためか、たいていの知人は沙希に会うたび「また痩せた?」と声をかけてくる。

 こうもたびたび言われると、うんざりを通り越しておかしいくらいだ。

「ちゃんと食べてるから少し太ったくらいだよ」

 苦笑しながら沙希は答えた。

「それならいいですけど。あ、先輩、これおいしいですよ」

 薫は目の前の料理をつまんでいる。その言葉につられて沙希もようやく箸を手に取った。

「それにしても、今日の主役とはいえ、浅野くん、すごい人気ですね」

 薫は座敷の中央部へ視線を移す。つられて沙希もそちらを見た。

 女性社員が陸を取り囲み、普段よりも高い声で会話している。沙希の見たところ、そのほとんどが他部署の女性だ。

「確かに今日は女性率高いね」

「いつもなら誘っても絶対来ない人たちまで来てますよ」

 薫はおもしろくないという顔で言い捨てる。女性陣の間から見える陸は、愛想笑いを浮かべ、勧められるまま飲んでいた。

「薫ちゃんは行かないの?」

「今行っても話なんかできません」

 薫が怒るのも無理はない。陸の周囲は割り込む場所すらなさそうだ。

 そこに「はいはい! 皆さん、ちょっと注目!!」という大きな声が聞こえてきた。

 幹事の藤沢が女性3人を従えて上座に立っている。いずれも見たことのない顔だ。

「わが社のニューフェイスを紹介しまーす! こちらから倉田さん、山形さん、佐藤さんです。部署など詳しいことはご本人に直接お聞きくださーい」

 パチパチと大きな拍手が起こり、3人はペコリとお辞儀した。

「あの子ですよね、噂の……」

 薫が沙希に顔を近づけて小声でささやく。

 噂とはおそらく陸のお持ち帰りの件だろう。

 沙希は紹介された新人を目で追った。薫が「あの子」と呼んだ女性は、当然という顔で陸の隣に陣取っている。

「倉田……由紀だったかな。みんな由紀ちゃんって呼んでたはず」

「へぇ。かわいい子じゃない」

 鮮やかなピンク色のワンピースを、目を細めて眺める。露出の多いデザインで男性は喜びそうだと沙希は思った。

「なんかすごそうじゃないですか」

「すごいって、なにが?」

「男性関係」

 薫は小さな声でズバリ断言する。

 それがおかしくて沙希は思わず笑ってしまった。見かけで人を判断してはいけないが、薫の言葉を否定するのは難しい。

「浅野くんもいきなり気に入られちゃったみたいで。まぁあれだけカッコいいと周りが放っておかないのもわかるけど」

「なになに? 俺がカッコいいって?」

 突然向かい側の席に、幹事の藤沢がドカッと腰をおろした。

「藤沢くんのことじゃないわよ!」

 薫が口を尖らせて反論した。

「まーまーいいじゃん。それより女ふたりでなにをこそこそ話してるんですか」

 沙希は藤沢のグラスにビールを注いだ。お酌は苦手だ。だから飲み会でも席はほとんど移動しない。

「こそこそしてないですよね? 先輩」

「うん。普通に飲んでるよ」

 沙希もにこやかに答える。

 すると普段は声の大きい藤沢が、声をひそめて沙希のほうへ身を乗り出した。

「川島さん。俺、ちょっと聞きたいことあるんですけど」

「なんでしょう?」

「Yさんとはどうなんです?」

「ちょっ、ここでその話!?」

 薫が割って入る。それでも藤沢は気にせず続けた。

「Yさんってああ見えてかなりウブでしょ? コクられました?」

 沙希は首を横に振った。

「あーやっぱり! あの人、仕事はかなりやり手なのになぁ。でも、川島さんは実際どうなんです?」

「どうって……?」

「Yさんのことをどう思っているか、ってことですよ」

 藤沢は矢野のように逃げ道を残してはくれなかった。それを恨めしく思いながら渋々口を開く。

「友達……だと思ってるけど」

 黙っていた薫も思わず「あぁ」と悲嘆の声を漏らした。

「ということは、恋愛感情はない、ということですか」

 藤沢は念を押すように訊く。

「うん。そうだね」

 沙希もはっきりと答えた。

「先輩って好きな人とかいないんですか?」

 薫が興味津々という表情で沙希の顔を覗き込む。

「うーん、いない……かな」

「えーーーーーっ!!」

 薫と藤沢が見事にハモった。

「うちの会社の男はダメですか」

 藤沢が残念そうな声で言う。

「そんなことはないと思うよ」

「フォローになってないですよ!」

 3人は笑った。

 沙希にとっては嬉しくない話題だが、周囲がそれを気にするのは当然かもしれない。27歳という微妙な年頃でもあるし、好意を寄せてくれる相手がいながら、頑なに恋愛を遠ざける姿勢は不自然に見えるだろう。

「でもそんな川島さんのミステリアスな部分が、なんかこう……気になりますね」

「お! 藤沢くん、Yさんにライバル宣言!?」

「ちがうちがう!」

 藤沢は大きく手を振って否定した。

「でも川島さんが僕のことを好きなら、僕は全然オッケーです」

「あらら、そんなこと言ったら彼女泣いちゃうよ」

 薫が藤沢を軽く睨む。

 藤沢は総務課に彼女がいる。沙希は顔を知ってる程度だが、かわいらしい女性で藤沢とはお似合いだと思う。

「彼女、かわいいじゃない」

「いやいや、川島さんに言われると照れます」

「アンタが照れなくていい!」

 薫は酔いが回ってきたのか、だんだん声や身振りが大きくなってきた。

 そんな薫の様子に苦笑しながら藤沢は座敷の中央を振り返る。

「ちょっと景気づけに主賓を呼びますか」

 そう言うと立ち上がって「おーい! 浅野、こっち来てお姉さまがたに挨拶しろ」と手招きした。

「『お姉さまがた』って誰よ!」

 薫はぶーっと口を尖らせてすねる。

「まーまー。早坂さんもオトナの色気でせいぜい頑張ってくださいな」

「なにを頑張るのよ!」

 ますます薫はふくれた。その表情がおかしくて沙希は声を立てずに笑う。

「先輩も! この無礼なヤツを叱ってくださいよ!!」

「はいはい。こんなに若くてかわいい乙女に向かって『お姉さま』は失礼ですよ。藤沢くん、言葉に気をつけてね」

「ぶっ、川島さん、棒読み」

 藤沢も笑い出した。



「ずいぶん楽しそうですね」

 いつの間にか陸が藤沢の隣に来ていた。

「お、来たな、新人!」

 藤沢が陸のグラスにビールを注ぐ。

「あのな、こっちの酔っぱらいの早坂さんには、あまりお世話になることはないと思うが、こちらの川島さんには、大変お世話になるので、きちんと挨拶するように」

「ちょっ、ひどい!」

 薫はとことんいじめられている。

「おふたりとも、どうぞよろしくお願いします」

 そつのない笑顔で陸は言った。

「こちらこそ、よろしくね」

 薫がそれに答えてにこやかに笑った。

「それにしても人気者だね、浅野くん」

 沙希は嫌味にならないようににこにこしながら話しかけた。

「ホント、浅野は俺たちの敵だ」

「いや、こっちに呼んでもらえて助かりました」

 陸は足を崩して座りなおした。

「そうかそうか。つまり浅野は年上が好きなんだな?」

 藤沢がひじで陸を小突いた。陸はわざとよろけてみせる。

「え? 本当?? どういう女性がタイプ?」

 身を乗り出したのは薫だった。

「そうですね……優しい人かな」

「他には? 顔とかどういうのが好み? かわいい系とかキレイ系とか」

「どっちも好きですよ。でもかわいい系かな」

 陸は新人らしく真面目な態度で答えている。

「へぇー! じゃああれだ、ぽっちゃり系とスレンダー系はどっち? ちなみに俺、ぽっちゃり系」

 誰も訊いていないのに、藤沢が勝手に自分の好みを披露すると、薫はあからさまに不愉快な顔をした。しかし藤沢はわざとらしくニヤニヤと笑いながら薫を見返す。

「僕はスレンダーですね」

 そう言った後で、陸が一瞬沙希を見た。沙希は目をそらす。

「髪はショート? それともロング?」

「長いほうが好きです」

「そんなこと聞いたらアイツらみんなダイエットして髪伸ばすぞ」

 陸を取り囲んでいた女性陣を藤沢はあごで指した。

「で、彼女はいるの?」

 薫が唐突に訊いた。

「それが、先日ふられました」

 沙希は驚いて陸を見たが、本人は特に表情も変えず、淡々としている。

「浅野でもふられることなんかあるんだ」

 藤沢もびっくりしたらしく目を見開いていた。

「よくふられますよ」

 心なしか、その言葉に刺(とげ)があるように感じられ、沙希は視線を落とす。

「そうかそうか。まぁ飲め!」

 藤沢は陸のグラスにビールを注いだ。グラスからあふれたビールがテーブルにこぼれる。あっ、と思い腰を浮かせた沙希は、陸と目が合った瞬間、凍りついたようにその場に固まり、身動きが取れなくなった。



 それからは、それぞれの大学時代の話や仕事の失敗談で盛り上がった。

 沙希はあまり口を挟まなかったが、藤沢と薫のやり取りを見ているのが面白くて、あっという間に時間が過ぎたように感じる。

「さて、そろそろお時間です。2次会へ行く人は外に出たところで待っていてください」

 幹事の藤沢が立ち上がって大声を出す。

 陸が席を立つとまた女性陣が取り囲んだ。おそらくみんな2次会へ行くのだろう。

 出口が混雑しているので、沙希は最後まで座っていた。

 2次会はどうしようか、と考えていると、後ろから誰かが肩を組んできた。

「沙希ちゃん、2次会行くでしょ?」

 アルコール臭くて一瞬眉をひそめた。同期の田原だった。

 沙希は身体をよじらせて田原から逃れようとしたが、男性の腕力にはかなわない。

「行かないの?」

「田原くん、酔ってるでしょ。離してよ」

「行くって言うまで離さない」

「……わかった、行くわよ」

 沙希は仕方なく折れた。しかし肩に回された手は離れる気配がない。

「離して。歩きにくい」

「いいじゃん」

 普段は好青年風の田原だが、酔うと女性に絡むクセがあった。社内では「セク田原」とまで呼ばれている。

 いつもなら年下の女性に絡んでいるところなのだが、今夜は女性陣が陸を囲んでいるため、沙希がターゲットになったのだ。

 最後に席を立ったせいか、誰も沙希を振り返ることはなかった。仮に気がついても「またか」と苦笑いを浮かべる程度で、わざわざ田原をとがめる人はいないだろう。

 それくらいいつものことなのだ。

 沙希は諦めて、2次会の会場までは我慢することにした。


     


 2次会は、1次会の座敷とは違って椅子席で、少し広いバーのような店だった。

 ベンチシートなので全員座れたところまではよかったが、狭いので隣同士が妙に密着している。

 田原から離れたかったが、その隙は見つからず、沙希は彼の隣に座らされた。しかも端の席で他の人の話も聞こえてこない。

 強いカクテルを飲んでいる田原を見て、これはまずいと思うものの、座敷のように気軽に席替えをする雰囲気ではなかった。

「沙希ちゃんも飲みなよ。頼んであげるよ」

 そう言って田原は沙希の目の前にメニューを置いた。

「どれにする?」

 顔が近いな、と思ったら背中に手を回してきた。

「か、カルピスサワーで」

 身体を反らせて手をかわしたかったが、逆効果でその手は腰に下りてきた。

(げげ!)

 田原は飲んでいなければ絶対にこのようなことはしない。だが彼はある程度酔ってしまうと女性にやたらとスキンシップを迫り、しかもそれを全く覚えていないのだ。

(どうしよう……)

 さすがに危機感を覚える。

 ただ腰に手を回すだけならまだしも、さするようにさわってくる。

 沙希も酔っているせいか、ふれられるのは嫌なのに、意に反してその部分だけ感覚が妙に研ぎ澄まされてきた。

「ちょっとお手洗い!」

 大きな声で出し、田原の手を振り払うようにして席を離れた。





(ふーっ)

 あれはひどいな、と手を洗いながら思う。毎回被害者が出ているのに、誰もが見て見ぬふりをして注意しない。その事実も沙希を暗い気分にさせた。

 席に戻りたくないから動作もノロノロとなる。

 5分くらいトイレで時間をつぶしただろうか。

 さすがにそろそろ戻らなければ、と思いトイレを出た。

 そこで脇から腕をつかまれた。強い力だった。思わずよろける。

 沙希は驚き、自分の腕をつかんでいる人物を振り返って見た。

「あ……」

 無表情の陸が、沙希を見ていた。

 

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