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第一部 6

 その日、陸は矢野に誘われて居酒屋にいた。

 営業部に配属となってから初めての週末だ。この1週間は本当に長かった。

 新人研修中は役員の講話やマナー講座など受身でよかったため、学生時代の延長みたいな気分で過ごしていたが、外回りに出れば、見習いの立場とはいえ自分自身で行動しなくてはならない。

 その自分の行為ひとつで取引相手の印象は変わり、ひいては自社にも影響を及ぼすことになる。よくも悪くも、だ。

 陸はK社の1社員として、また社会人としての責任が、肩にズシリとのしかかってくるのを感じた。

「お疲れさま」

 運ばれてきたビールを片手に矢野が乾杯のポーズをした。

 陸もそれに応える。

 矢野の指導は頭ごなしではないが、指摘が的確でわかりやすかった。

 その上彼は身のこなしも洗練されていて、言動にも安心感がある。人当たりのよい性格なので、一緒にいても気疲れしない。

 陸からすれば真似しようにも程遠い存在に思えた。いわゆるカルチャーショックだ。

 大学時代にも、もちろん尊敬する教授や先輩はいた。それに在学中に成人という節目を迎え、陸は自分自身も大人になった気分でいた。

 だが、この1週間で陸の認識は一変してしまった。

 大学というところは、少しくらい言葉遣いや服装がだらしなくても、誰も気に留めない。時間にルーズであっても、単位さえもらえれば卒業することはできる。

 今思えば、大学生とはなんと気ままな身分だったことか。

 その世界を卒業して社会に出た陸は、突然大海のど真ん中へ放り込まれたような心境になっている。

「どう? やっていけそう?」

 1杯目のビールを勢いよく飲み干した矢野が、陸の顔を覗き込むようにして言った。

「自信は……ないですね」

 陸は正直に弱音を吐く。指導係の矢野を前にして強がるのは無意味なことだ。

 しかし矢野はそれを謙遜と受け取ったようだった。

「そう? 浅野はなかなか骨がありそうで面白いと俺は思ってるけど」

 人を鼓舞するのも上手いな、と陸は矢野を評価する。

「うちの会社でも入社1年以内に辞めるヤツ、けっこういるんだ。3年以内に辞めるヤツの数はさらに多い。……どこも同じみたいだけど」

 その話は陸も聞いたことがあった。

「でも3年は頑張ってほしいよな。やっぱり仕事って3年続けないと社会的にも認められないだろう」

「そうなんですか」

 3年どころか、陸は実務経験1週間の新人だ。相づちも頼りないが仕方ない。

「失敗は誰にでもあるものだから、それを恐れる必要はないぞ。でもその後の行動が明暗を分けるからな。最初はわからなければ聞けばいい。だけどいつまでもそれじゃだめだ。わかるよな?」

「わかります」

 正論だな、と思う。ただ頭で理解していても、それを実行できるかどうかは別の話だ。

 それから矢野は営業部の上司や同僚を紹介がてら、彼らにまつわるエピソードを聞かせてくれた。

 営業にもいろいろなタイプの人間がいる。その中で上手くやっていくのは、思ったより難しいかもしれない。

 だが矢野が指導係についてくれたのは幸運だった、と陸はとても満足していた。



 ふと、話題が途切れた。

 ビールの追加を注文し終えた矢野が、少しニヤニヤしながら口を開く。

「浅野って彼女いるの?」

 来たな、と陸は苦笑いを浮かべた。遅かれ早かれ、それが話題にのぼることは覚悟していたから、答えもすでに用意してある。

「いたんですけど、ふられたみたいなんですよね」

 陸はさらりと言った。

「おいおい、他人事みたいな言い方だな。……それ、最近?」

「最近ですよ。1ヶ月以上連絡すらしていなかった俺も悪いとは思うんですが、先週……だったかな?」

「うん?」

「大学の友達から電話が来て、彼女、教授についてアメリカに行ったそうです」

「ええ!? どういうこと? 彼氏になにも言わず……?」

「俺はなにも聞いていませんね。教授が4月から1年ほどアメリカの大学に行くのは知っていましたが」

「……ってことは、彼女も1年間?」

「そうらしいです」

 矢野は目を丸くしたまま絶句した。

 その驚く様子が小気味よい。矢野に言われたように、それは陸にとってほとんど他人事だった。

 どうせもう終わっていた関係なのだ。今となっては彼女と付き合っていたこと自体を忘れてしまいたかった。

「すでに疎遠になっていたので、今回きちんとケリがついてよかったと思いますよ」

 自嘲気味に言った。

 付き合うのは簡単だが別れ際が難しい。何度となく繰り返してきたこととはいえ、陸でもそれに慣れることはなかった。

 ただ相手の側からすると陸は後腐れのない男だという認識なのだろう。

 実際、陸は相手から別れを切り出されて引き止めたことはなかった。

 一度離れた気持ちを自分のところに繋ぎとめる手段を陸は知らない。無駄なあがきは自分を醜くするだけだ。

「浅野はモテるだろうから、ふられてもそんなにあっさりしてられるんだろうな」

 矢野はやっと来たビールに口をつける。

「モテるのは矢野さんじゃないですか」

 さて、どうやってこの人を攻略しようか、と陸が画策し始めるのとほぼ同時に、矢野はあっさり白状した。

「俺も……ふられたのと同じかもしれないな」

「彼女に、ですか?」

 矢野に彼女がいないことを知っているが、陸はわざととぼける。

「いや、俺の片想い。もう1年くらいになるけど、いいお友達のままなんだよね」

「それはつらい」

「だろ? なかなか手ごわい相手なんだ。こっちが探るような話題をふると、ものすごい勢いでかわしてくるからね」

 矢野の表現がおかしくて笑いそうになるがこらえた。想像できるから尚更ヤバい。

 押しの強い相手にはてこずる沙希だが、おそらく矢野は沙希を困らせるところまで踏み込んでいくことができないままでいるのだろう。

 陸は、目の前の実直そうな男を好ましく思った。

「矢野さんが1年間も片想いをしている……ということは、相手の女性は相当美人なんでしょうね」

「美人だね。頭もいいし、仕事もできる」

 言ってから矢野はハッとする。陸はすかさず突っ込んだ。

「ということは、社内の人ですか」

「……そうなんだ」

 顔が真っ赤だった。ビールを1杯飲み干したところで、まったく顔色が変わっていなかったのに、だ。

「浅野には教えないけどな!」

 照れ隠しで強がりを言う矢野の、初心(うぶ)な一面が、陸には微笑ましく映る。

(この人は本当にいい人なんだな)

 陸は矢野の人間的な部分にも惹かれた。

「でもそんな美人でデキる女性なのに、彼氏はいないんですか?」

「いないんだよね。それが入社したときからずっと……」

「……男に興味ないとか」

 あえてそう言ってみる。すると矢野は険しい表情をした。

「そうじゃないと思うけど、わっかんねー。でも……うわさはある」

「うわさ?」

 陸は自分のことのようにドキッとした。

 沙希はあまり目立つようなことをする女じゃない。他人にあれこれ言われるような隙を見せるようなこともまずないだろう。

 矢野は視線を遠くにやって、静かに言った。



「社長に……気に入られてるんだ、彼女」



 一瞬、陸の思考が止まった。



「うちの社長、独身なんだよ」



 なにか……、なにか言わなくては――。



 陸はとりあえずビールを飲んだ。喉がカラカラになっていた。

 それから、少し冷静になれ、と自分に言い聞かせる。

「矢野さんの好きな人って、年上ですか?」

「違う、違う!」

 矢野は苦々しく言った。

「浅野もそのうちわかるよ。……俺の好きな人もバレちまうけど」


     


 矢野と別れて駅に向かいながら、陸は自分の中からこみ上げてくる衝動に必死で耐えていた。

 前にもこんなことがあった。

 自分で自分の気持ちをコントロールできなくなるほどの不安――。

 あれは4年前の2月だった。入試のため、東京へやって来たときのことだ。

 無事に試験が終わり、緊張が解けた途端、陸の中で突然なにかが暴れだしたのだ。胸を突き破って出てきてしまいそうな焦燥感が、あっという間に自制心を破壊してしまう。

 そして、陸は電話をかけた。

 1年ぶりだった。

 呼び出し音を聞きながら、

(アイツは「自分から電話しない」と言ったら本当にしてこない……)

 と呼び出し中の相手に悪態をついた。

 相手が出た。途端に緊張で声が震えた。



『お誕生日おめでとう』



 もしもし、の次に、優しい声でそう言われた。

 不意に涙が出そうになる。

 覚えていてくれるとは思わなかった。

 声を聞くだけでもいいと思っていたが、どうしても会いたくなった。

 いやたぶん、電話をかける前から、ただ会いたかったのだ。

 話しているうちに自分の気持ちにようやく気がつく。



 だが、実際待ち合わせ場所で待っていた相手は、陸の知る彼女とはまるで別人だった――。



     


 陸は駅まで歩いてきて、どうしようかと散々迷い、握り締めていた携帯を、結局ポケットにしまった。

 電話をすれば、きっと沙希は来る。

 それがどういうことなのか、考えなくとも陸にはわかっていた。

(うぬぼれかもしれないけどな)

 しかしそのうぬぼれが、矢野のひとことで一瞬揺らいだ。揺らぐどころか、粉々に砕け散りそうなほど、陸は動揺していた。

 衝動的に沙希に会いたくなったのは、自分のうぬぼれが間違いでないことを、今すぐ確かめたかったのだ。

(どうして――?)

 陸は自分の知らないところから湧き上がってくる欲求に自問する。

 4年間会わずにいたときには、これほど焦がれるような気持ちになることはなかったからだ。

 ごくたまに、話だけでもしたいと思うことはあった。

 大学に合格したとき、バイトで失敗したとき、彼女との関係がうまくいかなくなったとき……。

 だがそれくらいでは携帯を目の前にして悩むほど、逼迫した心境にはならなかったし、沙希のことを想うだけで不思議と気持ちが安らいでいた。

(それってつまり、時が経ってもアイツの気持ちは変わらないと、単に俺が思い込んでいただけだった、とか)

 陸は自分の身勝手さを笑いたくなった。

 結局、再会したその日に、まずそれを確かめた。確かめずにはいられなかった。

(俺は本当に勝手な人間だな)

 今まで付き合った彼女の数など覚えていないが、別れてからも関係を持ったのは沙希以外にいない。

(俺……どこかおかしいのかも)

 電車に乗って、流れる夜景を見ながら思う。



『社長に……気に入られてるんだ、彼女』



 内心で派手に舌打ちした。

(どういうことだよ。ありえねぇ……)

 入社式の遠い壇上で挨拶する社長の姿を思い出す。

(あのおっさん、もう50だろ?)

 ふと、4年前のことを思い出す。

 あのとき電話で呼び出した沙希は、仕事でスランプに陥り、元カレからもよりを戻したいと迫られ、かなり憔悴していた。そして最後までそのこけた頬に笑みが浮かぶことはなく、陸はひどくがっかりしたのだ。

(アイツ、どうやって立ち直ったんだろうな)

 営業部のフロアで見る今の沙希は、とりあえず元気そうだ。

 もちろん陸からすれば、それが空元気であることは一目瞭然なのだが、それでも笑顔が見えるのとまったく見えないのでは雲泥の差がある。やはり沙希は笑っているほうがいい。

 しかし彼女が立ち直ったきっかけはなんだったのだろう。

 4年もあれば、時間がすべてを解決してくれたのだろうか。

(まさか……まさか、な)

 陸は脳裏にちらつく社長の姿を慌てて消去した。

 そして自分が進むべき道の先へと照準を合わせる。

(あんなおっさん、すぐに超えてやる)

 そのためには、これからやらなければならないことがたくさんある。陸はまだ社会人としての1歩を踏み出したばかりなのだ。

(しかし、沙希もどうするんだか……)

 矢野の真っ赤になった顔が浮かんだ。このままいけば近い将来、矢野は沙希に対して結婚を前提にした付き合いを求めるに違いない。

(結婚……ねぇ)

 車内で居眠りしている会社員の左手に、さりげなくはまっている指輪が陸の目に入る。

 束縛のしるしだ。

(俺も……どうするんだか)

 陸はため息をついて、とりとめのない思考を放棄した。

 

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