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第一部 5

 翌日から陸は矢野とともに外回りに出るようになった。そのため社内で陸に顔を合わせる機会がほとんどなくなってしまった。

 沙希は通常の仕事を淡々とこなし、合間に新たに頼まれた英文の契約書や誓約書を和訳していた。あまり楽しい作業ではないが、辞書さえあれば沙希の英語力でも何とか進められそうだ。錆びついていた脳のトレーニングにいいかもしれないと思う。

 隣の席の太田が「ねぇねぇ」と声をかけてきた。

「今、藤沢くんから歓迎会のお知らせメールが来たよ」

「歓迎会?」

「ほら、浅野くんの歓迎会。部全体でやるみたいよ」

「へぇ。藤沢さんが幹事なんですね」

「あの人せっかちだから早く返事しないとね!」

 藤沢は陸と同じ営業2課の所属で、学年では沙希より2つ下だった。とても明るい性格で人懐っこくよく喋る。幹事にはもってこいの人材だが、せっかちなのが玉に瑕(きず)だった。

 メールに目を通してみると、歓迎会は4月下旬の金曜日に予定されていた。

(月末か。忙しいなぁ)

 そう思いながらも出席で返信する。

 沙希はアルコールに強いほうではないが、飲み会の雰囲気は好きなので、欠席することは稀(まれ)だった。日ごろ接点のない人と話が出来るのも楽しいし、勉強になることもある。

 しかし陸の歓迎会と聞いて沙希は、少しだけ複雑な気分になっていた。同時に、本当に陸と同じ職場で働いているんだという妙な実感もあった。

 それくらい社内で陸の姿を見かける機会がこの1週間、なかった。


     


 週末、沙希は同僚の房代に誘われて焼肉を食べに行った。

 房代はいつもと違う緊張した表情で、なにかを言いたそうにしては口ごもることを繰り返していた。

 さすがに沙希も房代の様子が気になり、「なにかあった?」と訊ねてみる。

「……いや、なんていうか……」

 房代は視線を落としてまた口ごもる。だがしばらくして意を決したように顔を上げた。

「あのね、これはうわさだから本当は言わないでおこうかと思ったんだけど、けど、いつか沙希ちゃんの耳にも入るかもしれないし、うわさだから本当かどうかはわからないし」

 そこまで早口でまくし立てた。

 沙希はそれを聞いてピンときたことがあった。

「それって浅野くんのうわさのこと?」

 房代は驚いたらしく、肉を取りそこねる。それから沙希の顔をじっと見つめた。

「沙希ちゃん、誰から聞いたの?」

「うーん、トイレに行ったら聞かされた」

 その場面を思い出し、苦笑しながら答える。

「……そ、そう」

 房代はまだ動揺を抑えられないようだ。

「あれでしょ? 新人の飲み会でお持ち帰りしたってヤツ」

「さ、沙希ちゃん!」

 いつもはこの手の話題を面白おかしく話しているくせに、今日の房代は違った。心配そうな顔で怒ったように言う。

「だって、平気なの? 浅野くんのこと、気になるんでしょ?」

「別に、誰をお持ち帰りしても気にならないよ」

 沙希は笑って言った。陸らしいうわさなので、ウソでも本当でも、どうでもよかった。

「沙希ちゃんってなんかすごいね。私だったら普通にしているのはちょっと無理だなぁ」

「うーん、がっかりしたり怒ったりすればいいのかな?」

 すっかり感心したような表情の房代に困惑しながらそう言ってみる。

 もちろん沙希も、うわさを聞いたときは思わずため息を漏らしたのだが、それをとやかくいう権利はないということも嫌というほどわかっていた。

「普通はそうでしょ? だって気になる人がそんな他の……若い娘と!」

「若い娘!」

 ぷっと吹き出してしまう。房代の表現がおかしかった。

「沙希ちゃんはオトナなんだね……」

「そうじゃないよ。昔もああいう人を好きになったことがあって、やっぱりそういううわさとか、本当にそういうこととかある人だったから、いちいち嫉妬してたら身がもたない気がして……。だから無関心でいることに慣れちゃったのかな」

「でも、嫉妬はするでしょう?」

「うーん、その人に『なんで嫉妬しないのか』って怒られたことあるから、あまりしないほうなのかもしれない」

「前に付き合ってた人?」

 そういえば房代には自分の過去をほとんど話していない。

 沙希は調子に乗って喋りすぎてしまったことに気がついた。過去のことを他人に話すつもりはなかった。友達であればなおさらだ。

 話して自分のことをわかってもらおうと思ったこともあった。――でもうまくいかなかったのだ。

「ずっと前のことだけどね」

 これでこの話題はおしまい、というように沙希は口を閉ざした。

 房代も気が済んだような顔をして、別の話を始める。

(ごめんね、房代ちゃん)

 胸のどこかがチクッと痛んだが、それでも沙希はポーカーフェイスを崩さなかった。

 過去を知る人間の顔が次々に脳裏に浮かび、そして消えていく。そのほとんどが沙希を非難するように冷たい目をしていた。

 房代は違うかもしれない。だが今はまだ話すときではない。

 沙希は少し大きなため息をついた。


     


 沙希が陸と出会った大学4年のとき、沙希には高校時代から付き合っていた彼氏がいた。

 順調に同じ大学に進学したものの、沙希は文系、彼氏は理系と所属が別れた上、3年目以降、彼氏のキャンパスは車で6時間もかかる他市に移っていた。

 付き合い始めて6年目にして、いわゆる遠距離恋愛になったのだ。

 離れてしばらくは沙希も遠距離恋愛を楽しんでいたのか、特急電車に乗って彼氏に会いに行くのが苦ではなかった。しかし大学3年ともなれば就職活動や卒論に向けて忙しくなり、その間隔はどんどん開くようになる。

 彼氏のほうも次第にその土地になじみ、1ヶ月に1度、会えるか会えないかの関係にも不満を漏らすことはなかった。

 しかし距離が離れてしまうと、同時に心の距離も離れていくものらしい。

 必死に気がつかないふりをしていたが、思いがけず自由を得た沙希は、彼氏不在の生活の中で本来の自分を取り戻しつつあった。

 陸との出会いは、そんなときにひょっこりと訪れた。

 大学生になってから沙希は家庭教師のバイトをしていた。時給が他のバイトとは比べものにならないほどよかったし、彼氏が嫌な顔をしなかったということもある。

 その家庭教師派遣会社から最後に紹介された生徒が陸だった。

 ずっと女子生徒を担当してきた沙希にとって、男子生徒を受け持つことにためらいがなかったわけではない。

 しかし彼氏に男子生徒だと言わなければ、特に問題はないだろうと思った。派遣会社からの紹介を一度断ると、次の紹介電話は数ヶ月後までかかってこないかもしれない。条件のよいバイトをみすみす逃すような真似はしたくなかったのだ。

 そうして沙希は、勉強に対する意欲はほとんどないが、案外素直な性格で、気を抜くと見とれてしまいそうなほど整った顔立ちの少年の家庭教師となった。

 半年ほどはかろうじて家庭教師と生徒の距離を保っていた沙希と陸だったが、季節が秋へと移ろうころ、陸がこんなことを言い出した。

「先生、ラーメン食べに行こう」

 それが全ての始まりだった。

 思い出すだけでも笑ってしまうが、最初のデートの誘いはラーメンだ。昼頃待ち合わせをしてふたりでラーメンを食べた。それからカラオケに行き、街をぶらぶらした。

 気がつくと外は暗くなり、陸はものすごく緊張した声で「手を繋いでもいい?」と聞いてきた。

 沙希は少し考えた。たぶん3分くらいは経っていたと思う。

「……汗ばんでるかもしれないけど、それでもいい?」

 陸は顔をほころばせてニッと笑い、指と指を絡ませて手を繋いだ。

「俺はこれがいいの」

 沙希を見下ろして、だだっこみたいにそう言った。

 沙希は久しぶりにドキドキした。こういう手の繋ぎ方は初めてだった。陸が自分のことを本気で思ってくれているのが、少し震える手から伝わってきた。

 それからふたりの距離が近づくのに時間はかからなかった。

 だが沙希はすでに東京での就職が決まっていた。だからふたりの関係はおそらく春になればおしまいになる。しかも沙希は彼氏と別れることもできなかった。

 ふたりの関係が深まるにつれ、陸は沙希の中途半端な行動に不満を持つようになった。

「俺は遊びなの?」

「違うよ」

 違う……けど、どうにもできない。

 沙希の彼氏は沙希に暴力をふるった過去がある。もう二度と暴力はふるわないと約束したが、別れ話をすればおそらくまた暴走するに違いない。

 下手をすると殴られるだけでは済まないかもしれない。

 別れ話を切り出された男性が逆上し、執拗につきまとった挙句、恋人だった女性とその家族を殺害するという事件が、世間で大きく取り上げられた時期でもあり、沙希は自分も同じ末路をたどるのではないかと危惧せずにはいられなかったのだ。

 それを知ってか知らずか、陸も自制しているようだった。沙希はそんな陸にどんどん惹かれていき、ふたりはもうあと戻りのできないところまで来てしまっていた。

 ある日ベッドの上で、陸が沙希の顔を覗き込んで言った。

「お前が俺のかあさんだったらいいのにな」

「……なんで?」

「お前が俺の本当の母親でも……」

「……うん?」

「お前と……できるよ」

(は!? なに言ってるの?)

 咄嗟に心の中で叫んだ。

 そして沙希は、そのとき、あることに気がついてしまった。

「……私はそんなの、イヤ」

 笑いながら言ってみたが、どうしようもないほどの嬉しさと同時に、どうしようもないほどの悲しさを感じていた。

 陸は無意識にそう言ったのだろうか。それともそれが意味する真実を知っているのだろうか。

 いずれにしろその告白が、陸に対する沙希の想いをますます深め、一方では彼氏への愛情を急速に冷やしていった。



 卒論も大詰めの年末、彼氏から「単位が足りなくて留年する」と報告があった。その瞬間この男とはもう終わったと沙希は静かに思った。

 講義にも出ず、友達とパチンコに興じているのだ。会うたびにぶくぶくと太っていき、その本人から「俺には本命がいるからもう努力する必要はない」というようなことを聞かされる。

 留年しなければ東京の大学の院に進みたいと言ったくせに、上に進むどころか卒業すらできないのだ。

 この人の何を好きになったのだろう。沙希は自分自身にがっかりした。

 それ以来、沙希は忙しいことを理由に彼氏と会うことを断わり続けた。

 沙希が一方的に彼氏を拒絶していることは、共通の友人たちに伝わり、沙希は彼らから説明を求められた。周囲には沙希の心変わりがあまりにも急だと思われたのだ。

 だけどそうではない。砂時計の砂のように、沙希の愛情もいずこかへさらさらと滑り落ち、いつしか心の中は空っぽになっていた。そこへまったく別の色をした愛情を少しずつ注ぎ込んでくれたのが、陸だった。
 
 沙希はそのことを、ごく親しい友人にはなんとかして伝えたいと思った。

 しかし親友だと思っていた人から言われた言葉は

「彼氏、かわいそうじゃない。裏切ったのはアンタなのに。私は彼氏の味方だな」

 だった。

 好きになるのに順番があるのか、と思う。あとから出会った人を深く愛することは罪なのか、と。

 それに努力しない人間はどんどん輝きを失っていく。

 愛情が冷めていくのは沙希が浮気したからではなく、彼氏に人間としての魅力がなくなったからなのだ。

 少なくとも沙希は、そう自分を正当化した。

 友人から裏切りを指摘されても、自分が悪いことをしているとは思えなかった。

 もう自分は末期だ、と思った。

 陸がほしいと思う。陸の側にいて彼が大人になっていくのをずっと見ていたいと、心の底から願った。

 そうこうしているうちにタイムリミットが近づいてきていた。

 陸はだんだんと別れの覚悟を決めているようだった。記念にピアスを買ってほしいと言われた。

 ふたりで選びに行き、陸には彼が気に入ったピアスを、そしてピアスをしない沙希のために、陸はノンホールピアスを買った。

 彼氏と別れよう。

 沙希はもうずっと前から心に決めていた。だがタイミングが難しいし、簡単なことではない。



 ――やはり……そうだ、それしかない。



 3月下旬、沙希は就職のため東京へ越した。

 そして4月、陸に電話をした。陸との関係を断ち切るために。



『もうお前のこと、前みたいに好きじゃなくなったわ』

 沙希が聞いた中で一番冷たい声だった。

 意味が、わからなかった。

 もうこれ以上親しい関係を続けるのは無理だと話したのは沙希のほうだったのに。

 本当にこれで最後なんだと思った。自分からそう言い出したのに未練があった。

「もう会えないんだね」

 それを言うのがやっとだった。

『そう……かもな』

 この期に及んで完全には否定しない陸の優しさに胸が痛んだ。

 でも甘えてはいけない。

「じゃあ、もう私からは電話しないね」

『…………』

「じゃあ、体に気をつけて、元気でね」

 最後になにか言ってよ――祈るような想いだった。

『……ありがとう』

 やっと聞こえてきた陸の声は泣いていた。

 しかし電話を切った沙希はあまりのショックに涙が出なかった。

 その代わり、一睡もできず、翌日は一日中泣き明かした。

 陸に対する想いはずっと押し隠してきただけに、自分の中にこんな激しい感情があると知ったのは、このときが最初で、そして最後だった。





 それから1ヶ月後、沙希は彼氏と別れた。

 ゴールデンウィークに実家に帰省し、そのときに会って話をした。

 正直に「好きな人ができたから別れたい。もうあなたのことは嫌いになった」と言った。

 沙希の想像通り、彼氏はキれて感情のまま沙希を殴った。

 顎は腫れてあざが出来た。

 その顔で実家に帰ると、両親は彼氏とふたりだけで会うことを禁じた。次に会ったら命が危うい、家族の誰もがそう心配せずにはいられない姿だった。

 それでも彼氏は実家に電話をかけてきた。なんて恥知らずな男だ、と沙希は初めて彼氏を罵倒した。

 それでやっと彼氏との関係は終わった。――とりあえずは、だったが。

 陸とはすでに別れていたので、彼氏もそれ以上詮索することはなかった。

 東京に戻ってすぐ引っ越した。携帯も変えた。散々迷ったが、陸にはメールで知らせた。返事はなかったが、仕事が忙しくなりそのことを気にかけている余裕もなくなった。

 そして沙希は社会人としての毎日に、ただただ流されていく。

 陸と過ごした日々はまるで夢のようで、現実だったとは思えないほど遠い日のことになってしまった。

 それとは対照的に、元カレとの別れ際の騒動が、夢の中で沙希を悩ませるようになった。精神的に疲労がたまってくると元カレに追われる夢を見る。どんなに拒絶しても相手は決してあきらめない。

「もうお前なんか嫌いなんだ!!」

 自分の叫び声で目が覚めることもあった。

 社会人1年目の緊張と疲労と挫折感が、沙希を蝕むようになっていたころだった。

 そして沙希の夢に呼応するかのように、実家に元カレからの手紙が届いた。夢だけでなく現実の世界にまで、ふたたびあの男の存在がちらつくようになったのだ。

 生きることに絶望した2月下旬のある日、珍しく定時退社した沙希の携帯に電話がかかってきた。

 陸からだった。


     


「沙希ちゃん?」

 房代の声で我に返った。

「あ、ごめんね」

 沙希はずいぶん長い間、過去の記憶に浸っていたことに気がついた。

「やっぱり、気にしちゃった……よね?」

 房代は心配そうな表情をして、沙希を注意深く見守っている。

「あ、いや、そうかな? ……そうなのかも」

 陸とのことを考えていたのは間違いないのだが、沙希が本当に気にかけていることはもっと個人的なことだ。陸と他の誰かの関係を、沙希が気にしたところで、どうにもなりはしない。

 だが、房代にはうわさのせいにしておいたほうが納得してもらえそうだった。

「前に好きだった人、浅野くんに似てるの?」

 房代の鋭いひと言で、沙希の心臓は跳ねた。

「……そうなの。最初びっくりしちゃって」

 上手く嘘をつくには、少しの真実が含まれているほうがいいらしい。しかし沙希は嘘をつくのが下手だ。声が上擦った。

 幸い、房代はそれには気がつかなかったようで、やっぱりという顔をした。

「今まで誰にも興味を示さなかった沙希ちゃんが! って思っていたんだけど、それなら気になるのも当然だよね」

「うん、でもまったく別人なんだけどね」

 そうだ――彼はもう昔の彼じゃないのだ。

「沙希ちゃん、その人と付き合ってたの?」

 房代はかわいらしく小首を傾げて聞いてきた。

 ほんの少しためらったあと、沙希は無理に笑顔を作る。

「……うん、いろいろあってずっと前に別れちゃったけど」

「それって大学時代?」

「……そう」

 房代はそこまで聞くと満足したようだった。

「その人のこと、すごく好きだったんだね」

「うん」

 素直に答えた途端、喉の奥になにかがこみ上げてくる。それをグッとこらえ、あふれそうな涙をまばたきでごまかした。

 するとなぜか房代も嬉しそうな笑顔になった。

「今まで沙希ちゃんに恋愛の話をするのは、なんとなくためらいがあったんだけど」

 そう言ってふふっと笑う。

「私の勝手な思い込みだったんだね」

「そんなふうに思ってたんだ」

 恋愛に対してはわざとクールにふるまっていた。無関心を装うことで自分を守りたかったのだ。

 それが友人や同僚との間に壁を作ることになっても、沙希はその態度を崩すつもりはない。

 しかしときには、耐えきれないほどの寂しさを感じることもあった。

 今日のことで、房代との間にある壁が、ほんの少し薄くなったように思う。意外にも、それを歓迎している自分に沙希は気がついていた。

 その日が来たら、沙希と陸の関係も、今とは違ったものになっているのだろうか。

 そして自分は本当にそれを望んでいるのだろうか。

 沙希にはまだよくわからなかった。

 

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